超人機エヴァンゲリオン

第5話

レイ、心のむこうに

 シンジが第三新東京市を訪れる22日前、ネルフ本部・第二実験場でEVA零号機の起動実験が行われようとしていた。
 ゲンドウ、冬月、リツコ、マヤ、技術部の主要メンバーが全員集合している。
 「起動開始。」
 ゲンドウの重苦しい声が管制室に響く。ゲンドウの眼鏡は現在の赤いサングラスではなく普通の眼鏡で、それを押し上げる手も素手で白手袋をしていない。
 全員の視線の先には壁に拘束されたオレンジ色のEVA零号機が有った。
 「主電源、全回路接続。」
 リツコが実験開始の指示を出した。
 「主電源接続完了。起動用システム作動開始。」
 EVA零号機の顔のセンサーに光が灯る。
 「稼働電圧、臨界点まであと0.5、0.2………突破。」
 「起動システム第2段階へ移行。」
 「パイロット、接合に入ります。」
 「システムフェイズ2、スタート」
 両肩の「PROT 0」の文字に光が入った。
 「シナプス挿入、結合開始。」
 「パルス送信。」
 「全回路正常。」
 「初期コンタクト、異常無し。」
 「左右上腕筋まで動力伝達。」
 両腕の「EVA PROT 0」の文字にも光が入った。
 「オールナーブ・リンク、問題無し。」
 「チェック2550までリストクリア。」
 「第3次接続準備。」
 「2580までクリア」
 俯いていたEVA零号機は顔を上げた。
 起動実験は順調のようだった。が。
 「絶対境界線まで後0.9、0.8、0.7、0.6、0.5、0.4、0.3…。」
 神経接続が徐々にグリーンへ変わっていた表示がボーダーラインを示す位置まで来た途端、いきなり一気にレッドに変わって逆流していく。
 「パルス逆流!」
 「第3ステージに異常発生!」
 「中枢神経素子にも拒絶が始まっています!」
 腕と肩の文字の光が消えたEVA零号機は拘束から逃げようともがき始めた。
 「コンタクト停止、6番までの回路開いて!」
 周りは動揺しているが、リツコはまだ冷静だ。
 「ダメです!信号が届きません!」
 「EVA零号機、制御不能!」
 ついにEVA零号機は自分を固定していたロック・ボルトを破壊し、腕の拘束具を壁の基部ごと引き抜いた。そして何かに苦しむように頭を抱えながらヨロヨロと歩き出す。
 「実験中止。電源を落とせ。」
 「はい!」
 ゲンドウの言葉に、すかさずリツコが操作盤のガラスを叩き割り、奥にあるレバーを引いた。コンセントが抜け、EVA零号機の動きが一瞬止まるが、前にも増してもがき苦しみ始めた。
 「零号機、予備電源に切り替わりました。」
 「完全停止まで後35秒。」
 何か怒りをぶつける様に管制室に向かって殴りつけるEVA零号機。
 ゲンドウは動ぜず見据えていたが、ついに強化ガラスが割られると身を少し捻った。
 「危険です!下がって下さい!」
 リツコがゲンドウに退避を促す。
 「オート・イジェクション、作動します!」
 「いかんっ!!」
 珍しく焦った声をあげるゲンドウ。
 EVA零号機の背中の装甲が開きエントリー・プラグが射出された。が、実験場は狭く、ロケット・ノズルの噴射で天井にぶつかった後、行き場を求めてあちこちにぶつかる。
 「完全停止まで後10…9…。」
 「特殊ベークライト、急いで!」
 「8…7…6…。」
 ロケットノズルの燃料が切れ、床に墜ちるエントリー・プラグ。
 「レイ!!」
 ゲンドウが叫ぶ。
 実験場の至る所でシャッターが開き、赤い液体が吹き出る。主を失ったEVA零号機だが、まだ暴走は止まらない。
 「5…4…3…2…1…0。」
 EVA零号機はようやく動きを止めるが、ゲンドウはまだ安全とも言えない実験場に降り、落下したエントリー・プラグに駆け寄った。
 「うぐっ!!」
 エントリー・プラグを開けようと開閉ハッチのハンドルに手をかけるが、あまりの熱さに思わず仰け反り眼鏡を落とすゲンドウ。だが、怯まずに再びハンドルを掴むと、熱さに掌を焼かれうめき声をあげながらも渾身の力を入れて回した。その様子を管制室の割れたガラスの向こうからリツコが黙って見ていた。
 「レイ!!大丈夫か!!」
 ハッチを開き、ゲンドウは上半身を入れて覗き込んだ。
 「レイ!!」
 震えながら顔を上げたレイは、頭部を負傷したのか、額から右目を伝い頬まで血を流している。
 「…はい…。」
 それでも、レイは弱々しい声で答えた。
 「…そうか…よかった…。」
 ほっとし、他人には見せた事の無いような優しい表情になるゲンドウ。
 プラグより溢れたLCLの熱で床に落ちたゲンドウの眼鏡にひびが入った。


 数日後。EVA零号機を固めている特殊ベークライトの除去作業が始まっていた。そこの照明はブルーのライトであり、薄暗い光を浴びているEVA零号機はどこと無く無機的な印象が強い。
 「で、その実験の事故原因は何だったの?」
 「未だ不明…但し、推定では操縦者の精神的不安定が主な原因と考えられるわ。」
 ミサトの質問に自分の推論を述べるリツコ。
 「精神的不安定!?あのレイが!?」
 ミサトは驚く。感情を表さず、いつも冷静なレイが情緒不安定とは信じられない。
 「あのコにしては珍しいくらい、感情に乱れが出たのよ。」
 「何があったの?」
 リツコは考え込んだ。
 「わからないわ…でも…まさか…。」
 何かに気付いたような言葉がリツコから漏れた。
 「何か心当たりがあるの?」
 「いえ…そんな筈ないわ…。」
 心に浮かんだ僅かな可能性をリツコは否定した。


 そして、現在。
 『B3ブロックの解体終了。』
 『全データを技術局一課分析班に提出して下さい。』
 つい先日、シンジがEVA初号機で倒した[使徒]の調査が、EVA初号機が叩きつけられた山の麓で行われていた。
 森はブルドーザーで整地され、何の為かEVA初号機の倒れた位置にはまるで殺人事件の現場で被害者の位置を示すかのような白線が引かれている。そしてその下に作られたプレハブの仮設建造物の中にシンジはいた。
 「これが、僕達の敵なのか…。」
 「なるほどね。コア以外は殆ど原型を留めているわ。ホント理想的なサンプル。ありがたいわ。これもシンジくんのおかげよ。」
 「で?何かわかったわけ?」
 組み立てられた足場の上方で調査中のリツコが感謝の言葉をシンジに掛けると、一人だけ安全ヘルメットを被っていないミサトが面白くなさそうに問いかける。
 すると、リツコは分析データを解析するべく、二人をコンピューター室に連れてきた。
 データを入力し、解析開始ボタンを押すと、少ししてパソコンのモニターには〔601〕という数字だけが表示された。
 「何これ?」
 「解析不能を示すコード・ナンバーよ。」
 「つまり、訳わかんないって事?」
 「そう。使徒は粒子と波の両方の性質を備える光のようなモノで構成されているようね。」
 リツコは話を一旦切り、脇に置いてあるコーヒーに手を伸ばした。それを見てシンジとミサトも一息つこうと手に持ったコーヒーに口をつけた。
 「…で、動力源はあったんでしょ?」
 「らしきものはね…。でもその作動原理がまだサッパリなのよ。」
 「まだまだ未知の世界が広がっている訳ね。」
 「とかく、この世は謎だらけよ。例えば…ほら、この使徒独自の固有波形パターン。」
 リツコが席を譲るように脇に立ち、キーボードを叩くとモニターの表示が変わった。
 「どれどれ?」
 一緒に見ようとしたシンジよりも先に、モニターを覗き込むミサト。
 「…これって…。」
 「そう、構成素材の違いはあっても信号の配置と座標は人間の遺伝子と酷似しているわ。…99.89%ね。」
 “99.89%…それって、EVAと同じじゃない…?”
 [使徒]とは一体………。
 「…サンプルとしては完全とは言えませんが…。」
 その話し声と共に数人がシンジ達の居る部屋の脇を歩いていった。ふと、目をやったシンジはそこにゲンドウの姿が見えた為、部屋から半身を出してその行き先を見た。
 「オーライ、オーライ、OK!!」
 「止めろ!!」
 ゲンドウ、冬月と白衣を着た調査員二人の前に赤い物体がクレーンに乗せられ降りてくる。
 「これがコアか…。残りはどうだ?」
 冬月がコアに興味深く顔を近づけながら問う。
 「原型は留めていますが、保存が難しく徐々に劣化していっています。」
 「構わん、他は全て破棄だ。」
 ゲンドウもいつも着用している白手袋を外し直にコアに触れている。
 “父さんは僕が戻ってきても、それが当然のように何も…小言の一つさえ言ってこなかった…なぜ?…僕とは話す価値も無いの?”
 シンジは査察にやってきたゲンドウの後姿を伺い見ていたが、ゲンドウの掌に目が止まった。
 “火傷?”
 「あら、シンジくん、どうしたの?」
 シンジが半身だけ出して外を見ている事に気付いたミサトが声を掛けた。
 「い、いえ、別に…。」
 シンジは何でも無い風に答えたが、ミサトにはわかっていた。
 「あーのねぇ、そういう顔して別にィって言われてもねぇ、気に掛けて下さい・心配して下さいって言われてるようなもんなんですけどねぇ…。」
 そう言われてシンジは素直に言った。
 「あの…父さん、手に火傷してるみたいだけど…。」
 「火傷?うーん…ねえリツコ、知ってる?司令の手の火傷の事…。」
 シンジに訊かれてもミサトは思い当たらず、リツコに助けを求める。
 「貴方達がまだここに来る前…起動実験中にEVA零号機が暴走したの…その時、パイロットがエントリー・プラグの中に閉じ込められてね…。」
 「パイロットって…綾波ですよね。」
 シンジがレイと初めて会ったのは、シンジがネルフにやってきた日。
 「じゃあ、あの怪我はその時の事故で…。」
 「そうよ。そして、碇司令が彼女を助け出したの。過熱したハッチを素手で無理やりこじ開けてね。」
 “父さんが…。”
 「掌の火傷はその時のものよ。」
 “あの父さんが…そんなにしてまで…あのコを…。”


 翌日の学校。強い陽射しが照りつける中、2―Aの生徒は今は体育の授業中だ。男子はグラウンドでバスケット・ボール、女子はプールで水泳である。
 試合に出ていない男子は座りながら暇を持て余すかの様に全員が女子のプールサイドを眺めている。
 「みんな…いいチチしとんなぁ〜。」
 トウジが鼻の下を伸ばしながら眺めていると。
 「なんか鈴原って、目つきやらしいぃ〜!」
 しっかりばれていた。
 が、女子達のそんな騒ぎの中、声を掛ける事も掛けられる事も無く、レイはプール・サイドに一人ぽつんと座り込んでいた。
 そして、そんなレイをシンジは見つめていた。
 綾波レイ。14歳。マルドゥック機関の報告書によって選ばれた最初の被験者―――ファースト・チルドレン。EVA零号機専属パイロット。過去の経歴は白紙、全て抹消済み。
 「碇ィ、何熱心な目ェして見てんねん?」
 「え?」
 「綾波かぁ〜!?ひょっとしてぇ〜〜?」
 シンジの目線の先を知り、思春期の男のコらしくからかうケンスケ。
 「あ・や・し・い〜。」
 更なる不気味な言い方にシンジは引くが、ケンスケは眼鏡を妖しく光らせながら追撃する。
 「綾波の胸…綾波の太腿…綾波のふ・く・ら・は・ぎ〜。」
 トウジも加わったその冷やかしにシンジは慌てて否定した。
 「ち、違うよ!!」
 「だったら、何見てたんだよ?」
 「そや!ワシの目は誤魔化されへん!」
 「そんなんじゃないよ…どうして綾波って、いつも一人なんだろうって思って…。」
 シンジは仕方無く正直に先程から思っていた疑問を呟いた。
 「ああ、そない言えば一年の時に転校してきてから、ずっと友達いてないな。」
 「なんか、近寄り難いんだよね。」
 「ホンマは性格悪いんちゃうか?」
 「でも、エヴァンゲリオンのパイロット同士だろ?碇が一番知ってるんじゃないのか?」
 「僕、あまり綾波の事知らないんだ…。」

 レイを見つめる視線は他にもあった。
 “綾波レイ…次は、あのコにあたってみるか…。”
 クミは校舎の屋上からレイの様子を見ていた。

 その日の放課後、エヴァンゲリオンのパイロットであるシンジとレイはネルフの実験場にいた。
 シンジはEVA初号機のエントリー・プラグ内で、始業点検の流れるアナウンスを聞きながら何気なくモニターを見ていた。その一点にレイの姿があった。
 レイはEVA零号機のエントリー・プラグの窓を開け機械の調整をしている。
 そこにゲンドウがやってきた。レイはそれに気づき作業を止めて、足取り軽やかに段差を可愛くピョンと跳ねて降りた。
 二人は楽しそうに会話をしている。そこにはシンジの知らない穏やかな表情の父と生気のあるレイの表情があった。
 楽しげな二人の様子に軽いショックを受けたシンジはゆっくりと背もたれに身を預けた。

 その夜、ミサトのマンションにリツコがやってきた。
 「何よ、これっ!インスタントじゃない!」
 「人んちの夕食に御呼ばれして今更文句言わないの。」
 だが、一口食べるなり、シンジとリツコは固まった。
 「これ作ったの、ミサトね。」
 「やっぱわかる?」
 「味でね。」
 “レトルトのカレーなのに、よくぞここまで…。”
 「ミサトさんはどうします?」
 「じゃぁ〜ん!ここに入れちゃって、ドッバァ〜っと!」
 いつの間にか用意したカップメンを楽しみで仕方ないという表情で差し出すミサト。
 「ほ、本気ですか…。」
 「やぁ〜ね、結構イケるのよ♪」
 「じゃ、じゃあ…。」
 「最初からカレー味のカップメンじゃね、この味は出ないのよぉ〜♪んふっ♪」
 シンジは茫然としながらも鍋の中のカレーをカップメンに注ぐ。リツコもやれやれと指をこめかみに当て溜息をつく。
 「いっただきまぁ〜す♪スープとお湯を少な目にするのがコツなのよん♪」
 それを見ていたペンペンも恐る恐る口にしてみたが、あまりの不味さに気絶した。
 「シンジ君、やっぱり引越しなさい。ガサツな同居人のせいで人生滅茶苦茶になるかもしれないわよ?」
 「いえ、もう慣れましたから。」
 「そうよぉ〜リツコ。人間の適応能力を侮ってはいけないわ。大体、引っ越すたって…あら?シンジくん、もう一本お願い♪」
 ミサトはビール缶を振って残り少ない事に気づき、シンジに追加要求する。
 「あ、はい。」
 顔の前に手を合わせ必死に?懇願するミサトに負け、シンジは冷蔵庫へビールを取りに行く。
 「それにさ、手続きが面倒じゃない。シンジくん、本チャンのセキュリティー・カード貰ったばっかりなんだもん。」
 「あっ!忘れる所だったわ…。シンジくん、頼みがあるの。」
 「何ですか?」
 リツコは自分のハンドバックを漁ると、一枚のカードを差し出した。
 「綾波レイの更新カード。渡しそびれたままになってて、悪いんだけど明日本部に行く前に彼女の所へ届けてくれないかしら?」
 「いいですよ。」
 ミサトにビールを渡し、リツコからカードを受け取ると、座るのも忘れてシンジはカードに付いているレイの写真をじっと見つめる。
 「あらぁ?どぉ〜しちゃったの、シンジくん?レイの写真をジーっと見ちゃったりしてぇ〜?」
 ビール片手にミサトはニヤニヤとしている。
 「ひょっとして、シンジくん…。」
 「ち、違います!!」
 「まったまた、照れちゃったりしてさ♪良かったじゃない、レイの家に行くオフィシャルな口実ができて。」
 「もう!からかわないでよ!」
 シンジはプンスカと怒って勢い良くその場に座る。
 「ゴメンゴメン。じゃあ、何で?」
 「僕はただ…同じパイロットなのに、綾波の事を良く知らないから…。」
 シンジは再びカードのレイの写真を見る。
 「いい娘よ、とても。あなたのお父さんに似て、とても不器用だけど…。」
 「不器用って、何がですか?」
 「…生きる事が…。」
 妙に芝居がかった感じで髪をかき上げ、寂しそうに微笑しながらリツコが言う。
 が、ミサトがそれを吹き飛ばす妄言を吐く。
 「でもぉ、浮気はいけないわよん♪」
 「は?何の事です?」
 「まったまた、とぼけちゃってぇ〜。あのバイクの女のコの事、知ってるわよ。」
 「何言ってるんですか!真辺先輩は只の命の恩人です。つきあってるなんて誰が…!?」
 「誰って、あのコ本人が言ってたわよ。」
 「まさか!?」
 「やっぱりシンジくんは年上の女性がタイプなのね。」
 「…勝手に思い込んでて下さい…。」
 シンジは溜息をついた。



EXTRA HUMANOIDELIC MACHINARY EVANGELION

EPISODE:5 Rei T



 旧市街地のマンモス団地。
 解体作業音が響き、住民の気配は全くない。通路にゴミが散らかり放題のマンションの402号室が綾波レイの家だった。
 シンジは学校でレイにカードを渡そうと思っていたのだが、今日はレイは欠席だった為、レイの家にやってきたのだ。
 表札を確認し、インターホンを押す。が、壊れているらしく音が鳴らない。
 シンジはあきらめて帰ろうとしたが途中で立ち止まり、ドアの前に戻ってドアをノックしてみた。が、応えは無い。
 やっぱりシンジはあきらめて帰ろうとしたがやっぱり途中で立ち止まり、ドアの前に戻って声を掛けた。
 「御免下さい…碇だけど…綾波、いるの?」
 が、やっぱり返事が無い。
 どうやら、シンジは女のコの部屋に無断で入るのに躊躇しているらしい。
 “いないと思ったから帰ってきた…という事にしよう。”
 シンジはとうとうあきらめて、カードを渡せなかった理由を拵えて帰ろうとした。
 「何してるの?シンジくん。」
 「うわっ!」
 いきなり声を掛けられたシンジは驚いて振り向いた。
 「…真辺先輩…。」
 シンジに声を掛けたのはこれまた学校帰りのクミだった。
 「声を掛けられて驚くのは、何か心に疚しい所がある証拠、って言うけどね。」
 「そんな!ぼ、僕は何も…ただ、綾波が居ないみたいだからどうしようかと…。」
 「え?いないの?困ったわね…開いてる?」
 クミがドアノブに触れると鍵はかかっていなかった。クミはドアを開いて中を覗き込む。
 「綾波さ〜ん。いませんか〜?」
 が、やっぱり応えが無いのでクミが中に入ろうとすると、シンジは慌てた。
 「先輩、勝手に入っていいんですか?」
 「寝てるのかもしれないわよ。」
 シンジはクミが中に入ったので、それを免罪符にして後ろから付いていった。
 埃塗れの床で靴下を汚さない様、爪先立ちで歩く姿はまるで泥棒に見えて滑稽だ。が、まるで使われた様子のないキッチンの脇を通り、部屋に入ると驚きで踵もペタンと落ちた。
 「本当に綾波、ここに住んでいるのかな…?」
 常に閉めきっている感じがするカーテン。壁紙が張られてなくてコンクリートむき出しの壁。電気がつきそうにない天井の蛍光灯。冷蔵庫の上の錠剤とビーカー。ベッドの上に乱雑に脱ぎ捨てられた第壱中の女子用制服。エアコンの傍に吊された洗濯後の下着。
 “血…。”
 クミが着目したのはベッドの上の血染めの枕と、冷蔵庫の脇のダンボールに山盛りになった血の付いた包帯。
 そしてその部屋の中で割とまともな小物入れの上に、カーテンの隙間からこぼれた光に反射しているひび割れた眼鏡があった。
 「綾波のかな?あれっ?」
 シンジは眼鏡のフレームに彫られたG.IKARIの文字を見つけた。
 “なぜ、父さんの眼鏡がこんな所に?”
 と、後ろでカーテンが引く音が聞こえ振り向くと、そこにはバスタオルを羽織っただけのレイがいた。
 「………。」
 レイのまさかの登場の仕方にシンジは固まった。クミは血染めの枕を観察していてそれに全く気付いていない。
 シンジがゲンドウの眼鏡を持ってるのを見つけたレイは、少し怒った表情を見せながらシンジに歩み寄ってきた。
 「あ、あ、あの!ごめん、僕は別に!!」
 裸を見られた事を起こっているのだと勘違いしたシンジは眼鏡を持ったまま慌てて目を覆って出て行こうとしたが、眼鏡が大事なレイがシンジをそのまま行かせる訳も無く、二人はぶつかって倒れこんだ。
 床に広がったバスタオルの上に裸で倒れているレイ。その上に茫然としながら硬直するシンジ。
 シンジの慌てた声に振り向いただけで止める間も無かったクミはボケッとそれを眺めていたが、はっと気付いた。
 「シンジくん!何やってるの!!」
 「…うわっ!」
 クミの言葉に我を取り戻したシンジは、レイの胸に自分の手を置いている事に気づき、慌てて飛び退き顔を背けた。シンジが退くとレイは立ち上がり、肌を隠すよりもまず先に転がっていた眼鏡を拾い上げ、小物入れの上の眼鏡ケースに保管した。そしてその引き出しを開けてようやく下着を着け始めた。
 「…何?」
 声をかけられてシンジが振り向くと、レイはまだブラジャーを着けている途中だった。
 「そ、そのリツコさんに頼まれて…って僕、外で待ってるよ!!」
 シンジは逃げるように玄関へ出ていった。その様子にレイは首を傾げながらも制服姿に着替え終わると大事そうに眼鏡ケースを鞄にしまった。
 「…変わった娘ね。」
 その声にレイははっとしてクミに目を向けた。
 「…貴女…誰?」
 「私は3年B組の真辺クミっていうの。シンジくんとはちょっとしたお知り合いでね。って、そんな事はさておき、私は新聞部に入っていてね。いろいろ記事を書かなきゃいけないんだけど…。」
 が、レイは意味がわからないようでキョトンとしている。
 「ま、早い話が、エヴァンゲリオンのパイロットである貴女にインタビューをしたいの。」
 既にクミのスカートの中のマイクロ・レコーダーは記録を開始している。が、インタビューという言葉さえ知らないレイは興味無さそうに鞄を持って玄関へ歩き出した。
 「あ、ちょっと待ってよ。」
 クミも慌ててレイを追いかける。

 シンジは外でベンチに座っていた。
 “まずった…思いっきり嫌われただろうな…。”
 シンジは心を静めようとして飲んだジュースの空き缶に、運の悪さに対する怒りをぶつけて強く握って変形させた。
 と、俯いた視線の先に人影…レイだった。だが、裸を見られたというのにレイはシンジを見ても無表情で通り過ぎていく。
 「あ、綾波っ。」
 シンジは空き缶をゴミ籠に捨ててレイを追いかける。
 「本部に行くんだよね?ちょっと待ってよ。」
 「…これくらいであきらめる私ではないのだ。」
 クミも二人を追いかける。

 ジオフロントへ向かう列車の中、シンジとレイは離れて座っていた。
 “どうしよう…なんか喋んなくちゃ…でも、何を話せばいいんだろう…。”
 と躊躇しているシンジとは対照的に、クミはレイのすぐ傍に座ってメモ帳片手にインタビューを試みていた。
 「シンジくんの話によると、エヴァンゲリオンに一番最初に乗ったのは貴女のようだけど、それは本当?」
 「………。」
 「本当なら、どうやって選ばれたの?テストとかあったの?」
 「………。」
 「シンジくんの場合はお父さんがネルフの偉い人だから、ってわかるんだけど…。」
 「………。」
 「パイロットが二人って事は、エヴァンゲリオンってもう一機あるのかな?」
 「………。」
 何を聞いてもレイは答えず、文庫本を読んでいるだけである。
 「…シンジくんの事、どう思う?」
 クミはとりあえず何か話して貰わないと、と思って質問の主旨を全く別な方向にした。
 「…碇司令の子供…。」
 レイの返事はそんなもの。まだ、シンジとは殆ど会話らしい会話をした事は無い。と言っても、ゲンドウ以外の人間についても同じだが。
 「いや、そーゆー事じゃなくて…。」
 クミは困惑した。
 “うーん…このコ、感情ってモノが無いのかしら?”
 で、クミの次の質問は…。
 「シンジくんにおっぱい触られて気持ち良かった?」
 「ま、真辺先輩!何訊いてるんですかぁっ!!」
 慌てたのはシンジだった。
 「あ、そう言えば私も触られたんだっけ。するとシンジくんは結構スケベなんだね。」
 「もう、勘弁して下さいよ〜。」
 「あはははっ、でも男のコはスケベで当然だったね。」
 「…スケベ…って、何?」
 レイの質問にクミとシンジは固まった。

 「ところで、真辺先輩。ミサトさんに何か変な事言いませんでしたか?」
 レイの質問を適当にはぐらかしたところで、今度はシンジがクミに疑問をぶつけた。
 「変な事?何の事かしら?」
 「とぼけないで下さい。おかげでまたミサトさんにからかわれたんだから。」
 「あの人、もしかしてショタっ気あるんじゃない?」
 「何ですか、それ?」
 「年下の男のコ、正確に言うと思春期ぐらいの男のコを恋愛の対象とする成人女性をショタコンと呼ぶの。つまり、ショタコンの気配がある事をショタっ気があると言う訳。」
 「はあ…。」
 一つしか年齢は違わないのに、シンジのような中学生が知らない知識をいくらでも持っているクミ。
 「シンジくんって、私が見ても可愛いと思うし、女盛りの葛城さんならねぇ…シンジくん、気をつけた方がいいわよ。」
 「ええ、それは…いや、そうじゃなくて!」
 話が自分の聞きたかった事とだんだんずれてきている事に気付いて、シンジは仕切り直した。
 「何?」
 「僕は…真辺先輩に命を助けて貰いました…それは大変感謝してるんですが…どうしていつの間に先輩が…その…僕の彼女に…。」
 クミは自分がミサトのマンションにシンジを訪ねた際に、ミサトが自分をシンジの彼女だと誤解したことに気付いていた。
 「ああ、その事か。それはただの誤解、というより、葛城さんの勘違い…いや、早とちりだね。」
 「本当に?」
 「ええ。私はシンジくんの友達って言っただけよ。」
 「じゃあ、何であーなるんですか?」
 「女のコの友達、言い方をちょっと変えればガール・フレンド。多分、ガール・フレンド=彼女、って葛城さんは思い込んでるんじゃない?」
 クミの推測は100%正解だった。
 「…そうかもしれない…。」
 「セカンド・インパクト前の世代ってそういうものよ。私の知り合いにも一人居るけど。」

 「済みません、真辺先輩。ここから先はネルフの関係者以外は立ち入り禁止なんです。」
 ゲートまでついてきたクミにシンジは説明した。
 「でも、彼女も入れないみたいよ?」
 クミの指摘に振り向くと、レイがカードをスリットに何度通してもゲートが開かないので首を傾げていた。
 「忘れてたっ!これ、リツコさんから預かってた綾波の新しいカード。」
 シンジがカードを渡すと、レイはお礼も言わずに受け取ってゲートをくぐって行った。
 「寂しいコね…。」
 クミはポツリと呟いた。
 「えっ?」
 シンジはクミの呟いた言葉の意味がわからなかった。
 「ううん、何でも無いわ。それじゃあね。」
 クミはシンジの疑問を誤魔化すように答えて戻っていった。

 ネルフ本部内の長い長いエスカレーターにレイとシンジは乗っていた。
 「今日…EVA零号機の再起動実験だよね。」
 「………。」
 「上手く行くといいね。」
 「………。」
 「ねえ…綾波は怖くないの?」
 「………何が?」
 「何がって………その、EVAに乗るのが………。」
 「貴方は怖いの?」
 「………うん………怖くないって言ったら嘘になる………。」
 「貴方………碇司令の子供でしょ?」
 「…うん…。」
 「信じられないの?お父さんの仕事が。」
 「………信じたいけど………あんな父親………。」
 と、レイがシンジに向き直った。そして…レイはシンジの頬を張った。
 「!」
 シンジは呆然としてレイを見つめた。
 「私は信じてる。」
 それだけ言ってレイはまた前を向いてしまった。
 レイの張り手はそれ程痛くない、優しさに満ちたものだった。

 「レイ、聞こえるか?」
 『はい。』
 「これよりEVA零号機の再起動実験を行う。準備はいいか?」
 『はい。』
 「第一次接続開始。」
 例によってゲンドウは眼鏡を押し上げながら号令を出した。
 「主電源コンタクト。」
 ゲンドウの号令を受けてリツコが指示を出し実験が開始された。
 「稼働電圧臨界点を突破。」
 「了解。」
 『フォーマット、フェイズ2へ移行。』
 『パイロット、EVA零号機と接続開始。』
 『回線開きます。』
 『パルス及びハーモニクス正常。』
 エントリー・プラグが七色に輝いた後に外の様子が目の前に広がった。乗っているレイに不安の様子は見られない。コントロール・レバーにかけられているゲンドウの眼鏡のおかげであろうか?
 『シンクロ問題無し。』
 『オールナーブ・リンク終了。』
 『中枢神経素子に異常無し。』
 『再計算、誤差修正無し。』
 『チェック2590までリスト、クリア。』
 管制室モニターの神経接続を示すモニターが次々と赤から緑へ変わってゆく。
 『絶対境界線まで、あと2.5…1.7…1.2…1.0…。』
  シンジはその実験の様子を見ながらレイの言葉を思い出していた。
 私は信じてる。
 “どうして…どうして綾波はそんなに父さんの事を…。命を助けて貰ったから?”
 『0.9…0.8…0.7…0.6…0.5…。』
 “おかしいな…綾波の事が…他人の事がこんなにも気になるなんて…。”
 『…0.4…0.3…0.2…0.1…。』
 『突破!ボーダーライン、クリア。EVA零号機、起動しました。』
 「了解。引き続き、連動試験に入ります。」

 太平洋上に浮遊する正八面体の青いクリスタルの様な物体がゆっくりと第三新東京市を目指して進んでいる。
 その物体が発する音(声?)は「オーロラー」と聞えなくもなかった。

 「碇、未確認飛行物体が接近中だ。恐らく次の[使徒]だな。」
 掛かって来た電話を置いた冬月がゲンドウに報告する。
 「テスト中断。総員、第一種警戒態勢。」
 「零号機はこのまま使わないのか?」
 「まだ戦闘には耐えん。…初号機は?」
 ゲンドウは目線だけリツコの方を向けて訊く。
 「380秒で準備できます。」
 「よし。出撃だ。」
 だが、シンジはモニターの中のレイを見つめたままだった。
 「どうした?さっさと行け。」
 「あ、はい。」
 シンジはパイロット・ルームに向かった。
 “父さんは…僕には「がんばれ」の一言も無いんだね…。”
 だが、たとえゲンドウの事を信じられなくても、今のシンジはEVAに乗って戦わなければならないのだ。

 『目標は遠野沢上空を通過。』
 『EVA初号機、発進準備に入ります。』
 発進カタパルトに乗せられ射出口に向かうEVA初号機。
 『目標は芦ノ湖上空に侵入。』
 『EVA初号機、発進準備完了。』
 「発進っ!」
 ミサトの号令と共にEVA初号機が地上に向け射出された。
 それと同時に[使徒]の黒い溝の様な部分に線のような輝きが発生し始めた。
 「目標内部に高エネルギー反応!」
 「なんですって!?」
 驚き振り向くミサト。
 「周縁部を加速!収束してゆきます!」
 「…まさかっ!?」
 リツコがハッと何かに気づく。
 地上射出口のシャッターが開き、姿を現したEVA初号機内のシンジにミサトは大声で叫んだ。
 「だめっ!よけてっ!!」
 そこにEVA初号機が現れるのをまるで知っていたかの様に[使徒]から光線が発射され、瞬時にEVA初号機前方のビルを融解させて貫通し、EVA初号機胸部に命中した。
 「うわあああーっ!!!!!!!」
 凄まじい高エネルギーにEVA初号機の胸部装甲版の融解が始まり、同時にその高温がエントリー・プラグをも襲った。
 プラグ内のLCLが沸騰して気泡が立ちのぼる。そして胸を焼き貫かれるような激しい痛みに突然襲われたシンジの絶叫が発令所に響き渡った。

 「シンジくん!?」
 地上に出ていたクミにもシンジの絶叫は聞えていた。



超人機エヴァンゲリオン

第5話「レイ、心のむこうに」―――接触

完
あとがき