regained world


プロローグ






「……ぅ……ぐ……」
人気のない公園。その片隅で、呻き声をあげる者がいた。
まだ小さな子供だ。
暴行を受けた後らしく、体のいたるところを負傷しており、左足は変な方向に曲がっている。
「い…・・・…たぃ…………」
腫れた頬を通り、透明な雫が地面に零れる。
しかしそれは子供の上げる声と同じく、ただ土に吸い込まれて消えていくだけ。
「だ、……か……」
それでも、子供は声を上げることを止めない。
その声が誰かに聞こえることはないと、半ば分かっていても。
「だれ……け、て……」
子供の名前は碇シンジ。
彼は実の父親から5時間にも渡って殴る蹴るの暴行を受け、ゴミのようにこの公園に捨てられたのだ。
本来ならこの後、父ゲンドウが金で雇った人間が親戚を名乗りシンジを保護するはずだった。
ただ愛する妻だけを求める、愚かな男の計画の一環として。
だが、


「碇シンジ君?」


シンジの助けを求める声に、真実応える者が現れた。
それは愚かな男の計画にはなかった、イレギュラー。
シンジの声をかけたのは、まだ十をいくつも越えない少女だった。
夕日に照られた美しい白い面と黒真珠のような瞳には、シンジを案じる色が浮かんでいる。
「だ、れ……」
「私? 私は皇神シンリという者よ」
年不相応な玲瓏とした声が、名を紡ぐ。
「私はあなたを保護しに来たの」
「ほ、ご……?」
「ええ」
そう言って、少女は地に伏す子供を覗き込むように身を屈めた。
逆光で少女の顔が見えなくなる。
唯一見える口元は、柔らかな笑みを浮かべていた。


「皇神四門が、あなたを保護するわ」


皇神四門。
これは、その名が意味と力を持ち始めた、少し後の出来事。
既に計画が狂い始めていることを、愚か者達は気づかない。




+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++




時は過ぎ、シンジが皇神シンリと名乗る少女と出会ってから約10年後の2015年5月。
シンジは日本近海に浮かぶ人工島にある、とある屋敷にいた。
四方を塀に囲われた広大な敷地内には離れや蔵、池、ちょっとした森のようなものなどが設けられている。
その中心部に立てられている母屋の廊下を、シンジは歩いていた。
案内なしだと客人が必ず迷子になるほど広い屋敷だが、彼にとっては4歳の時から住んでいる我が家だ。今更迷うこともない。
5分もせずに目的の部屋に辿り着いたシンジは、特に声をかけることもせず、襖を横に動かした。
室内には着物姿の女が一人。
庭に面する障子を開け放ち、庭を眺めていたが、襖の開く音に振り返る。
女性が動くのに合わせて、絹糸のごとき黒髪を飾る大小の鈴が涼やかな音を奏でた。
薄萌黄の地に葵が描かれた着物に包まれた肢体は、本来なら豊かな曲線を描いているはずだ。
ただし元々体の凹凸の少ない日本人の衣服として作られた着物を着る際は、専用下着で調整しているらしいので、今はその女性として非常に魅力的な肢体は分からなくなっている。
穏やかながら強い意思を宿す黒真珠の瞳がシンジの姿を認めると、紅玉の花弁の唇から玲瓏とした声が零れた。
「おかえりなさい、シンジ」
「……ただいま」



彼女の名は皇神シンリ。10年前にシンジを保護した女性だ。
化粧などしなくても透けるように白く儚げな、絶世と呼ぶに相応しい美貌が柔らかく綻ぶのを見る度に、シンジはいまだ一瞬言葉に詰まってしまう。
その美しい顔(かんばせ)に見惚れて、言うべき言葉を忘れてしまうのだ。
彼女と共に暮らすようになって10年も経つというのに、こればかりは慣れることが出来ない。



「いつまでもそんなところにいないで、こちらへおいでなさいな」
そんな彼に気づくことなく、シンリは笑みを浮かべたまま手招きする。
「珍しいね、こんな時間に屋敷にいるなんて」
言われるまま隣に腰を下しながら言うと、シンリの笑みに少しだけ苦いものが混じった。
「働きすぎだから休めと、追い出されたわ」
「ああ、なるほど」
そういうことをやりそうな人間の顔が脳裏に浮かぶ。
彼女の右腕である傍仕えの青年と将来彼女の主治医になることが決まっている青年、それと軍事部門の実質的な最高責任者である青年。
「休むのも大事だよ?」
「それは分かっているけれど、もうあまり時間がないのに…・…」
「あんまり時間がないからこそ、ちゃんと休まなきゃ」
宥める言葉を紡ぎつつ、シンジは持っていた鞄から一通の封筒を取り出した。
昨日宿泊していた京都のホテルで受け取った手紙だ。
封筒には、無機質な文字で「碇シンジ」という名前だけが書かれていた。


「招待状も届いたんだし、本番はもうすぐだよ。今無理をして、本番中に倒れたら皆が困る」


シンジの言葉に、彼女の目がすぅっと細められる。
「予定通り、接触してきたのね」
視線と同じく、底冷えしそうなほど冷たい声。
「接触というか、ホテルのフロントに手紙が預けられていただけだよ。あと怖そうな監視がついてたな。監視のほうはちゃんと撒いてきたから」
「それに関しては心配していないわ。……手紙の内容は?」
「見たほうが早いよ」
苦笑しながら渡された封筒を、シンリは無言で逆さにして振った。
畳に落ちたのは第三新東京市までのリニアの切符、「碇シンジ」の名前が入ったIDカード、30歳前後と思われる女性のちょっと頭を疑いたくなるような写真。そして「来い  ゲンドウ」とだけ書かれた一枚の紙。
それ以上何も落ちてこないのを確認したシンリは、呆れたように溜息を吐いた。
「……礼儀を知らない輩だこと」
「知らないのは礼儀じゃなくて常識のような気もするけど」
「そうかもしれないわね」
シンジに同意しつつ、それすらも完璧な造詣を誇る白く細い指が、IDカードを拾い上げる。
カードの表面に刻まれているのは「NERV」の文字。
「ついに始まるのね」
「うん、そうだね」
彼らの所属する組織が作られたのは、この時の為なのだ。
失敗は、許されない。



2人の間にしばし沈黙が落ちた。
決して居心地の悪いものではない。
これまでを思い、そしてこれからを思う沈黙だった。



「……期日は1週間後。当日に召集するなんて、怠慢もいいところだわ」
「そこも追求すればいいよ。国連の方は?」
「アーブル参謀総長かクレセンド総司令官が根回しをしてくれているわ」
「あのお2人なら安心だね」
「ええ。あとは……」
そのあとも話は続き、後からやってきたシンリの部下数人を交えて夜遅くまで行われた。




++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++




愚かな男と狂った老人達が作り上げた歯車が回りだす。
男は己の欲望を果たすため。
老人達は妄執を現実とするため。
それぞれ計画という名の歯車を回す。
既に歯車の一部が壊れているのにも気づかずに。