公園





 ケヤキとクヌギの木が並ぶ林に向かってカメラを向ける細身の男を見かけたのはたぶん4度目だったと思う。

 聖霊学習院は敷地も広大で、大きな公園が隣接していてあたしはよく放課後や昼休みの時間をそこで潰している。
 そんな時、何度も同じ人を見かけることに気づいたのは世間で言うところのゴールデンウィークを過ぎてからのことで、あたしもようやくこの私立中学での生活リズムに慣れてきた頃だった。休み明けでぼうっとした頭をもてあましながら、あたしはじっと微動だにせずカメラを構えてシャッターチャンスを待っているように見えるその男を眺めていた。

 男はいかにも芸術家といった風情のくせっ毛に丸眼鏡で、口元のちょび髭が印象的だった。迷彩色のミリタリージャケットを羽織り、肩提げの鞄には撮影機材を詰め込み、大きなフードのついた旧式のカメラを常に肌身離さず持っている。あたしはそのカメラの絞りに刻まれた滑り止めの金属リングの模様が太陽の光を反射して乱雑にきらめくのをじっと見つめていた。

 不意に、鳥が羽ばたく音がしてあたしは身体をわずかに強張らせて空を見やり、何秒かそうしていた後にまた視線を地面に戻すとその男もあたしと同じように空を見てから視線を戻したところだった。

「ここにはよく来るんですか?」

 なんとなしにあたしは話しかけていた。
 その男があたしと同じ瞬間に同じ行動をしたことが何かを象徴しているような気がして、いつもそうだ、人が他人とのつながりを感じるのはその行動を共有していると分かる瞬間なんだと、ベンチに腰掛けたあたしの腹の中で細長いサナダムシのような生き物がうごめきながらそう言っている。

 歳の頃は三十代半ばから四十といったところだろうか、口髭のおかげで歳をとって見えるけれどたぶん母さんよりは若いと思う。背は高めですらりとしている、よく見ると頬にそばかすの跡が見えてそれに注目すると同時に頬髯を剃った跡も見えてあたしはやっぱり彼は中年の男なんだという認識を新たにする。

 男はカメラを下ろし、あたしに歩み寄りながら軽く右手を上げて言った。

「まあね、このあたりは第2東京でも自然が残っている場所だから、ぼくは昔から写真を撮るのが好きでね、学生の頃は港のそばに住んでいたから船や軍艦をよく撮ったものさ、そして自然を撮りたくなったときにはここに来ると決めているんだよ」

「でもこんな場所でカメラを振り回していたら怪しまれませんか、隣が学校ですし」

「たしかに、ぼくもこんな見てくれだからね、お巡りさんに職務質問されたことも一度、いや二度くらいあったかな、でもカメラをやるならこれは通過儀礼みたいなもんだと思うんだよ、見ず知らずの人間にカメラを向けられていい思いをする人間なんて多くはないだろうからね、目立ちたがり屋さんならともかく、そういえば君はそこの学校の子なのかな?」

「そうです」

「なるほど、いや実はぼくも君のことをよく見かけるなと思っていたんだよ、君は気づいていたかい?今あそこの木にメジロがとまっているだろう、あれはこの辺ではここの公園にしかすんでいないんだ、ぼくはさっきそいつを撮ろうと思っていたんだけどね、カラスが邪魔して逃してしまったよ、ああそれはともかくとしてだね、こうして写真を撮りに来るといつも公園にいる人たちはたいてい顔を覚えてしまうんだ、それで君はよくここに来ているなとぼくは思っていたんだ、ぼくが写真を撮りに来るたびに見かけたからね」

「鳥なんてあまり見ませんね、せいぜい電線に止まったスズメとカラスがうるさいくらいで興味はありません」

 照れくさそうに目を細めた男は手振りで林の中のひときわ大きな木を指して見せ、あたしはそれに従って顔を動かしたけれどもどうしても興味がわかなくてすぐに視線を戻した。あたしが興味を持っていたのはこの男が何をしていたかではなくどうしてここにいるかということでもなくただ彼自身そのものに対してだと思う。

 どうしてあたしと話しているのか、あたしはどうして彼に声をかけたのか。

「はは、これは手厳しいね」

「無愛想に見えたらすみません」

「まあ、いきなりで警戒してるのかな?ぼくは気にしないよ、慣れてるからね」

「慣れてる、ですか」

 あたしは彼のその言葉に妙に癇に障るところがあって、しかしそれは不快感ではなく期待からくるじれったさだと気づいた。

「カメラは趣味ですか?それとも仕事ですか」

「今のは趣味で撮ってるんだけどね、これでもカメラで食ってるよ、そうだ君も聞いた事くらいはあるかな、相田剣介って」

「どこかで聞いたことはあるような気がします」

「そうか、やっぱりまだ君くらいの若い子だとわからないかな、そうだねぼくが主に撮っているのはグラビアなんだ、わかるかい?アイドルの写真集とか、雑誌の表紙を飾るモデルさんとか、そういうものなんだ、はっきり言えば女を撮ってるってことなんだ」

「女」

「言い方がまずかったかな?気を悪くしたなら謝る」

 いえそんなことはありませんよ、そう言ってあたしは口元を拭う。

 林の向こうの校舎から昼休みの終わりを告げる予鈴が聞こえてくる。

「それじゃ、あたしはこれで」

「待った」

「なんですか?」

「また会えるかな?君ともっと話しをしてみたいんだ」

「昼休みにはたいていここに居ますから」

「そうかわかった、それじゃあね」

 男に背を向けてから、あたしは頬が熱くなっていることに気づいていた。初対面の人間と話して緊張したからとかそういうことではなく、あの男の何か、眼差しとか口元のしわとかのどぼとけとかそういった表情を構成するパーツがひらめくようにあたしの脳裏に浮かんできては消えていき、あたしはそれが彼に興味を持っていることを表しているのだと次第に認識を強めていった。

 彼はいつも暇を見つけては写真を撮りに町を歩いているらしい。そしてたまたま、この聖霊学習院の隣の公園を撮影スポットとして定めそこに通うたくさんの人間のなかであたしに意識が重なった瞬間があってそして見定めた、というわけだ。
 こうして連ねるだけでもそれは限りない偶然が重なりあって生まれたものでだから人は運命とかあたしたちの年頃でいえば赤い糸とかそういったものを信じるのだと思う。

 柄でもない、とあたしは風に揺れるケヤキの葉に向かって呟いていた。

 聖霊に入って、あたしとケイとレイコとモコは同じクラスになった。入学試験では面接があったから、たぶんそのときの担当教師の心証であたしたちはひとまとめのクラスに放り込まれたのだと思う。
 いかにも柄の悪そうな連中、ということだ。
 胃袋の中に収まった食事が堪えがたい眠気を誘う五限目の授業中、あたしはいつものように窓の外を眺め、ケイは頬杖をついてもう片方の手をポケットに突っ込み足を組んでいて、モコはノートを取るふりをして居眠りをし、レイコはペン回しをしている。二羽のスズメが葉をよく茂らせた木の上を絡み合うように飛んでいてあたしは彼らがつがいなのではないかと思った。スズメは羽ばたくと引っ張り上げられるように上昇し、そして羽ばたきを休むと息を吐くようにゆっくりと下降し、それを繰り返しながら学校の中庭を飛び回っている。

 ふと思いついて、あたしは先ほど昼休みに話した男のことを調べようと机の下に携帯を取り出した。話しぶりではそれなりの有名人らしい。
 だが、名前の綴りが分からない。だめもとであいだけんすけ、とひらがなで打ち込んでみたが案の定、キーワードはばらばらに認識されてわけのわからないサイトが無意味に羅列されただけだった。

 授業もホームルームも終わってから帰りしなにモコに訊いてみることにした。芸能情報なら彼女がいちばん詳しい。モコはよく肉のついた腹を弾ませて椅子に座りあたしを見上げてきた。

「相田剣介っていったらほら、芸能人専門のカメラマンじゃない、女を撮らせれば日本一って、有名だよその筋では、あんたもよく本屋行くみたいだけど写真集のコーナーのどれか一冊でも開いてみな、たぶんその名前載ってるはずだから」

「ううんそう、そういうのって見ないから分からないね」

 彼も言っていたことだが、女を撮るということは主に男に向けた商売をしているということだ、美しい女の裸身を観賞して楽しみたい男の欲求を満たすために彼らの代わりとなって写真を撮っているのだと。そしてその対価として金を受け取っているのだと。それが商売だ、仕事だ、産業だ。
 だが、それは売る側も買う側も割り切っているのだ、こういう使い方をされると分かっていてやっているのだ、だからそこに小賢しい感傷などはついてこないのだと思う。

「んでもなんでいきなりそんなこと訊いてきたのよ?」

 大きなふくれっ面に小さな目を丸めてモコが言った。

「別に、ちょっとその、相田先生だっけ?その名前耳に挟んで気になってたから」

 彼と会ったことは言わないでおこう、と思った。別にファンが押しかけてきたりとかそういったことはないにしても、いずれにしろただほんのすこしだけ通りすがりで話しをしただけなのに無闇に事を大きくしても得策ではない。

「あんたもマジですこしはそういう情報集めるようにしたほういいって、朝のめざましテレビとか見るだけでも違うよ?」

「テレビなんて見ないよ」

「まあそれはそれとしてさ、なんつうかほんとあんたってマイペースっつか図太いよね」

「図太い?そうは思わないけどな」

「ずけずけとしてるのよあんたは誰に対しても、遠慮がないっつうか」

「ほめ言葉?」

「半分はね」

 モコに言われて改めて自分の姿といったものに気づく。たしかに、さっき相田剣介、彼と話したときも彼はあたしに気を遣っているように見えた、それはあたしが棘のあるような態度を見せていたからだったのだと、モコの表情はそう言っている。人の態度というものは相対的なもので、好意的に接してくる者に対しては同じように好意的になれるがはじめから嫌悪感をもって接されたら好きになれるものも好きになれない。それと同じ事をクラス全員からやられているのだと、あたしがクラス全員にやっているのだと、モコが言っているのはそういうことだ。

 自分がどういう生まれの子供なのかは分かっていた。
 幼い頃から無口だったのは性分として、どうしてそうなったのかということになるとあたしはそれが他人という存在を恐れていたからだと、そして同時に独りになることが怖かったのだと、そう思う。
 やり場のないもやもやした苛立ちが募り、何も知らない幼児だったあたしは物事の分別などつくはずもなくただ本能のおもむくままに暴れまわり他人を傷つけていた。あたしが苛立ちをあらわにすればするほど周りの人間は離れていく。それが怖くなるとまた頭の中がもやもやで埋め尽くされていき、あたしはまた自分を制御できなくなる。
 母さんはその頃はまだ風俗の仕事をしていてあたしを構ってくれることもなく、父さんはそんな妻に嫌気がさして家庭を去り、あたしは独りぼっちになっていた。

 だからあたしはいつしか覚悟を決めていた。
 どうせはじめから自分が疎まれると分かっているのなら、わざわざ相手の機嫌をとるようなこともしない。そうやって得られる利益なんてないとわかっているから、余計な感情の糊塗なんてしない。そう決めていた。

 それがあたしという人間なんだ。繰り返すが人の態度というのは相対的なものなのだ。小学校時代、あたしが中傷を受けていたのもひっくり返せばあたしがその相手を憎らしく思っていることの裏返しなんだ。
 原因に何がある?あるいは両親が離婚した事実、母親の過去の仕事が親たちを通じて広まったのかもしれない、あの家はよくない、あそこの奥さんはあれでこれでそれで、だから関わらないようにしましょう、そんな主婦たちの井戸端会議を通じて噂が子供たちに伝わり、それが回りまわってあたしの身に降りかかってきたのかもしれない。

 そんなことは今はどうでもいい。今となってはあたしはそれを跳ね返せるだけの力を持っている、そう思いたい。

 ケイやモコは決してあたしをかばって仲間になったわけではない。ただ自然といつのまにか、同じ匂いのする者たちが寄り集まるように、はみ出し者が群れを作っただけだ。ケイはあたしと同じように暴れん坊で、小学校高学年の頃はあたしとふたりで組んでクラスの男子たちをシメていた。モコはそんなケイと幼馴染で、容姿のおかげでデブ、ブスと馬鹿にされあたしたちの前ではそんな素振りは見せなかったが内心かなり傷ついていたのだと思う。レイコは再婚家庭だと聞いたことがある。歳の離れた義兄との関係がうまくいかず、ひとりになれる学校に身を寄せていた、そんな感じだったらしい。

 ようやく、あたしは先ほど相田剣介、そう先生、相田先生と呼ぶことにしよう、相田先生と話したときに彼があたしに気を遣ってくれていたことはあたしが思っていた以上に大切なことだということに気づいていた。
 家族でもない、学校の子供たちでもない、教師たちでもない、まったくの他人というものに初めて触れたといってもいい、彼と話したことは。
 だからこれは貴重なチャンスなんだ、なんのためのチャンスかはともかく、もしかしたらあたしが変われるきっかけになるかもしれない。あたしの心の棘を抜いてくれる人に出会えたのかもしれない、そう思うとあたしがなぜ彼と別れた後興奮していたのかという問いかけの答えに手が届くような気がしていた。

 相田先生、彼との関係はまだ何もない。今はまだ、通りすがりでちょっと話しをしただけだ。他になんの関係も過去もない。だから白紙だ、その白紙にあたしたちはこれから関係を書き込んでいくことができる。
 次に彼と会ったらどんな話しをしようか、学校でのこととか、あるいは先生の仕事のこと、カメラのこと、そういうのを聞いてみたいと思う。

 レイコがマクドナルドに寄りたいと言ったのであたしたちは連れ立って帰り、あたしはそこで夕食のぶんまで食べてしまおうと考えてチーズバーガーのハッピーセットを注文した。そんなに食べたら太るよ、とモコが笑いながら言ったらあたしが噛んでいたフライドポテトを飲み下すよりも早く、あんたがそれを言う、とケイが横からモコの肥った腕を叩いた。

 5月の連休中にウィルの部屋にみんなで行って遊んだ。クラスで隣の席の天城という男子をモコが連れてきて、あたしは自分の隣の席の子だったのに彼の顔を覚えていなかったことに気がついてみんなから笑われてすると自分も可笑しくなってきていっしょに笑った。名前の五十音順に席が割り振られているのであたしと天城、リュウタロウという名前だったのでリュウと呼ぶことにした、あたしとリュウは共に出席番号1番で教室の右列先頭だ。ケイは反対にいちばん後ろ側の左後方だ。苗字が山城なので後ろのほうなのだ。彼女より後ろに居るのは渡会という眼鏡にお下げの子がひとり居るだけだ。
 あたしはパイプベッドの脚に両手でしがみつき、四つん這いになってカズヤのあれを咥えた。リュウはあたしの後ろでレイコの胸に寝そべりたまに揉んだりしている。ドミニクが持ってきたハシシが部屋の真ん中で焚かれ煙をさかんに上げていて、みんな気分がよくなってそれぞれに思い思いのプレイを楽しんでいる。ロクサンヌが張りのある黒い肌をローションで艶っぽく光らせ、坊やたち可愛がったげるよと片言の日本語で言って少年たちのあれをすする音が聞こえている。ウィルはレイコの股に頭を突っ込んだままぶつぶつと何かしゃべっている。
 モコがあたしの後ろから圧し掛かってきてあたしは彼女の重い身体を支えきれずにベッドからずり落ち、カズヤがなんだしっかりしろよと言ってベッドから降りて座り込み自分の股の間にあたしの頭を挟むとあたしの髪の毛で自分のあれを扱きはじめた。汗と先走りの汁と、それからあたしの唾液が混ざって床にしたたり落ちる。モコが後ろで笑っていてあたしは重い、と言ったけれど彼女はあたしを押さえつけたままほら、もっとやっちゃいなとカズヤをけしかけ、彼女とレイコに群がっていた何人かの男たちがぞろぞろとあたしの背中から嬲りかかってきて、バイブで濡らした誰かの愛液と先走りの混じった汁をあたしのお尻に塗りつけた。ケイはそんなあたしたちの醜態を見下ろし、ベッドの上に座り込んで煙草をふかしている。灰をゴミ箱に直接落としながら、エクスタシーの錠剤を噛み砕く音が部屋中に響く。
 つけっぱなしのテレビは騒がしい昼下がりのワイドショーを映し出していてあたしたちを退廃的な気分にさせる。

「やっぱあんたはやられてるのが似合うよ」

 煙を吐いてケイが大声で笑い始めた。
 あたしは泣きそうな声でそうなの、と訊き返してカズヤの両足に挟まれながら頭をゆすったけれどもその刺激でカズヤは達してあたしの髪と首筋にザーメンをぶちまけた。

 ああやっぱりお前はいいぜ、と満足げに息を吐いてカズヤが言ったのであたしはすこしだけうれしくなって手を伸ばして彼の足を撫でた。

「次俺と代われよ」

「ええユウキ、あたいとやりたいんじゃないの、浮気するの」

 上半身裸になっているケイが煙草を灰皿に押し付けて火を消してからユウキの肩に寄りかかる。酔っているのか、彼女の大きな茶色い乳首が震えているように見えた。

 こいつはプロの娘だからね、だからいうなれば生え抜きってやつよ、生まれたときから素質持ってるのよ、濁った声でケイが叫んでいる。あたしは涙で頬を濡らしながらもなにも言えなくて黙ってみんなになされるがままに身体を差し出していた。

「澄ました顔して乱れるんだな、このメス犬」

 部屋の隅でレイコがあえぎ声を上げている。
 あたしは顔や髪にばかりかけられていたのでいいかげんあそこの方が疼いて仕方なくなってきたのでモコにどいてよ、と言って這い出すとユウキに抱きついてキスしたり、馬乗りになって彼のあれをあそこに出し入れした。ドミニクとロクサンヌがあたしたちの身体をつかんで英語で掛け声を叫びながらより激しく動かす。ちょっとギクシャクしながらばね仕掛けのおもちゃみたいに跳ねるあたしたちを見てみんなが声を上げたり指を差したりして笑っている。泣いてんじゃないよ、というケイの声が耳に残って不愉快だった。

 部屋はみんなの汗とあそこの液の臭いでいっぱいになったので窓を開けた。
 ウィルに断って風呂を借り、シャワーで身体じゅうにまとわりついたべとべとした男の体液を洗い流してからもう一度ウイスキーを一口呷る。舌とのどがひりひりして一度に飲み込めずあたしは流しに行ってコップに水を汲むとそれで口の中を洗った。酒の糖分が歯に絡み付いてあたしは口の中にまだ射精の余韻が残っているのではないかと思ってもう一度水を飲んだ。ケイがこれ、貰っていくからとベランダに並べられている植木鉢からウィルが育てていた植物の葉っぱをちぎって持っていき代わりに丸めた千円札の束を洗面台のふちに置いたがあたしはそれに気づかず水をこぼしてしまい、紙幣が濡れてしまったのでみんなが帰ってからあたしはそれをテーブルの上に広げて乾かした。あたしは溶けてふにゃふにゃになった野口英世の肖像画を眺めながらこのお金はあの男子たちが持ってきたもので、でも彼らのお金ではなく親から貰った小遣いなのだと、さすが金持ちの学校は違うと笑いながら床に乱雑に脱ぎ捨てられた誰かの下着を踏みつけながら歩いた。あたしが部屋に残って紙幣が乾くのを待っていると、ウィルがあたしの隣にしゃがみこんできて俺もロクサンヌから貰ったよ、俺は可愛いってよく言われるんだよと言って濡れたドル紙幣を千円札の隣に並べた。
 ウィルはやおら立ち上がると、窓の向こうに見える滑走路を離陸していく戦闘機に向かってアリシア、アイラヴユーと叫んでいた。淋しさを無理やり打ち消しているようなその声の残響を聞き流しながら、あたしはもう一度ウイスキーを呷った。

 そうして吐き出したウイスキーの茶色い液体が流しの排水口に消えてから5度目の夜が過ぎたとき、あたしはあの公園で相田先生に出会ったのだ。
 彼はあたしのことをなんと思っただろうか、つっぱってると思われたか、それとも道徳観のない子供と思っただろうか、どちらにしろあたしがよからぬ遊びに没頭しているということは知られてはまずいと思う。
 生き物はまた夢に出てきて、ひとつになるのはとても気持ちのいいこと、と語りかけてきた。あたしはそれが身体を合わせることだと思ったが夢の中でまた彼女はあたしの身体の中に触手を入り込ませ、今度はそれを通してあたしに何かを伝えようとしているように思えた。
 カオリは穏やかな性格の大人の女でメグミはやんちゃな少女だ。
 あたしはまた彼女らの交わりを眺めながら生き物の言った言葉の意味について考えていた。セックスはたしかに肉体の快感をもたらすが、今言われていることはそれよりももっと深い意味があるような気がする。あたしはただケイたちのグループの中に入ることで自分の居場所を見つけている、それは今日のような乱れた遊びの中であたしに与えられた役割をこなすことであり、あたしはそのために人生のうちの幾許かの時間を費やしている。
 ひとつになる、とは文字通り肉体が融合してしまうことなのではないかとあたしは思っていた。夢の中では生き物とあたしは別々の肉体を持っているが、しかしこうして起きている間はあたしはあたし一人ぶんの身体しか持っていない。彼女が居るのはあたしの身体の中なのだ。あの細長い触手であたしの血管の中に入り込み、ときおり動き回ってはあたしに自分の存在を主張する。それは明らかに人間ではない存在だ。

 次の日も公園に行ったが相田先生は今日は来ていなかったのであたしは公園の中を歩いて回ることにした。有名なカメラマンなら仕事も忙しいだろうし、次のオフの日はいつになるだろうとすこし思案したが芸能界の仕事の実態などあたしには分からない。
 遊歩道の両脇に桜の木が並んでいて花はすでに散ってしまっていたのであたしはそれが桜だと気づかなかった。もうすこし早くここに来ていれば満開の桜を見ることができたのかもしれないと考えるとすこし惜しい気持ちになった。公園の大通りに面した側には池があってそれは大小二つの円を重ねたひょうたんのような形をしていて二基の噴水が水をせっせと打ち上げている。池の中に桜の花びらが浮いていたので桜が散ったのはさほど前のことではないらしいとあたしは思った。空を見上げると今日は快晴で昼の太陽があたしをまぶしく照りつけて鼻がむずむずしてきてくしゃみをした。

 授業に戻ってから、あたしはずっと相田先生のことばかりを考えていて先生に当てられても答えることができなくてそしたら後ろのほうから笑い声が聞こえてきた。
 椅子に座りなおし隣の席を見るとリュウは恥ずかしそうにして顔をそむけたのであたしはそんな彼が可愛くなって彼に見えていたかどうかは分からないけれどもかすかに口元をほころばせた。
 あたしは授業中は先生の話しを聞くこともせず暇なので教科書の先のほうのページを読み込むことにしている。各章の終わりには問題集が6ページまるまるを使ってずらりと並べられている。このペースで行ったらあと何日後にこの問題集をやらされるのかと思うとかったるい気分になってあたしはため息をついた。中学校の教科書は小学校の頃のものとは違ってたぶんA5判かB5判と小さく書かれている文字も小さい。数学Iの教科書は横書きの楷書体の文字が連ねられていてその中で数字と算術記号だけがゴシック体で書かれている。

 放課後にもケイたちの誘いを断って公園に寄ってみたが相田先生の姿を見つけることはできなくてあたしはまた肩を落としていた。
 どうしてだろう、なぜこんなに囚われてしまっている?
 たしかに彼はまた会えるかなと訊いてきたしあたしはそれに対して昼休みはいつもここにいる、と答えた、それは相田先生はあたしに会いたがっていることを表しているのだと思う。そしてあたしも先生に会いたくてこうして毎日公園に足を運んでいる。
 それなのに会えないのはお互いの時間が合わないからで、先生だって学校の昼休みの時間に合わせてオフをとることもなかなかできないだろうしあたしもまさか授業を抜け出して公園に来るわけにもいかないし、しかしあたしたちは昼休みになら会えるとお互いの時間を確認している。だからそれ以外の時間には期待していない、それ以外の時間はあたしは学校で授業を受けているか友達と遊んでいるかだし、先生は仕事があるだろう。
 翻って、あたしは母さんと会おうと思えばいつでも会うことができる、夜遅くまでがんばって起きていれば母さんは家に帰ってくるだろうし、外泊することもあるかもしれないけれど、あたしたちは同じ家に住んでいるからいつでも会うことができる、逆に言えば会いたくないときでもいやでも顔を合わせざるをえない。しかしあたしと先生とでは会おうと思ってもなかなか会うことができない、昼休みのほんの数十分の時間しかあたしたちは予約をしていない、一日のなかでのほんのわずかな時間、それだけしかあたしたちはつながりがない。帰る家も違うし毎日通う職場も違うし、まったく別な世界に住んでいる人間なのだ。

 ふと、先日彼が示した公園の大きな木を見て、今日はあの木にメジロがとまっていなかったので彼も来ていなかったのではないかと思った。
 あのオリーブ色をした鳥がいるときは彼もいるのだと思い、あたしはそれから授業中はいつものように外を眺めながらあの鳥の姿を探すことにした。飛んでいるのは茶色いスズメがほとんどだが中にはカラフルな色をした小さな鳥もいて名前は分からなかったけどとても甲高い声でさえずっていた。鳴き声は教室の中まで聞こえてくる。だけど、鳥の声を気にする者など誰もいない。

 次の週になって、またこの間のように霧の出た朝、あたしはまた昼休みに公園に足を運んでいた。同じように遊歩道わきのベンチにこしかけ、カレーパンをかじっているとこの間のあの日と同じようにカメラを構えている男の姿が目に入ってきた。

「やあ、また会えたね」

 2回ほどシャッターを押してからフィルムを巻き取りカメラを下ろすと相田先生はあたしに向かってきた。

「今日は撮れましたか」

「うん、まずまずといったところだね」

 彼はあたしの隣に、やや間隔をあけてベンチに腰を下ろした。

「あれから友達に訊いてみたんですよ」

「何をだい?」

「あなたのことです、相田剣介って、芸能人専門のカメラマンでその筋では有名だと、それから本屋に行って写真集をいくつか見てみたんですが先生の撮ったものもたくさんありました」

「そうか、ありがとうぼくも見てもらえてうれしいよ」

 相田先生は前回と同じ褐色のミリタリージャケットを着ている。

「ところで、こういうふうに外を歩いているとファンの人とかに見つけられたりはしないんですか?」

「ぼくのことかい?いやぼくが撮ってるようなタレントさんやモデルさんならそういうこともあるだろうけどね、ぼく自身は全然そういうことはないよ、有名だといっても名前だけが有名なんだね、写真集に撮影者、相田剣介と書かれることがぼくにとっての有名なのさ、たしかに雑誌の記事とかで顔写真を載せられることもあるけれど、ぼく自身はそういう追っかけとかとは無縁だね」

「それを聞いて安心しました」

 相田先生はこっちを見てどうして?というような表情をした。それは相手が、つまりあたしが子供だからそれに合わせてしぐさも子供っぽくしているということだ。

「女子中学生と談笑しているのが週刊誌に撮られたらどういうことになるかと思って」

 先生は苦そうに微笑み、あたしもそれに合わせて苦笑する。

「ああでも、若い女の子のモデルさんとかと食事に行ったりすればそれを撮られたことはあるね、でももっぱら話題になるのは彼女のほうでぼくにはせいぜいお付き合いはいつから、とかそういう質問が来るばかりだね」

「そうですか」

 あたしは何を話したがっているのだろう?なかなか、目当ての話題に近づけない。それともこうしてただ二人の時間を共有すること自体が目的だったのだろうか。
 それから携帯の番号とメールアドレスを教えあい、あたしは先生のメールアドレスを携帯の電話帳に登録してから携帯を畳みポケットにしまった。

「時間はいつでも大丈夫なんですか?たとえば撮影中にメールが着信したりしたら」

「大丈夫だよ、そういう時は身につけないからね、バイブレータが鳴ってもかばんの中だから撮影に影響したりということはない、だから安心して」

 予鈴が鳴ったが、あたしは戻ろうという気が起きなかった。もっと話しをしていたい、そう思いながらもう一度先生の顔を見る。
 やや沈黙があり、すると鳥たちのさえずりや風のざわめきがひっきりなしに聞こえてくる。あたしは自然の音というのはとても静かなものだと思っていたがこうして改めて耳を傾けてみるとそれは人間の雑踏と同じように多くの音があり、しかし決して不快な音ではないということに気づいていてその違いというのが人間と自然の動植物たちとの違いなのだと思っていた。

 そういえば、と前置きしてから先生が話し始めた。

「君は聖霊学習院の子だったね、じつは高等部の子でひとりぼくが撮った子が居るんだよ、雑誌の企画でね、街角の女子高生たちといった感じで、いや別にいかがわしいものではないんだけどね、しかしたしかにここの子たちはいいと思ったよ、制服もデザインがいいしね」

「そういうのもあると聞いたことはあります」

「そうか、でぼくは思ったんだ、君も同じようにそういうモデルになれるんじゃないかって、ぼくの見立てでは君ならきっといい画が撮れると思うんだ」

「あたしをモデルに?」

「うん、それともやっぱり恥ずかしいかな」

「正直にいえば、すこし」

「まあそうだろうね、いきなりの話しだし、でも心に留めておいてくれるとうれしい、これはぼくの正直な気持ちだよ、こないだ君を初めて見たときにぴんときたんだ、この子ならいけるってね、こういう直感っていうのは写真の世界では大切なんだよ、わかるかな?写真は見ての通りにものごとの一瞬しか写せないんだ、瞬間を撮るんだね。だからこうしてたとえばさっきぼくが撮った鳥だけど、あの鳥も同じ格好でずっと止まっているわけではないんだ、同じしぐさもしないし、いちど過ぎてしまった瞬間っていうのは二度と戻ってこないんだ、だから本当にこのときだっていう瞬間を逃さないためにはそういう直感が必要になってくるんだよ」

「瞬間、ですか。ではビデオカメラならどうなんですか?あれなら連続した映像を撮れるでしょう」

「そう思うだろう、でもやはりこれも、写真とは違った意味でまた必要になってくるものがあるんだ、最近のカメラなら何時間も連続して撮れるけど、そういう時間の連続に意味はない、たとえば今君がこうして座っている中で何かしぐさをする時間とじっとしている時間とどっちが長いかい?何かの動作をしている時間のほうがずっと短いはずなんだ、だからただ単にずっとカメラを回していればいいってわけではない、それこそ定点撮影のようになってしまうしね。大事なのは何を撮るかということ、その撮りたいと思うもの、撮りたいと思う瞬間を逃さないことなんだ、これはたとえば連続した映像を撮ってあとから必要な部分を抜き出せばいいというのとも違う、現場でレンズを向けて迫らなければ本当に心に響く映像っていうのは撮れないものなんだ、さっきも言ったように何かの動作をしている時間、つまり撮影の目的になる瞬間だね、それはすごく短くてあっという間に過ぎてしまうんだ、どの瞬間でカメラを回せばいちばん効果的な映像を撮れるか、連続してといっても同時にいくつもの角度から撮れるわけじゃない、いちどに撮れるのはやはり一瞬しかないんだ、そのいくつもの角度からどれを選べばいちばん心に響く映像になるか、それを探すためにはただ単に長い間撮っていればいいというものではない、本当に目的になるのはほんの数秒かそこらでしかない、それを逃さないためにはやはりものごとの動きとか空気とか雰囲気とかそういったものを敏感に感じ取る力が必要になってくるんだ」

 あたしたちの目の前を鳥が飛び去っていった。
 食べ終わったカレーパンの包装袋を丸めてポケットに押し込む。ポケットの中でポリエチレンの袋がくしゃくしゃになって動いているのが目に浮かぶ。快晴の日ざしはあたしの身体を温め、あたしはもうすこしここで日向ぼっこをしていたいと思っていた。

「さてぼくはそろそろ行かないとね、実は今近くのスタジオでスタッフを待たせているんだ、今日は撮影があってね。昼休みに抜け出してここに来たというわけさ」

「そうだったんですか、もしかしてあたしに会いに?」

「期待はあったね、いやぼくもこないだああ言った手前、少なくとももう一度はここで君に会わなければいけないなと思っていたんだ、それにさっき言ったように君はぼくの写真のモデルになれるだけの素質はじゅうぶんにあると思うんだ、だからそのことを言っておきたかったんだ。これはぼくの本心だよ、君は自分で自分のことを無愛想に見えるとか言っていたけれどぼくは決してそうは思わない、君はきっと気づいているかもしれないけれど君自身に、君の中にいるもう一人の君にぼくは惹かれていたと思うんだ」

 授業はとっくに始まっていて、今さら戻っても遅刻の言い訳を考える気にもならなかったのであたしはこのまま学校はフケてしまうことにした。

 相田先生は最後に言っていた。
 あたしの中にいるもう一人のあたしに惹かれていたと。

 あたしはそれがあたし自身の心の中を見透かされているような気がしてじっと彼の去っていった方向を見つめていた。あたしの中に居るもう一人のあたし、それが何を指すのか、彼がどんなつもりでそう言ったのかはわからないけれど、相田先生の丸眼鏡の向こうにその正体が見えるような気がして、彼には見えていたのかもしれないと思う。

 振り返って公園を見ると、割烹着を着た老婆が乳母車を押しながら歩いていた。あたしは公園入り口の石畳にじっと立ちつくしたまま、その老婆がゆっくりとよぼよぼと乳母車を支えにして歩きながら丘の向こうに見えなくなってしまうまでずっと鳥たちの声に耳を傾けていた。同じ鳴き声は一度として聞こえない、先生が言っていたように、二度とやってこない瞬間を逃さないために直感が必要なのだと、あたしは自分の見る夢があるいはその直感なのではないかと思っていた。生き物は決まって出てくるが、同じ内容の夢はひとつとしてない。あたしはそんな夢の内容を覚えていて、思い出す。
 先生はそのことに気づいていた、知っていた。だからあたしに会おうと思ったしあたしを待っていた、そうなんだと思う。そう思いながらあたしは先生の言葉を反芻する。

 でも心に留めておいてくれるとうれしい、これはぼくの正直な気持ちだよ、こないだ君を初めて見たときにぴんときたんだ、この子ならいけるってね、こういう直感っていうのは写真の世界では大切なんだよ、いちど過ぎてしまった瞬間っていうのは二度と戻ってこないんだ、だから本当にこのときだっていう瞬間を逃さないためにはそういう直感が必要になってくるんだよ、だからぼくは少なくとももう一度はここで君に会わなければいけないなと思っていたんだ、それにさっき言ったように君はぼくの写真のモデルになれるだけの素質はじゅうぶんにあると思うんだ、だからそのことを言っておきたかったんだ。これはぼくの本心だよ、君は自分で自分のことを無愛想に見えるとか言っていたけれどぼくは決してそうは思わない、君はきっと気づいているかもしれないけれど君自身に、君の中にいるもう一人の君にぼくは惹かれていたと思うんだ──





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