〜5〜 ゴロンタが私があげたキャットフードをおいしそうに食べている……こうしてゴロンタにえさをやるようになってからずっと同じキャットフードで変わっていないのだけれど、前よりもおいしそうに食べてくれるのは、私への警戒がなくなってきているからだろうか? 時々こうして私がゴロンタにえさをやっているのを見て、私になついてるんだってびっくりする人がいるけれど、はたして本当に私に懐いてくれていると言っていいのかどうか……ゴロンタのお姉さまへのなつきっぷりをよく知るものとしては、私はまだまだどころか全然だと思えてしまう。 まあ、この子がカラスに襲われているのをお姉さまが助けたことが、そもそもこのリリアンに住み着くきっかけであるし、命の恩人であるお姉さまが特別なのは当然だけれど、私もせめてゴロンタが懐いてくれているとはっきり言えるくらいにはなりたいものだ…… 昼休みに裏庭でゴロンタにキャットフードをやりながらそんなことを考えていると足音が近づいてきた。 この音は……思ったとおり振り返るとお姉さまがこっちに向かって歩いてきているところだった。 「お姉さま。ごきげんよう」 「うん、ごきげんよう」 お姉さまが来たことがわかったゴロンタは、まだキャットフードを食べきっていないのに、私から離れてお姉さまにすり寄っていった。 「昼休みに来るなんて、何かありました?」 「ん〜、何かあったってわけじゃないんだけどね」 すり寄ってきたゴロンタを抱きかかえて、よしよしって撫でると、ゴロンタはうれしそうにゴロゴロとのどを鳴らした。やっぱりゴロンタはお姉さまが一番だ。 でも、ちょっとだけ、いつもえさをやっているのは誰だと思っているんだと思う部分もある。 「またちょっと大きくなったかな? 大きくなるのは良いけど重すぎて私がつぶれちゃう位までいったりしたら、ゆるさないからね」 「大きくなるっていっても、所詮は猫だから大丈夫じゃないですか? 虎とかライオンの子供だったとかだったら本当にそうなってしまうかもしれないですけど」 「いやいや、おでぶな猫にはものすごいのがいるからね〜。山田さんの家のチビなんて、名前とは反対にぶくぶくでぶでぶで重いのなんのって、この前のしかかられて苦しくて苦しくて……まあいいや」 山田さんって誰だろう? それにのしかかられるなんて、いったい何をしていたのやら。 「で、昼休みに来た理由だけど、放課後だといつぞやみたいに邪魔が入りかねないでしょ?」 「あ、それは大丈夫……かもしれません」 そう。ある意味奇跡というか天変地異の前触れというか。先日、江利子さまがやり過ぎちゃってごめんなさい、と謝りに来たのだ。 さらに「デート楽しんできてね、私たちはお邪魔しないから」とのこと。 「江利子が!? それなんかの罠だって、絶対!」 お姉さまは絶対信用できるものか、とぶつぶつ言っている。その気持ちは私もすごく分かる。だから完全に信じられるかと言ったら無理なのだけど…… 「とにかく。まあ今話してしまえば仮に罠を張っていたとしても問題ないわけだ」 お姉さまはそう納得して話し始めたので私の思考はそこで止まることになった。 「で、今度二人でいいところにお出かけしない?」 「はい! ちなみにどこですか?」 「元々浴衣を買ってあげようって思ったときからセットで考えてたんだけどね。あんなことにならなければあの時にそのまま約束してたはずだったんだけど……」 なんだか疲れた時のような口調だけれど、それも仕方ないだろう。私は悲しいかな、あのような事態に慣れないけど慣れた、つまり起きてしまった時点ではびっくりしてもその後はある程度は開き直れるだけの経験を積んでしまっている所がある。 ところがお姉さまはいたずらする側であってもされる側に慣れていない。さぞ疲れたことだろう。もちろん私も全く疲れないってわけではないけど。 「ま、ともかく。この前買ってあげた浴衣必須で」 お姉さまの言葉の途中で、にゃ〜とゴロンタが割り込んできた。 「ひょっとしておまえも行きたいの?」 お姉さまに聞かれるとうれしそうに鳴いて答えた。それで「よしよし、それなら一緒に行こうか」とお姉さまが背中を撫でながら言うと、ゴロゴロとのどを鳴らして本当にうれしそうだった。 ちょっとゴロンタの場合とは違うけれど、前はお姉さまに頭を撫でてもらったりとかしてたな。それは人前でされると恥ずかしいけれど、それでもうれしくて。堂々と、今もしてもらえるゴロンタがちょっとうらやましいかも? 「まったく、どこへ行くのかも聞かずに行きたいだなんて、似たもの同士だね」 この場合は私とゴロンタか。……ちょっとマテ、ゴロンタ。どうして凹んだように弱々しい鳴き声を出しているんだ? 「あ〜、別に悪い意味で言ったんじゃないからね」 ゴロンタ相手に弁解するお姉さま……人と猫の間で会話がきれいに成立しているのが本当にすごいけれど、ちょっとむかむかする。 と……お姉さまはともかく猫のゴロンタに腹を立ててどうする。自分につっこんで「で、結局どこへ行くんですか?」とお姉さまに聞いてみることにした。 「うん、蛍を見に行こうと思ってたんだけど、どう?」 「蛍ですか? いいですね〜」 小さいときに山梨のお祖父ちゃんのところに遊びに行ったときに、みんなで蛍を見に行ったことがあったけれど、テレビとかではなくて生の蛍となるともうずいぶん見ていない。 「でしょ。今度の土日でいい?」 「はい! もちろん!」 お姉さまと一緒に蛍を見に行く……なんてロマンチックなお出かけだろうか? 蛍の幻想的な光に包まれて二人っきりの世界で……それだけのシーンだ。単に二人で眺めるだけじゃなくて、もっと……二人の影がゆっくりと重なり…… 「お〜い」 「はっ……はひっ! とっ、とととと……」 気づいたら目の前にお姉さまの度アップがあって、びっくりして思わずひっくり返りそうになってしまった。 「祐巳もゴロンタみたいに少しは成長しようね」 なんとゴロンタ以下にランク付けされてしまった……落ち込んでしまいそう。 「にゃ〜」 ん? ……なんて言いたいのかわからないけれど、ひょっとして気を落とすなとでも言ってくれているのだろうか? 猫に慰められるなんて…… 「はいはい、そのあたりにしておこうね」 「はい。……あ、ちなみに、どうやって行くつもりですか?」 重要なことを聞いておかなければ。 「車にきまってるじゃない。せっか」 「反対!」 「な、なんで!?」 「お姉さまの運転は危険です!」 「危険って……今までに一度も事故ったことないし、捕まったこともないよ」 「今まではってだけです。どれだけ言っても安全運転してくれないし、あんなのじゃそのうちに絶対に死んじゃいます!」 「そんな大げさな。前に行ったときは電車で行ったけれど、駅から結構歩かなきゃいけないし……それにゴロンタを電車に乗せるつもりかね、祐巳ちゃんは?」 む……結構歩かなきゃいけないというのはともかく、ゴロンタをつれて電車に乗るというのはなかなか厳しいかもしれない。 「どうやらご納得いただけたようで。そういうわけで、決定ね」 ああ、押し切られてしまった。前にも考えたけれどやっぱり土曜日までに交通安全のお守りをもらってこよう。 〜6〜 いよいよ今日はお姉さまと一緒にお出かけ、二人で蛍を見に行くのだ。 「よし、お守りも大丈夫」 念のために神社に行ってもらってきた交通安全のお守りもきちんとポケットに入れたし、荷物の方は昨日から何度も確認したしもう準備は万全。 よしっと旅行鞄を持って階段を下りる。リビングに入ると、祐麒がテレビを見ていた。 「準備できた?」 荷物を詰め込んだ鞄を軽く叩きながら「うん、もう完璧」って答える。 「蛍見に行くって言っていたけれど、どこへ行くんだっけ?」 え? ……言われて気づいた。お姉さまからどこへ行くのか全然聞いてなかった。朝早くからじゃなくて昼前からだから、そんなに遠くではないとは思うけれど、そんなにも近くでは蛍なんてどこにもいないからないし、わからない。 「やっぱりか、まあいいけど。ちなみに天気予報で東日本は東北までだいたい晴れか曇りだって言ってたよ、雲は出てもにわか雨の心配もほとんどなし」 「そっか、それはいい話だけれど……心配かけてごめん」 もしひどい雨が降ったりとかしたらせっかくの蛍鑑賞旅行がただの旅行、それも旅館からほとんど外に出れないようなものにランクダウンしてしまう。もちろんお姉さまと一緒に泊まりがけで旅行するなんてそれだけでもうれしいけれど。やっぱり今回の旅行を魅力的なものにしてくれる予定の蛍を見たい。 そのあたりの心配は本来、自分でするものであるはずなのに、浮かれてしまって、弟の祐麒にさせてしまうとは…… 「慣れてるしいいよ。それより佐藤さんとの旅行楽しんでこれるといいな」 「うん、ありがとう。おみやげ買ってくるね」 そのまましばらく祐麒と話をしていると、ドアホンが鳴るのが聞こえてきた。たぶんお姉さまだろう。 バッグを持ってリビングを出ると、思った通りドアホンを鳴らしたのはお姉さまで、私たちが出てきたのを見てやっと声をかけてくれた。 「お姉さま、おはようございます」 「おはよう。準備はできてる?」 「はいっ、もちろん」 「うん、それは良かった。祐麒君もおはよう」 「おはようございます」 ……え? 今お姉さまはなんて言った? さっき、『祐麒君』って言ったような……お姉さまが祐麒の名前を? 嘘でしょ!? パタパタパタとせわしない足音で現実に引き戻された。その音を立てて奥から出てきたのはもちろんお母さん。 いっつも『弟君』としか呼んでなかったから絶対に忘れてると思ってたのに! どういう心境の変化かわからないけれど、実は覚えていたのか! 変なことで、びっくりさせられてしまったじゃないか。じと目でお姉さまを睨むけれど、意味が通じるはずもなく小首をかしげられてしまった。 「白薔薇さまおはようございます」 「おはようございます」 こっちは名前を知らないとか覚えていないなんてことはあり得ないけれど、相変わらずお母さんにとってはお姉さまが白薔薇さまのようだ。本当はもう私が白薔薇さまなのだけれども…… 一方のお姉さまにとってお母さんは、『祐巳のお母さん』か『お義母さん』で、名前の『みき』を使うことはないだろうし、そもそも知らないと思う。 もし、お母さんがお姉さまのことを白薔薇さま以外の呼び方をするとしたらなんて呼ぶのだろう? ……リリアン風に行けば聖ちゃんか聖さんだけれど、お母さん的には聖さまになるかもしれないな。きっとそうなると思う。 ああ、なんか逆にお姉さまが『みきちゃん』はさすがに無理があるにしても『みきさん』なんて呼んだりしたらお母さん天にも昇らんばかりに喜びそう……うん、間違いない。 お母さんとお姉さまの話を聞き流しながらそんなことを考えていた。 「白薔薇さま、祐巳をよろしくお願いします」 「ええ、お任せください」 二人の話が終わり、「はい、祐巳ちゃんお弁当」と手に持ってきた二人分のお弁当のつつみを私に手渡した。 「わざわざありがとうございます」 「いえいえ、たいしたことではありませんから。それよりも蛍、見れると良いですね」 お姉さまに続いて私もお母さんにお礼を言って、バッグとお弁当を持って靴を履いて玄関を出る。 すぐ目の前に止めてあるお姉さまの車の後部座席にバッグをおいて、今度は私が乗り込むために助手席のドアを開けて……シートの上に大きめのバスケットが置かれているのを発見した。 「何ですかこれ?」 サンドイッチとかそういったお弁当を入れるにはだいぶ大きいし……お姉さまのバッグは後部座席においてあったし…… 「何ですかはひどいなぁ〜」 ひどいって言われても……鍵とかはかかっていないし、いったい何が入っているのかバスケットを開けて実際に見てみることにする。 「にゃ〜」 「あっ、ゴロンタ」 バスケットの中でゴロンタがちょこんと行儀よく座っていた。 おはようって、ゴロンタに挨拶してみたけれど、わからなかったのか何も返してくれなかった。これがお姉さま相手ならきっと反応しただろうに、なかなかお姉さまみたいにはいかないものだ。ひょっとしたら『何ですかこれ』扱いはひどいとすねていただけかもしれない。 「なにゴロンタとにらめっこしてるの? さ、早く乗って」 まあ、にらめっこをしているわけではないのだけれど、ゴロンタも一緒に行くのだから、これからいくらでも機会はあるのだし、いつまでも家の前から出発しないわけにもいくまい。ゴロンタはバスケットごと私の膝の上に乗せて助手席に座った。きちんとシートベルトも締めてと、よし。 「行ってきます」 「行ってらっしゃい」 見送りに出てきてくれていたお母さんと祐麒に手を振り、お姉さまが車を走らせ始めた。 「ゴロンタもちゃんと迎えに行ったんですね」 「ちゃんとって何、忘れてると思ってたわけ?」 「あっ、そういう訳じゃないんですけど……昨日迎えに行ったんですか?」 「まあね。時間もあるし、一緒に迎えに行ったり朝でも悪くはなかったけれど、わざわざ守衛さんに断って入らなければいけないとか面倒でしょ」 「じゃあ、ゴロンタはお姉さまの家にお泊まりしたんですか〜うらやましいなぁ、こいつぅ」 ゴロンタの頭をちょこんとつついてやると「にゃぁ!」って声を出した。 「何をするんだ! だって。私だっていきなり嫉妬されて小突かれたりしたら同じこと思うし、当然だけど……そうだ、そんなにうらやましいんだったら、今度泊まりに来る?」 「ほんとですか?」 「うん、ほん、っ!!」 急ブレーキ!? 「ぎゃうっ!!」 ふわっとおしりが浮いてシートから投げ出されておでこをぶつけてしまった。 ……いたい。 良かったのか悪かったのかあんまり速くなかったからベルトが伸びてしまってぶつけてしまった。と、よかった。軽いクッションにもなったけれどバスケットは私の腕の中だ。もっと速かったら私は良くてもゴロンタはそうはいかなかっただろう。 「あ〜赤で飛び出すところだった……」 痛いおでこをさすりながらお姉さまを見ると、よっぽど焦ったのか額に汗が浮かんでいた。 そうだった……ゴロンタのことで忘れてしまったけれど、私は今、お姉さまの車に乗っているのだった。今は速度が出せる道ではなかったから、こんな程度だったけれど…… 「祐巳があんな話を振ってくるからだよ?」 確かに一番の原因はその通りでもあるので反論はできないけれど……やっぱり、お姉さまは私が声をかけようとかけまいと私を怖がらせようとしたり、調子に乗って運転したりしている内に自分の腕以上に無茶な運転をするのだから、責任転嫁ではないかと思わなくもない。 次何かあっても大丈夫なように、ゴロンタのバスケットをぎゅっと抱きしめるとゴロンタもふるえているのがわかった。 ふと吊り橋理論って言葉を思い出した。揺れる橋での緊張感の共有が恋愛に発展するってことらしいけど……今、ゴロンタと私は心が一つになった気がした。 どうにかこうにか旅館の駐車場に到着。お姉さまがキーを回してエンジンが切れると同時に、ゴロンタと一緒にほっと息をついた。 今日はほとんど他に車がいないことを良いことにカーブでドリフト走行もどきをしてみたり、制限速度を大幅に越えてみたり……よく無事にたどり着けたものだと本気で思うくらいひどかった。ひょっとしたらこのポケットの交通安全のお守りの御利益だろうか? それでも、ここに来るまでの道が本当の山道でなくて助かったかもしれない。もし、曲がりくねった文字通りの山道だったとしたら、いくらお守りの御利益があったとしても、今頃間違いなく天に召されていたところだった。 「まったく、ゴロンタまでそんな態度をとるなんてひどいなぁ」 「お姉さまの運転よりはよっぽどひどくないです」 ゴロンタも「うにゃにゃ!」と私の意見に力一杯同意してくれた。 「しくしく、ゴロンタが私を裏切って祐巳の味方をするなんて……しくしく」 袖で目のあたりを拭くまねというか、目を隠しながら……また嘘泣きしてるよこの人。 「さっ、行こうか」 嘘泣きをしている人は放っておいて、ゴロンタと先に車を降りることにする。ゴロンタにもお姉さまの嘘泣きがわかったのだろう、てくてくと私に付いてきてくれた。 「あっ、ま、待ってよ!」 さっきまで泣いていたはずなのに、あわてて車を降りて追いかけて来たから「そんなにもあっさりわかってしまう嘘泣きはどうなんですか?」とあきれ声で言ってあげた。 「う〜、最近祐巳が厳しいよぅ」 「情けない声出さないでください。お姉さまが悪いってことは自分でもわかってるでしょ?」 この人は時々本気で全くわかっていないことがあるけれど、基本的にこういういたずらとかはわかっていてやっている。あの運転だって半分は私を怖がらせて楽しむためのものだ……まあ、それだけで済めばいいのだけれど、調子に乗って運転もするから、今日だけでも何度本気でひやっとしたやら……だからこそ恐ろしい。 「まあ、そう言われればそうだけど……」 ゴロンタとそろってじと〜〜っと睨むと、ごめんなさいと頭を下げて謝ってきた。 もういつものことになってしまっているし、今ちょっと言ったくらいではどうにもならないだろう。一つ大きくため息をついて、この話をおいておくことにした。 ……でも、車のことについては命がかかっているし、何とかする方法は事故を起こしてしまう前に考えないといけない。私が免許を取れるようになるまではまだ一年近くあるから、待っているわけにはいかない。 「行きますか」 改めて今日泊まる旅館の玄関を目指して歩くことにする。 旅館に目をやる……和風二階建ての旅館……結構大きいかな。水が流れる音が旅館の裏の方から聞こえてくるけれど、近くに川があるんだろうか? のんびり景色を眺めているどころじゃなかったけれど、そういえば川の横を通ったり橋を渡ったりもしたような気もする。 玄関をくぐると、仲居さんが出てきて私たちを部屋へと案内してくれた。 「こちらになります」 部屋は当然和室。窓の方から水が流れる音がはっきりと聞こえてくるけれど、ひょっとしたら……仲居さんが戻っていった後、すぐにベランダに出てみると、すぐそこに川が流れていた。 水がすごくきれいで、川の底がよく見える。向かい側は木の緑で一杯。緑の中を流れる清流……この川で泳いだりしたら気持ちいいだろうなぁ。 「さすが奮発しただけあって良い部屋だね」 「本当ですね!」 蛍は水がきれいな所じゃないと生きられないと言うけれど、眼前に広がる美しい光景に私の期待はいやがおうにもふくらんでいった。 つづく