もうひとつの姉妹の形 -another story-

Hallo! Schwester! 中編

〜4〜
「祐巳、準備はいい?」
「ばっちりです」
 今日はウィーンに来て三日目、ウィーン観光としては二日目の出発である。昨日は夏とは思えない寒さでホテルを出てすぐに服を着替えに戻ったりなんてこともあったが、今日はそれほどでもないことをすでに確認している。
「やっぱり、文明の利器を使おう」
 部屋を出て鍵を閉めるなりそんなことを言い出したお姉さまはさっさとエレベーターに乗り込んでしまった。
 ……まあ、せっかくの朝である。さわやかな気分を無駄にすることはない。特になにを言うでもなく、そのまま階段で行こうと歩きだした私にお姉さまは爆弾を放り投げてきた。
「だ〜いじょうぶだって、ほかに人たちだってちゃんと使ってたじゃない。それともなに? 祐巳ってそんなに臆病だったっけ?」
 臆病とまで言われてしまっては、どこぞのタイムトラベラーではないけれど引き下がるわけにはいかないじゃないか。くるりと反転してお姉さまの思惑通りエレベーターを使うことになってしまったのであった。
「よし、出発!」
 私が乗り込むとお姉さまが地階を押してエレベーターの内扉が閉まった。
「あれ?」
 内扉が閉まったが、エレベーターはいっこうに動き出す気配がなかった。
「はい?」
 内扉が開いた。
「……」
 しばらくして内扉が閉まった。
「あ、あのお姉さま……」
「い、いや、大丈夫だよ」
 でも、エレベーターは動き出さない。
 また内扉が開いた。
「……まあ、なんだか知らないけど、仕方ない階段で行くか」
 そう言って外扉に手をかけたのだけれど……開かない。
「……ロックがかかってる」
 内扉がまた閉まってきたのであわててお姉さまが外扉から手を離した。
「ちょ、ちょっとお姉さま!」
「え、えっと……」
 内扉がまた開く。
 今度は私が外扉を力一杯押したけれどびくともしない。
「出して! 出して!」
「危ない!」
 必死になって押し続ける私をまた閉まってきた内扉に挟まれないよう、お姉さまが抱き寄せて扉から強引に引き離した。
「お、お姉さま」
 私の声は完全に涙声になっていた。これって閉じこめられてしまったって状態だ。
 ああ、だからこんな古いエレベーターは使わない方がいいって……そう思っていたとおりになってしまった。
 お姉さまは地階以外の階のボタンも全部押してみたけれどエレベーターはいっこうに動き出さない。外扉がロックされたまま内扉が開いたり閉まったりを繰り返しているだけ。
「ちょ、まずいかな、これは」
「ど、どどど、どうしましょう!?」
「う、う〜〜む……」
 やっぱり階段にしておくべきだったのだ。機械は所詮壊れるもの、古いものには故障はつきものなのだ。
「そ、そうだ。こういう時は慌てず騒がず非常ボタンを」
 なんて書いているかわからないけれど、他と違ってやけに目立つ黄色いボタンをおそうとしたまさにその瞬間ガタンという音とともにエレベーターが動き始めた。
「ひいぃぃぃ!」
 お姉さまにガシッとしがみつく。
 急降下、大地に一気にたたきつけられるかと思ったけれど、エレベーターが下りる速度は普通だった。
 そして、地階まで降りてきて、普通に扉が開いた。
「What?」
「あ」
 エレベーターに乗り込もうとしていた他のお客さんがお姉さまに必死でしがみついている私を見て不思議そうにしている。
「と、ともかく出よう」
「は、はい」
 お姉さまはその人に私があんな格好だった理由というか、エレベーターを使わない方が良い理由を説明した後、フロントでホテルの人にも事情を説明した。
「私、もうエレベーターは使いませんからね」
「少なくともここのに関しては同感かな。……ごめんね、さっきは臆病なんて言って」
「まあいつものことですし。その代わり今日はサービスしてもらいますからね」
「うっ。お手柔らかに……」
 お姉さまが無茶やって私が止められずに後から謝られて、お詫びに(いろいろな意味で)サービスしてもらうという普段どおりの構図の後、さっきまで平謝りだったホテルの人に丁寧に見送られて、二日目の観光が始まった。


 今日は地下鉄に乗って世界遺産・シェーンブルン宮殿にやってきた。
 地下鉄駅から少し歩くと、正門の向こうに黄色い宮殿の姿が見えてきた。そして、正門をくぐって宮殿前の広場に入ると、宮殿の全景が見えるようになった。
 広場の向こうに見える左右対称の大きな宮殿……王宮のように複雑な彫刻が至る所に施されたりしているわけではなく、壁は薄い黄色に塗られているだけだが、これはこれで落ち着いていていい感じかもしれない。
「ふ〜ん、これがマリア・テレジア・イエローか、やっぱり映像で見るのと実際に見てみるとでは印象が違うね」
「映像って、テレビで見たんですか?」
「うん、この前公共放送でやってたのがたまたま目にとまってね」
「そうなんですか」
「そう言えば、このマリア・テレジア・イエローだけど、もともとは金色にするつもりだったらしいよ。でも、財政難から倹約のためにマリア・テレジアがこの色を塗らせたって」
「へぇ」
 NHKって本当に勉強になるなと。それにしてもシュテファン寺院の北塔も財政難であの高さになったわけだし、このシェーンブルン宮殿も規模自体が縮小されたと言うし、大きなものを作るのは本当に大変なんだなぁ。
 しかし、金色か……金閣寺のスーパーパワーアップ版? 壁面を金色で覆った宮殿を想像してみる……成金趣味?……いや、ハプスブルク家は成金では絶対にないが、個人的には今の方がいい気がする。
「お姉さまは金色と今の色どっちの方がいいと思います?」
「そうだね。金色だとけばいきがするし、このくらいの方がいいと思うな」
 二人の意見は一致した。
 こう言っては何だが、シェーンブルン宮殿の色については財政難でよかったのかもしれない。
 改めて広場を進む途中、一台の馬車が広場から脇の道へと入っていくのが見えた。ガイドブックに載っていた地図を見ただけでわかったけれど、シェーンブルン宮殿はかなり広いから、馬車に乗って中を回れるのかもしれない。
「あ、そうだ。ここで写真撮っておこうよ」
「そうですね」
 せっかく来たというのにそのことを忘れていた。
 王宮前の広場でもそうだったように、交代でお互いを写してからお姉さまが近くの人に声をかけて写真撮影をお願いした。
 撮影のお礼を言ってから、宮殿の入り口でチケットを買って中へ入った。
「早速庭園に行こうか」
「はい」
 ゲートにチケットを通して庭園側に出る。
「広いですねぇ」
「うん、そうだね」
 第一声がそれだった。
「王宮前の広場とかよりもかなり広いよねぇ」
「そうですね」
 地図の上で広いことはわかっていたが、こうして実際にその広さを目の当たりのするとあっけにとられてしまった。
 広い広い庭園。
 三本の道がまっすぐにずっと向こうの丘まで続いていてその間には芝生と花が整然と植えられている。そして道の先、丘の手前にはギリシャ神話のワンシーンを表しているネプチューン噴水が、さらにその向こう丘を上った先には白い建物……グロリエッテがそびえているのが小さく見える。
 マリア・テレジアが戦勝の祝いと戦没者の慰霊のために建てたというあのグロリエッテに向かうためにジグザグの道を歩いて丘を登っている人たちがまるで米粒のようで、いかに遠いのかがよくわかる。
 しかし、道の両側に広がる森も宮殿の敷地の中で、その中には動物園や大温室、砂漠館に馬車博物館と……様々な施設があるわけで、今見える範囲は宮殿の一部でしかない。これで規模が縮小されたというのだから恐ろしい。あの有名なベルサイユ宮殿をしのぐものを造ろうとした結果ということなのかもしれないが、その目標にされたベルサイユ宮殿はいったいどれほどの規模なのだろうか……
「マリー・アントワネットとか、あそこでお茶を飲むために馬車で行ったりとかしたのかねぇ」
「そうかもしれませんね。ガイドブックにもそんなことが書いてあった気がします」
 あの丘の上に立つグロリエッテまで馬車で行くならすぐだし楽だし、優雅でとてもいい感じだが……ここまで庭園が広いと逆にあそこまで歩いていくのは大変そうだなぁとも思えてしまう。
 さっき正面の広場から脇の道に入っていくのが見えた馬車……ここでも乗れたらとってもよかったのだが、あいにくとこの庭園側には全くその姿がなくどうやらほかの人たちと同じように自分の足で歩いていくしかないようだ。
 宮殿の反対側と庭園をバックに写真撮影をした後、正面に見えるネプチューン噴水を目指して歩き始めた。


「……いや、遠くで見ていた方がよかったかな」
「それは同感ですね」
 何について言っているかというと、ネプチューン噴水の池の水についてである。なんと水の色が緑色に濁っていたのだ。
 これまでずっとここを目指して広い庭園を歩いてきただけに、やっとたどり着いたところでこんなものを見せられてしまうと、がっくり来てしまう。このネプチューン噴水自体はよくできているだけにもったいない。
「池くらい掃除しろよって感じ。まあ、何か意味があってわざとこうしているのかもしれないけど」
「意味ってどんな意味でしょう?」
「さぁ?」
 ひょっとしたらギリシャ神話の元にしたシーンに関係しているのだろうか? ……なかなかそうは思いにくいが、庭園の花はしっかりと手入れが行き届いていたから、ここだけいい加減ってこともないだろうしギリシャ神話に詳しくない私にはわからないが、きちんとした意味があるのかもしれない。
 そんな噴水を見ながら、噴水の脇の道からさらに丘の上のグロリエッテを目指すことにした。
 そして丘を登り終え、グロリエッテに到着……なんだかすごく長かった気がする。
 宮殿のそばからは小さく見えるだけだったが、そばにやってくるとどんな建物なのかよくわかった。中央のガラス張りの建物から両側に回廊の一部のようなものが伸びているギリシャ神殿風の二層構造の建物は思っていたよりもずいぶん大きかった。そして光の加減か遠くてかすんでいたからか白っぽく見えていたけれど、そばで見ればここもマリア・テレジア・イエローだった。
「ここってカフェになってるんだよね?」
「ええ」
「私もちょっと疲れたし、コーヒーでも飲みながら一服しようか」
 お姉さまの提案は諸手を挙げて賛成すべき提案だった。
 そして入ったグロリエッテの中のカフェのカウンターにあるショーウィンドウの中にはおいしそうなケーキがずらっと並んでいた。
 うむむ……どれにしようか?
 どれもおいしそうだし、せっかくここまでの場所にやってきたのだからどれも食べたいところだが、おなか的にもそれは厳しいだろう。
「お姉さまはどれにするつもりですか?」
「そうだね。このチェコレートケーキかな」
「半分こって言うか、いくつか買ってつつきあいませんか?」
「ああ、それもいいかもね」
 そういう風に決まったがそれでも二人で五つも六つもといくわけにもいかず、おなかとも相談した結果四種類のケーキを選ぶことになった。
 大きな窓のすぐそばの丸テーブルに陣取り、グロリエッテから庭園、宮殿、さらにはウィーンの町並みを眺めながら早速ケーキの一つフルーツたっぷりのものをつつき始めた。
 うん、個人的にはもう少し甘い味付けの方が好きだけれど、これはこれでとてもおいしい。
「マリー・アントワネットも、ここでこの風景を見ながら紅茶とか飲んでたんですよねぇ」
 あの広い庭園もこうして高いところから見下ろすと、長方形の芝生と花壇が整然と黄色い宮殿を背景に並んでいるのがとてもきれいに見えて、あの広い庭園もきっとここや宮殿の上の方から見下ろして眺めるために作られたのだろうと思える。
「たぶんね。あ……しまったなぁ」
「どうしました?」
「そのこと考えたら紅茶の方がらしかったかもなぁ……」
 そう言って少し眉間にしわを寄せながらコーヒーを一口飲む。確かにそうかもしれない。こうしてかつての女帝や王女様なんかがお茶を飲んだその場所にやってきたのだ。
 このグロリエッテ自身も、天井がものすごく高くてその上の方にも凝ったレリーフがある。眺めも格別でカフェとしてはとても豪華な場だから、それだけでも十分に優雅だとは思うが、確かにそうかもしれない……
「そうだ。おかわりは紅茶にしましょうよ」
「ナイス祐巳。そうしよう」
「はい」
 グロリエッテで優雅なティータイムを堪能した後、グロリエッテの上に上ってより高い場所からの景色を見てから丘を下り、また広い庭園を歩いて宮殿に戻ってきた。そして、今度はこの宮殿の中を見て回ろうとゲートを通ろうとするとアラームが鳴ってしまった。
「ん?」
 チケットはちゃんと入れたし、このチケットは中も見て回れるものを買ったはず……どうして?
 すぐに係員の人がやってきて……
「お姉さまお願いします」
「りょーかい」
 お姉さまが係員の人と英語でやりとりをするのを見ている。やっぱり単語しか拾えない……
 で、やりとりが終わった後、お姉さまが説明してくれたところによると、宮殿内に入るには整理のために入場時刻が決まっていて、私たちのチケットに刻印されていた時間からすると、特に考えもせずに庭園の方に先に行ってしまったけれど宮殿内を見てから庭園の方へ行かなければいけなかったらしい。
 お姉さまが係の人に事情を説明してくれたおかげで宮殿内を見て回れることになったが、私一人だったら何かトラブルが起こっても解決は難しかっただろうなぁ。もっとも一人だったらとてもくる勇気はなかっただろうけど。……いやいや、今後瞳子と来ることがあったとして、そんなみっともない姿をさらしては(しかも、瞳子の方がぺらぺらと会話できそうな姿が想像できるところがまた恐ろしい!)
「ゆみ〜おいてくよ」
「あ、ま、待ってください!」
 ウィーン観光もシェーンブルン宮殿の観光自体もまだ半分、今は観光を楽しむことにしようじゃないか。そのように考えを切り替えて、お姉さまを追いかけることにした。


「すごかったですね」
「うん、流石って感じだったね」
 ようやく宮殿内を見て回り終えた。
 ウィーン会議やケネディ・フルシチョフ会談の舞台になった大ギャラリーを筆頭に、ナポレオンが居室とした部屋など歴史的なエピソードがある部屋や、弱冠6歳のモーツァルトがマリー・アントワネットに告白した鏡の間やマリア・テレジアが死去した夫フランツ一世を偲んで改築させた漆の間……、もうあげだしたらきりがないほどエピソードがある部屋で満載だった。
 そして、そのどの部屋も比較的シンプルな宮殿の外見とは打って変わった豪華な内装でかつ個性豊かな部屋ばかりだった。その一つ一つの部屋で驚いたりうっとりしたりなんてことを繰り返していたせいで、正直気疲れしまった。
「それにしても……あそこに住んでる人いるんだよね」
 宮殿前の広場に出たところでお姉さまが宮殿を振り返り上の方の階を見ながらそんなことを言った。
「え? 住んでいるって、ハプスブルク家の子孫の方とかですか?」
「いや、そうじゃなくて観光コース以外の居室は一般に貸し出されていて、ほんとに住んでいる人がいるらしいのよ」
 そうなんだ。確かにこれだけ広い宮殿、維持費も大変だろうし、空き部屋があれば貸し出してしまうのもいいかもしれないが……世界遺産がそれでいいのだろうか?
「借りて住んでいる人たちもあんな豪華な内装の部屋に住んでいるんでしょうか?」
「さぁ……そこまではしらないけど、もしそうだったらものすごく贅沢な暮らしだよね」
「そうですけど……私だったらとても落ち着かない気がします」
「私もきついね。祥子だったら平然としてそうだけど」
 確かに、祥子さまだったら優雅で豪華というものを体現してくれる気がする。
「まあ、当然ながら歴史的に重要な部屋は貸せないし、貸し出されているのは使用人が住んでいた部屋とかそういった部屋なのかもね」
「ああ、そうかもしれませんね」
 それならたぶん落ち着けそうだ。しかし、それでもこの宮殿に住んでいるわけだし、あの広く美しい庭園を見下ろしながらすごすことができるのだからいい生活かもしれない。
「ところで、次のベルヴェデーレ宮殿へ行く前にちょっと休憩しようか」
「いいですね。正直気疲れしちゃってましたから、大賛成です」
「あ〜、祐巳もだったんだ。さすがにあれだけ連続してだと目が回っちゃいそうだよねぇ」
「ほんとですねぇ」
 そうしてカフェで休憩をかねて遅い昼食を取ってから、再び地下鉄に乗ってベルヴェデーレ宮殿へと向かうことになった。
 そしてシェーンブルン宮殿とはまた違った宮殿の豪華さに驚かされつつ展示されている美術品を見て周り、さらに夕食後はおめかしをしてオペラ座でオペラの鑑賞と、まさに豪華なものづくしの一日となった。