イヴとして、選ばれし者
 


「だけど、あんたとだけは、絶対に、死んでもイヤ!」
あたしは、精一杯の拒絶を込めて言い放った。

だれが、あんたなんかと!
どうしてシンジなんかに、やさしくしなければいけないのよ!

あたしが、救いを求めていたときに、手を差し伸べてもくれなかったくせに。
抱きしめても、くれなかったくせに。

それを今さら、「ぼくにやさしくしてよ。」ですって?
あんたはいつ、あたしにやさしくしてくれたって言うのよ。

「だって、アスカはなんにも言わないんだもの。」
反論する、シンジの声。

それぐらい、察しなさいよ。
あたしが何故、何度も加持さんに電話しようとしていたのか、わかる?
わかるでしょ、『ここ』では隠し事なんか、できないんだから。

本当は、一番身近なあんたに、慰めてもらいたかった。
うわべの言葉ではなく_。
黙って、抱きしめてほしかった。
エヴァに乗れなくなって、居場所のなくなったあたしに、拠り所と温もりを、
与えてほしかった…。

それを、何よ!
「加持さんは、もういないんだってば!」
ですって?

あんたから、その言葉を、聞きたくはなかった。
最後の救いを取り上げるその言葉を、実は本当に慰めてほしかった、そのあんたから
聞くなんて…。

だから、あたしは壊れた。
そう、あんたのせいよ。
あたしの居場所を、あんたが全て否定したんだから。




あたしが復活したのは、ママのおかげだった。
エヴァの中で…そう、弐号機の中で、『ママの魂』と再会できたからだった。
あたしは、ひとりぼっちじゃなかったんだ。
弐号機を操縦することで、ずーっとママと一緒にいたんだ。

でも、そのママは、もういない…。
弐号機ごと、エヴァシリーズに喰われてしまったから。
あたしはまた、ひとりぼっちになってしまった…。




なのに、あたしは今、『ここ』にいる。
『サードインパクト』? 『補完計画の発動』?
なによ、それ。
あたしの周りで、いろんな人の思念が飛び交っている。

たとえばこれは、冬月副指令の思念_。
『知恵の実と、生命の実を得て、シンジ君は神に等しき存在となった。
 我々は、彼に全てを委ねることになろう。
 ユイ君と再会できて、わたしにはもう思い残すことはない。
 このまま欠けた心を繋ぎ合わせ、融け合って生きるもよし。
 あらたなヒトの姿を得て、生きるもよし…。』

冗談じゃないわ。
あたしは、あたしよ。

あたしは、他人と融合したいとは思わない。
別人となって、新たな人生を歩みたいとも思わない。
たとえ、エヴァシリーズにむさぼり喰われる苦痛が永遠に続こうとも、
あたしは、あたしのままでいたいのよ!

そう、あたしは、あたしのままでいたい!!




不意に、周りが静かになった。
あれだけ、耳元で鳴り響いていた他人のつぶやき、様々なヒトの想いが消えた。
闇の中に、あたしの意識だけが浮かんでいる。

…あたしの願いが、通じたのだろうか。

これが、あたしの望んだもの?
たしかに、さきほどまで曖昧であった、あたしの意識の輪郭ははっきりとしている。

でも、ひとりだ。
あたしはまた、ひとりぼっちになってしまった。
それに、肉体がない。
一体なんなのよ、この『世界』は。

手を伸ばそうとしても、触れるものがない。
もちろん、みずからの身体に触れることもできない。

そう、ここにあるのは魂だけ。
それでも、移動だけはできることにあたしは気づいた。

あたしは、ふらふらとその場を彷徨い出ることにした。




いきなり、視界が開けた。
ここは…オーバー・ザ・レインボーじゃない!

黄色いワンピースを着た少女が、腰に手をあてて、自信満々という感じで
突っ立っている。
そして、その前にはシンジを初めとする、3バカがいた。

あれは、あたし…。
じゃあ、それを見ているあたしは、一体何?
だれかが、(もしくは何かが、)あたしに過去を見せようとしているのか。

ワンピースの少女は、ずいっと顔を突き出して、シンジを見た。
そして、言う。
「あんたが、サードチルドレン? なんだか、冴えないわねぇ。」

そうだった、それがシンジの第一印象だった。
それなりに顔は整ってはいたが、あたしよりも2、3センチ背は低く、
なんだか頼りない気がしたのだった。


そんなシンジを、少し見直す様になったのはいつ頃からだろうか。


あたしがそう思うと、立て続けに場面が変わった。

使徒への同時加重攻撃を成功させるための、ユニゾンの特訓から逃げ出したあたしを、
レオタード姿のまま、コンビニまで追ってきてくれたシンジ。

『これで終わりなの?』
あきらめたまま弐号機ごと、浅間山の溶岩に沈みこもうとしているあたしを、
ノーマル装備のままの初号機で溶岩に飛び込み、引き上げてくれたシンジ。

そう、どんくさい割りには、妙にやさしい奴だった。
それは、ファーストに対してもそうなのだろうけど。
でも、あたしは、他人に賞賛されることはあっても、そんなふうに接してもらったことは
初めてだった。

正直、あたしは嬉しかった。

だから、力を合わせて使徒と戦うことで、連帯感のようなものを感じた時期もあった。
蜘蛛の様な使徒とか、空から落ちてくる使徒とか…。
ファーストとはそりが合わなかったが、作戦に支障が出るようなことはなかった。
あの頃は、毎日が充実していたと思う。


だが、それは長くは続かなかった。
使徒と、そしてシンジがどんどん強くなっていき、あたしは置き去りにされた。
あたしは使徒にはまったく歯が立たなくなり、それをシンジがことごとく倒していった。

そしてとうとう、その日が来た。
衛星軌道上の使徒に、あたしは心の傷を剥き出しにされ、廃人になる一歩手前で、
あろうことか、あのファーストに助けられた。

そのときのショックで、あたしはエヴァに乗れなくなった。
シンジは、そんなあたしに、とくに声をかけてくれることはなかった。
そう言えば、あの使徒戦の前に駅のフォームで、ファーストと楽しそうに話すシンジの姿
を見たことがある。

『どうせ、あたしは負けたわよ。』
シンクロ率でも、戦績でも、すでにシンジに完敗していたあたしは、そう思った。
シンジの心が、ファーストに傾いていると知っても、どうすることもできなかった。

加持さんとは、この頃から連絡がとれなくなった。
弱音を吐ける相手は、ヒカリだけだったが、彼女はチルドレンではない。
慰めてはくれたが、あたしの苦しみは癒されることはなかった。

加持さん…加持さんだけよ、あたしが縋ることができるのは。
だから、どうしても、加持さんに話を聞いてもらいたかった。
でも、シンジのあの一言が、あたしから最後の希望を奪った。

『だから、加持さんは、もういないんだってば!』
『うそ…。』

全てが、崩れていった。




過去のあたしの姿を見せていた映像も、そこでふっと消えた。
あたしは、さめざめと涙を流していた。

終わった…。
もう、後戻りはできない。
あたしは、全てを失ったんだ。

ママも、チルドレンとしての矜持も、恋人になれたかも知れない相手も、
そして、兄のように、父のように慕ってきた人も…。

そして、肉体すらも。
肉体がないのに、涙が流せることが、なんだか可笑しかった。
これは、ただ、あたしが『泣いている』と意識しているだけなんだろうけど。

これが、『補完』という奴なの?
ただの、死後の世界じゃない。
…あまりにも孤独で、空虚だった。

孤独なのは、あたしが他人と融け合うことを拒絶したからだろうか。
でも、それを受け入れていたら、「あたし」というものがなくなってしまう。
あんなのは、『補完』じゃないと思う。
融け合う心が、「あたし」という独自のものを壊していくのだもの。

では、あたしはどうしたらいいの?
このまま永遠に、あたしという輪郭を守りながら、孤独に耐えていけるとは思えなかった。




俯いていたあたしが、ふと顔をあげた(と、意識した)とき、周囲の様子がまた変わって
いた。

月が、見える。
夕闇の様に、ほんのりと赤みを帯びた暗い空間だった。

その中央に、白く浮き上がった二つの裸体。

シンジと…ファーストだった。
シンジが仰向けに横たわり、その上にファーストが覆いかぶさっていた。

『うそ!』
なんてものを、見せるのよ。
プラトニックではなくて、そんな関係だったの、あんたたちは。

「綾波…。ここは…?」
シンジが、つぶやく様に言うのが聞こえた。

「ここはLCLの海。ATフィールドを失った、自分の形を失った世界。
 どこまでが自分で、どこからが他人かわからない、曖昧な世界。」
ファーストが答えた。

「ぼくは、死んだの?」

「いいえ、全てがひとつになっていいるだけ。
 …これがあなたの望んだ世界、そのものよ。」

「でも、これは違う。…違うと思う。」

『そうよ!』
と、あたしは思った。

あたしだって、そんなものは望んじゃいない。
ヒトは、ヒトとして生きてこそ、しあわせにもなれば不幸にもなる。
たとえ今、不幸のどん底にあったって、「自分」がいればまた、しあわせになる
チャンスがあるんだもの。
ここには、しあわせになれるという希望がない…だって、「自分」がいないもの。

「他人の存在を今一度望めば、再び、心の壁が全ての人々を引き離すわ。
 また、他人の恐怖が始まるのよ。」

「いいんだ。ありがとう。」
そういうとシンジは、ファーストの腕をとり、融け込んでいた自分の胸からそっと
引き抜いた。
二人の身体が、離れていく。

『え?』
あたしは驚いた。

『で、でもシンジ。あんた、それでいいの。
 あんた、それを望んでいたのじゃなかったの。』

交合していたかに見えた、シンジとファーストの身体は完全に離れた。
同時に、世界は急速に赤みを失い、二人の姿は生命を思わせる緑の光に包まれた。

「あそこでは、いやなことしかなかった様な気がする。」
ファーストに膝枕してもらいながら、シンジはそうつぶやいた。

「だから、きっと、逃げ出してもよかったんだ。
 でも、逃げたところで、いいことは何もなかった。」

つぶやきながら、シンジは指先に絡まった、十字架のペンダントを見ている。
ミサトのペンダントだ、あたしは直感的にそう思った。
ミサトはシンジに、何かを託したのだろう。

「だって、僕がいないもの。…誰もいないのと、同じだもの。」

ファーストは、そんなシンジをやさしそうな顔をして、微笑んで見ている。
どこか、淋しそうな笑みだった。

『シンジもあたしと、同じことを感じていたんだ。』
あたしは、そう思った。

『さようなら、あんたたち。 
 あんたたちならこれから先も、きっとうまくやっていけるわ。
 何処かの世界で、アダムとイヴになるんでしょうね。』

心の中でそうつぶやくと、あたしはその場を立ち去ることにした。
そのとき、ファーストは微笑んだまま、あたしをちらりと見たような気がしたが、
気のせいだったと思う。




さて、あたしはこれから、どうすればいいんだろう。
さっき、冬月副司令の意識が、シンジは神に等しい存在になった、と言っていた。
もし、そのとおりだとしたら、全てがひとつになった世界を拒んだシンジは、
ヒトがヒトのままである、新たな世界を造り上げるのだろう。

そのとき、あたしたちは元の姿に戻れるのだろうか。
それとも新しく生まれ変わって、全く別の人生を歩むのだろうか。
なんだか、後の方のような気がする。

でもまあ、それは仕方ないか、とも思った。 
あたしは信心深い方ではないけれども、これは人類に与えられた罰みたいなものかも
知れないと思ったから。
一度リセットして、やり直しさせることを神様が決めたのなら、それを受け入れるしか
ないのだろう。

たぶん今までのあたしは、エヴァシリーズにやられてしまったから、肉体がないのだろう。
だとすると…。

唐突にあたしは気付いた。
そうだ、ここは天国なのか。
そうなると、神様はシンジ? 
いや、あの様子だと、無理やり神様の代理をやらされているようだ。
そう思うと、急に可笑しさが込み上げてきた。

ひどい天国もあったものだ。
ふふ、ふふふ…。
あはは、あはははははは!

可笑しくて、涙が出てきた。
笑いが、止まらない。

そして、そして…急に目の前が、暗くなった。




あたしは、気を失っていた。

暖かい_。
うす靄がかかった様な、白い光に包まれているのがわかる。
でも、あたしは目を開くことができなかった。

誰かが、あたしの身体に触れている。
慈しむ様な、やさしい手触り。
そっとあたしの、右腕がとられる。

ずきり、と手の平から肘にかけて痛んだが、暖かい手で触れられているうちに、
ずいぶんと痛みが引いていく。

柔らかいものが、あたしの手に巻かれた。ガーゼのような、軽い肌ざわり。
包帯だろうか…誰かが、あたしの手当てをしてくれているのだ。

頭と顔にも、包帯が巻かれた。
あたしは相変わらず、目を開けることができないでいる。

そのあたしの肩を抱きながら、聞き覚えのある声が耳元で囁くのが聞こえた。

『……くんのこと、お願いね。』




次に気づいたとき、あたしは水うち際で仰向けになっていた。
いつの間にか、夜になっていた。
やけに明るい月夜だった。

天空に、満月から少し経った、いびつな形の月が浮かんでいる。
その月の表面を汚すように、天の川の様な紅い帯が夜空を掃いていた。

戻ってきたんだ、あたしは。
身体のあちこちが痛むことから、これが現実であるとわかる。
だれかが、手当てをしてくれていた。

でも、この有様はどうだろう。
視線を動かしただけで、あたり一面が荒廃していることがわかる。
そう、この世界は一度、滅んだのだ。

傍らで、身じろぎする気配を感じた。
見るとシンジが、『信じられない』といった顔で、天を見上げていた。
まさか、世界がここまで荒んでいるとは、シンジ自身が思っていなかったのだろう。

同じ様に仰向けになっているシンジは、あたしより背が高いようだ。
いつの間にか、身長でもあたしを抜いていたんだ。

『シンジ…、あたしを選んでくれたんだ…。』

あたしは、嬉しかった。
たとえ、世界がどうであろうと、イヴとしてあたしを選んでくれたことが。

シンジが、あたしの方を見た。
なぜだか、悲しそうな顔だった。

何をするのかと思ったら、あたしに向って両手を伸ばしてきた。
その両手が、あたしの首にかかる。
あたしの、首を絞めようとしているのだった。

あたしには、わかった。
こんな世界では、生きてはいけない、そうシンジは思ったのだと。
だから、あたしを殺して、自分も死のうと考えたのだろう。

だが、シンジの両手には、ろくに力が入っていなかった。

『そんなの、悲しすぎるじゃない。』
あたしは、包帯を巻かれた右手を伸ばし、シンジの頬をそっと撫でた。
何度も、何度も撫でた。

「うっ…。」
シンジは呻いた。

「くっ、くくくっ…。」
あたしの頬に、暖かいものがぽたぽたと落ちた。

『ありがとう、シンジ。
 いいのよ、あんたにだったら、殺されたって…。
 シンジが、あたしを選んでくれただけで、あたしは嬉しいのだから。』

そう思いながら、あたしは別の言葉を口にしていた。

「あんたに殺されるなんて、まっぴらよ!」


                                完