01/2/14

 お味噌のいい香りが台所に広がっている。
 一日の最初の仕事は朝食を作ること……今日も台所に立ってご飯を作っている。
 メニューはおみそ汁と焼き鯖というシンプルな内容だけれど、今の時代なかなか食べられるものじゃないしある意味ごちそうといえるかもしれない。
 鍋からおみそ汁を少しだけお玉ですくって味見をしてみる……うん、なかなか良いでき。
 しばらくしてあの人が起き出してきた。
「あなた、おはよう」
「おはよう……みそ汁か、珍しいな」
「ええ、お味噌を分けてもらえたから作ってみたの。もう少し待っててね」
「分かった」
 あの人は食卓について新聞を広げ始めた。
 鯖が良い感じに焼き上がったから、早速ご飯をよそって食卓に運ぶ。
「できましたよ」
「ああ」
「……」
 新聞を広げたまま、私が作ったご飯を見てない。
「あなた」
「う、うむ」
 ちょっと怒っているぞって言う感じの口調で言うと、渋々新聞をわきに置いた。
 全く何をそんなに読んでいたのやら……ご飯を食べながら聞いてみることにした。
「何かそんなに、大事な記事でもあった?」
「いや、そういうわけではないのだけれどな。このみそ汁うまいな」
「どういたしまして」
 誤魔化したな。何がそんなに気を引いていたのか後で調べてやる。
「……ところで、研究の方も忙しいだろうに、こんなに朝から動いていて大丈夫なのか?」
「ふふ、それは私を心配しているの? それともこの子のことを心配しているの?」
「両方に決まっているだろうが」
 何を分かり切っていることを聞くのかって言いたいだろうけれど、分かり切っていても聞きたかった。
「大丈夫よ、この子のこともちゃんと考えて、シフトを組んでもらってるから」
「そうか、ならいいが」
「あなたの方はどう?」
「うむ……、明日からまた松本に行くことになった」
「今度は、どのくらい?」
「決まっていないが長くはかからんだろう。時間をかけている余裕などないからな」
 国連の権限を強めた上で、主要国の軍隊を統合して国連軍を結成する。そのための条約を結ぶためのさまざまなやりとり……その裏の一つをこの人が担っている。
「がんばってね」
「ああ、ユイもな……今日は時間があるし、夕飯は俺が用意しておく」
「ありがとう、あなた」
「そのくらい当然のことだ」



 朝のミーティングを終えて自分の研究室に戻ってきた。
 今日は表の仕事をする予定……セカンドインパクト後に発生した新種の病気についての研究。
 地軸がシフトし、緯度が大きく変わってしまった。
 これからも続々と新しい病気が生まれるだろうし、これまで日本ではみられなかった病気も増えていくだろう……
「碇博士、サンプルの準備できました」
「お疲れさま。早速分析しましょう」
 そして、分析を終えた後、研究室のみんなと一緒に遅めの昼食をとることになった。
 テレビのニュースを流しながら、支給のお弁当を広げる。
『本日未明。イラク政府軍がパキスタンに侵攻していたことが判明しました。これにより、パキスタンはインド・イラクと二つの敵に挟まれることになり』
「また戦争か……本当に世界中戦争だらけだな」
 また一つ戦火が増えてしまった。条約が無事に結ばれれば、これも収束する方向に行くだろうけれど……それまでの道は険しいものに違いない。
『ジュネーブの国連暫定本部は、この侵攻に対し抗議し特使の派遣を決定しましたが、イラク政府は特使の入国を拒否し………』
「前々から国連ってたいした意味なかったけれど、もはや風前の灯火だなぁ」
「うわさの国連強化条約もどこまで効果あるやら」
「まあ、国連なんてもともとだからね……」
 みんな戦争と国連についての話をしている内に次のニュースに変わったけれど、今度は九州地方で新しい病気がはやっているというニュースだった。
「全く、嫌なニュースばっかりだ」
「去年だったら、もうそろそろバレンタインに関係するニュースが流れていたんですけどね」
「そうねぇ……」
「新年があけた時もほとんど実感がなかったけれど、バレンタインデー当日になってもそう言う実感はないんだろうなぁ」
「よかったじゃないか、今年はお仲間がいっぱいいるぞ」
「うるへ〜、チャンともらっとったわ」
「ほ〜そうなのか」
「そう言うおまえはどうなんだ」
「俺はな、もう両手に抱えくれない」
「そんなに義理チョコをもらったけれど本命はなしと、おまえって可哀想なやつなんだな」
「何だと!」
 パンパンと手を叩いてそこで発生しかけた言い合いをやめさせた。
「まあまあ、そのあたりにして、例年通りのバレンタインデーを早く迎えられるように頑張りましょう」
「……そうですね」



 今日は休みを取っているし、あの人を送り出してから家のことで溜まってしまっていることを片づけることにした。
 洗濯したシーツを干し終わって、ちょっと一服ということでティーパックで紅茶をいれることにした。
「……バレンタインデーか」
 そんなのんびりとした時間に考えていたのは昨日みんなの話題に上ったバレンタインデーのこと……あの人と出会ったのは初夏だったから、今までまだ一度しかバレンタインのチョコレートを贈っていない。実際に夫婦になってからは初めてのバレンタインデーになる。
「くす」
 そう考えると、ひどく短いように思う。出会う前はもっとゆっくりと関係が進んでいくものだと思っていたけれど、もうこの子がおなかの中にいるのだから。
 けれど、それだからこそ、結婚してから初めてのバレンタインデー……何とか贈りたい。
 けれど、チョコレートなんか手にはいるだろうか?
 少なくとも今はどこか近くのお店で売っているなんてことはない。研究所のつてを使えば、普通の人よりもいろんなものを手に入れやすいけれど、国内では取れない嗜好品……手にはいるだろうか?
 いえ、きっと手に入れてみせる。



 チョコレートが手に入らないか、まずは顔見知りの研究所の物品係の人に相談してみた。
「チョコレートですか?」
「ええ、何とか手に入らないかしら?」
「バレンタインですか?」
「ええ、まあ……」
 こうして改めて聞かれるとどうにも小恥ずかしくなってしまう。
「う〜ん、碇博士の頼みですし協力したいところではあるんですけれど……どうかなぁ」
「そう……」
「一応手に入らないか確認してみます。ただ、余り期待はしないでくださいね」
「ありがとう」


 チョコレートも去年の九月、四ヶ月前までは普通に流通していたのだから、倉庫などに残っていたりするかもしれないと思って、倉庫係の人にも聞いてみることにした。
 物品リストを次々にめくっていくけれど、どうにも残っていなさそうな雰囲気。
 そして、全部のリストを見終わって机に戻した。
「残念ですけれど、ここの倉庫にチョコレートは残っていないですね。……十一月まではあったようですけれど」
「そうですか……」
「チョコレートは高エネルギーな食べ物ですから、今手に入れるのはなかなか難しいでしょうね」
「お手数をおかけして済みませんでした」
「いえいえ、お気になさらずに。もしかしたらチェック漏れがあるかもしれませんし、そう言った物が見つかったら連絡しますね」
「ありがとうございます」


 その後もあちこちに問い合わせてみたりしたのだけれど、どこにもチョコレートはなかった。そもそも、カカオやチョコレート自体が全くに日本に入ってきていないと言って良いのだから、手に入れることはそもそもできないのかもしれない。
「……ユイ、最近無理をしていないか?」
「え?」
「ここのところ疲れているようだったからな」
「……いえ、大丈夫ですよ」
「そうか……だが、今は自分一人の体ではないということは忘れないようにな」
「……気遣ってくれてありがとう。でも大丈夫だから」
 もう一度言うとあの人は「そうか」とだけ言ってそれ以上は何も言わなかった。私の言葉は本心からだったけれど、それだけにそんなあの人になんとか贈りたかった。
 それで、またあちこちに聞いてみたり相談してみたりもしたけれど、ことごとくはずればかりだった。


 そんなこんなで、結局チョコレートを手に入れらるめども立たないうちに二月に入ってしまった。
 もう私の思いつくあては片っ端から当たってしまったけれど……とても手に入りそうにないということだけがわかって、どこかあきらめ始めていたある日、ヨーロッパに出張していた職員がそのままアフリカに行ったという話を聞いたから、もしかしてと思って国際電話で連絡を取ってみることにした。
『チョコレートですか?』
「ええ」
『……足を伸ばさなければいけませんけれどこちらなら手に入りますよ』
「帰国の予定はいつになるのかしら?」
『何事もなければ十二日に戻る予定ですね』
「お願いできるかしら?」
『碇博士のお願いですからもちろんOKです……と言いたいんですけれど、義理チョコくらい良いですか?』
「ありがとう、もちろん贈らせていただくわ」
『楽しみにしてます。帰ったら真っ先に飛んでいきますね』
「ありがとう」
『それではまた日本でお会いしましょう』
 やっとチョコレートが手にはいるめどがついた。これで、あの人にチョコレートを贈ることができる。その日、家に帰る足取りはずいぶん軽いものになっていた。
 そして家に帰ると鍵は開いていた。あの人のほうが先に帰ってきていたようだ。
 まだ、バレンタインデーまではだいぶ日があるし、ゆるんでしまった顔を見られたくないから、きゅっと顔を引き締めてからドアを開けた。
「ただいま」
「ああ、お帰り」
 私を出迎えてくれたあの人は……顔がゆるんでいた。何かうれしいことがあったのだろうけれど、さっきドアの前で顔を引き締めていたのはいったい何だったのか少しだけむなしくなってしまった。
「ユイ、大事な話があるんだが良いか?」
「ええ……どんな話?」
 荷物を置いてテーブルについて話を聞くことにした。
「前に言っていた条約の条件交渉が終了した」
「本当ですか?」
「ああ、停戦条約も同時に結ばれる」
「よかったわね」
 あの人がここのところ行っていた仕事が実を結んだ。そして、世界が混乱から脱するための第一歩でもある。
「まあな。それで、条約の調印に俺も国連本部に行くことになった」
「え? いつですか?」
「2月7からだ。調印式は14日の予定だ」
「………バレンタインデー?」
「ああ、それで条約名はバレンタイン臨時停戦条約に決まった」
 まさか条約の調印式がバレンタインデーだなんて、せっかくチョコレートが手に入る見通しが立ったっていうのに、どうしてよりにもよって……
 そんな風に暗い気持ちになってしまったけれど、この条約が結ばれることはこの人にとっても、そして世界にとってもいいことなのだから、私にとってもいいこと……喜ぶべきこと。
 けれど、素直に喜ぶことはできなくて「……できる限り早く帰ってきてくれる?」ってお願いしてしまった。
 そんな私の様子がふしぎだったのだろう。私の考えていることを読もうとじっと見つめてきたのだけれど、結局わからなかったようで「……ああ、分かった」とだけ短く答えてくれた。


 二月十四日……研究所のみんなにこれからもがんばっていきましょうというメッセージをあわせて義理チョコを配ると、みんな喜んでくれた。大功労者の彼にはあの人の次に手の込んだ大きなチョコレートを贈った。
 すさんだ話ばかりの世の中でこういったイベントはいい気分転換にもなったのだろう。普段よりも明るい雰囲気が研究所にあふれることになった。そして、三時過ぎにバレンタイン臨時停戦条約が結ばれたことがニュースの速報で流れると、その雰囲気はいっそう盛り上がった。
 みんな今日はいい日だって口にしていたけれど、仕事の進み具合のほうには多少疑問符が付いてしまった……まあそんな日もたまにはいいかもしれない。
 仕事を終えて家に帰ってから、あの人が戻ってくるのに備えて料理を始めた。
 この日に備えていろいろなところから分けてもらった食材の数は結構なもので、普段とは比べものにならない。セカンドインパクト前なら、スーパーに行けばこのくらい簡単に揃えられたけれど今はそうはいかない。
 単にぜいたくという言葉で表していいものかどうかと言うくらいだけれど、今はそのことは忘れてあの人の喜ぶ顔を思い浮かべながら一つ一つていねいに料理していった。
 そうして日も暮れてだいぶ経ったころ、食卓の上はごちそうで一杯になった。
 シャンパンやワインも用意したしチョコレートもちゃんと綺麗に包装してここにある。
 パーティーの準備は完璧……けれど、向かい側の席に座るはずのこのチョコレートを贈る相手のあの人だけがいない。
 わかってはいた。わかりきっていた。
 スイスから日本まで何時間かかるか。ましてや、時差の関係で条約の調印式は日本時間では三時頃……あの人が間に合うわけがない。
「……」
 こんな時普通だったら『私と仕事とどっちが大事なの!?』と言わないまでも考えるものだろうか?
 そうかもしれないけれど、その答えは私もわかっている。
 別に私のほうは命がかかっているとかそう言うわけではないけれど、仕事のほうは世界の運命がかかっている。あの人一人が担っているのはそのほんの一部だとしても、万が一でも何かあったら未来の姿が大きく変わってしまう。
 仕事のほうが遙かに大切……だから、早く帰ってきて欲しいと言うのが精いっぱいだった。それ以上言ってはいけなかった。
 けれど、どうしてだろう? わかっていても納得できない……調印式なんかほっぽり出して帰ってきて欲しい。今はそう思ってしまっている。
「あなた……」
 私の呟きは静かな空間にすっと吸い込まれていってしまった。


 ついに日付が変わってしまった。短針が真上を過ぎてしまっている。
 あの人は間に合わなかった。当然の結果が当然のようにやってきただけだった。
 あの人を待っていたからもちろん味見以外ではしをつけたりなんかしていない。けれど、食欲はなかった……この料理を無かったものにしてしまいたいという考えが一瞬よぎってしまったけれど、いくらなんでもそんなことは今の世の中で許されない。だからテーブルの上に並んでいる料理は冷蔵庫にしまうことにした。
 パーティーの用意を片付けて一人で寂しく布団に入った。
 せめて夢の中ではあの人と二人でバレンタインデーを過ごせるように願いながら眠りにつく。
 そんな風に今年のバレンタインデーは終わりを告げたのだけれど……それほど眠らないうちに、物音に目を覚ました。
 ドアを開けて誰かが入ってきた。
 確かあの人が帰ってくるのに備えて鍵は掛けていなかったから、ひょっとしたら泥棒だろうか?
 起き出しておそるおそる玄関の方の様子を覗くと、そこにはスーツに身を包んだあの人がいた。
「あなた!」
「ただいま」
「……お帰りなさい」
 帰ってきてくれた……けれど、そのことのうれしさよりも、どうして帰って来れたのかという疑問のほうが先に出てきた。まだ三時を過ぎたばかり。こんなに早く帰ってくるなんて……
 もしかしたら調印式には出ずに帰ってきたのかもしれない……ひょっとしたら、私の気持ちに気づいていてくれたのだろうか?
 そこまで考えが行くと一気にうれしさがふくれあがってきた。けれど、素直に喜んでいいのかどうか確かめなくてはいけない。
「どうしてこんなに早く帰ってきたの?」
「約束したからな。……まさかおなかの中のこの子で何かあるのか?」
「……大丈夫。この子は順調に育っているわ」
「ふむ……ではなんだ?」
 本当にわかっていない様子……バレンタイン条約の締結のために行ったというのに、バレンタインデーの習慣のことなんかまるで頭になかったのだろう。約束したからなんて言っていたけれど、ほんとうに飛んで帰ってきたのは、この一週間いったい何があるのか、あったのかと心配したり不安になったりしていたからかもしれない。
 それがおかしくて、うれしくて、そして済まなかった。
 だから言葉でなにか言うよりも、答えが入っている箱を棚から出してあの人に渡した。
「これを、あなたに」
「……?」
 綺麗に包装された箱を渡されてもまだわかっていない様子で、受け取ったもののどうしたらいいのか困っている。
「……開けていいか?」
「ええ、もちろん」
 箱を開けると、中には大きくて手の込んだチョコレートが入っている。
「……そうか、そう言えばそうだったな」
「ええ……」
 そう夫婦になって初めてのバレンタインデーだったからどうしても贈りたかった。けれど、あと三時間間に合わなかった。
「だが、見ろ俺の時計はまだ十四日だ」
「え?」
 手首に巻いている腕時計を私の目の前に持ってきた。そして、その腕時計の日付は十四日……欧州標準時にセットされたままだったから、まだバレンタインデーのままだった。
「チョコレートありがとう」
「あなた……」
 涙があふれてきてあの人の姿がぼやけてしまった。
「良かったら使うといい」
 ハンカチを差し出してくれた……受け取って涙を拭く。
 こんな心遣いも今はいっそううれしかった。
 そんなとき突然ぎゅるぎゅるぎゅる〜と言った感じの音が響いた。
「へ?」
 あの人は顔を真っ赤にして顔を背けている……
 雰囲気のぶちこわし方とほんとうに顔を紅くして恥ずかしがっているのがおかしくて思わず笑ってしまったけれど、きっと食事を食べる暇も惜しい位急いで戻ってきてくれたのだろう。
「ありがとうあなた。すぐに用意するわね」
「ああ、頼む……」
 すぐに冷蔵庫にしまった料理を取りだして暖めて、二人だけのパーティーを始めた。
 あの人の時計の日付が変わるまで、私たちは二度目、夫婦になってから初めてのバレンタインデーをともに過ごすことができた。来年はこの子も含めた三人で、その次も、さらにその次も………そうであって欲しい。