せ め て、"あ た し" ら し く
- 二人の想い V -
「人、ひとり助けられなくて、何が科学よ!」
誰かが、叫んでいる。
「シンジ君を返して! 返してよう…。」
誰だろう、この声は。
シンジはぼんやりとそう思った。
『「シンジ君」? …ミサトさんか!?
たしかに、あれはミサトさんの声だった…。
ここは、どこだろう。
どうしてぼくは、こんなところにいるんだろう。』
薄明とも漆黒ともいえない空間の中に、シンジはいた。
周囲からの干渉が一切ないかわりに、自身の輪郭をも見ることができない。
自分自身をすら、明確に把握できない、曖昧な空間_。
どれほどの間、ここにいたのか、わからなかった。
ミサトの声によって、シンジは自分自身の存在に気付いたのだから。
朦朧としていた意識が、徐々に戻ってくる。
『なぜかは思い出せないが、ぼくは望んでここに来た様な気がする。』
再び、静寂が訪れる。
『望み…。 そう言えば、ぼくの望みは、何だったのだろう。
それは、ここにあるものだろうか。
安息? そうかも知れない。
孤独? そうかも知れない。
でも、本当は…ぼくが本当に望んでいたものは、少し違う。』
そのとき、また声が聞こえた。
「碇君、あなたは…。」
「シンジ、あんたは…。」
それは、二人の少女の声。
だれ、だろう?
「「何を、願うの?」」
衝撃とともに、シンジは思い出した。
『綾波! アスカ!』
ぼくを、呼んでる!!
バシャン!
水音が、あがる。
泣き崩れているミサトのそばで、シンジが実体化していた。
「あんた、シンジのそばについててあげなくていいの?」
アスカは、レイに問う。
ネルフの、とあるエレベータの中である。
「…いいの。」
短く、レイは応える。
シンジが帰還してから、すでに二日が過ぎていた。
アスカはプラグスーツ姿、レイは制服のままである。
「まったく、どうしちゃったというのよ。
以前は、あんなにシンジにべったりとくっついていたっていうのに。」
「………。」
「どうせ、暇なんでしょ。
あたしと違って、あんたはテストのお呼びがかかっていないんだから。
だったら、見舞いにくらい、行ってあげればいいのに。」
「わたしも、呼ばれているわ。」
「そうなの?」
アスカは、疑わしげな目でレイを見る。
「シンクロテストではない、別のテストで。」
「ああ、以前よく学校を休んでやってた奴ね。
前から聞こうと思ってたけど、あたしたちの知らない地下深くで、何をやってるの。」
「………。」
「あたしにも、言えないこと?」
「ごめんなさい。」
「まあ、いいわ。
でも、一度くらいは、シンジの病室に寄ってあげなさいよ。
あいつ、もうすぐ退院らしいから。」
「ええ。」
チン! と音がして、エレベータのドアが開く。
「じゃあ、あたしはこれで。」
アスカは、片手をあげると、エレベータを出て行く。
レイは小さく、その手をあげていた。
アスカはこのところ、毎日のようにシンクロテストに呼び出されていた。
その結果が、思わしくないからである。
「アスカ、聞こえる? シンクロ率、8も低下よ。
余計なことは考えないで、集中しなさい。」
測定室からリツコの声が聞こえた。
「わかってるわよ!」
テスト用プラグの中で、アスカは気合を入れようとする。
だが、焦れば焦るほど、うまく行かなかった。
リツコの指摘が、逆にアスカへのプレッシャーになっていると感じたミサトは、
「アスカ、今日は調子悪いのよ。『二日目』だし。」
フォローしようとするが、
「シンクロ率は、表層的なものには左右されないのよ。」
リツコは、にべもない。
「それに今、結果を出しておかないと、いざというときに支障をきたすわ。
前回の使徒襲来から、もう1ヶ月あまり経っているのよ。
これまでで、もっとも間隔があいたときで三週間…。
いつ、次の使徒が来てもおかしくはないわ。
初号機が凍結されている今、甘いことを言っている余裕がないことは、
ミサトが一番よく知っているでしょう?」
そう言われては、ミサトは返す言葉がなかった。
結局その日、アスカが最後に出した測定値は、25.8%にとどまった。
レイは、ターミナルドグマで、ゲンドウと向かい合っていた。
すでに衣服を脱ぎ捨て、全裸となっている。
「お願いが、あるのですが。」
レイは、低い声で言った。
「なんだ。」
ゲンドウは、意外そうに尋ねた。
「ダミープラグの開発実験を、もうやめにしてほしいのです。」
「…そんなことは、できん。」
「初号機はもう、ダミープラグを受け付けないと思いますが。」
レイは、引き下がらなかった。
「………。」
ゲンドウは沈黙した。
ユイが、それを許さないからか、とゲンドウは思った。
『人が乗っている、エヴァとは戦えない。』
そう言って、シンジは参号機…第13使徒、バルディエルとの戦闘を拒んだ。
やむなく、ダミーシステムを起動させ、使徒殲滅の目的は達したものの、その間中
シンジは、やめてよ、やめてよと、泣き叫んでいた。
続く第14使徒、ゼルエルとの戦闘も、ダミーシステムで対応しようとしたが、
初号機は起動しなかった。
シンジを苦しめたダミーシステムを、初号機の中にいるユイが拒絶しているのでは
ないかと思われた。
だが、どうしてレイがそれを知っている?
「一度や二度、うまく起動しなかったからと言って、結論づけるのは性急すぎる。」
ややあって、ゲンドウは口を開いた。
「不安定なところがあるからこそ、完成を急がねばならん。
交代要員のいないパイロットを、常に危険な状態におかねばならない現状こそが、
問題なのだ。
パイロットを温存できるシステムの完成は、おまえやシンジのためでもあるのだ。
わかるな?」
シンジの名を出すことによって、レイは反論しないだろうと、ゲンドウは直感的に
思っていた。
「…はい。」
思わくどおり、レイはそれ以上は反抗しなかった。
「わかったら、カプセルに入れ。」
レイは無言でそれに従った。
『碇君、ごめんなさい。
わたし、やっぱりこのひとには、逆らえない。』
カプセルがLCLで満たされていく中で、レイは唇を噛みしめていた。
「だめだわ、やっぱりつながらない。」
耳に当てていた携帯を、ため息とともに見つめながら、アスカはそうつぶやいた。
最近、ずっと加持とは連絡がとれないでいる。
会いたかった。
恋愛の対象にはなり得ないことは、もうわかっている。
でも、話を聞いてくれる、励ましてくれる相手が欲しかった。
そうしないと、不安に押しつぶされそうだった。
…このまま、エヴァに乗れなくなるのではないかという不安に。
自信の喪失_。
ひとことでいうと、それだろう。
第13使徒、第14使徒と、自分はまったくといっていいほど、歯が立たなかった。
シンジに負けた、という思いもある。
だが、それは初号機の性能や特性が、自分の弐号機とは違うからだということが、
度々その暴走を目にしてきたことからわかっている。
今、アスカが一番不甲斐ないと思っているのは、そのサポート役にすらなっていない
という事実だった。
「あたしが、今までやってきたことって、何だったんだろう。」
エヴァのパイロットに選ばれたことを誇りに思い、周囲の期待に応えるために、
自らに英才教育を施してきた。
いや、見てもらいたかった相手、褒めてもらいたかった人は、本当はひとりだ。
だが、すでにその人はいない。
だから、自分で自分を褒めてあげられる様に、がんばってきた。
褒められたものではない_。
それが、昨今の自分の戦績である。
それに対する焦りが、今のアスカに、シンクロ率の低下として現れていた。
シンジが、退院してきたのは、その翌日の昼だった。
「随分と、早かったわね。」
アスカは、笑みを浮かべて言った。
「うん、午前中の回診で『異常なし』と判ったら、すぐに退院させられたんだ。
体力の低下も、ほとんど見られないということでね。」
「まあ、あんたの場合は、『1ヶ月間寝ていた』わけではなく、『何処かへ行ってた』
だけだもんね。
ところで、レイは見舞いに来なかった?」
シンジは、かぶりを振った。
「綾波は、来なかったね。
ぼくの意識がなかったときには、来ていたのかも知れないけど。
目を覚ましてからは、ずっと見ていない…。忙しいんだろうな。」
少し淋しそうに、シンジは言った。
いつも、目を覚ますとそこにレイがいる…それが、今回はなかったのだった。
「…そう、まあいいわ。それより、おなか空いたでしょ。何か、作るわ。」
「え、アスカが?」
「これでも、あんたがいなくなってから、ミサトに鍛えられたのよ。
言ってみれば、反面教師ね。
まあ、まかせときなさい。」
そう言って、アスカは笑ってみせた。
シンジもつられて笑いながら、
『なんだかアスカ、少し元気がないな。』
そう思った。
午後からアスカはまた、ネルフにシンクロテストを受けに行くことになっていた。
シンジはシンジで、買いたいものがあるから、ちょっと出かけるかも知れないという。
「退院した日くらいは、家でゆっくりしてなさいよ。」
「大丈夫、無理はしないよ。」
そういった言葉をかわしてから、アスカは出かけた。
「昨日より、落ちてるじゃない!」
モニタを一目見て、リツコは叫ぶ様に言った。
「起動指数、ぎりぎりです。」
マヤが応じる。
アスカの、本日のシンクロテスト結果である。
モニタには、16%前後で揺れ動くゲージが表示されていた。
「ひどいものね。…フィフスの選出を、急がせないといけないわね。」
「コアの変換もやむなし、ですか。」
そういう二人の会話は、テスト用プラグの中のアスカには届いていない。
だが、逆に結果が知らされないということが、深刻なレベルにまで事態が進んでいる
ことを物語っていた。
「あがっていいわよ、アスカ。」
測定室から最初にアスカに届いた声は、それだった。
結果については…こわくて聞けなかった。
「今朝、退院したんだよ。」
「そう…。よかったわね、体はもう大丈夫?」
買い物に出かけた帰りに、シンジはレイの姿を駅前で見かけた。
久しぶりにその姿を見たことがなんだか嬉しくて、走り寄って話しかけていた。
レイはこれから、モノレールに乗ってネルフ本部へ行かなくてはならないという。
さっき買った新型のポータブルプレイヤーを家に帰って聴くよりも、レイとこのまま
別れるのが惜しいような気がして、シンジは駅のホームまでついていった。
「ぼくがいない間、大変じゃなかった?」
「別に。使徒も来なかったし、エヴァも大破して修理に追われていたから、
わたしたちがとくにすることはなかったわ。」
「エヴァはもう、直ったの?」
「ええ。零号機は先週直ったし、弐号機も一昨日、修理が完了したわ。」
「…よかった。使徒が来なくて、よかったね。」
「そうね。」
話しながら、シンジはなんとなく、レイの態度に違和感を感じていた。
そっけないという程ではないが、なにかしらレイは、自分と距離を置こうとしている
様に感じられる。
「ねえ、綾波。」
「なに?」
「なにか、怒っていない?」
「そんなことは、ないわ。」
「だったら、いいんだけど…。」
第13使徒と戦う前は、短い時間だったがデートもした。
二人の間はそのとき、確かに接近しつつあったと思う。
公園のベンチに二人で腰掛けたときの、夕陽に照らされたレイの笑顔を、
シンジははっきりと覚えている。
それなのにどうして、今日のレイは微笑んでくれないのか。
『だけどもう、綾波にとっては1ヶ月以上も前のことだ。』
自分にとっては数日前の記憶だが、レイには昔のことになってしまっている。
その間に、何かがあったのかも知れない。
あるいは、ただ単に、今日は体調がすぐれないだけのことかも知れない。
そう考えていると、ホームに列車が入ってきた。
「じゃあ、わたしは行くわ。」
「うん、また明日ね。」
「ええ、また明日。」
シンジは笑顔を見せて、レイを見送った。
『別れ際に綾波は、さよならとは言わなかった…。』
それだけでも、よしとしなければならないだろう。
明日、また会える。
あれこれ思い巡らすことは、やめようと思った。
そんな二人を、アスカは反対側のホームから見ていた。
シンクロテストを終えて、ネルフ本部から戻ってきたところだった。
シンジが、レイに笑顔を向けるところを見た。
レイは後ろ姿だけで、その表情はわからなかった。
ただ、その蒼銀の髪で、レイだと判っただけである。
『なんだ、仲良さそうじゃない。』
なんだかんだ言っても、あの二人は大丈夫だろう。
そう思った。
ほっとすると同時に、それが淋しくもあった。
加持に携帯で連絡をとろうとしたが、今日もつながらなかった。
そして、翌日_。
リツコは3人のチルドレン全員を、シンクロテストに呼び出していた。
レイについては定例のテストであったし、シンジについては昨日退院したのだから、
当然のように必要なデータ取りであった。
だが、アスカについてはもう、あまりその意味はなかった。
もはやアスカの降板は、確定的である。
それでもテストを受けさせようとしたのは、パイロットの交代まであと、どのくらい
使えそうかということを再確認するためであった。
それにより、フィフィスの選出の期限を決めるつもりでいた。
「では、3人ともプラグに入ってちょうだい。」
リツコの指示に従って、シンジたちが移動しようとしたまさにそのとき、突然の警報が
響き渡った。
第15使徒、アラエルの襲来だった。
「目標は、衛星軌道上から動きません。」
青葉の報告に、
「仕方ないわ。レイはポジトロンスナイパーライフルを装備して、地上で待機。
アスカは、バックアップにまわって。」
ミサトが命じる。
「あたしは、バックアップか…。」
アスカが、つぶやく様に言う。
「何か言った? アスカ。」
「いえ、何でもないわ。」
「私語は、慎みなさい。」
「了解。弐号機、バックアップにまわります。」
「初号機は、どうします?」
日向がミサトに尋ねる。
「初号機は、凍結中なのよ。
碇司令の命令が下りない限りは、投入はできないわ。」
シンジは、初号機に乗り込んだまま、ケイジで待機することになった。
『たぶん、これがあたしの、最後の出撃なんだろうな。』
エントリープラグの中で、アスカはそう思っていた。
かって天才パイロットと呼ばれたプライドは、すでにズタズタになっていた。
レイは命令どおり、零号機で地上に出ると兵装ビルからポジトロンスナイパーライフルを
受取り、上空に向けて構えた。
雨が降り続いており、空は雨雲に覆われているため使徒を肉眼で見ることはできない。
スナイパー・スコープを通して、表示された使徒の位置を確認するだけである。
「目標、いまだ射程外です。」
青葉の報告を聞きながら、レイは使徒が射程内に表示されるときを辛抱強く待った。
そのとき_。
突然の光が、レイの零号機を覆った。
たれこめた雲を貫く様にして、強烈な光が降り注いでいた。
「あああああぁ〜っ!」
レイの絶叫が響く。
「レイ! どうしたの、レイ!!」
ミサトの問いかけには応えず、レイはライフルを構え直した。
「くくっ!」
気力を振り絞って、使徒に向けて撃つ。
かろうじて使徒に届くかと思われた陽電子の光は、直前でATフィールドに阻まれ、
拡散してしまった。
「駄目です。使徒のATフィールドを貫くには、エネルギーがまるで足りません!」
青葉が悲鳴を上げるように言う。
零号機はライフルを取り落とし、蹲ると頭を抱え込んだ。
「何が、起きてるの?」
「精神汚染が始まっています。使徒の、心理攻撃です!」
レイにはすでに、発令所の喧騒が聞こえなかった。
気が付くと、校舎の屋上にいた。
目の前でトウジが、空を見上げていた。
「知っとんのやろ、わしのこと。」
空を見上げたまま、トウジは言う。レイは黙って頷いた。
「知らんのは、シンジだけか…。」
トウジは、ため息をつく様につぶやいた。
いきなり、視界が変わった。
零号機のエントリープラグの中にいる様である。
「やめてよ、父さん! やめてよ!!」
シンジの悲痛な叫び声が聞こえる。
第13使徒(バルディエル)と、自分たちは戦っているのだった。
『碇君!』
レイはインダクションレバーを握りしめた。
だが、動けなかった。
使徒の攻撃を受けて、零号機は大破してしまっているのだ。
ぐじゃっ!
いやな音が聞こえた。
「ト、トウジ! うわあぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜!!」
シンジの絶叫が、頭いっぱいに響いた。
突然、静かになった。
真っ暗である。
ここは…?
自分は、目がみえないのだろうか、とレイは思った。
それとも本当に、暗闇の中にいるのか。
ひどく不安な気分になった。
何か、言葉を発したかったが、口を開くことさえできない。
しんと静まりかえっているが、何故か耳だけは正常に機能している様に思われた。
その耳に、聞こえた。
「綾波のせいだ。」
『え?』
低い声だったが、それはシンジの声だった。
「綾波のせいで、トウジの足は…。」
『あれは、碇司令が…。』
そう言おうとしたが、何を言っても言い訳のような気がした。
「ダミープラグは、綾波なんだろ。」
断言する様な、シンジの声。
「綾波の、せいだ。」
「綾波の、せいだ。」
「綾波の、せいだ。」
『ちがう、わたしじゃない!』
かぶりをふって、レイは言う。
「綾波の、せいだ。」
「綾波の、せいだ。」
「綾波の、せいだ。」
『ちがう! わたしじゃない〜!!』
レイは思わず、泣き叫んでいた。
「せ、精神汚染、危険域に入ります!」
マヤが、動揺して言う。
発令所には、レイのつぶやきとともに、啜り泣きが聞こえていた。
『わたしじゃない…。 わたしじゃない…。』
あのレイが、感情を顕わにするからには、よっぽどのことがあったのだろう。
「父さん、ぼくが初号機で出るよ!」
シンジが、待機しているケイジから、叫ぶように言う。
「いかん、目標は精神を侵食するタイプだ。
今出ても、同じように餌食にされるだけだぞ。」
冬月が、ゲンドウの横から応じる。
「でも、このままじゃ、綾波が…。」
「シンジ、初号機でドグマを下りろ。」
ゲンドウが、少し考えた上で言った。
「ロンギヌスの槍を使うのか!」
冬月が愕然として振り向く。
「委員会が、黙ってはいないぞ。」
「今、ここでレイを失うわけにはいかん。もちろん、初号機もな。」
「だからと言って…。」
「衛星軌道上の使徒を殲滅するには、それしかない。
それに、槍を使う口実ができたことは、チャンスなのだ、冬月。」
「武器が、あるんだね!」
シンジが口を挟む。
「そうだ。ターミナルドグマの最深部にそれはある。
赤木博士、シンジを誘導してやってくれ。」
「…わかりました。」
「わたしは、反対です!
エヴァがアダムと接触することは、サードインパクトを引き起こす恐れが…。」
「決定事項だ、葛城三佐。」
ミサトの抗議は、受け入れられない。
翻らない決断にミサトは、
『まさか、セカンドインパクトの真の要因は…使徒の接触ではないのね!』
一瞬、物思いに沈んでしまった。
「ちょっと、何やってんのよ!」
割って入ったのは、アスカだった。
「ドグマの最深部まで行って帰ってくるのに、どれだけかかるのよ。
その間に、レイはどうにかなっちゃうんじゃないの?
さっさと零号機を、回収しなさいよ!」
「そ、そうね。
でも、リフトまでは距離があるのよ。
零号機が、自力でそこまで行かなくてはいけないのだけど、
レイが、あんな状態では…。」
「だったら、あたしが出るわ。
弐号機で、零号機をそこまでひっぱってくればいいんでしょ。」
「だめよ、危険だわ。あなたまで、使徒の心理攻撃を受けるわ!」
「あたしは、そんなヤワじゃないわ。」
「だめよ!」
「行かせろ。」
ゲンドウが命じた。
「それぐらいの役には立つだろう。
零号機をこれ以上、危険に晒すわけにはいかん。
最悪でも、零号機の盾にはなる。」
その物言いに、さすがにアスカはかちんと来たが、反論はしなかった。
「弐号機、行きます!」
アスカの宣言とともに、地上に向かって弐号機は射出された。
初号機は、ワイヤーリフトを使ってドグマを降りていく。
『ずいぶん、深いんだな。…綾波は、大丈夫だろうか。』
シンジがそう思っていると、ガコンとリフトが止まり、やっと地面に着いた。
「シンジ君、聞こえる?」
リツコの声がした。
「正面のヘブンズドアを開けるわ。
何を見ても、驚いてはだめよ。躊躇している時間はないの。
ともかく、私の指示に従って、槍を手に入れるのよ。」
「…わかりました。」
目の前で、巨大なドアが開いていく。
「進んで。」
「はい。」
そこで、シンジが見たものは、十字架に磔にされた白い巨体だった。
『これは…使徒!?』
初号機の、歩みが停まる。
「シンジ君!」
「あ…、はい。」
シンジにしては、珍しくパニックに陥らなかった。
初号機は再び前進する。
「【それ】に刺さっている、槍を引き抜くのよ。」
「わかりました。」
初号機は、リリスに刺さっているロンギヌスの槍を引き抜いた。
途端に、リリスの下腹部から、二本の足が現われる。
「うわぁっ!」
思わず、飛び退った。
「いちいち、驚いている暇はないわ。戻るわよ。」
「は、はい。」
初号機は、槍を手にしたまま、反転した。
アスカの弐号機は、零号機の近くまで来ていた。
相変わらず、強烈な光が零号機に降り注いでいる。
零号機を照らす光の中で、降りしきる雨滴がきらきらと輝いていた。
零号機は、蹲ったまま動かない。
すでに頭部を抱えることもやめ、ぐったりとその四肢を投げ出していた。
「レイ…。」
アスカは呼びかけたが、返事はなかった。
「撤退するわよ。」
そう言うと、零号機に歩み寄った。
それ以上近づくと、自分も光を浴びることになる。
だが、やるしかない。
思い切って近寄りながら、零号機を掴もうと腕を伸ばした。
光の中に入っていく。
その途端、体中を虫が這い回る様な不快感を感じた。
「くぅぅぅっ!」
アスカは呻いた。一瞬、弐号機の動きが止まる。
「ま、負けるもんですか!」
圧力を感じさせるほどの不快感と戦いながら、
じりっ、じりっと伸ばした腕を零号機に近づけていく。
そして、やっと、零号機の腕を掴んだ。
「ぬおおおおおおっ!」
掛け声とともに、零号機を光の中から、引っ張り出そうとした。
ずるり、と零号機の機体が動いた。
まさにそのとき_。
使徒が放つ光が、その強さを増した。
照射範囲が広がり、零号機と弐号機をすっぽりと覆った。
使徒は、獲物を手放すつもりはなかったのだ。
「いやぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜っ!」
アスカの絶叫が響き渡った。
「ママ、あたし、選ばれたの。
人類を救う、エヴァンゲリオンのパイロットに!」
アスカは、笑いながら走っていた。
「誰にも真似できないの。あたしだけの、才能なんだって!」
家の中に、駆け込んでいた。
「だから、あたしを見て!」
ドアを開けた。
「ママ…!」
アスカは、笑顔のまま凍りついた。
光の中で、見慣れたシルエットが首を吊っていた。
「いやぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜っ!」
一瞬、気が遠くなる。
すぐに、気がついた。
「あたしを、見て…。」
アスカは、自分がつぶやく声で、意識を取り戻していた。
「あたしを、見て…。」
加持の、後姿が見える。
「ねえ、加持さん。あたしを、見て。」
加持は、呼びかけに振り向いて、アスカを一瞥した。
「ねえ…。」
だが、加持は興味がない様な表情を見せ、黙ったまま歩み去る。
「加持さ…。」
「アスカ、シンクロ率、8も低下よ!」
加持の姿が消え、突然リツコの声が聞こえた。
『このままでは、弐号機を降ろされる!』
急激に膨れ上がった、どす黒い不安がアスカを包んだ。
測定室から、アスカの方を見ながらひそひそ声で何事か話し合う、リツコとマヤの姿が
見える。
「いや!」
アスカは、かぶりを振った。
「いやよ、そんなのいや…。」
泣くまいと思ったのに、涙が出てきた。
「だれも、もう、あたしを見てくれない…。」
エントリープラグの中で、膝を抱えて顔を埋め、アスカはさめざめと涙を流していた。
ロンギヌスの槍を抱えて、地上に出てきたシンジが最初に見たものは、折り重なる様に
地に倒れ伏して、使徒の光を浴び続ける零号機と弐号機の姿だった。
「綾波! アスカ!」
思わず、駆け寄ろうとする。
「不用意に近づいては駄目よ、シンジ君!」
ミサトが叫ぶ様に制止する。
「使徒には、全て見えているのよ。こちらの動きを見て、照準を変えてくるわ。
一箇所にかたまったら、相手の思う壺よ。」
「くっ!」
シンジは唇を噛みしめて、倒れている2体のエヴァを見た。
弐号機は両手を広げ、零号機に覆いかぶさるようにしている。
まるで、使徒の光から、零号機を守ろうとしているかのようだった。
弐号機は小刻みに震え続け、零号機は気を失ったかの様にぴくりとも動かない。
「ちくしょぉぉぉ〜っ!」
初号機は、上空の使徒を見上げた。
両足を広げ、ロンギヌスの槍を振りかぶって投擲体制に入った。
「カウントダウン、入ります!」
日向があわてて、マイクに向かう。
「5、4、3…。」
そのときだった。
これまでにない、強い光が初号機に向けられた。
「うわあぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜!!」
初号機は、槍を取り落として悶絶する。
「シンジ君!」
ミサトが叫ぶ。
使徒を殲滅する、唯一の手段が失われようとしていた。
「シ、シンジ?」
ミサトの叫びで、アスカは目を醒ました。
先程まで、自分を苦しめていた光の照射は、今はない。
体が、まだいうことを聞かないが、かろうじて起き上がった。
すぐ下では、レイの零号機がまだ倒れたままだ。
自分よりずっと長く、心理攻撃を受けていたのだから当然だろう。
顔を上げると、少し離れたところで、初号機が使徒の光を浴びてのたうちまわっていた。
「シンジ、あんたまで…。」
その傍らに、ロンギヌスの槍らしきものが落ちているのが見える。
「あたしたちを、助けにきてくれようとしたのに。」
無意識に、一歩を踏み出していた。
「アスカ、零号機を連れて、下がりなさい!」
ミサトの指示も、耳に入らなかった。
「今、初号機に近寄ったら、また攻撃されるわよ!」
今度は、聞こえた。 かまうものか、と思った。
弐号機は歩み続けた。
『どのみち、これがあたしの最後の戦いだというのなら…。』
屈みこんで、槍を拾う。
『どうせ、最後の出番だというのなら…。』
立ち上がって、使徒を見上げる。
力がみなぎってくる。
『せめて、あたしらしく、散り際を飾ってやろうじゃないの!』
「弐号機のシンクロ率が、上昇しています!」
発令所では、マヤが緊張した面持ちで告げている。
使徒が弐号機に気付き、光を振り向けてきた。
弐号機は、さえぎるかの様に左手をかざす。
「ぬあああああぁぁぁぁぁぁっ!」
かざした左手の少し前方に、ATフィールドの巨大な盾が出現していた。
「ア、アスカ…。」
ミサトを初めとする、発令所の誰もが我が目を疑った。
「シンクロ率、60.2, 68.5, 77.3…尚も上昇中!」
使徒の発した光は、フィールドに遮られて弐号機に届かない。
「…85.1, 88.8…あ、安定しました!」
「弐号機のATフィールドは、尚も健在。
使徒の可視波長の精神波を、完全に遮断しています!」
「まさに、結界ね。」
青葉の報告に、リツコが感想をもらす。
そこへ、
「この槍を、使徒に向って投げればいいのね。」
アスカから通信が入った。
「そうよ。」
「じゃあ、カウントダウンをお願い。」
「了解、カウントダウン入ります。5、4、3…。」
伸ばした左手でATフィールドを張りながら、右手の槍を振りかぶる。
「…2、1、0!」
「いっけぇぇぇぇぇぇ〜っ!!」
ぶん、と ロンギヌスの槍が投擲された。
同時に、ATフィールドの盾は消失し、弐号機は光をもろに浴びる。
「ぐえぇぇぇぇっ!」
アスカは激しく嘔吐し、痙攣した。
ロンギヌスの槍は、雲を突き抜け、加速しながら衛星軌道上の使徒に迫る。
使徒はATフィールドを展開して阻もうとしたが、槍はたやすくそれを突き抜け、
使徒の左半身に命中していた。
「目標の消失を確認!」
同時に、使徒からの心理攻撃の光は消え、アスカは解放された。
いつの間にか、雨が止んでいる。
シンジとレイは、プラグスーツのまま並んで歩き、弐号機の元へと向っていた。
弐号機は、蹲ったままの姿勢で、静止している。
体表面のあちこちから、ぽたりぽたりと雫が垂れていた。
弐号機の前で二人は立ち止まると、
「アスカ…。」
シンジが声をかけた。
すぐに、応答が返ってきた。
「二人とも、無事だったの?」
「うん。ありがとう、アスカ。君のおかげだよ。」
「そう、よかった…。」
「アスカも無事なら、出ておいでよ。」
「うん…無事なんだけどね。今、人前に出られる状態じゃないの。」
「え?」
シンジはレイと顔を見合わせた。
「ゲロだけじゃなく、いろいろと吐き出しちゃってね。
悪いけどレイ、替えのプラグスーツを届けさせてくれる?」
「わかったわ。プラグスーツと…バスタオルを持ってこさせる。」
「悪いわね。二人とも、先にシャワーを浴びて、控え室で待っててくれる?」
「ええ、そうするわ。アスカ…。」
「な、なによ。」
「いろいろと、ありがとう。」
「な、なにバカなこと言ってんのよ、さっさと行きなさいよ!」
「ええ。行きましょ、碇君。」
「あ…。うん。」
シャワーを浴びてさっぱりしたアスカが控え室に入っていくと、
そこでシンジとレイが、座って待っていた。
なぜか、レイの目のまわりが赤い。
ついさっきまで、泣いていたかのようである。
「どうしたの、レイ。
シンジ、あんたがレイを苛めたんじゃないでしょうね!」
「ぼ、ぼくはそんなことしてないよ! ただ…。」
「ただ、なによ?」
「綾波が、どうしてもダミーシステムのことを、話しておきたいというから…。
話を聞いていただけだよ。」
「本当に、それだけ?」
「本当だよ! 綾波は、これで、ずいぶんとつらい想いをしてきたんだ。
話を聞いてあげられて、よかったと思うよ。」
「どういう話なの?」
「ごめん、今は言えない。本来は、トップシークレットの話なんだ。」
「あ、そう!」
「ごめんなさい、もういいの。わたしの気は済んだから…。
碇君が、わかってくれて、わたしは嬉しいのだから。」
「父さんが許せないというのは、変わらないけどね。
綾波は、何も悪くないよ。」
「ありがとう…。」
「まあ、どんな話か知らないけど、あんたたちがそれでいいというなら、
これ以上詮索するのは、止すわ。」
「うん。それより、リツコさんからアスカに伝言があるんだけど。」
「どんな?」
「よく、わからないけど、
『パイロットのことは、心配するな。当分、アスカで行く』って。
詳しくは、また後で説明するって。」
「そう!」
アスカの顔に、笑みが浮かぶ。
平静を装いたかったが、どうしても嬉しさを隠し切れない。
「アスカは、やっぱりすごいよ。」
シンジは、心の底から言った。
「ATフィールドの、盾を作ったんだって? 光を遮るほどの!
ぼくには、とても真似できないよ。」
「あんたになら、できるわよ。
はっきり言って、チルドレンの能力としては、あんたの方がずっと上なんだから。」
「え?」
シンジは、負けず嫌いのアスカが、そんなことを言うのが信じられなかった。
「たまたま、今回、あたしには『火事場の馬鹿力』が働いただけ。
なりふりかまわずに、やった結果よ。
…ホント、プライドもなにもあったもんじゃなかったけどね。」
そう言って、アスカは少し赤くなる。
「でもね、あたしは満足してるの。」
「なにが?」
「あたしも、捨てたものじゃないってことよ!」
そう言うと、アスカは満面の笑みを浮かべた。
完