二 人 の 想 い
 
-  Come back! -
 

「ねぇシンジ。」
唐突に、アスカは言った。

「キスしよっか。」

「どうして。」
突然の提案に、シンジは唖然として尋ねた。

「退屈だからよ。」

ミサトは、友人の結婚式に呼ばれていて、今夜は帰りが遅くなるという。
今、シンジとアスカはマンションに二人きりで、手持ち無沙汰の状態だった。

「退屈だからって、そんな…。」
「お母さんの命日に女の子とキスするのが、いやなの? 
 天国から見てるかも知れないって。」
「別に。」

そう、今日はシンジの母、ユイの命日だった。
数年ぶりにその墓前に立った。
そして、短い間ではあったが、父ゲンドウと話ができた。
シンジにとってみれば少しだけ、自信を取り戻すことができた一日だった。

逆にアスカにとってみれば、ストレスのたまる一日だった。
ミサトの友人とやらの結婚式は、とうに終わっている筈だ。
それなのに、ミサトがまだ帰ってこないというのは、たぶん加持と一緒にいるからだろう。
リツコも一緒だというから、アスカが気にするようなことはないだろうが、
それでも、面白くないことには変わりはなかった。

その上、今日はヒカリに頼まれて、好きでもない年上の男の子とデートもした。
あまりに退屈な相手だったので、途中ですっぽかして帰ってきてしまったが。
『行くんじゃなかった。』
せっかくの休みが、無駄に終わってしまっていた。

「それとも、怖い?」
挑発するように、アスカはシンジに言う。
せめてシンジを誘惑することで、多少なりとも鬱憤を晴らしたかった。

「怖かないよ! キスくらい。」
今日初めて、シンジは父ゲンドウと向かい合うことができた。
対等に話をすることができた。
その自信が、シンジにアスカの前で虚勢を張らせることになった。

「じゃあ、いくわよ。」
「うん…。」
  ・
  ・
  ・
「鼻息がこそばゆいから、息しないで。」
「!」
突然、シンジはアスカに鼻をつままれた。そして…。
  ・
  ・
  ・
「ぷはぁぁぁぁぁ…。」
「うぇぇ! やっぱり、暇つぶしにやるもんじゃないわ!」
洗面所に駆け込み、猛烈なうがいを始めるアスカ。
シンジは、窒息を免れてほっとすると同時に、
アスカの余りな態度に、半ばあきれ果てていた。




なぜかは知らないが、それ以後のアスカに元気がない。

あれからすぐ、加持が泥酔したミサトをつれて来た。
そのことに関係があるのかも知れないと、シンジは思う。

ミサトを部屋で寝かせたあと、
「ねぇ、加持さんも泊まっていってよ。」
と言っていたあたりまでは、アスカの機嫌はとてもよかった。

「はは、こんな格好(礼服)で出勤したら、笑われてしまうよ。」
「そんなことないって。」

そう言って、アスカは加持の腕にすがりついた。
急に元気がなくなったのは、その直後からである。

加持の体からミサトの移り香を感じ取ったからだが、シンジはそのことを知らない。

「どうしたの? 元気ないね。」
と言うシンジに対して、

「あんたなんかとキスしたからよ!」
と、アスカはとりつくしまもなかった。

「なんだよ、自分からさそってきたくせに…。」
シンジはそうつぶやきはしたものの、気にはなった。




それから数日の間、アスカはずっと不機嫌だった。
『そんなに、ぼくのことが嫌いなのかな。』
そう思うシンジだったが、アスカは必要最低限なこと以外は、口も聞いてくれない。

『だったら気まぐれでキスしようなんて、言わなければいいのに。』
自己嫌悪で落ち込んでいるとするなら、そのとばっちりを受けた自分はいい迷惑である。

しかし、本当に自分を嫌っているなら、そもそもキスしようなどとは言わないはずだ。
本当のところは、好きなのか、嫌いなのか…
また、どうして突然キスしようなどという気になったのか…

『さっぱりわかんないよ!』
シンジは、ぼやく。
下手をすると、自分まで落ち込んでしまいそうだった。




そんなおり、シンクロテストの召集がかかった。
このところ好調だったシンジは、その日確かな手ごたえを感じた。

「ミサトさん、今のテストの結果、どうでした?」
テスト終了直後、シンジはモニターを通してたずねた。

「はぁ〜い、ユー・アー・ナンバーワーン!!」
「やった!」
手放しで喜ぶシンジ。

ところが、
「あら、よろしかったわねぇ。」
悪意に満ちた祝福の言葉を聞いて、シンジは凍りついた。

別のモニタを見ると、アスカが頬を引きつらせて微笑んでいた。

「さすがに、殿方が本気を出すと違うわねぇ。
 ええ、ええ、あーっさり抜かれちゃいましたわ。
 これからは、最前線は無敵のシンジ様にお願いするとして、
 あたしたちか弱き乙女たちは、後衛に甘んじさせてもらうことにするわね!」

そう言い捨てると、アスカはモニターの電源を切ってしまった。




「綾波!」
着替えた後、ネルフのエスカレータで、シンジはレイの姿を見かけて声をかけた。
黙ったまま振り返るレイに、追いついて横に並ぶ。

「惣流さんといっしょに帰ったんじゃなかったの。」
尋ねるレイに、

「知らないよ。なんだかこのところ、すごく機嫌が悪くてさ。
 いっしょに帰ろうと言ったんだけど、綾波と帰ればいいっていうし。」
シンジはぼやくようにして言った。

「妬いているのよ。最近、碇君の調子がすごくいいみたいだから。」
「シンクロテストのことばかりじゃ、ないんだ。この間も…。」
「なに?」
「ああ、いや、なんでもないんだ。」

『キスしてから急に冷たくなったなんて、綾波の前で言えるわけないよな。』

「それより、綾波。今日、これから時間ある?」
「別に予定はないわ。」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれないかな。」
「…いいわ。」




「あーあ、あのバカシンジにシンクロ率は抜かれちゃうし、
 加持さんとはちっとも連絡がとれないし…
 面白くないなぁ。」
アスカは、日の傾いた道を、駅から自宅に向かってぶらぶらと歩いていた。

あの日、加持からミサトの香水の移り香を感じたとき、加持はミサトのものだと
思い知らされた。
それまで、頭の中ではわかっていたが、それが現実であると改めて実感した。
シンジを代替品としようとしたことにも、自己嫌悪を抱いた。
ずっと気分が悪かった。

今日はさらに、あのシンジにとうとう、シンクロ率を抜かれてしまった。
自分が心の拠り所としていた、最高のエヴァのパイロットというポジションまで、
危うくなってきた。

もう、ミサトのことはどうでもよかった。
加持に愚痴を聞いてもらい、思い切り甘えたかった。
だから、加持に携帯で連絡をとろうと何度もしたが、結局繋がらなかった。

気分を切り替えることは、自分で解決するしかなかった。

いつもなら、シンクロテストが終わった後は、駅からはバスに乗ることにしている。
だが、今日はすぐに帰る気にはならなかった。
早く帰っても、シンジとまた顔を合わせて気分がむしゃくしゃするだけだからだ。

いくぶん気温が下がって過ごしよくなった夕暮れ時の街中を、気に入った店の
ショウウィンドウを覗きながら、アスカはゆっくりと歩いた。

「そうだ、今度できたという、パーラーに行ってみよう!」
最近できたという、わりと評判のいい店が近くにあることを思い出した。

「ほんとはヒカリと行きたかったけれど、今から呼び出すのもねぇ。」
そんなことをつぶやきながら、目的の店の近くまで来た。

「あ、あれ…。」
突然、アスカは足を止めた。

「シンジと…ファーストじゃない!」
パーラーの窓側の席に座り、シンジが楽しそうに話しかけているのは、
見紛うはずのない蒼銀の髪の少女、綾波レイだった。

「シンジの奴…。」
何か理不尽なものを感じ、アスカは両手のこぶしを握りしめるのだった。




そして、その翌日__。
使徒が、来た。

「どーなってんの、富士の電波観測所は!」
「探知していません。直上に、いきなり現われました。」
第3新東京の上空に、白黒の縞模様の球体が浮かんでいた。

出撃命令の下ったシンジたちは、それぞれエヴァに搭乗し、指示を待つ。

「市街地外上空に誘導を行う。先行する一機を、残りが援護。」
それが、ミサトが下した決断だった。

「はーい、先鋒は、ナンバーワンのシンジ君がいいと思いまーす。」
アスカは厭味たっぷりにシンジの先鋒を薦める。

「なんだよ、その言い方は! いいよ、お手本、見せてやるよ。」
シンジは挑発に乗り、二機に先行して使徒との間合いを詰めることにした。

「ここで、足止めでもしておくか。」
小手調べの意味もかねて、エヴァ専用拳銃を使徒に向け、二、三発撃ってみた。

そのときだった。

「パターン青! 使徒出現です!!」
青葉の緊迫した声が響いた。

「使徒? どこに。」
ミサトはたずねる。
先ほどから使徒は、第3新東京の上空に浮かんでいる。
もっとも、パターンは「オレンジ」のままであったが。

「初号機の足元です!」
青葉の回答とともに、シンジの叫び声が聞こえた。

「何だよ、これ。おかしいよ!」
黒い影に飲み込まれていく初号機。

「バカ、何やってんのよ!」
駆け寄ろうとするアスカの目の前で、あっという間にシンジの初号機は、
使徒の本体である黒い影に飲み込まれて消えてしまった。

「碇君!」
レイは上空の縞模様の球体に向かって発砲するが、球体は忽然と消えてしまう。
そして次の瞬間、今度は弐号機の足元に黒い影が現れた。

「いやぁん!」
アスカは、手近なビルによじ登る。
そのビルも、じわじわと使徒に飲み込まれていく。
なんとか、ビルが沈むよりも早くその頂上に到達し、別のビルにジャンプすることによって、
アスカの弐号機は難を逃れた。

『アスカ、レイ、撤退して!」
ミサトの指示に、
「待って。まだ、碇君と初号機が!」
レイは、その場を動こうとしなかった。

「ファースト、あんた…。」
アスカは、レイの意外な一面を見たような気がした。

「命令よ、下がりなさい!」
ミサトの強い口調に、レイはしぶしぶ従った。
そして、アスカとレイは、作戦が練り直されるまで待機することとなった。




「はっ! とんだお笑い種ね。」
夕闇が迫る中、十分離れたビルの屋上から使徒…縞模様の球体を眺めながら、
アスカは毒づいた.

「たまたま、シンクロでトップになったからっていい気になっちゃってさ。
 独断専行して、それで使徒に取り込まれるなんて、世話ないわね!」
 
そういうアスカに、レイはいつになく険しい表情で、無言のまま詰め寄る。

「な、なによ!」
少しばかり、アスカはたじろぐ。

「あなたは、他人にほめられるために、エヴァに乗ってるの?」

「違うわ。あたしは、自分で自分をほめてあげるために、エヴァに乗ってんのよ!
 司令に気に入られようとか、父親にほめてもらおうとかしている、
 あんたやシンジなんかとは違うわ!」

「そう?」
「そ、そうよ!」
__もう! なんでこんなやつの前でドモっちゃうのよ。__

「おやめなさい、あんたたち。」
ミサトが割って入った。

「そう、たしかに独断専行だったわね。
 だから、無事に帰ってきたときには、叱ってあげなくちゃ…。」
ミサトは使徒を見上げながら、誰に言うともなくつぶやいていた。




それから間もなく、作戦が伝えられた。

シンジの生命維持が限界に達する直前に、ありったけのN2爆雷を使徒に向かって投下し、
同時に1000分の1秒だけ零号機と弐号機のATフィールドで、初号機が捉えられている
ディラックの海に干渉するというものだった。

うまくいけば、初号機はディラックの海から解放されて回収できるかも知れない。
それでも、パイロットであるシンジの生存は保障できないということであった。

説明を受けた面々は、重苦しい表情をたたえたまま、それぞれの持ち場に戻るべく、
ブリーフィングルームを後にする。
エヴァのケイジへと向かうエレベータの中で、レイとアスカは二人きりになった。

「ファースト…。」
長い沈黙に耐えかねるかのように、アスカはレイに話しかけた。

「なに?」

応えるレイにアスカは、
「あんた、昨日の夕方、シンジと寄り道していたでしょ。」
「ええ…。」

「あんたの方が、誘ったの。」
「いいえ、碇君が。」

「へえ、そうなんだ。あのシンジがねぇ…。
 まぁ、あんたが誘うことの方が、よっぽど現実味はないけど。」

「なにが、言いたいの。」
「あんた、シンジのこと、好きなんでしょ。」

「なにを言うの。」
「隠したってムダよ。
 撤退命令が出たあと、逆らってみせたのがその証拠よ。」

「そう…。 そうかも、知れない。
 でも、今はそんなことを言っている場合ではないわ。」

「今だからこそ、はっきりさせておかなきゃいけないのよ。
 シンジはもう、戻ってこないかも知れない。
 うまく初号機を取り戻したとしても、シンジにはもう会えないかも知れない。
 だけど、もし無事に戻ってきたとき、あたしはシンジともう一度…。」

いろんなことをやり直したいと思っているのよ、とアスカは言いたかった。
そのためには、レイの気持ちも確認しておきたいと、言いたかった。

だが、言えなかった。
レイの瞳から、一滴の涙が、伝い落ちてきているのに気づいたからだった。

「…どうして、そういうことを言うの。」
レイは静かにたずねた。
「碇君は、死んだりしない。必ず、戻ってくるわ。」

「ファースト、あんた…。」
言いかけて、アスカは一瞬くちごもった。
「泣いているの?」

「泣いてる…わたしが?」
レイは頬を拭うと、濡れている手を不思議そうに見た。

「これは、何?」

アスカは、ふぅっとため息をついた。

「もういい、わかったわ。」

「あなたは、わかっていない。」
「何がよ。」

「碇君は、必ず助かる。あきらめては、だめ。」
「…そうね。」

そう言いながら、アスカはかなわないな、と思った。

自分には、レイほど熱い想いがないのかも知れない、そうアスカは思った。
なにかというと、自分はすぐにイライラしたり、かっとなったりするくせに、
いざとなったら仲間を見殺しにしかねない、冷酷な性格のもうひとりの自分が
いるのではないか、戦うマシンと化してしまったりするのではないか、
そういう気がした。

レイは逆に、いつも冷静で感情の起伏が乏しいように見えるが、
意外と激情家なのかも知れない。
先ほどの戦闘中も、後先を考えずにシンジの身を案じていたし、
アスカがシンジの独断専行を責めたときには、はっきりと怒りの表情を見せて
詰め寄ってきたりしていた。

それは、その対象がシンジだからこそ、そうなのかも知れない。
いや、たぶんそうなのであろう。
だとすると、その想いの強さにおいて、自分はレイにはかなわない、
アスカはそう思うのだった。

『ファースト、シンジはあんたのものよ。』
泣きたいような、笑いたいような気分になって、アスカは心の中でつぶやいた。
『無事に帰ってくると、いいわね。』




レイは零号機に搭乗し、上空に浮かぶ使徒を見上げながら、そのときを待っていた。
まもなく、N2爆雷を満載した航空機の編隊がやってくる。
使徒への一斉攻撃が始まると同時に、自分たちはATフィールドを展開して
ディラックの海に干渉する。
作戦としては、それがすべてだった。

だが、レイはそれだけで済ますつもりはなかった。
ATフィールドを展開すると同時に、みずからディラックの海にダイブしようと考えていた。

「碇君…。」
なんとしても、シンジの初号機を見つけ、虚数空間から帰還させるのだ。
逆にそのことで、自分が虚数空間に取り残されてもかまわない。

自分には、かわりがいる。
しかし、『碇シンジ』は、この世にひとりしかいないのだ。
それを救うためには、全てを投げ出してもいいと思っていた。

やがて、爆音とともに航空機の群れがその姿を現した。
いよいよ、である。
チャンスは一度しかない。
レイは、大きく深呼吸をし、覚悟を決めた。

そのときである。
縞模様をしていた上空の球体が、突如として黒一色に塗りつぶされた。
そして、その表面に無数の赤い亀裂が走る。

「初号機が…。」
レイのつぶやきと同時に、球体の表面を断ち割るようにして、
エヴァンゲリオンの手が突き出していた。

「碇君が、帰ってくる。」
レイの言葉を裏付けるように、血しぶきとともに崩壊していく黒い球体。
やがてそれが爆ぜ割れ、血の雨とともに初号機は地上に降り立った。

『ヴォォォォォォォォォォ…。』
エヴァが、吼える。

『ヴォォォォォォォォォォ…。』
早朝の空に、その雄たけびは何度も響き渡った。

「よかった…。
 おかえりなさい、碇君。」
レイは、ほっとした表情でそれを見ていた。



一方、アスカはその光景を見て戦慄していた。
「あたし…、こんなのに乗ってるの?」



「シンジ君!」
エントリープラグのハッチを、こじ開けるのももどかしげにして、
ミサトは、その中でぐったりとしているシンジを抱き寄せた。

『叱ってあげる』余裕は、ミサトにはなかった。
ただ、生きていてくれた、今はそれだけでよかった。

「…会いたかったんだ、もう一度。」
シンジは力なくそう言うと、再び気を失った。

シンジを抱きしめてすすり泣くミサトを見て、
アスカは、なんとなく、タイミングを逸したような気がした。
自分も、シンジに縋りつきたかったが、できなかった。
そのかわり、ぽつりとこう漏らした。
「叱ってあげるんじゃ、なかったの。」




いつもであれば、その後は病室でシンジが目覚めるのを待つだけであった。
だが、今回はそううまく、何事も運ぶわけではなかった。
シンジがいっこうに、目覚める気配がなかったのである。



「ずっとこのままかも知れないですって!」
ミサトが叫ぶように言った。
「ちょと、リツコ。それ、どういうことよ!」

傍らには、アスカもレイもいる。
今、シンジの病室で、リツコからシンジの容態について説明を受けているところだった。

「シンジ君にしてみれば、孤独と恐怖が、ぎりぎりの瞬間まで続いた。
 それから、何があったのかは、私たちにはわからない。」
リツコはそこで、いったん息をつくと、三人を見回すようにした。

「ともかく、初号機は暴走という形をとって帰還した。
 そのことが、シンジ君の精神にどれだけの負担をかけたのか、計り知れないわ。
 はっきり言うわ。
 シンジ君は、肉体もさることながら、その精神が疲弊しているの。
 すでに消耗しきったということであれば、二度と目覚めないこともありうるのよ。」

短い沈黙のあと、
「そんな…。」
アスカは、かぶりを振った。

「せっかく戻ってきたというのに、なんでそんなことになるのよ!」
そうわめくと、シンジのベッドの柵の部分をこぶしで叩いた。

「なんでなのよ!」
もう一度柵を叩こうとするアスカの手を、レイの手がそっと抑えた。

「大丈夫、碇君は必ず目覚めるわ。」
「ファースト…。」
「そのために、碇君は戻ってきたのだもの。」

「…信じて待つしか、ないってこと?」
「今は、そうよ。」



ミサト、レイ、アスカの3人は今、シンジの病室で彼が目覚めるのを待っている。

ミサトは椅子に腰掛け、祈るように組んだ両手にみずからの額をあずける様にして、
物思いに沈んでいた。

『自分には、荷が重すぎたのか。』
と、ミサトは思う。
安易にシンジとアスカの保護者役をかってでていながら、成長期の彼らの精神面のケアを
なにひとつ、まともにすることができていないのではないかと、思った。

『忙しいから』ということを口実に、シンジたちと十分に接する時間をとっていない。
もちろん、家にいる間はできるだけ彼らと話もするようにしたし、頼られればなにかと
相談にも乗ったつもりだ。

それでも、自分はセカンドインパクトで両親をなくしており、彼らの年頃のときから
親の愛情を…励ましも叱責も受けずに、ここまで来ている。
そんな自分が、本当にシンジたちの保護者としてやっていけるのだろうか。
実際、シンジの独断専行を止められなかった。

『そのつけが、この結果なのね。』
眠り続けるシンジの横顔を見て、ミサトは唇を噛みしめた。

そのときだった。

「葛城三佐、おられますか。」
突如として、病室のインターフォンから日向の声が聞こえた。

「…はい。」
ミサトは、受話器をとって応える。

「今回の使徒戦の被害報告のことで、至急ご相談したいことが…。」
「わかったわ。」
ミサトは受話器を置くと、軽くため息をついた。

「行くんでしょ。」
壁にもたれかかって立った姿のまま、アスカが言った。

「ここはあたしたちが見てるから、行ってきなさいよ。」

「ええ、ありがとう。」
ミサトはのろのろと立ち上がる。

「あんたの立場は、わかっているつもりよ。大変だということもね。
 あたしたちに遠慮することはないわ。行ってらっしゃいな。」

「…悪いわね。じゃあ、お願いね。」
そう言い残すと、ミサトは病室を出て行った。



「ふう。」
退室するミサトを見送ると、アスカはひとつ吐息をついた。

「座ったら?」
レイは、アスカに椅子を勧めた。

レイは、シンジの枕もとの椅子に、ずっと座っている。
レイが勧めたのは、その隣にある、今までミサトが座っていた椅子だ。

「いいのよ。」
アスカは、壁にもたれたまま、両腕を組んだ。
いつまでも、立っていられないことは、自分でもわかっている。
だが、アスカは、腰を落ち着けて座る気分にはなれなかった。

レイの言うように、今は待つしかない。
シンジが目覚めるときを。

それが、いつになるのか、わからない。
5分後かもしれないし、10日後になるかも知れない。
あるいは、リツコの言うように、一生このままかも知れないのだ。
そうならないかという、不安がある。
落ち着ける筈が、なかった。

「ねえ、レイ。」
アスカは、そう呼びかけながら、今はじめてレイのことを名前で呼んでいることに
気付いた。
不思議と、違和感はなかった。

「あんたは、本当に不安じゃないの。シンジがこのままじゃないかって。」

「…わからない。」

「え?」

「わからないわ。でも、わたしには待つしかないもの。
 碇君を信じて、待つしかないもの。」

「あんた…それじゃ、ソルベーグじゃないの!」
「一生を、ペールギュントを待つことで捧げたソルベーグ…そうかも知れない。」

ついこの前、音楽の授業で教えられた、ペールギュント序曲の『ソルベーグの歌』。

__冬は過ぎて  春過ぎて
   春過ぎて   夏も巡りて
   年ふれど   年ふれど
   君が帰りを  ただわれは
   ただわれは  誓いしままに
   待ちわぶる  待ちわぶる__

必ず帰ってくる、そう言い残して旅立った男の言葉を信じ、待ち続けた乙女の歌。
男は年老いてから、無一文になって帰ってきた。
『おかえり、わたしの愛しいひと。』
疲れ果てた男は、恋人の胸に抱かれ、その歌を聴きながら息を引き取ったという。

あたしにはとても耐えられない、アスカはそう思った。

「あんたは、それでいいの。」
「わたしには、他に何もないもの。」

ここまで一途になれるものだろうか、とアスカは思う。
その、レイが一途に想うシンジから、先日自分は彼のファーストキスを奪ってしまった。

ほんの気まぐれから。

悪いことをしたな、とアスカは思った。

もちろん、自分はシンジのことをきらいではない。
好きだ、と言ってもよい。
あの日、シンジのチェロを初めて聞いて、少しばかり感動した。

『へーえ、結構カッコいいところ、あるじゃない。』
見直すと同時に、好感を抱いた。
いや、もともと自分はシンジのことを好きだったのかも知れない。
好きだからこそ、たとえ冗談にせよ、キスしてみようという気になったのだと思う。

でも、自分はとても、レイのように一途にはなれない。
その思いが、アスカに罪悪感を抱かせた。

シンジが帰ってくれば、それでもそのことは軽い冗談として笑ってすませることもできる。
レイの想いをシンジに伝えるよう、手助けすることもできる。
…そこまでは、自分のプライドが許さないかも知れない。
それでも、二人の仲を黙って見守るくらいのことはできる。

だが、このまま帰ってこなかったら__。
アスカは、そんな思いをふり払うかのように、かぶりを振った。

「ちょっと、頭を冷やしてくるわ。」
そう言うとアスカは、振り向きもせずにシンジの病室を出て行った。




病室にひとり、レイは残された。
あらためて、シンジの顔を見る。穏やかな表情をして、眠っていた。
飽きることなく、レイはシンジのその横顔を見つめ続ける。

『綾波は、どうしてエヴァに乗るの?』
いつかの、シンジの言葉が思い出される。

『絆だから…。』
そのときは、そう答えた。

『父さんとの?』
『みんなとの。』

実際はあのとき、碇司令との絆が一番大きかった。
でも、今は違う、とレイは思った。

__ヤシマ作戦が終わって、碇君がわたしの無事を知って泣いてくれたときから、
わたしの心の中では、碇君が少しずつ、大きくなってきている。
今では、わたしの中で、かなりの部分を占めるようになってしまった。__

なぜ?
レイは、自問する。

シンジが一番、自分のことを見ていてくれるからだろう、と思う。

三日ほど前も、掃除の時間に雑巾をしぼるレイの姿を見て、
「なんか、お母さんって感じがした。」
と、シンジは言った。

それだけではない。
授業が始まる前に、レイが窓の外を眺めているときも、
ネルフに行く電車の中で、一人で本を読んでいるときも、
ときどきシンジの視線を感じることがある。

ときには、声をかけてくれることがある。
そしてそれは、決して下心を抱いているものではなかった。

『なにかと、気にかけてくれている。』
それが実感として、伝わってくるのだ。

それを感じさせてくれるのは、シンジだけであった。
そしてレイは、そんなシンジが帰ってくることを信じて疑わなかった。

「わたしは、待つわ。
 いつか必ず、碇君は帰ってくるもの。」
レイはそっと、そうつぶやいていた。




シンジが病室に運ばれてから、三日がたとうとしていた。
今日もアスカとレイは、シンジを見舞いに来ている。

レイは相変わらず枕もとに座って、シンジのことをずっと見ている。
アスカは少し離れ、壁にもたれて立っていることが多い。
ときおりレイの横で座ったりもするが、やはり落ち着かないのか、
すぐに立ち上がっては、部屋の中を歩き回ったりしていた。

『やはり、このままシンジは朽ちていくのではないか。』
そう思うと、いてもたってもいられなくなる。
アスカは、レイのようにシンジを見つめ続けることはできなかった。

自分が見ている間に、みるみるやつれていくのではないのか、
あるいは目の前で、突如として呼吸が止まってしまうのではないのか。
それが怖くて、シンジのそばに寄れないでいる。

『どうして、起きないのよ!』
不安と苛立ち__。 それの繰り返しだった。

そんなアスカだったから、変わらぬ状況に耐えられなくなって、
「ちょっと、外の空気を吸ってくるわ。」
たびたび、そう言い残しては病室を出て行く。

だが、しばらくすると、やはり不安にかられて戻ってくるのだった。

アスカのそのような行動に対して、レイは何も言わなかった。
不安なのだろう、とは思う。
だが、どうして信じることができないのか__。
シンジが必ず、自分たちのもとへ戻ってくることを。
レイにしてみれば、それが理解できなかった。

レイは、戻ってきた初号機のエントリープラグの中のシンジに、
ミサトが泣きながら取り縋るところを見ている。
アスカも見ていたはずだ。

再び気を失う前に、シンジはこう言った。
『…会いたかったんだ、もう一度。』

ならば、シンジは必ず戻ってくる筈ではないか。
だから、自分はそれを信じて、こうして待ち続けている。

「疲れているのね、碇君…。」
レイは、シンジの穏やかな寝顔を見ながらつぶやく。

「いいわ、ゆっくりお休みなさい。」




黄色味を帯びた日差しが、病室の窓から入り込んできていた。
夕刻が迫ってきているのだった。

レイは今も、腰掛けて揃えた膝の上に両手を置いて、シンジを見ている。
アスカはつい先ほどまた、病室をふらりと出て行っていた。

シンジは、ゆっくりと目を開いた。

見慣れぬ天井が見えたが、すぐに病室であると知れた。
窓から入り込む柔らかい光と、風…。
その風の中に、ほのかに懐かしい香りを感じた。

『綾波?』

視線を移すと、そこにレイがいた。

「おかえりなさい。」

静かに、レイはそう言った。

「ん? ああ、ただいま…。」
シンジは身を起こした。

お早う、じゃないんだ。
そうか、もう夕方なんだ、ぼんやりとした頭でそう考える。

「ぼくは、どのくらい寝ていたのかな。」
「もう、三日になるわ。」

「そんなに! ごめん、ずいぶん心配かけたね。」
「いいのよ。」

シンジは、レイがかすかに微笑んだような気がした。
少し驚いて、もう一度よく見ると、いつものレイの表情だった。

『気のせいかな。たぶん、そうなんだろうな。』

そこへ、アスカが帰ってきた。
開いた入り口から、起き上がったシンジがレイと話しているのが見えた。
あわてて身を隠し、ドアの陰からそっと中を窺う。


「気分は、どう?」
レイがたずねる。

「うん…随分寝たせいか、まだぼうっとしているけど、
 とくに、調子が悪いところはないみたいだね。」

「そう、よかったわね。」

よくないわよ!
アスカは、怒鳴りそうになった。

あれだけ、人に心配させておいて。
なによ、すっかり元気そうじゃない!

思わず、涙ぐみそうになる。
でも、それは癪だった。

アスカはあわててドアから離れ、入り口の横の壁に背中を預けて上を向く。
涙が、こぼれないように。
とりあえずは、うまくいった。
しかし、その行動がけっこう大きな物音をたてたことに、アスカは気付かない。

もちろん、シンジはそれに気付いた。
一瞬ではあるが、褐色の髪がなびいてドアの向こうに消えるのも見えた。

『アスカ…。』
シンジは微笑む。

『アスカも、来てくれているんだ。』
そう思いながら、ふと、先程のレイの言葉が、何処かで聞いたような気がして、
気になった。

「どうしたの。」
レイが、シンジの表情の変化に気付いてたずねる。

「いや、なんでもないんだ。
 なんか、寝ている間に、綾波の声を聞いたような気がして。」

「わたしは、碇君を信じていたわ。
 必ず、帰ってくると。必ず目を覚ますと。」
「綾波…。」

『むぅぅ、なに、二人の世界に入り込んでいるのよ!
 そりゃ、シンジのことはレイに譲ろうとは、思ったけど、
 あたしの目の前でそれをされると、なんか腹立つわね!』
自分で勝手に陰に隠れておいて、アスカはそんなことを思った。

『いいわ、みてらっしゃい!』
アスカは踵を返すと、廊下の奥に歩み去った。




しばらくすると、どたどたと足音がして、ものすごい勢いで、
シンジの病室に向ってくるものがあった。

それがシンジの病室に消えると、ひときわ大きな声が響き渡った。
「シンちゃ〜ん、無事だったのねぇ! もう、心配したんだからぁ!!」
「わゎっ、ちょっと、ミサトさん!」

その騒ぎを耳にしながら、アスカはゆっくりとシンジの病室に向って歩いていた。
意地悪そうな、それでいて幸せそうな、笑みをその顔に浮かべて。