あたしは、負けない!
 
-  そ の 壱  -
 

「どういう風の吹きまわし?」
あたしは、思わずそう尋ねていた。

あの霧島マナが、あたしとシンジにもう一度、チェロとバイオリンのデュエットで、『タナトス』を演奏して聞かせてくれと言ってきたのだ。

以前、あたしたちは在校生代表として、卒業式に弦楽四重奏を演奏することとなった。
曲目はパッヘルベルのカノンだったけど、あたしとシンジ、レイ、カヲルの四人で、けっこう真面目に練習をしていた。
そのときマナが是非見学したいというので、ついでに練習していたタナトスも聞かせてあげたのだった。

だけど、タナトスは弦楽四重奏ではなく、あたしとシンジのデュエットだった。
あたしたちの息がぴったり合っているのを見ると、マナは涙をうかべて部屋を 飛び出していった。
・・・そんなことがあったのだった。

何か魂胆がある、とあたしは思った。
だけど、あいつ・・・マナは、真剣な表情で言ってきた。

「一度、ちゃんと聞いてみたいと思ったの。
 この前は、途中までしか聞かずに、逃げちゃったし。
 それに、シンジとアスカさんが一生懸命に練習していたものを、
 最後まで聞かなかったのは、失礼だったと思って・・・。」

へえ〜。
あたしは、少し感心した。
自分で自分のことを、『逃げた』と認められるのは、たいしたものだと思う。
あたしなら、たとえ内心そう思ったとしても、絶対口にすることなどできないだろう。

「・・・ずっと気になっていたの。 お願いできるかしら。」

「あんた、そんなこと気にしていたの。」

マナは、こくんと肯いた。

『・・・・・・・・・。』
あたしは、うしろめたい思いがした。
あのときあたしは、シンジと仲良く演奏しているところを見せつけたら、
彼女はきっと、いたたまれなくなって逃げ出すだろう、
そう思った上で、わざとやったことなのだ。

それなのに、マナは真剣な表情で、もう一度やってくれと言う。
なにかを企んでいるのか、といぶかる一方で、
悪いことをしたかな、とあたしは思った。

「あたしは別にかまわないけど。 どうする? シンジ。」

「もちろん、ぼくもかまわないよ。でも、マナ。本当にいいの?」
にぶちんのシンジでも、前回の演奏は彼女にとって、何かつらいことがあったのではと、感じているらしい。

「うん、お願い。」

そこまで言われては、やらないわけにはいかないだろう。
やるからには、真剣にやろうと、あたしは思った。



演奏は学校が終わってから、シンジの自宅で行うことになった。
だって、シンジのあのチェロ、持ち運ぶの大変だものね。

いったんあたしんちへバイオリンを取りに寄ってから、シンジの家に行った。
そしてすぐに、リビングで演奏の準備を始めた。

シンジは椅子に座り、チェロを抱く。
あたしはその傍らに立って、バイオリンを構えた。
マナは、あたしたちの正面で椅子に座り、手を膝の上に置いている。

「じゃあ、行くよ。」
シンジはそう言うと右腕を大きく動かし、演奏が始まった。

チェロの音色は、バイオリンに比べれば、普通は目立たない。
より低音であるという、それだけの理由で。

でも、シンジのそれは別格だった。
にわか仕込みのあたしやカヲルとは、レベルが違う。
寄せては返す波の様な調べに、あたしはともすると翻弄されそうになる。

あたしは、気をひきしめた。
呑み込まれては、いけない。
もうすぐ、あたしのパートになる。
せっかくマナが真剣に聞いてくれようとしているのだから、
あたしはあたしの役割を、せいいっぱい演じなければ。

さあ、あたしの出番だ。
タイミングを外さずに、うまく入り込むことができた。
ここは、バイオリンであることを、めいっぱい主張しなくてはいけない。
マナを感動させるような演奏が、できるだろうか。

前回とは違い、マナは膝の上に手を置いたまま、目を閉じていた。
そう、この前は彼女は、すぐにぽろぽろと泣き出したのだった。
だけど今は、目を閉じたまま真剣に聞き入っている。

そんなに真剣な顔をしないでよ、とあたしは思った。
そんなに真面目な顔で聞き入られたら、本当にこの前は悪いことをしたと、思っちゃうじゃない。

少し緊張したけど、なんとか調和を乱さずに、あたしたちの演奏は終わった。
マナは最後まで目を閉じて聞き入っていたけど、演奏が終わると静かに目を開けた。

「ありがとう、すごくよかったわ。」
そういうと彼女は、柔らかく微笑んだ。

「よかった、気に入ってもらえて。」
シンジも、気分がよさそうだった。

あたしは・・・なんだか、複雑な気分だった。
たしかに、悔いのない演奏はできた。
でも、前回これを演奏したときは、彼女を傷つけるのが目的だった。
それを、あんなに真剣に聞かれたら・・・あたしは、落ち込むしかないじゃない。

「どうしたの、アスカ。」
シンジが、声をかけてきた。

「何か、気になるところでもあった?
 なかなかうまく弾けていたと思うんだけど。」

「うるさいわね!」
あたしは、不機嫌をよそおった。

「どうせあたしは、まだまだあんたのレベルには、追いつけないわよ!」
あたしは、問題すり替えることで、心の平衡を保とうとしたのだった。

「そんなこと・・・。」
シンジが何かいいかけるが、
「あたし、帰るね。」
そう言うと、あたしは帰り支度を始めた。

「どうしたっていうんだよ、アスカ。」
「・・・。」
あたしは返事をしなかった。
シンジはどうせ、変なやつだな、とでも思っているのだろう。

「あの、アスカさん。」
「なにかしら。」
マナに対しては、できるだけ穏やかな声で応えた。

「今日は、ありがとう。嬉しかった。」
「どういたしまして。」
作り笑いをしようと思ったが、うまくいかなかった。

『やはり、何か気に入らないことがあった。』
そう思われたかも知れない。
実際、そうなのだから仕方がなかった。
ただ、これは誰かのせいというのではなく、あたし自身のせい・・・
・・・自己嫌悪によるものだけど。

あたしが靴を履いて、シンジの家を出ようとしたら、ちょうどユイさんが、
帰ってきたところだった。

「あら?アスカちゃん。いらっしゃい。」
「いえ、お邪魔しました。」
そう言うとあたしは、バイオリンケースを抱えたまま、足早に家を出た。

背後で、
「あら、マナちゃんも? いらっしゃい。」
という声が聞こえる。

それから、
「どうしたの、アスカちゃん。けんかでもしたの?」
「知らないよ、だいたい・・・。」
ユイさんとシンジのやりとりが途中まで聞こえた。

いたたまれなくなって、逃げ出したのはあたしの方か・・・。
ざまあないわね。

しばらく歩いてから、あたしは振り返った。
シンジの家からはかなり離れ、もうあたしを見送る者はいないことを確認した。

あたしは心の中で、マナに向かってそっとつぶやいた。

『今日のところは、「あたし自身の罪悪感」に免じてシンジと二人きりにしてあげるけど、
 明日はそうはいかないからね!』



「ただいま。」
あたしが家に帰ると、

「クェェ!」
と鳴く声がする。
パタパタと音がして、ペンペンが走り寄ってきた。

「どうしたの、ペンペン。」
声をかけるとペンペンは、物欲しそうな顔であたしを見上げた。

「ミサトの奴、またあんたにエサをあげるのを忘れたのね。
 ・・・ったく、しょうがないわね。
 待ってなさい、今なにか探してあげるわ。」

あたしはバイオリンケースを片付けると、冷蔵庫から鯖の缶詰を取り出した。
缶詰の中身を皿に入れてあげると、ペンペンは喜んで食べ始めた。

ダイニングの椅子に座ってその様子を見ながら、あたしは、
『今日の夕食は、何にしようかしらね。』
ぼんやりと、そう考えていた。

ミサトと二人で暮らすようになって、もう三ヶ月がたとうとしている。
以前は、シンジとレイも一緒だった。
でも、ユイさんがサルベージされると、シンジとレイは碇司令とユイさんに引き取られ、
あとにはミサトとあたしだけが残った。

シンジの苦労が、今になってわかる。
ミサト・・・あいつは、生活破綻者なのだった。
いくら当番を決めても、ゴミ出しやペンペンのえさはすぐ忘れるし、
そうじはいい加減・・・というか、散らかす方が圧倒的に早い。
料理にいたっては、一種の殺人技だ。
前からわかってはいたけど、シンジがいない今、家事全般はあたしが中心になってやるしかなかった。
おかげで、ちょっとした料理はできるようになったけどね。

ミサトは、今夜も遅くなるという。
電子レンジで、暖められるものがいいだろう。

『うん、今日はとんかつにしよう。』
あたしは、そう決めると、冷蔵庫から肉を取り出した。
小麦粉とパン粉、それに卵を用意し、料理の準備にかかる。

シンジがこんなあたしを見たら、きっと目を丸くするだろうな。
・・・まあ、こんな姿、見せるつもりは、さらさらないけどね。

料理が大体できた頃、ミサトから電話があった。

「ごめん、アスカ。相当遅くなりそうだから。
 戸締りをちゃんとして、先に寝てて。」
使徒が来ない今、何がそんなに忙しいのかわからないが、ミサトはそう言った。

「わかった。夕食にはラップをかけておくから、適当に食べといて。」
「ありがとう。あ、それから、ちゃんと勉強するのよ。
 来年、受験なんだからね。」

「だれに言ってんのよ。あたしは、大学出てんのよ。
 そんなもん、お茶の子さいさいよ。」
「まあ、大丈夫とは思うけど、日本の高校のレベルをなめちゃだめよ。」
「わかってるわよ!」

と、いうことで、あたしは一人で夕食を取り、適当に勉強を済ませて床についた。



翌朝__。
その日もあたしは、まだ眠そうな顔をして朝食を食べているミサトを残して、
先に出かけることになった。

「じゃあ、行ってくるからね。」
「ふぁ〜い・・・。」

「ペンペンにエサをあげるの、忘れないでね!」
「ふぁ〜い・・・。」

「今日も、遅くなるの?」
「昨日のうちに、だいぶ片付けたからね。今日は早く帰れると思うわ。」
「そう。」
「あ、そうだ。たまには外食でもしよっか。
 仕事が終わったら、電話するわ。」

「ほんと!?」
夕食作りから解放されるのは、嬉しいことだった。
「まあ、あてにしないで待ってるわ。じゃあね、行ってきま〜す。」

「行ってらっしゃい。」

あたしは、通学鞄を手にとると、マンションを出た。

足早に、歩く。
お気に入りの赤い腕時計を、ちらりと見る。
うん、今日は昨日より、3分は早いわね。

あたしが目指すのは、学校ではない。
シンジの家だった。
もちろん、シンジを迎えに行くためだ。

歩く速度を、速める。
ぐずぐずしてると、あの霧島マナに先を越されてしまう。
それだけは、避けたかった。

シンジの家は、あたしんちから、5分と離れていない高台にある。
まわりにある家は、けっこう大きなお屋敷が多かったけど、
その中ではわりと、こじんまりとした造りだった。
司令の財力なら、周囲に負けない大きな家を持つことだってできた筈だ。
それをしなかったのは、ユイさんの希望だったのかも知れない。

「おはようございます!」
インターフォンを押すと、あたしはせいいっぱい明るい声で言った。

「あら、アスカちゃん? 今日も早いわね。
 どうぞ中へ、入ってちょうだい。」
ユイさんにそう言ってもらって、あたしは家の中に入った。

やった! まだ、マナは来ていないようだった。

「ごめんなさいね、シンジ、まだ朝ごはん中なのよ。
 もうちょっと待ってくれる?」
ユイさんが玄関口まで出てきて、すまなさそうに言う。

「いえ、あたしが早く来過ぎたんです。待つのは平気ですから。」

「悪いわねぇ。急いで仕度するよう、言っとくわね。」
そう言うとユイさんは、リビングの方に戻っていった。

「あ、どうぞおかまいなく。」

そう言いながら、あたしは内心、焦っていた。
『ほんっとに早くしなさいよね! マナが来ちゃうじゃないのよ。』

そこへ、
「おはようございますぅ〜。」
玄関のドアが開き、脳天気な挨拶とともに、マナが入ってきた。
あーあ、来ちゃった・・・。

そしてあたしに気付くと、
「あら、アスカさん。おはよう〜。」

「おはようじゃないわよ!」
「ん?」
「チャイムも押さずに、いきなり入ってくるなんて、非常識じゃないの。」
「そうかなぁ。別に、いいんじゃないの、お友達なんだし。」
「友達だからってねぇ!・・・。」

あたしが何か言い返そうとしているところへ、シンジとレイがやってきた。
「お待たせ。 あ、マナも来てくれたんだ。」

「ほら、みなさい。
 ちゃんとチャイム鳴らさないと、誰か来てもわからないでしょ!」
「あ、シンジ。 おはよう♪」
むぅ〜。きっちり無視してくれたわね。

「アスカ。」
不意に、レイが言う。

「な、なによ。」
「おはよう。」
あたしは、こけそうになる。
こいつが、場の雰囲気を読まないのは、相変わらずね。

「おはよう!!」
結局、今朝もまた、四人で連れ立って登校することになった。



ユイさんがサルベージされて、親子で住むようになってから、シンジはすっかり朝寝坊になってしまっていた。
ユイさんに起こされるまで、起きてこないようだ。

そのことを、あたしは責めようとは思わない。

シンジと暮らしていたころは、あたしが起こされる方で、起こす役どころはシンジだったから。
ひとのことは言えないわよね。

結局、ミサトのマンションではだれかが仕切らないと、家の中のことは回っていかないということで、
その仕切り役が、昔はシンジがやっていて、今はたまたま、あたしである・・・それだけのことなのだ。

あたしの不満は、別のところにある。

『このあたしが、せっかく迎えに来てあげてるのに、どうしてさっさと出てこないのよ!
 また、マナを出し抜けなかったじゃない。』

そう。そういうことなんだけど、もちろん口に出して言えることではない。
だから、登校する道中、あたしはずっと不機嫌だった。

「ねぇ、シンジ。」
「うん?」

あたしが口を閉ざしているのをいいことに、マナの奴がシンジに話しかけている。

「シンジは、いつ頃からチェロを弾いてるの?」
「えーと、5歳のときからかな。」

「5歳から始めて、あそこまで弾けるんだ。すごいなぁ。」

「ちっともすごくなんかないよ。」
「ちっともすごくなんかないわよ!」
あたしとシンジは、ユニゾンしてしまっていた。

「・・・・・・・・・。」
さすがに格好がつかなくて、あたしが黙ると、

「わかっているよ。すごいのは、アスカだよ。」
シンジはあたしの方を見ると、微笑んで言った。
「バイオリンを初めて数週間で、ひととおり弾けるようになってしまうんだから。」

「ま、まあ、ある意味、天才かも知れないわね。」
あたしは誇らしげに、胸をそらした。

「・・・自分で言うものじゃないわ。」
ぼそっとレイが言う。

「うるさいわね。わかってるわよ!」

「アスカさん、すごいんだ・・・。」
マナが、感嘆したように言ってあたしを見つめた。
尊敬の眼差し、というやつだろうか。

「べ、別に大したことじゃないわ。」
あたしは、マナから目をそらす。
実際のところは・・・すごく恥ずかしかったのだ。

ひととおり弾けるようになってから、あたしのバイオリンは成長していない。
成長していないと、思う。
バイオリンに限らず、何事もあたしは習得するのはそこそこ早いのだが、
心のどこかでそういう自分に満足してしまい、練習に身が入らなくなる。

だからシンジのように、才能もあってしかもコツコツやるタイプには、
たぶん追いつけないだろうと思う。次のレベルに到達できないのだ。

大学は卒業できたけど、それはとある事情であたしに『意地』があったからで、
あたしが地道に努力を続けられた、数少ない例外のひとつだった。

「いいなぁ、わたしにも、そんな才能があったらなぁ。」
マナが、ぽつりとそう言った。

ちがうでしょ、とあたしは思った。
あんたの取り柄は、『がんばり屋』だということなんだから。

「わたしねぇ、ピアノの練習始めたんだ。」
だし抜けに、彼女は言う。

「小学校4年まで習ってたんだけど、久し振りにまた始めたの。
 やっぱりブランクがあると駄目ね。
 まだまだ、ひとに聞かせるレベルじゃないんだけど、
 自分で納得いくようになったら、聞いてくれる?」

「ほんと? 楽しみにしてるよ。」
シンジは、笑みを浮かべてそう言った。

「アスカさんも、お願いできる?」

「え、あたしも?」
あたしは、意外に思った。

なんで、あたしまで? だけどまあ、断る理由もなかったので、
「いいわよ。がんばりなさいね。」
と言っておく。

すると、シンジが、
「せっかくだから、綾波にも聞かせてあげてよ。」

また余計なことを、とあたしは思った。
マナは、シンジに聞いてもらいたいのであって、誰彼かまわずというわけではない筈だ。
そりゃ、あたしにも聞いてほしいとは言ってたけど、何か思惑があってのことだろう。

「そうね、綾波さんもお願いできるかしら。」
それでもマナはそう言い、レイも
「いいわ。」
と応じた。

結局、『皆でマナの練習の成果を聞かせてもらう』
そういう約束になった。



その晩__。
約束どおり、あたしはミサトと外食に出かけた。
ミサトのルノーに同乗し、美味しいと評判の、とあるファミリーレストランに行った。

ミサトはサーロインステーキを、あたしはハンバーグのセットメニューを注文した。
ミサトの奴は、運転するくせにビールなんか注文しようとするので、

「何考えてんのよ、あんたは!」
一喝してそれだけは阻止した。

やがて料理が運ばれてきて、あたしの前にはハンバーグの載った鉄皿と、スープ、サラダなどが並べられた。

あたしは、目の前のハンバーグを、まじまじと見つめた。
『どうやったら、こんなに綺麗に焼き上がるのだろう。』

あたしが作ると、どうしても形が崩れたり、真っ黒に焦げてしまったりする。
つなぎの量が間違っているのか、火加減に問題があるのか・・・。

「どうしたの、アスカ。」
ミサトが不審な顔をして、声をかけてきた。

「あなたも、ステーキにした方がよかったんじゃないの。
 別に、遠慮しなくても・・・。」

「そんなんじゃないわよ!」
あたしはそう言うと、ハンバーグにナイフを入れた。

「ちょっと、研究しているだけよ!」
フォークで突き刺して、口に運ぶ。
ジューシーな肉汁が、口いっぱいに広がる。
うーん、やっぱりあたしが作ると、こうはいかない。

「アスカ、あなた変わったわね。」
ミサトが感心したように言う。

「ん? どういうことよ。」

「料理の研究なんて、以前はしたことがなかったじゃない。
 シンジ君が知ったら、驚くわよ。」

「言うんじゃないわよ、シンジには絶対に! あたしだって、好きでやってるわけじゃないんだからね。
 だいたい、あんたが家事を放棄しなきゃ、あたしだってこんな苦労しなくて済むんだから。
 あたしが早死にしたら、ミサトのせいだからね。」

「う・・・。悪いとは思ってるわ。
 別に私は、料理は嫌いというわけじゃないのよ。
 なんだったら、明日から夕食は私が・・・。」

「作らんでいい!
 あんた、ほんとにあたしを殺す気?」

「うう・・・。そこまで言わなくても。」

「あたしは、ミサトのようになる気はないんだから。
 今のうちに、なんでもがんばって身につけなきゃね。
 それに、シンジがいない今、あたしがやるしかないのよ。」

「見上げた心意気ね。」

「でもね・・・。」
あたしは、小さくため息をつくと言った。

「こんな、生活くさい姿、シンジには見せたくないの。
 いい、ミサト。シンジには絶対に内緒よ。」

「わかったわ。」
ミサトは、微笑んで肯いた。
「さあ、食べましょ。」

「うん・・・。」
あたしは、ゆっくり味わいながら、食事を進めた。



それから一週間がたった。
マナが、ピアノの練習の成果を、一度聞いてみてほしいと言ってきた。
あたしとシンジ、レイの3人でマナの家に行くことになった。

マナの家を尋ねたのは、4月のマナの誕生日パーティ以来だ。
そこの客間にピアノが置いてあり、あたしたちはソファに腰掛けてマナの演奏を聞くことになった。

「あまり、上達していないんだけど・・・。」
マナは恥ずかしそうに言いながら、ピアノの前に座った。

「あたしたちを呼んだからには、それなりの自信ができたからじゃないの。」
あたしが言うと、

「そうじゃないの。なかなかこれ以上、上達しないものだから、
 どこが悪いのか、教えてもらいたくて。」
 
「ふうん。まあ、いいわ。やってみなさいよ。」

「ところでマナ、なんていう曲なの。」
シンジが尋ねた。
そういえば、曲名をまだ聞いていなかった。

「み、身代わりの侵入・・・という曲なんだけど。」

なにを緊張してるのよ、と思いながら、あたしはレイに尋ねた。
「聞いたことないわね。レイ、あんた知ってる?」

「・・・知らない。」
にべもない。聞くだけバカだったわ。

「まあ、一度聞いてみようよ。」
シンジがそう言うと、

「でも、ここにいるみんなが、よく知っている曲よ。」
意を決して、マナはピアノに向い、弾き始めた。

変わった曲だった。
主旋律がない、和音による伴奏だけのような曲。

けっこう上手じゃない。
でも、どこかで聞いた曲・・・。

そこであたしは、あっと気がついた。
これって、『タナトス』じゃない!

間違いない、タナトスにピアノの伴奏を加えると、こうなる。
「あんた・・・。」
あたしは、つぶやきかけて、口をつぐんだ。

そうか、マナはあたしとシンジの、同じ土俵があがろうとしているんだ。
このあいだ、真剣にタナトスを聞いていたのは、あたしたちの演奏を脳裏に刻み付けるためだったんだ。

あたしは、シンジの方をみた。
シンジはあたしを振り向きもせず、黙ってマナの演奏を真剣に見つめている。
レイを見ると、彼女は無表情だったが、それでもじっと聞き入っていた。

マナのピアノは、そこそこのレベルだった。
何の違和感もなく、チェロとバイオリンの合奏に入り込めると感じた。

あたしは、動揺していた。
なんのために、マナはこれをあたしたちに聞かせるのだろう。

意地悪した、あたしに対してのリベンジ?
そうではないだろう。少なくとも、そういう子ではない。

単純に、あたしやシンジと同じ世界に入りたかったのだろう。
いっしょに演奏する仲間として、認めてもらいたいのだろう。

その気持ちは、わかる。
だけど、それを認めたら、あたしは・・・。

いつしか、マナの演奏は終っていた。
だれも、言葉を発しない。 一瞬の静寂があった。

「ピアノ、上手ね。」
真っ先に口を開いたのは、レイだった。

こわばっていたようにみえた、マナの表情がふっと柔らかくなった。
安堵の笑みが浮かぶ。
「ありがとう。」

「すごいよ、マナ!!」
われに返ったように、シンジが大声で言った。

「タナトスだよね、これ!
 ぼくたちの演奏に合わせられるように、練習してくれていたんだね。」

「え、ええ・・・。どうだったかしら。」
認めてもらえるかどうか、すごく不安そうにマナは尋ねた。
今の今まで、曲の内容をマナが秘密にしていたのは、それが理由だったのだろう。

「十分、合格よ。」
評価は、あたしが真っ先に下した。
他の2人がそれを言い、あたしがそれに追随したとしたら、
とてもみじめな気持ちになると思ったからだった。

「よくがんばったわね。
 いっしょにタナトスを演奏したければ、いつでも言いなさいね。」
そう言うと、あたしは3人に背を向けた。

「アスカ?」
「アスカさん・・・。」

シンジとマナが何か言っているが、あたしは黙って部屋を出た。
そのまま玄関に向かい、マナの家を出る。



あたしはひとり、残暑で熱気が立ち昇る道を歩いていた。
また、あたしは逃げているのか・・・ぼんやりと、そう思った。

何も聞こえない。
誰かが追ってくる気配もない。
ただ単に、あたしが気付かなかっただけかも知れない。

あたしは、コンビニに立ち寄って、紙パック入りのジュースを買った。
それを持って、近くの公園に行く。

ブランコに腰掛け、ストローを紙パックに突き刺してジュースを飲む。

「負けた・・・。」
あたしは、ぽつりとそうつぶやいた。

また、マナに負けちゃった。
どうしてあいつは、ああも一生懸命なんだろう。

「あたしもあんなふうに、何事にも一生懸命になれたらなぁ。」

それが無理なのは、わかっている。
だいたい、あたしは地べたを這いつくばって努力をするということが、嫌いなのだ。
自分で言うのもなんだが、才能だけでここまで来たのだ。
それは、これからも変わらないだろう。

でも、シンジはどちらかというと努力家だし、自分に近いマナみたいなタイプがいいんだろうな。

「はぁ〜あ・・・。」
ジュースを飲み終わると、あたしは大きく息をついて紙パックを持ったまま、頭を垂れた。

不意に、誰かがあたしの両肩に触れた。そのまま、首筋を揉むようにする。
「ちょっ・・・、何すんのよ!」

誰なのかは、すぐに判った。シンジだった。
「随分、こってるね。アスカ。」

「あんた、つけてきたの? 趣味が悪いわよ!」
「ごめん・・・。」
それでもあたしは、肩を揉まれることに抵抗はしなかった。
されるがままにする。
気持ちいい・・・。肩の凝りがほぐれていく。

「アスカが、一生懸命にやっていることを、ぼくは知っているよ。」
「はぁ? 何言ってんのよ、あんた。」

「一生懸命に料理を考えたり、部屋の掃除をしたりしているよね。 大変だと思うよ。」
「ミサトの奴、しゃべったのね!」

「ちっとも恥ずかしいことじゃないよ。」
「わかってるわ。でも、あたしはいやなの。」
「どうして?」
「・・・がらじゃないからよ!」

「そうかな。」
「そうよ!」

「まあ、どう思おうと、それはアスカの自由だけどね。
 ミサトさんは、ああいう人だし、ほんとにアスカは大変だと思うよ。」

「たしかに、あんたの苦労がよくわかったわ。
 ところであんた、マナについててあげなくて、いいの?」

「別にいいんじゃない?
 綾波と、『女の子どうしの大事な話』があると言ってたし。」

「そう言われてあんた、ここに来たんだ。」
「うん・・・。」
これだもんねぇ。
やってくれるわね、マナ。

ふと、あたしは気づいた。
マナがあたしの土俵にあがってくるというなら、
あたしは、シンジと同じ土俵にあがればいいのよ。 

どうせ、シンジには知られてしまったんだし。

「ねぇ、シンジ。」
「ん? なに。」

「今度、美味しいハンバーグの作り方、教えなさいよね。」
「うん、いいよ。」

「あ、それから。」
「なに?」

「やめていいとは、言ってないわよ。」
「え?」
「肩揉み・・・。」
「あ、ごめん。」

シンジは、再びあたしの肩を揉み始めた。
たぶん、シンジの顔は赤くなっているだろう。

あたしも、自分の頬と耳が熱くなるのを自覚していた。
耳が赤くなっていることに、シンジは気づいているだろうか。

でも、今はもう少し、シンジに甘えていようと思った。
多少はこれで、マナに対して巻き返す余地ができたのかな?
あたしは、少しだけ期待してみるのだった。

                                            つづく