タ ー ニ ン グ

-  Ver.REI -


「マヤ。」
その日の朝、本部施設の通路でリツコに呼び止められ、マヤは振り返った。

「なんですか、先輩。」

「今日の午後だけど、ちょっとお使いを頼まれてくれない?」
「はあ、かまいませんけど。」

「レイにね、またIDカードを渡しそびれちゃったのよ。あなた、届けてくれない?」
「わたしが、ですか。」

「シンジ君は学校だし、他に頼める人がいないのよ。
 レイは徹夜明けで、まだ寝てるでしょうから、午後からでいいわ。」

「でも、わたし…。」

「これも、大事な仕事よ。
 たまには、外の空気を吸った方がいいわ。
 ついでにそれを、コインランドリーでお洗濯をしてきてくれると嬉しいのだけど。」

そう言うとリツコは、部屋の隅に置いてある紙袋を指差した。
リツコの白衣らしきものが、入っているのが見えた。

「…わかりました。」 
「じゃあ、お願いね。」

マヤはリツコから、レイの新しいIDカードを受け取った。




その日の午後、はじめてレイの住んでいる集合住宅を訪れたマヤは、その惨状に息を呑んだ。

ドアのチャイムが壊れているのはまだしも、新聞受けにダイレクトメールやらチラシの類が
いっぱいに詰まっているのを見て、どういう神経をしているのか、と思った。

それよりも、鍵のかかっていない玄関ドアをそっと開けたときの光景が信じられなかった。
壁や天井がむき出しのコンクリートであることもさることながら、廊下一面を覆う土埃と
無数の足跡が、この世のものとは思えなかった。

どうして、こんなことが?
そう思ってよく見ると、寝室と思しき部屋の外に靴が並べて置いてあるのが見えた。

寝室以外の場所では、靴を履いたまま生活しているのだ。
確かに、本部施設の宿舎では自室の入口で靴を脱ぐ様になっている。
レイにとっては、施設内の通路も自宅の廊下も同じなのだ。
だれも、そうではないことを、レイに教えなかったのだろう。

「レイちゃん!」
怒りとともに、このままではいけない、という思いに駆られてマヤは思わず叫んだ。

寝室にずかずかと入っていくと、レイはまだベッドの上で寝ていた。

「ちょっと、起きなさい!」
そう言ってレイを揺り起こす。

人として、最低限の生活ができる様にしなくては…。
なにか、自分が”だらしのない妹”を持った様な気分になっていた。




レイを起こしたマヤは、今までどんな生活をしていたかを、レイから聞き出した。
とりあえず、入浴と洗濯はしていることを知ってほっとする。

その上で、最低限掃除はしないとだめだと叱った。できれば、簡単な料理も。
掃除の仕方を教えると、わりと素直に受け入れた。
自分の部屋は掃除するものだということを知らなかっただけであり、不器用やものぐさという
わけではない様だった。

二人で掃除をすると、それほど広くない部屋である上、家具も少なかったので、ゴミや埃が
なくなれば、結構きれいになってきた。

「まあ、こんなものかな。
 どう? 部屋がきれいになるって、気持ちいいものでしょう?」

「はい。」
レイは素直に頷いた。

「これからは、毎日お掃除するのよ。
 毎日していれば、そんなに汚れないし時間もかからないから。」

「わかりました。」

「働いたら、ちょっとお腹すいちゃったわね。
 それじゃ最後に、ご飯の炊き方を教えてあげましょうか。」

電子炊飯器の使い方を教え、二人で遅い昼食をとってからマヤはレイの家を後にした。




翌日。

その日は本部でのテストは夕方から行われることになっており、レイは学校に行った。
いつもどおりに授業を受け、放課後には当番が回ってきた教室の掃除を行った。

レイが雑巾を絞る姿を、シンジは感心して見ていた。

『さまになっている。』
そう思った。

その後、本部でハーモニクステストを受けた帰り道で、シンジはレイに言った。

「掃除のときさ、今日の。
 雑巾絞ってたろ。
 あれって、なんか、お母さんって感じがした。」

「そう。」

「綾波って、案外、主婦とか似合ってたりして。」

「…なにを、言うのよ。」
レイは、顔を赤らめた。

『綾波が、恥ずかしがってる…。けっこう可愛いところもあるんだな。』
シンジは、レイの意外な一面を見たような気がした。

一方、レイは、
『なに? この気持ち…。』
自分の中で、何かが少しだけ、変わったように感じていた。




それから、二、三日が過ぎた。

「ねえ、アスカ。」
その日の放課後、ヒカリが小声でアスカに尋ねた。

「碇君と、何かあったの?」

「別に。何もないわよ。」
いつもと同じ口調で、アスカは答える。

ただし、目を逸らしていた。
たまたま、レイはその様子を見るともなしに見ていた。

『どうして、目を合わさないのだろう。』
そこになんとなく、違和感を感じた。

シンジと違って、アスカは誰と話すときも真っ直ぐに相手を見る。
それが今日に限って、何か後ろめたいことでもあるのか、ヒカリから視線を逸らしたのだ。

「そう? 何か、碇君のことを避けているみたいだし。
 その割には、ときどき碇君のことを見ているから、何かあったのかと思ったのよ。」

「別に、シンジなんか見ていないわ。ヒカリの思い過ごしじゃないの。」

「だったら、いいんだけど。
 ところで、もうすぐバレンタインよね。アスカは誰かに、チョコあげたりするの?
 たとえば、碇君とか?」

「ばか言わないでよ、なんであんな奴に!」
アスカが、怒ったように言う。

『また、目を逸らした?』
レイはそう思ってアスカを見ていた。

「それに、日本のその習慣って、好きになれないわ。」

「ドイツでは、違うの?」

「日本だけよ、そんなことしてるのは。
 あちらでは、バレンタインはお祭りで、パーティを開くことになってるの。
 まあ、そのときにプレゼント交換をすることはあるけど。
 女の子が、男の子に贈り物をするのは、ふつうは4月よ。」

「サン・ジョルディの日ね?本を贈るんだっけ。」

「そう、それそれ。よく知ってるわね。」

「でもね、アスカ。
 ”郷に入れば郷に従え”って言うじゃない。
 実はわたし、これから家に帰ってチョコ作りの練習をするの。
 アスカさえよかったら、一緒にやらない?」

「ごめん、遠慮しておくわ。
 だれのためのチョコかは聞かないけど、がんばってね。」

「ありがとう。
 気が変わったら、いつでも言ってね。
 じゃあ、わたし、帰るね。お先に。」

「ばいばい、また明日ね。」

ヒカリが帰るのを見送ってから、アスカは自分の席で頬杖をついた。

ぼんやりと考え事をしながらアスカが、頬杖していたその手を自分の唇にもっていくのを
レイは見ていた。
何度もその手が、無意識に唇をなでるのを、レイは見ていた。
 

 
 
そして、翌朝。

登校してきたアスカが、ヒカリにおはようと言った後で、こう言うのをレイは聞いた。

「ねえ、ヒカリ。やっぱり、チョコの作り方、教えてくれない?」

「いいわよ、アスカ。」
ヒカリは微笑んで応えた。

「じゃあ、学校が終わったら、うちに来る?」

「ええ、お邪魔するわ。」

「だれにあげるものかと言うことは、その日がくるまでは…。」
「お互いに、言いっこなしということで。」

ヒカリとアスカは、笑みを浮かべると頷き合った。

そんな二人を見て、レイは首をかしげた。
『バレンタイン…。誰かにチョコをあげる日?』

それが、どうしてそんなに楽しそうなのか、レイには分からなかった。




その日の放課後、アスカはヒカリとすぐに帰っていった。
レイは、また掃除当番が回ってきたので、居残りとなった。
疎開する生徒が多くなってきたため、すぐに掃除当番が回ってくるのだ。

いつもの様に雑巾で床を拭くと、レイはもう一度雑巾を絞って窓枠を拭き始めた。

「あ、綾波。いいんだよ、窓枠は。」
シンジが声をかけてきた。

出席番号が近いため、シンジはレイと同じ掃除当番の組に入っているのだ。

「窓枠は、学期末の大掃除のときだけでいいことになってるんだ。」

「でも、汚れているもの。」
そう言いながら、レイは作業を続けた。

「…綾波、なんだか、少し変わったね。」
「そう?」

「あ、ぼくも手伝うよ。」
「いいわ、わたしが好きでやっていることだから。」

「同じ当番なのに、綾波だけにさせておくわけにはいかないよ。
 それに、それはいいことだと思うし。」

シンジはそう言うと、自分も窓枠を拭き始めた。

「でも…。」

「一人でやるより、二人でやった方が早く終わるよ。」

シンジにそう言われ、レイは少しためらったが、

「ありが、とう。」
二人で、掃除を続けた。




その後、レイは一人で本部に向かった。

特別にレイだけに用意されたテストが、間もなく始まることになっていた。
その準備のために、今日は夕方に本部に寄ることが命じられていた。
レイに合わせて、ある装置の設定をするためである。

設定開始までの待機時間に、レイは今朝疑問に思ったことをマヤに尋ねてみることにした。

「伊吹二尉、教えてほしいことがあるんですが。」

「なあに、レイちゃん。」

「バレンタインって、楽しいものなんですか。」

「そっか。もう、そういう時期か…。学校で、話題になってるの?」

「ええ。」

「今でも、手作りチョコをしたりするのかな。」

「ええ。でも、それの何が楽しいのか、わからなくて。」

「レイちゃんは、好きな男の子とか、いる?」

そう言われて、一瞬シンジの顔が浮かんだ。
なぜ、シンジのことが頭をよぎったのか、わからなかった。

「よく、わかりません。」

「バレンタインはね、仲のいい男の子や、仲良くなりたいと思っている男の子に、女の子から
 チョコをあげる日なの。
 それだけでなく、日ごろお世話になっている男の子に、感謝の気持ちをこめて贈ることも
 あるわ。」

「自分の気持ちを、伝えるためですか。」

「そう。
 とくに、手作りの場合はそういうところが大きいわね。
 そして、そのことで相手に喜んでもらえる…うまくいけば、自分に好意を持ってもらえる
 かも知れない。
 それが、女の子の楽しみなのよ。わかる?」

「わかる様な気がします。」

「じゃあ、レイちゃんも作ってみる? 手作りチョコを。」

「わたしが?」

「ええ。わたしでよければ、作り方教えてあげるわ。
 大丈夫よ、だれにあげるのかなんて、ヤボなこと聞かないから。」

「…はい。」

「それじゃ、まず用意しなければいけないものから言うわね__。」

真剣にメモをとるレイを見ながら、マヤは心の中でほくそ笑んだ。

『うふふ、聞かなくてもだれにあげるのか、察しはつくけど。』




その夜。

自宅に帰る途中でレイはコンビニに寄り、マヤから教わったものを揃えた。

今日から早速練習しよう、そうレイは思った。
バレンタインまで、あと4日。

『一人でやるより、二人でやった方が早く終わるよ。』
掃除の時間に、そう言ってほほ笑んだシンジの顔が浮かんだ。

「これは、感謝の気持ち?」
レイは、声に出して自問する。

レイはかぶりを振った。
シンジに、喜んでもらいたい、その気持ちの方が大きいと思う。

『うまくいけば、自分に好意を持ってもらえるかも知れない。
 それが、女の子の楽しみなのよ。』
マヤの言葉を思い出し、レイは思わず頬を染めた。




翌日、ちょっとした異変があった。

朝のうち、アスカが機嫌良くヒカリと話しているのをレイは聞いた。

「やっぱり、ミルクの量が大事なのよね。
 本体の味をころさずに、まろやかに仕上げるのがコツなのよ。」

自慢げに、アスカは言う。
わざわざ、チョコという言葉を使わないでいるが、どうやらチョコ作りの練習がうまくいって
いるらしいと、レイには分かった。

「さすがね、アスカ。
 あんなに上達が早いとは思わなかったわ。
 もう、わたしが教えることは、ほとんどないみたい。」

「そんなことないって。ここからが、大事なんでしょ?
 しっかり伝授してもらうわよ、ヒカリの”秘伝の隠し味”を。」

そう言うと、ヒカリとアスカは楽しそうに笑い合った。

「ねえ、何の話?」
シンジが、にこやかな笑みを浮かべて、会話に加わろうとした。
何かの料理の作り方と、勘違いをしたのかも知れない。

「あんたには、関係ないの。あっちへ行ってなさい!」
ばしっとアスカが言う。

その様子は怒っているのではなく、むしろ慌てている様に、レイには思えた。

「なんだよ、教えてくれてもいいじゃないか…。」
ぶつぶつ言いながら去っていくシンジを見ながら、レイは自分もがんばらねば、と思った。


だが、アスカの機嫌が良かったのは、午前中だけだった。
午後からは、チルドレン三人に召集がかかって、本部でハーモニクステストが行われた。

そのとき、はじめてシンクロ率でシンジがトップに立った。
シンジは単純に喜んでいたが、アスカの機嫌はみるみる悪くなった。

「なによ、あのばか、浮かれちゃって!」

テストが終わったあと、ロッカールームでさんざんアスカは悪態をついた。

「ちょっとあたしが気を抜いたからって。
 たまたま、一回くらいトップになったからって。
 あのはしゃぎ様はなによ!
 あたしがキスしてあげたときに、もう少し嬉しそうな顔してたなら可愛げもあるのに。」

レイがそばにいるのに、何ら気にすることなく悪態は続いた。

「あたしの実力は、こんなものじゃないわ!
 見てなさいよ、今に思い知らせてやるんだから。
 まぐれで勝ったからって、いい気になるんじゃないわ。
 もういい!
 あんな奴に、チョコあげようと思ったのが間違いだったわ。」

着替えていた、レイの手が止まった。

「碇君に、チョコをあげるつもりだったの。」

「冗談でしょ、だれが、あんな奴に!」
そう言うと、アスカは手近にあった空のロッカーを、どん、と叩いて部屋を出ていった。

そうか、とレイは思った。
『惣流さんも、碇君にチョコをあげようとしていたんだ。』

だが、あの様子では、その気はなくなったに違いない。

『せめてわたしが、碇君のために、がんばってチョコを作らないと。』

今夜から、本格的に練習しよう、レイはそう思った。




だが次の日、レイは本部に呼び出され、連続して本部でテストを行なうよう言い渡された。

昨日行なった、ハーモニクステストではない。
ここ最近準備が進めらていた、レイだけの特別メニューである。

しばらくは学校を休んで、日中はずっとテストを続けるということであった。
本部に泊まり込んでもいいと言われたが、レイはそれは断った。
いくらかでも気分転換できる時間がほしい、そのためには寝泊まりは自宅で行ないたいと。

意外に簡単に、それは認められた。
ストレスが溜まる事態は、避けなければならないということだった。
それが、これから行う作業…ダミーシステムの開発には、不可欠だからである。

レイは、ほっとした。
少なくも、夜間と早朝には自分の時間ができる。
明日、なんとかシンジに渡すチョコを完成させれば、明後日のバレンタイン・デーには
朝一番でそれを届けにいくことはできる筈だった。

その日、はじめて行ったダミーシステム開発のためのテストは、結構きついものだった。
今までのような、ハーモニクステストとは比べ物にならないほど長時間に渡るものであった。
それでも、レイはそれを乗り切った。

なんとしても、シンジに渡すためのチョコを完成させる。
その想いを胸に抱いている限り、レイはがんばれると信じていた。




2月13日、早朝。

レイは、チョコ作りの準備を始めていた。
チョコを溶かす鍋と、原料となるチョコを、ガスコンロの傍に用意した。
牛乳も砂糖も、十分な量があることを確認した。
昨夜までの練習で、なんとか満足のできる味が出せるようにはなっている。

帰宅したらすぐに取り掛かれるようにした上で、レイは自宅を出た。
そして、本部にむかう途中で、レイはその警報を聞いた。




「どうなってんの、富士の電波観測所は!」
発令所のメインスクリーンに目をやりながら、ミサトは言った。

「探知していません。直上に、いきなり現れました。」
日向が応じる。

スクリーンには、第3新東京の上空に浮かぶ縞模様のある球体が映し出されていた。

「パターン、オレンジ。ATフィールド反応なし。」
「ATフィールドがない? どういうことなの。」
「まさか、新種の使徒?」

スタッフが騒然とする中で、ミサトの声が響く。
「パイロットたちは?」

「迎えの車が行っています。間もなく、全員が到着します。」

「オーケイ。まずは、市街地上空から外におびき出すわ。
 相手の出方が分からない以上、本格的な作戦行動はそれからよ。」

ほどなくレイ、シンジ、アスカが到着し、3機のエヴァが出撃することとなった。
しかし、ミサトの作戦は実現しなかった。

『先鋒は、ナンバーワンのシンジ様がいいと思いま〜す♪』
『いいよ、お手本を見せてやるよ!』

アスカの挑発に乗ったシンジが、独断で使徒に先制攻撃をしかけたからだった。
 
「パターン青、初号機の足元です!」
「か、影が!」

青葉とシンジが、ほぼ同時に叫んだ。

「なんだよ、これ。おかしいよ!」

初号機は、みるみる足元の影に呑み込まれていく。

「アスカ! レイ! シンジ君の救助を!!」

ミサトの指示で、弐号機が駆け寄る。

「ばか、何やってんのよ!」
沈みゆく初号機に手を差し伸べようとするが、それが届く前に初号機は完全に呑み込まれた。

「碇君!」
レイは、上空の球体に向って発砲する。

が、銃弾は使徒を素通りし、かわりに弐号機の足元に黒い影が現れた。

「いやぁ!」
手近のビルを這い上り、アスカの弐号機はかろうじて影から逃れた。

ミサトは、苦渋の決断を迫られる。

「アスカ、レイ。撤退しなさい。」

「待って。まだ初号機と碇君が!」
レイの言葉に、ミサトも、アスカも驚いた。

だが、
「…命令よ、下がりなさい!」

肩を震わせて言うミサトの言葉に、レイはしぶしぶ従った。




その後、緊急ミーティングが開かれた。

使徒の本体はあの黒い影であると説明した上で、リツコは初号機の回収を最優先で行うと
告げた。
「この際、パイロットの生死は問いません。」

ミサトの平手打ちが、リツコの頬に飛んだ。

「あんた、何考えてんのよ!」

二人のやりとりを傍目で見ながら、レイは今のネルフならやりかねない、と思った。

かって、シンジが初号機への初搭乗を拒んだとき、ゲンドウはレイに、
『レイ、もう一度エヴァに乗れ。”予備”が使えなくなった。』
と言った。

重要なのは初号機であり、自分かシンジのどちらかがいればよいのだ。
たまたま、あのときは、レイが重傷を負っていたから、代わりに初号機に乗れるシンジが
呼び寄せられたに過ぎなかった。

そして、自分もまた、代わりはいくらでもいることをレイは知っていた。

さらに今、”ともに戦うことで、仲間どうしの連帯感が強まる”のとは、逆のことが起き
始めている。
アスカとシンジの意地の張り合いもそうだし、今回のリツコとミサトの確執もそうだ。

来襲する使徒を迎え討ち、殲滅する。
その作戦行動が繰り返し行われる中で、何かの歯車が狂い始めている様な気がする。

そんな中で、シンジを失うのはいやだと、レイは思った。
『碇君…。』
いっしょに、放課後の掃除をしたのが、ずいぶん前のことの様な気がした。




シンジは、どうやら使徒の体内の虚数空間に捕われているらしいということだった。

使徒の本体に攻撃を加え、初号機のボディを回収するのに、残存する全てのN2爆雷を使用
することになった。
そして、二体のエヴァのATフィールドで使徒の虚数空間に千分の一秒だけ干渉し、捕われ
ている初号機を吐き出させるという作戦であった。

それでも、ミサトに対する気おくれがあったのか、リツコが決めたその決行時期はシンジの
生命維持の機能が停止する12分前、午前5時48分となった。

夜がしらじらと明け、薄明があたりを包むころ、幾つものVTOLが使徒を目指して接近
しつつあった。

レイはそのとき零号機に搭乗し、爆撃の瞬間に備えて待機していた。
何かを予知したのか、その目が見開かれた。
『影と、本体が入れ替わる!?』

「碇君!」
レイが声に出してつぶやいた次の瞬間、上空の球体の縞模様が消え、亀裂が走った。

漆黒の球体を引き裂いて中から現れたのは、初号機だった。
引き裂いた肉片とともに地上に降り立った初号機は、夜明けの都心の上空を見上げながら、
何度も雄叫びを繰り返していた。




どうやって、初号機が使徒の虚数空間から自力で脱出したのかはわからない。
ともかく、シンジは生きていた。
生命維持モードが切れる直前であり、消耗しきってはいたが、それでもともかく生きていた。

「シンジ君!」
エントリープラグをこじ開け、シンジの無事を確認したミサトは、シンジをかき抱いて号泣
した。
指揮官にあるまじき行為ではあったが、それを責める者はいなかった。

「…会いたかったんだ、もう一度。」
シンジはそうつぶやくと、眠りについた。

シンジは病室に運ばれ、点滴による栄養補給と精密検査を受けた。
肉体的に異常はなく、体力が回復すれば目覚めるであろうということだった。

もう心配ないということであったが、レイはシンジへの付き添いを申し出た。
リツコたちは当面、使徒戦の後処理で忙殺されるため、ダミーシステムのテスト再開までには
二、三日かかるということで、それは簡単に受理された。

病室で一人、レイはシンジの目覚めを待つ。
アスカがときおり顔を見せるが、レイがいるとばつが悪いのか、早々に引き上げていく。

今もレイは一人で、シンジの寝顔を見守っていた。
シンジが救出されたとき、つぶやいていた言葉を思い出す。

『…会いたかったんだ、もう一度。』

だれに向けられた言葉かは、わからない。
それがだれかは気にはなったが、こうして戻ってきてくれたことが嬉しかった。

「わたしも、碇君にもう一度、会いたかった。」
声に出して、そう言った。

胸の中に、暖かいものが拡がる。
自分は、ミサトのように直接的な行動はとれない。
感情を沸騰させて、涙を流すようなこともできない。
それでも、シンジのことは心配だったし、その無事を知ればこの様に嬉しいのだ。

そして、そのレイの気持ちに応えるかの様に、その日の夕方、シンジは目をさました。

「綾波…。ずっと、ついててくれたの。」
「ええ。」

「使徒は?」
「暴走した初号機が、引き裂いたわ。」

「そうか…。心配かけたね、もう大丈夫だよ。」
「今日は、ゆっくり休んで。あとのことは気にしなくていいから。」

「ありがとう。あの、綾波。」
「なに?」

「なんだか母さんがずっと傍にいたような気がしたんだけど、やっぱり綾波だったのかな。」
「そう、よかったわね。でも、たぶんそれはわたしじゃないわ。」

「そうなの? でも、嬉しかったよ。目を覚ましたときに、綾波がいてくれて。」
「わたしも、碇君が無事に戻ってきてくれて、嬉しかった。」
「うん…。」

しばらくはお互いの顔を黙って見ていたが、やがてレイは立ちあがると言った。
「それじゃ、ゆっくり休んで。」

「帰るの、綾波。」
「ええ。」

そのとき、シンジも気づいた。
部屋の外で、入るに入れずに中の様子を窺っている、もうひとりの少女に。
レイは、気を利かせようとしているのだ。

また、レイの意外な一面をみたような気がしたが、シンジは微笑んで言った。

「今日は、ありがとう。また、明日ね。」
「ええ。また、明日。」

脱兎のごとく物陰に隠れる少女の方を見ないようにしながら、レイはシンジの病室を去った。




レイが自宅に戻ったとき、すでにあたりは夕闇に包まれていた。
玄関口で部屋の明かりを点け、靴を脱いで廊下に上がる。

そのときに、レイは気づいた。

チョコを作りかけのまま、放置された台所器具に。
今日が、バレンタインデーだったことに。

『碇君に、チョコを渡すことができなかった。』

あれほど練習してきたのに、それを実現させることができなかった。

『でも、碇君が無時に帰ってきたのだもの。
 それだけで、わたしは嬉しい。』

その気持ちに、偽りはなかった。

それなのに。

「これは、涙? なぜ、涙が出るの?」
レイは、声に出して、そうつぶやいていた。
                       完