フルート





「うん、だから今日の予定はぜんぶキャンセルで──ああ、それで頼むよ。すまないね、よろしく」

 私はベッドの中で羽毛の大きな枕に頬を埋めながら、ゆっくりと瞼を開けた。
 バスローブを腰に巻き、上半身裸になった男が携帯で話している。窓の外はほのかに薄明るくなってきていて、カーテンが薄青の光を放っている。手元の時計は午前5時を示している。

 男は携帯を畳むと、私の方へ向き直った。眼鏡はしていない。

「ごめん、起こしちゃったかな」

 相田先生が私のほうへ歩み寄ってくるのに従い、私は首を回して先生を見上げる。

「いいんですか?仕事を急にオフにしちゃって」

「大丈夫さ、スケジュールには余裕がある」

 私は毛布をかぶったまま腰に手をやり、下着をはいていないことを確かめる。先生もそんな私のしぐさを見て取り、穏やかに微笑んだ。私たちは自分たちの夜を思い出す。

 アヤネちゃん、君は本当にいい子だよ、先生はそう言ってベッドに腰を下ろした。

「先生の身体を見るのって初めてです」

「どんなもんかな?」

「思ったより筋肉質ですね、服を着ているときは細く見えましたが」

「カメラの機材っていうのはみんなが思っている以上に重いものだからね、何十キロもあるんだ、それを背負って何時間も歩き回るわけだからね、必然的に体力は必要になってくるのさ」

 先生はカメラマンの仕事で世界じゅうを飛びまわっている。私と会える機会はけして多くはない。だから私は先生と会える夜がとても待ち遠しい。
 自分の肩を揉む先生の手をじっと見つめる。皺があって、皮は硬くなっていてかすかにひび割れも見える。大人の手だ。仕事をしている職人の手だ。
 その手で昨夜、先生は私の身体に触れた。
 私もそれを受け入れた。そうしてほしいと思っていた。

 アヤネはとても満足している。だが、同時にそれがひとときの誤魔化しに過ぎないのだということもわかっている。わかっているから、こうして簡単に身体を差し出すことができるのだ。

「眼鏡無しで、私の顔が見えますか?」

 私はベッドから起き上がり、まだ小ぶりな胸を毛布で隠しながら先生を見つめる。

「ああ」

 身体をかがめ、顔を近づける。お互いの体温と息遣いが感じ取れる距離まで近づく。

「よく見えるよ」

「私もです」

 そっと触れ、私たちはキスした。

 ホテルを出て別れるとき、相田先生は小遣いだと言って私にけして少なくはない額の紙幣を握らせた。もう既に学費と生活費としてじゅうぶんな額のお金は貰っているのに、これ以上先生にお金を出させるのはなんだか悪い気もしたが、先生の満足そうな笑顔が見られたので私はすこし嬉しくなってしまって断りきれずにそのお金を受け取り、そのままポケットに無造作に突っ込んだ。先生が自分のフェラーリに乗りこんで交差点の陰に消えてしまうまで、私はずっと立ち尽くしたまま道路の向こうに視線を投げていた。鳥は飛んでいない。街中だから当たり前だが、カラス一羽も居ない空はどことなく物足りない気がした。代わりにジェット旅客機がビルの谷間のずっと遠くを飛んでいて、私はその飛行機が天球に貼り付けられた模型のように見えてふっ、と哄笑を漏らした。そうだ、アヤネはこうしてお金を稼いでいるのだ。モデルのギャランティだけではなく、こうして個人的な付き合いをすることで小遣いを貰っている。くれるというのだから黙って貰っておけばいい。そこにあるのは女の身体と笑顔の価値というものと、それに金を差し出して買う男の性というものだ。そこには感情の交錯などあるはずもない。だからこそ、私たちはそれぞれに仮初めの想いというものを自分の身体に満たして愛を感じることができる。

 それから駅前の歩行者天国で営業している立ち食いそば屋で朝食にした。いちばん安いかけそばを頼み、卵も一個つけてもらった。出汁の上に浮かんだ卵の白身をすするとなんだか昨夜の感触がよみがえるような気がしてあたしはにやけ面を他の客に悟られないようにうつむいてそばの麺をかきこんだ。
 勘定にはさっき先生から貰ったお金をそのまま出した。握りつぶしてくしゃくしゃになってしまっていたのであたしはカウンターの上で紙幣を指で丁寧にならしてから差し出した。しわだらけになった一万円札を見て店員は訝しげな表情をかすかに見せた。それはあたしがこのお金をいかがわしい方法で手に入れたと悟ったからなのだろうか、こんな朝早くから少女が客に来るなんて、夜はきっと寝ずに遊んでいたのだろうとそう思ったのだろうか、ともかく店員は250円ですと言ってあたしは9000円以上のおつりを受け取ったので勘定に時間がかかって隣の席で食べていた色黒のオヤジがなんだこの小娘、といった表情であたしを見ていたが気にかける素振りも見せずあたしは椅子から跳ぶように降りて店を出た。

 あたしはアヤネのことを仲間に加えようか考えていた。
 彼女はカオリやメグミと違ってずっとエロい、しかしかといってチカのように馬鹿でもない。もっと黒い、狡賢くてしたたかだ。肉親への憎しみが彼女の原動力だ。先生が考えたアヤネというのはどんな少女だったろうか。彼女は不義の子として周囲から疎まれ、頼りにできる人間も居なく世の大人、他人に対して絶望していた。それは先生であっても例外ではない、本当に心の底から想いを向けて、心を傾けて、心を開いて、そうすることができなかったから身体のつながりでしか他人との想いを繋ぐことができず、それはある意味ではモデルとしては恰好の素材だったのかもしれないが、ともかく彼女、アヤネはそんなやり場のない想いを抱えた、未来のない人間だったのだ。ただ今を生きていればそれでいい、その今が崩れ去るということがなければ、永遠に今を繰り返していける、そう思って生きているのだ。
 やっぱり今は保留にしておこう、と思った。仲間に加えるにはあまりにも危険すぎる。なによりも彼女は他の三人と違って、明らかにあたしの意識を奪って自分のものにできる力がある。それは先生の考えた設定が優れているという意味なのかもしれないけど、あたしはまだそれを制御できる自信がない。チカのように、性的暴行を受けた際の緊急避難的な仮想人格とは明らかに違うのだ。
 あるいはこれが生き物の力なのだろうか、と思っていた。
 あの淫夢で生き物があたしに見せようとしていたもの、それはあたしがいくつもの人格を内包しそして演じ分けることができるのだと、そうやって生きていけと、そういうことだったのだろうか?
 傍目から見ればあたしはどんなふうに見えるのだろうか。ころころと人格が変わるせわしない人間、勝手のわからない人間、姑息な人間、そんなふうに見えるのだろうか。
 それがあたしの運命なのかもしれない。
 そうやって自分を装うしか、あたしは自分の身を守る方法がないのだ。これはいくら年齢を重ねても経験を積んでも同じだ。あたしは女なのだ。女だから、男を受け入れるしか最終的には生きていく道がない。途中にどんな経過を挟んでいようとも最後にはそこへつながる、それが母さんの姿だった、だからあたしは無意識のうちに母さんを疎ましく思い、苛立ちを募らせ、こんなゆがんだ性格になってしまったのだ。
 人が必要とされるためには誰かの役に立つことが条件だ。その役に立つとはどんなことなのか、それが仕事だ。
 あたしは先生とともに居ることで彼の役に立つことができる。だから先生はあたしに契約条件以上のチップをくれたのだしあたしもそれを受け取った。先生はあたしに感謝してくれていたのだろうか?また、あたしは先生に感謝するべきだろうか?男の気持ちなんてわからない。ただ目の前の事実しかあたしには判断材料がなくて、だから男が女をもてはやすのはそれはとても恵まれていることで、だったら恵まれているうちに思い切り楽しんでおいた方が得なのだと、あたしはそう考え始めていた。
 少なくとも普段相手にしているクラスの男子連中よりは、先生のほうがずっとあたしの身体を上手く扱えていたと思う。

 家に帰って自分の部屋に上がるのもかったるかったのでリビングのソファで横になっていると呼び鈴が鳴ってリュウがやってきた。
 あたしが部活はどうしたのと訊くと今日は個人練習だと答えて彼は自分の楽器ケースを持って部屋に上がってきた。彼は吹奏楽部に入っていてフルート担当だ。区のコンクールが近いといつだか言っていた。黒のプラスチックケースに赤いベルベットの内張り、その中に洋銀製のフルートが収められている。彼がそれを取り出して組み立てている様子をあたしはじっとソファの上から眺めていた。

「何をやるの?」

 寝転がったまま訊く。グリスの塗られた頭部管がはめ込まれる音がして、リュウは2、3回試し吹きをして音を確かめる。

「コラールとカプリチオ」

「聞いたことない」

「そりゃそうだろうよ、音楽やってない人間にはな、ジョバンニーニって知らないだろ」

「うん」

「俺も部活に入るまでは知らなかったし」

「ジャクソンはハーモニカがうまいって聞いたよ」

 吹奏楽の編成にハーモニカは無いよ、とリュウは乾いた声で笑う。

「米兵?」

「そうだけど」

「よく遊ぶのか?」

「たまにね」

 リュウはテーブルの上に楽譜を広げて曲の最初から通して吹き始めた。あたしも黙って聴く。前半は穏やかだが、後半に入ると一気にスピード感が増して派手な曲調になる。ソファに寝そべったまま彼の指使いにじっと注目する。吹き口に接する唇がやや乾いているように見える。
 ひととおり最後まで吹き終えた後、あたしはダイニングへ行ってコップに水を汲んで持ってきた。差し出すとリュウはありがとう、と言って唇を湿らせた。

「なかなか上手いんじゃないの?」

「まあな、でももうちょっとだ、高音域になるとちょっと追いつかないんだよ」

「そう」

「そういや霧島だっけ、あいつも音楽やるんだってな」

「マナのは電子楽器専門みたいだけど」

 楽譜のページをめくり、もう一度コップの水を含んでからまたひとフレーズ吹く。フルートを持つ両手の指の動きに従っていくつものキーが上がったり下がったりを複雑に繰り返し、それによってさまざまな音階が奏でられる。

「ヤマハ?」

 そうだよ、と言ってリュウはフルートの足部管を外してたまった水分をふき取る。

「フルートはムラマツがいいなあ」

「なんだって?」

「ムラマツよ」

 入矢先生が持ってたな、とリュウは言った。入矢先生は音楽担当で吹奏楽部の顧問だ。彼の専門はバイオリンらしい。最初の音楽の授業のときに他の女子のグループが話していたのを耳にした。
 あたしはこないだマナから借りたUVのCDを返しに行くことにした。自分の部屋に上がり、プレイステーションに入れっぱなしだったディスクを取り出してケースにしまい、傷をつけないようにハンカチで包んでからいつものスクールバッグに入れる。リビングに下りるとリュウもフルートを片付けているところだった。

「ちょっとマナのところまで行ってくる」

「学校に戻るのか?」

「寮までね」

「俺も行っていいか、そういや霧島の部屋って見たことないな」

 外はよく晴れていて初夏の日ざしがまぶしかった。もう少ししたら梅雨に入るが、それまではこの心地いい陽光を浴びることができるだろう。

 あたしの家から聖霊までは歩いて30分といったところだ。住宅街を抜けると線路を挟んで丘があり、その中腹に聖霊学習院は建っている。
 歩いている途中、リュウは何度かフルートのケースを右手と左手で持ち替えている。何度目かにそうしたとき、やおら話し出した。

「俺は中学になってから知り合ったからわからないんだけど、お前とケイたちって仲いいのか?」

「なんのことよ?」

「いつもいっしょに話したりしてるじゃないか、お前ら小学校から一緒だったんだろ」

「べつに、ただいっしょにいるだけよ」

「そうなのか」

 あたしたちは仲良しグループというわけではない。あたしがみんなからなんと思われているか、それは想像に難くない。みんなと遊ぶときケイが何度も言っているように、あたしは娼婦の娘なのだ。だからみんなも、あたしとならいくらやっても構わないと思っている、やらせてくれると思っているし実際あたしもそうさせている。彼女は幼い頃から必死で働いてきた両親の姿を見ているから、学生の頃から悪い遊びばかりしていて更生するのに苦労した親の姿を見ているから、自身の振る舞い以上にそういう遊びに対しての姿勢は厳しい。だから素っ気無くしているあたしの姿が癇に障るのだろう。
 初体験がどんなものだったかはもう忘れてしまった。小5の頃だったと思う、ちょうど林間学校があったからその前後だ、コウヘイがその手のエロ話しが好きでよくみんなに語っていた。やんちゃなケイにちょっと殴られたりするとすぐにレイプされたと廊下を走りながら触れ回り、それをみんながゲラゲラ笑いながら見ていた。あの頃はまだみんな初心だったと思う。あたしもいつしかその群れの中に入っていて、いっしょになって囃し立てたりもした。教室のゴミ箱を漁ってクラスじゅうの男女関係を調査するという遊びを提唱したのもあたしだ。放課後の学校に日が暮れるまで残って遊んだり、そんな中でふとしたきっかけで近づいて、初めての触れあいに心を躍らせた。同じ風紀委員だったシュンイチとすこし恋人関係のようなことになったりもした。

 あたしが手にしているお金というのは汚れたものなのだろうか?先生から貰った小遣いはまだ残っている。それは汚れた手段で手に入れたものなのだろうか?母さんも同じようなことをして、醜い男たちに身体を差し出して稼いだお金であたしを食べさせていたのだろうか?
 自分が初めてこういうことをして、男から金を貰って、それで初めて本当に意味が分かったのだと思う。身体で稼ぐとはどういうことなのか。
 胸のうちに残るこの黒い塊のような感情のわだかまりがその正体だ。
 母さんの実家は京都のそれなりの名家だったようだが、末娘だった母さんは幼い頃からあまり大事にされてはいなかったらしく、高校を終わると同時に家を出て第2東京に移り住み風俗業に身を投じた。それ以外の世界など見てきていないはずだ。ただ自分の身体だけが生きる頼りだった。そのおかげか、四十を過ぎた今でも同年代の女と比べれば若さを保っていると思う。それは努力によって得られたものだ、あるいは血筋のおかげなのか、世俗一般の民とは違う、そういうことなのか、白鳥がどんなに泥にまみれても白さを失わないのと同じように。あたしがたとえば30年後、今の母さんと同じ歳になったとき、変わらず美しさを保っていられるだろうか。
 美しいものには価値が付く。それは芸術品が高値で取引きされるのと同じように、女の身体というのは芸術品なのだ。男はそれに金を出して買う。ただそれだけのことだ。なんのことはない、世間の商売となんら差はない、同じことなのだ。買う、とはなにも形のあるものとは限らない。サービス、無形のものにも値段は付く。それと同じことをしているだけだ。あたしは先生に笑顔を見せ、たとえばマクドナルドではスマイル0円なんて冗談まがいのサービスをしているがそれと原理としては同じなのだ、先生はあたしの笑顔を含めたさまざまな仕草とそれを行う身体にお金を払ったのだ。高校に行けば経済を習うが、その中で行われる取引き、それと結果としてやっていることは同じだ。ただ商品の中身が違う、それだけだ。

 あたしも結局母さんとやっていることは同じなのだ。

 小さい頃、近所の主婦との井戸端会議でうちの子はほんとに聞き訳がよくて、などと話していたことを覚えている。別にそんなわけではなく単に無口なだけだったが、それでもこうして今の歳であたしが母さんのやっていたことを理解できるというのは年齢不相応に大人びていると思う。なによりも経験がものを言うということだ。
 理解できるというだけで決して許しているわけではない。

 もう一度話しを戻そう。ケイの両親は学生時代から不良をやっていて、まともな仕事に就けるはずもなく低賃金の労働者として、塗装工や工場作業員といった感じで父親も母親も働いている。家計も決して楽ではないだろう。だからこそ、一夜の伽だけで何万、何十万というお金を得ていた母さんの仕事を羨み、憎んでいたのだと思う。だからあたしに母さんと同じことをさせ、それを見下すことで自分を慰めていたのだ。それを非難するつもりはあたしにはさらさらないが、小さいことだなとは思う。

「コンクールってどこでやるの?聴きに行ってみたい」

 振り向いたリュウの顔にはどことなく幼さが見え隠れしていた。あたしたちはほんの3ヶ月前まではランドセルをしょっていたのだ。

「美須々の文化会館だよ、体育館が隣だから分かるだろう」

「野球場が近くにあるやつ?」

「そう」

 聖霊の寮に着き、マナの部屋の呼び鈴を押した。やがて扉が開いてマナが顔を出す。

「こないだ借りたCD返しにきたよ」

「あ、うんどうも。えっと、天城君だっけ?」

「今日は部活の練習なんだ」

 そう言ってリュウはフルートのケースを持ち上げてみせた。
 あたしが部屋を見たいと言うとマナはにこりと微笑んでいいよ、とあたしたちを部屋に上げ、一人用の小さな冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してコップに注ぐとテーブルの上に置いた。

「天城君はフルートなんだっけ?」

「そうそう、それでマナ、あなたのパソコンの音楽、あれ見せてあげたいと思ったのよ、興味あるみたいにしてたし」

「うん、こっちだよ」

 机の上には中央にノートパソコンが置かれ、その隣にホームセンターで売っているラックを組み立てたものが置いてあってそこにさまざまな機器がマウントされている。中段にオレンジ色の液晶画面のついた機器があってSOUNDCanvasSC−88と印刷されている。その機器を中心にケーブルが複雑に絡み合って接続されている。

「ちょっと演奏してみせようか?これ、とりあえず手持ちの楽譜から打ち込んでみたデータなんだけどね」

 マナがパソコンのキーボードを操作すると、ややあってからどこかで聴いたことのあるクラシックがスピーカーから流れ出した。

「ヴァルキューレの騎行か」

「なにそれ?」

「有名なオペラの曲だぜ、音楽の教科書にも載ってるだろ、ワグナーだよ」

 マウスを走らせて曲を止める。

「直接演奏することもできるよ、ちょっと待ってね」

 そう言って棚の上から88鍵盤のキーボードを下ろす。またパソコンで何か操作した後にキーボードの鍵盤に指を置くとポロン、とハープの音がした。
 マナはSC−88の液晶画面を指で指し示す。

「ここに47って数字があるでしょ、これが楽器の番号なの、47番はハープなのね。これはぜんぶシンセサイザーの規格で決まっててね、天城君、フルートは74番だよ、このボタンで楽器を切り替えるんだけど」

 もう一度鍵盤を押すとフルートの音がした。ただ、実際にさっきリュウが演奏してみせたのとは違って単調な抑揚のない音だ。

「これだけだといかにも機械的な音しか出せないから、そこはデータの打ち込みで表現するんだ、これ見てみて」

 パソコンの画面上に五線譜が表示され、その下に音符をバーに置き換えたものが表示されている。バーの下にはさまざまな長さの棒グラフが表示されている。

「これがベロシティっていって演奏の強弱を表すパラメータね、これを大きくすると強く吹いた音、小さくすると弱く吹いた音になるんだ、他にもエクスプレッション、ピッチベンド、ハーモニクス、エンベロープみたいなパラメータがあってね、ちょっと専門用語ばっかりでわからないかもしれないけどともかくそういうのを組み合わせることでいろんな表現ができるんだよ、さっき流したやつみたいにね」

「ふうん」

「あ、そうだ天城君、他のパートの楽譜は持ってないのかな?ちょっと貸してみて」

「クラリネットとアルトサックスならあるよ」

 マナはリュウから楽譜を受け取るとパソコンに向かいしばらく画面と楽譜を交互に見比べながらデータを打ち込んでいた。10分ほどして終わったらしくふう、とため息をついて五線譜のウィンドウを閉じる。

「じゃあ最初のとこからとりあえず96小節ぶん、最初にメトロノーム鳴らすから合わせてね」

「おう、わかった」

 リュウがフルートを構え、マナはマウスに手を置く。やがて二人が同時に動き、パソコンの画面上でソフトが動いてスピーカーからクラリネットとアルトサックスの演奏が流れてきてリュウはそれに合わせて自分で演奏する。人間と機械とのアンサンブルにあたしたちはしばし聴き入った。なんだか不思議な気分だ。

 それからしばらくマナのコンピュータ・ミュージックについての話しを聞き、昼間になったのでリュウは楽器を返しに校舎へ行った。部屋にはあたしとマナだけが残る。

「UVの曲、どうだった?」

「すごくよかったよ、TOKIKOさんの歌声はあれはすごいね、本当に力強さがあると思うよ」

「私はMAHIROさんのほうが好きだなあ」

「他にはなんかないの?」

「私のお気に入りだと他には『ゼロ・ポイント』とか『I Will Follow』とかかな、でもやっぱおすすめはこの『振り向かない』だよ、ファーストアルバムだしね、去年やった同じタイトルのアニメ、知らない?あれの主題歌だったんだよ」

「アニメって見ないからわからない」

「加賀さんも言ってたよ、あなたはそういう情報にほんと疎いからって、ぼやいてたよ?そうだ、DVDも出てるから今度貸してあげようか?」

 モコのことだ。あたしは機会があったら考えておく、と答える。

「山城さんや古鷹さんとは最近どうなの?いつもつるんでるんでしょ?」

「ケイもレイコも別にそんな友達だとかいうわけじゃない、ただなんとなくいっしょにいるだけよ」

 さすがのマナも処置無しといった表情で肩を落とし、間をあけてから再び話し始める。声のトーンは低くなり、感情の針が震え始めているのがわかる。

「本当に、付き合いの下手なひとなんだね」

「仕方ないよ」

「だけどそれじゃあ将来苦労するよ、いつだって気を遣ってくれるひとがいるとは限らないんだからね」

「いいのよ、それでも」

 ひとりで生きていければいい。たとえ誰からも愛されることがなくても、自分も誰をも愛したりなんかしない。それでイコール、プラスマイナスゼロ、それでいいだろう。

「泣けば許されるってもんじゃないよ」

「え?」

「簡単に涙を見せるもんじゃないって言ってるの」

 自分の頬を伝うものに気づいてあたしは思わず間抜けな声を出した。あたしが泣いている、なぜ?なぜ泣いているの、なぜ悲しいの?あたしが嫌われているから、みんなに嫌われているから、嫌われるのが怖いから。好いてくれるひとがいるとわかったから、同時に失う怖さも知ってしまった。
 それがあたしの涙の正体だと思う。

「マナ、あなたと知り合わなきゃよかったかもしれない」

「なに言うのいきなり」

「初めてだったのよ、あたしと、友達っていえるくらいに親しくしてくれたの、マナ、あなたが初めてだったのよ、だから、だから」

 だからずっと知らないままでいればよかった、ぬくもりを知らないままでいられたら、こんなに弱くなることもなかったのに、

 マナはあたしの肩にそっと手を置いた。さっきまでとは違う落ち着いた声であたしに語りかける。

「それは違うよ、弱くなったなんて決してそういうことじゃないよ、優しさを手に入れたってことなんだよ、人の痛みがわかるようになったってことなんだよ、そうでしょ?私と知り合ってからあなたは優しくなれたと思うんだよ、だから鳴海さんも伊吹社長もあなたのことを気に入ってくれたのよ」

 マナはハンカチを取り出して涙を拭いてくれた。
 幼い頃の喧嘩ばかりしていたあたしと、今のみんなの性人形になっているあたしとどっちが強いのだろうか。違う、あたしは自分の意思を持っている。人形なんかじゃない。夢の中の紅い瞳をしたあたしは人形かもしれないが、今こうして意思を持っているあたし自身は違う。あたしは自分の意思で相田先生と付き合うことを選んだ、だからそれがきっとマナの言う強さなんだと思う。優しくなれたから、人の痛みがわかるようになったから、人を演じることができるようになったんだ。
 それが生き物の導きだと思う。あたしとマナを引き合わせ、そして相田先生と出会い、あたしは自分の力で歩き出している。

 それからもおおよそ2週間に一度のペースであたしは相田先生とロールプレイをし、そのたびにお礼としてお金を貰った。ただ先生自身、アヤネの恐ろしさを身に沁みてわかったようで最初の2回以降はセックスはしないことになった。あたしはそれで多少不満足になることがあったがそれは学校や基地の仲間たちとの遊びで解消した。ケイもユウキも今までと変わらない様子であたしに接している。あんたがあたしたち以外の人間に気をとられてあたしたちを疎かにしてるように見えた、とケイはこぼしていた。
 それでいい。そうやってあたしは生きている。人格を切り替えるように、彼らと身体を合わせるときだけ自分を消してしまえばいい。それと引き換えにあたしは平和な学校生活を手に入れることができる。
 手綱さばきを誤れば、またレイプされることになるかもしれない。
 それがマナの言っていたあたしの人付き合いの下手さだ。
 先生の書いたアヤネの設定が、まさに今のあたしにぴったりと当てはまるような気がしていた。あたしは欠陥人間なのだ。はじめから壊れているものはいくら修理を繰り返しても直ることはない、直ることのないこの頑なな性格があたし自身なのだ。身体が寂しくなれば適当な男を誘って抱かれ、ひとときの満足を手に入れ、そしてまた寂しさに身を焦がしてとその繰り返しだ。それを矯正できるのならとっくにしている。できなかったからこうして、みんなの群れの中に混じることで身を守っているのだ。その中で戯れに傷つけられたとしても、それは生きていくうえでの必要なことだったのだ。

 一学期の期末テストが終わってから吹奏楽部のコンクールを聴きに文化会館に行った。観客席に座っているのはコンクールに出る他の学校の生徒たちも多く、あたしは一般客に混じって隅のほうの席で聴いていた。
 リュウのフルートはよく響いていて、あたしは目を閉じて音の海を泳いでいる。





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