〜13〜 夕飯は宴会場でみんなといっしょに食べることになっていた。もちろん宴会場といっても大勢というほどでもないから、小さい部屋を一つ貸し切ってという感じだけれど。由乃さんと二人で中にはいると蓉子さまだけが待っていた。 「蓉子さま、お姉さまと江利子さまは?」 「令ちゃ……おねえ……令ちゃんはどこですか?」 「二人とも卓球勝負で汗かきすぎたから軽くもう一風呂浴びてくるって。令は江利子に一緒に連れて行かれたわ」 でもそろそろ戻ってくるでしょうね、といって部屋の内線で夕食のお願いをした。 それから程なくしてお姉さまたちが帰ってきた。なんだか令さまがぐったりしているようだけど。やぶ蛇になりそうだからふれないことにしよう。由乃さんにあとから聞いても良いし。 「いや〜それにしても豪華だねぇ」 人数分用意されていたお膳には小鉢が並んでいる。どれもこれも素人の目で見ても手がかかっていそうである。酢の物一つ見ても盛りつけにこだわりが感じられる。それになんといっても中央の舟型の器にかざりたてられた伊勢エビのお造りとそれを取り囲む各種刺身の数々。こういうのを舟盛りっていうんだっけ? もうひとつの大きな器には山の幸をふんだんに使った天ぷらの盛り合わせがある。 う〜む、こんなの食べちゃって良いのだろうか? というか支払いはどうなっているのだろう? この刺身も、トロに鯛、アワビ、ウニ、いくら、カニ……何かよくわからないものもあるけれど、共通していえるのはみんな高そうだ。 仲居さんが料理を運ぶ部屋を間違えてしまったとかそういうオチでは無かろうか。人数が同じすごいお金持ちの方々が隣の部屋にいらっしゃるとか…… ちょっと汗が出てきてしまった。いや、お小遣いももらったし、たくさん持ってきはしたけれど……ものには限界ってものがある。食べちゃってから正規の料金を請求されたらおそろしいことになるに違いない。 お姉さま方を見ると、のんきに喜んでいるけれど、それでいいんですか? 「サービスしてもらったから心配しなくても大丈夫よ」 「ほえ?」 たぶんすごく間抜けな顔をしていると思う。でも、サービスっていったい何? 「祥子が用事があって来れなかったでしょう。それで、せめてって感じでよろしくお願いしますって頼んだらしいのよ」 「祥子さまが?」 「ええ」 なるほど、このホテルは小笠原グループと何か関わりがあるのかもしれない。いや、なくても文字通り日本を代表する大企業なのだから、みんながいろいろと気を遣うのだろう。ここにいないのに……改めて祥子さまの別格ぶりを見せつけられるような思いだ。 「なに、仮に間違えて出されたものだって食べちゃってから割増料金とられることなんかないってねぇ」 お姉さまは相変わらず緊張感がないというか何というか…… 「それにいざとなれば未来の弁護士の蓉子が何とかしてくれるって」 こらこら、他力本願かい。その蓉子さまは苦笑いを浮かべている。 「失礼します」 女将さんが仲居さんを二人伴って部屋に入ってきた。 わずか六人に、わざわざ来るってことは……やっぱり要人待遇なのだろう。女将さんが簡単な挨拶をしている間に仲居さんが、私たち一人一人のコップにジュースをくんでくれた。うむ、すごい。 祥子さまがよろしくと頼んだだけでこの待遇なのだから、もし祥子さまご自身がこの場にいらっしゃったとしたらどうなっていたのだろう? 「う〜ん、ジュースか」 「うむ」 「ダメよそこ二人。未成年でしょう」 江利子さまとお姉さまはお酒の方がよかったのだろうか? 速攻で蓉子さまからつっこみが入った。 「え〜、ちょっとくらいいいじゃない。せっかくの温泉旅行よ。蓉子だって大学の新歓以降飲んでないとは言わせないわよ」 「そうだそうだ!」 つい一時間前まで激戦を繰り広げていたとは思えぬ団結力を発揮しての反撃にも蓉子さまはひるまなかった。 「あなたたちは法曹を目指す者が法を犯すとでも思っているの?」 嘘だ。きっと嘘だと思う。今時大学生でまったくお酒を飲まないってことはないとは思う……。でも異論を挟むのはとまどわれるほどに思いっきり自信満々に言いのけた。 「うん、犯すと思ってる」 「目、泳いでるわよ」 でも、お姉さまたちをごまかしきることはできなかったようだ。 言いのける蓉子さまもすごかったけれど、お姉さまたちも同じくらい場数を踏んでいるだけのことはある。見事? に嘘を見破り蓉子さまを追いつめた。 これはさすが蓉子さまでも苦しいか。言い方を変えることにしたようだ。 「その話はひとまず置いておいて……私たちだけならともかく祐巳ちゃんたちがいるのだから絶対だめよ」 「なら祐巳に聞いてみましょう。ね、少しくらい飲んでみたいよね?」 な、何でそんな話題を私に振りますかねお姉さま! みんなの視線が一斉に私に集まる。蓉子さまは…… 「だめよ祐巳ちゃん! それは悪魔の誘惑よ!」 という感じだ。残りのお二方が悪魔であるのは間違いない。由乃さんは青信号。令さまは由乃さんをちらちら見ながら何か目で訴えかけている。ひょっとして由乃さんがお酒を飲んで大変なことになった経験があるのだろうか? 「ねぇ祐巳、いいでしょ?」 「大丈夫、ちょっとくらいならいい気持ちになるだけだって」 う〜む。実はほんのちょっぴり興味があったりもするのだけど。祐麒も合宿で少し飲んだって言っていたっけ…… ぱたん。 うん? 何か小さな音がしたような。別に静寂の空間ってわけじゃないから何か音がしたって不思議はないのだけど妙に嫌な予感がしたのでやっぱり誘惑に乗るのはやめることにする。 「やっぱりだめです」 お姉さま、江利子さま、由乃さんから不満の声が上がる。蓉子さまと令さまはよく言った! と、ほっとしている。 「さぁさぁ祐巳ちゃんもだめと言っているんだしこの話はこれでおしまい」 流れがまたおかしな方向に行かないうちに蓉子さまがたたみかけた。三人ともずいぶん不満げな顔だったけれど、それ以上は言わずにそのまま引き下がることにしたらしい。 「何かご用がありましたら声をおかけください。それでは、皆さまごゆっくりお楽しみください」 私たちのやりとりをどう思ったのだろう? プロだからか、それともこういうことは慣れっこなのかニコニコと笑顔を絶やさないまま女将さんたちはていねいに一礼して部屋を出て行った。 「じゃ、ま。乾杯ってことで、蓉子お願い」 「そうね。乾杯」 「「「「「かんぱ〜い!」」」」」 そうして、本当にほっぺたが落ちてしまうかもって思うほど、美味しいごちそうを食べていたのだけれど……ふとお姉さまの箸が止まっていて、廊下の方のふすまをじっと見ていた。 「お姉さま?」 「そこの二人、隙間から覗いているくらいだったら中に入ってきた方が良いよ」 「え?」 ふすまが開かれて神妙な面持ちをした蔦子さんと真美さんが入ってきた。 あぁ! さっきの嫌な予感はこの二人だったんだ。あらためて私が戦犯となるようなことを言わないで良かったと心の底から思った。 そうか、温泉の先客もきっと彼女たちだったのだろう。……見られなくて良かった。 「あ〜、姿が見えないからどうしたのかなぁ〜と思ってたんだけど、ちゃんと来てたのね」 とは江利子さまの言葉。 「え? 二人が来ることを知っていたの?」 「知っているも何もそもそもその二人からの情報だったのよ」 「……と、いうことは」 真美さんと蔦子さん、この二人が最初から付いてきていたとしたら、スイカ割りや温泉卓球のシーンも押さえられているということではないだろうか? もしも公開されてしまったら…… 薔薇の館がガラガラと音を立てて崩れ落ちる光景が目に浮かんだ。 「そんな心配そうな顔しなくてもいいわよ、ねぇ蔦子さん、真美さん?」 蓉子さまですら焦っているのに何でそんなに平然としているのだろうか、江利子さまは。少し前にお姉さまと暴露話のバーゲンセールを開催したことを忘れているのだろうか? 「はい、江利子さま」 ほらやっぱりいわんこっちゃない……って、えぇ!? 「そのあたりは心得ております」 ……そりゃ真美さんは三奈子さまとは違って分別ある人だけど、ここまで聞き分けがいいとは。 クリスマスの時、江利子さまと三奈子さまはつながっているんじゃないだろうかと思ったけれど、それどころじゃなくて新聞部の影のフィクサーじゃなかろうか。 そんなことを考えている間に着々と公開のラインや今後の取材、完成原稿の事前チェックについて真美さんと話をする蓉子さま。起こってしまったことは仕方ないけれど、その後の対処の仕方は今でも薔薇さまの貫禄十分だ。私だったら今頃あわてふためいて真美さんに泣きついているんだろうなぁ……そして真美さんの思惑通りの条件をのむことになると。 「そんなに気にしない。蓉子だって最初から……蓉子は最初からだったかな?」 ぽんと肩をたたき、にっこり笑いながらと思ったら途中で首をかしげるお姉さま。それじゃぁ慰めになっていないですってば、とほほ。 真美さんとの話はだいたいついたようだ。 蔦子さんの方は……まあ写真が撮れればいいだろう。元々撮られた側が嫌がるような写真は表には出さない主義だし。 「祐巳ちゃん、令、由乃ちゃん、これでいいかしら?」 もうこれ以上なにを交渉する必要があるのかというくらい完璧にまとめきってから私たち現役に確認する蓉子さま。今すぐ蓉子さまのようにはなれないとしても見習うべき点は多いと思った。それは由乃さん、令さまも感じているみたい。 「はい、それでお願いします」 「それでは今後ともよろしくお願いします」 ここからは晴れて公認取材班となった二人が頭を下げる。 「ちなみにカメラちゃんたちご飯は?」 「あ、いえまだです」 「じゃあ、二人の分も用意してもらえるかどうか聞いてみるわね」 そう言って蓉子さまがすっと立ち上がる。 「「え! いいんですか!?」」 さすがの二人もこの目の前の料理を前にしてはそんな風になってしまうようだ。 「二人だけ何も食べずにみたいなのはこちらとしても気分がよくないしね」 そう言って内線をかける。 「大丈夫よ、あと二人前追加してくださるって」 さすが小笠原家の威光というべきか? しばらくして仲居さんが二人分の御膳を持ってきた。追加の舟盛り、天ぷらももう少し後に持ってきていただけるそうだ。 「……すごい」 隙間からこっそり覗いていたとはいえ、近くで見るとやっぱり感嘆の声を上げてしまうようだ。 「本当にいいんですか?」 「ええ、どうぞ」 「「いただきます」」 二人が早速目の前のおいしそうな料理に箸をのばしていると、パシャッとフラッシュがたかれた。 え? でも、蔦子さんは目の前で食べているし……と、音がした方を見ると江利子さまがデジカメを片手にピースサインを作っていた。 「二人のこんな写真が撮れるなんてねぇ〜、蔦子さんの気持ちわかるわ」 「うう……」 気持ちをわかってもらえるのはうれしいかもしれないけれど、写真を撮られるのは苦手だって言っていたし、心境は結構複雑かもしれない。 こうしておいしく楽しい夕食の時間が過ぎていった。 〜14〜 西に傾いているお日様を眺めながら一人で露天風呂にゆったりとつかる……。 今日もたっぷりと遊んで楽しんだけれど、さすがに疲れた。 朝から夕方までずっと……海に出て泳いだり、ビーチバレーをやったり、その上スキューバー体験コースに申し込んで海に潜ったりしていたのだ。 テレビとかではよく出てくるけれど、自分で装備をつけて潜るなんて初めて。黄薔薇さまは毎年ハワイに行ったときに潜ってるとか言っていたけれど、他はお姉さまも潜ったことはあるけれど位で、みんなで一緒にレクチャーを受けてプールで練習した後インストラクターの人と潜ることになった。体験コースだったから少しの時間しか潜っていられなかったけれど、それでも、海の世界に潜るなんて初めてだったから本当にどきどきものだった。 美しい珊瑚礁が一面に広がる世界とはいかなかったけれど、いろんな種類の魚が目の前を泳いでいくのを生で見ることができた。同じ魚を見るでも水族館とかで見るのとは大違いだった。 お姉さまがどこからかタコを拾ってきて「うりゃ! タコスミ攻撃!」とでもいったような感じで私に向かってタコにスミを吐かせたら、スミがあたりに拡散してお姉さまもスミに包まれてしまって、江利子さまに笑われてしまったみたいなこともあった。 そんな別世界にみんなで行ったわけだけれど、やや残念そうだったのは蔦子さん。水中でも撮れるカメラを用意すればよかったって言っていた。結局使い捨ての水中でも撮れるカメラを買って使っていたけれど、蔦子さんほどだと使い捨てのカメラではなかなか満足できないものなのだろう。海からあがった後も惜しかったなぁって何度もこぼしていた。 初めての経験を楽しんだわけだけれど……この後お風呂から上がってみんなでご飯を食べたら、後は部屋に戻って寝て、明日の朝帰るだけになってしまう。もちろん寝る前に何かするとかはできるけれど…… 「最初思ってたのと違うなぁ……」 元々お姉さまと二人っきりの二泊三日の旅行の予定だったのに、それが六人になってさらに八人になってしまった。もちろん楽しかったけれど……昨日は昨日でどっかの誰かさんのおかげで必要以上に疲れてしまっていたからか部屋に戻ってすぐに眠りの世界へと旅立ってしまったし、お姉さまと二人っきりというのはほとんどなかった。 ため息が漏れてしまう。 お姉さまと二人っきりの旅行ってだけで舞い上がってしまっていて、具体的に何をするかとか考えていたかと言われるとそういうわけではなかったし、みんながいたからこそできたこともあった。山百合会総出の合宿なんていうのもなかなかあることではないし。 だけど、けれども……それでもどうだろうか? お姉さまと二人っきりで海を泳いだり海の家でかき氷を買って一緒に食べたり、温泉に二人だけで入って海を眺めたり……そんなのもよかったのじゃないだろうか? 「このまま終わっちゃうのかな……」 私の疑問とも愚痴ともいえるような言葉に答えてくれる人はいなかった。 一抹の寂しさを抱えながら温泉からあがって部屋に戻ったけれど、お姉さまの姿はなかった。 「まったくどこいっちゃったんだろ」 どかっとベッドに腰を下ろして部屋をもう一度見回すと、テーブルに白い紙がおかれているのに気づいた。 「なんだろ?」 気になって見に行ってみると……それはホテルの名前が入った便せんだったのだけれど、そこにお姉さまの字で『浜辺の端で待ってるから、お日様が沈んじゃう前に来てね』と書かかれていた! ちょちょっと! 日が沈むまえにって、慌てて窓の外をのぞくと太陽はもう半分近く沈んでしまっている。 「い、急がなくちゃ!」 浜辺の端っていっても右の端か左の端か書いてない。でも、右側の端はずっと遠いからきっと左だ。そうに違いない。そうじゃないと困る! 便せんだけひったくるようにつかんで部屋を飛びだした。 ホテルの廊下を全速力で走るというわけにはいかないけれど急ぐ。 「あれ? 祐巳さん何かあったの?」 そんな私を見つけて声をかけてきたのは由乃さん。令さまと一緒で、二人とも温泉からあがってきたばかりみたい。 「うんちょっとね。急いでるからごめん」 「あっ祐巳さん」 一言謝ってから先を急いだ。ただでさえ間に合うかどうか危ないっていうのに話し込んでいたりなんてしていたら絶対に間に合わない。急がなくちゃ。 温泉からあがって江利子と一緒に廊下を歩きながら話している話題は今晩の夕飯だった。 「今晩はなにかしらねぇ?」 「さぁ? そうそう、分かっていると思うけど今日もお酒とか言いだしちゃだめよ」 「蓉子のいけずぅ」 「はいはい、なんとでも。祐巳ちゃんたちが卒業したらそのときは考えましょう」 そのときは祥子たちも連れてきたいものだ。乃梨子ちゃんにもまだあったことがないし。 「一年に一度くらいはこういうのがあるといいわねぇ」 「大学の友達と遊びに行かないわけじゃないんでしょ?」 「そりゃあね。でも、なんていうかさ、時折ね」 もちろん自分で選んだ道だ。私も後悔はしていないし江利子だってしていないはずだ。それでも私は六年、江利子にいたってはその倍以上いた年月は大きかったということだろう。 「なぁに、さしもの江利子さまも三ヶ月でもうリリアンシック?」 ふっと江利子はほほえむだけだった。 「それにしても蓉子が祥子を妹にしてくれて本当によかったわ。祥子がいなかったらこんな好待遇どころか、泊まれるかどうかも怪しかったからねぇ」 「そうね」 ホテルを予約するときに祥子が手を回してくれたから、ここに泊まれたけれど、そうでなかったら、近くの別のホテルに泊まったりすることになったかもしれない。 「……そういえば、小父様たちは今度の旅行何か言っていた?」 「ああ、うちの男ども? 仕事休んで付いていくって言いだして大変だったわよ」 そのときのことを思いだしたのだろうそう言って深いため息をついた。江利子の家族は全く変わっていないようだ。 「で?」 「言ったのがぎりぎりで正解。みんなさすがに休めなくて涙をのんでお小遣いだけ渡してくれたわ」 軽くピースサインを作って答えた。あのメンバーなら、文字通りにこぼれる涙を飲んでいたものもいたかもしれない。 「もっと早くからの計画だったら危なかったかもしれないわね」 「ホント。そうだったら楽しんでる場合じゃなくなってしまうところだったわ」 「邪魔をされる二人もさすがに頭に来るでしょうしね」 「ええ、二人も楽しんでいるからこそだからね」 そんな風に話をしながら歩いていたのだけれど、T字になっているところで突然横から誰かがぶつかってきた。 「きゃっ!」 「ぎゃっ!」 まさかいきなり誰かがぶつかってくるなんて思っていなかったから、全然受け身も何もとれずに倒されてしまった、その上ぶつかってきた人も私に覆い被さるようにして倒れ込んできた。 幸い絨毯がしかれていたおかげでそんなに痛くなかったけれど、そうでなかったら……いったいどんな人間が突進してきたのかと、私の上に覆い被さっている人を見ると…… 「祐巳ちゃん?」 「あ、えっ、蓉子さま!」 私だと気づくと慌てて跳ね起きて深く頭を下げて謝ってきた。 「す、すみませんでした!」 「たいしたことないからいいけれど……」 何をそんなに急いでいたのだろうか? ゆっくりと起きあがって、その理由を聞こうとしたのだけれど、「すみませんけれど、急いでいますから、ごめんなさいっ!」ともう一度深く頭を下げてからまた急いでどこかへと駆けていった。 「何があったのかしら?」 祐巳ちゃんがあそこまで急ぐだなんて…… 江利子に意見を聞いてみようとしたのだけれど、横に江利子の姿はなかった。 「ん?」 江利子の姿を探すと、少し離れたところでにやにやとしながら一枚の白い紙を見ていた。 「江利子、どうしたの?」 「見る?」 その紙にそんなにおもしろいことが書いてあるというのだろうか? 手渡された紙を見てみると…… 「なるほどね」 「まあずいぶん楽しませてもらったし、ここは見逃してあげましょう」 「珍しいわね」 「そこまで野暮じゃないわよ」 「こんなことをたくらんでおいても、一線はわきまえてる?」 「まあ、そのつもりよ」 確かにそうかもしれない。これまで本当に深いところには江利子はなかなか立ち入ろうとしてこなかった。むしろそういった方向では私の方がわきまえないといけないかもしれない。まあ、江利子の場合は、ほかのところでもわきまえて欲しいと思うことが多々あるけれど。 「そうね。それじゃあ私は蔦子さんと真美さんの相手でもしてきましょうか」 「私は妹たちをからかいに行きましょうかしら」 あれを黙っていてもらうのだし、私自身でも少々サービスをしておいた方がいいだろう。江利子と別れて二人のところに向かった。 走った。できる限り速く走った。走り続けた……けれど、浜辺の端にたどり着いたときには日はもうとっぷりと暮れてしまっていた。 苦しい。完全に息が上がってしまった。 浜辺の端は岩場になっていて岩がごろごろと転がっている。 近くの手頃な大きさの岩に寄りかかって体を預けて息を整える。 息が落ち着いてから改めてあたりを見回したけれど、月が照らしている浜辺にお姉さまの姿は見えなかった。間に合わなかったのだろうか。 あんなにがんばったのに…… むなしくなってしまって、そのまましゃがみ込んで岩に背を預けた。 そして、ため息が漏れそうになったとき「ずいぶん急いできたね」ってお姉さまの声が聞こえてきた。 声の方を見るとお姉さまがちょっと大きな岩の上に立っていた。 「そりゃもう」 「もう日は暮れちゃったけれど、あれだけがんばってきてくれたんだし、間に合ったってことにしておこうか」 ぴょんと岩から飛び降りて私のところにやってきた。 「もう大丈夫?」 「なんとか」 「じゃあ、ちょっと歩こうか」 そう言って私に向かって手をさしのべてくれ、お姉さまの手を握ると立つのを手伝ってくれる。 二人で手をつないでごつごつとした岩場を歩く。 「足下気をつけてね」 「はい」 時々大きな波が足下までやってくるけれど、それほど滑りやすいというわけではないしお姉さまがこうして支えてもくれるから大丈夫。……そうしてお姉さまと一緒に砂浜が続く浜辺に戻った。 「ねぇ祐巳、楽しかった?」 「すごく楽しかったです……でも」 「でも、ちょっぴり寂しかった?」 お姉さまは私の考えていたことをぴたりと言い当てた。 「あたりだった? うれしいね。実は私もちょっとね」 優しげで、それでいてどこか寂しげにも見えるほほえみ。 滅多に見せてくれないお姉さまの素顔。見るたびにその切なさに胸が締め付けられ私はこの人と……と思うのだ。 「祐巳と初めての旅行。二人っきりのつもりだったのに……楽しかったけれど、そっちは全然だったからね」 「二人っきりの方がよかったですか?」 「難しいね。みんなでっていうのも楽しかったからね」 こういう楽しみに気づいたのだってそんな昔の話じゃないしね、と。 「……私は、これでよかったと思います」 「うん? それはどういう意味?」 「だって……二人っきりになれたじゃないですか」 そう、今二人っきりになれたのだ。わたしもお姉さまもみんなと二日間思いっきり遊んで、その上こうして最後の夜は二人で過ごせているのだ。こんな幸せなことがあるだろうか。 こうして手をつないでいるだけでも胸の高鳴りが止まらないのだ。三日間も二人きりだったら私の心臓は破裂してしまったかもしれない。 それに…… 「きゃっ」 突然お姉さまにつないでいた手をほどかれ抱き寄せられていた。 びっくりしたけれど、なんとかかわいい悲鳴にすることはできた。 早鐘のように鳴るお姉さまの鼓動が聞こえる 「全く、この子は、うれしいことを言ってくれるじゃない」 ぎゅってさらに私をつよく抱きしめる。 「お姉さまは、どうですか?」 答える代わりに片手だけ私の頭に……顔を少し上に向けさせようとしているのに気づいた。 黙って目をつむって上を向き、両腕をお姉さまの首に回す。 お姉さまの吐息のようなささやき声がきこえ、唇が重なった。 どれくらいそうしていただろう。 私の足から力が抜けて崩れ落ちるのをそっと支えながらお姉さまもしゃがみ込む。 そのまま身を寄せ合ったまま二人で砂浜に寝転んだ。雲の隙間から月がこうこうと輝いていた。 「きれいですね」 「そうだね」 このままいつまでも二人で眺めていたかったけどそろそろ晩ご飯だ。帰りが遅いと心配されてしまうかもしれない。 お姉さまも同じことを考えたのかもしれない。たてる? と私を引いて立ち上がった。 「さて、そろそろ帰ろうか」 「はい」 お姉さまの笑顔がさっきまでのシリアスなものから急にいつものセクハラ親父のものに変わった。……何かやな予感。 「ところで、前と比べてどうだった?」 「〜〜〜〜〜!!!!!」 前。こういうことになったのは卒業式の前日しかない。 お姉さまも気恥ずかしかったから茶化そうとしたのかもしれないけど…… 私は黙ったまま一歩二歩と海の側に下がって、海の水を手ですくってお姉さまにぶっかけた。くらえっ! 「うっあ!?」 突然水をかけられて悲鳴を上げ、口にも入ってしまったのだろう、ぺっぺって口に入った水をはきだして……それから、じろ〜って私のことをにらんできた。 「この〜こんなおいたをする子にはお仕置きだ!」 なんて笑いながら同じように海に入って私に水をぶっかけてきた。でも、笑いながらするお仕置きなんてあるわけないでしょう。 「えい!」 由乃さんじゃないけれど、やられたらやり返す。 「あ、この! これでどうだ!」 「ひゃっ!」 さっきよりも勢いよくぶっかけてきた。ふふ、簡単には負けませんよ! こうしてお姉さまと二人だけの水の掛け合い合戦が始まった。 はるか空の上から月だけが二人を見守っていた。 〜15〜 「みんな、忘れ物はないかしら?」 最後の確認をする蓉子さま。フロントに荷物を預かってもらって午前中は温泉街の中をぶらついてきたのだ。おみやげも必要な分だけ買った。お姉さまがどこにでも置いてある別の意味で名物な熊の木彫りを江利子さまに勧めたら真剣に買おうか検討し始めたのが傑作だった。 女将さんに見送られてホテルを出る。 「後は帰るだけね」 「まあそうだけど、そっちの運転はどっちが?」 「ああ、運転は私がするわ」 「そっか、江利子だったら、バラバラに行こうと思ってた」 「なによそれ〜」 運転手がもし私でも、いや私なら絶対にそうする。 そんな軽口をたたきながら車に歩いていく。 「あれ? 蔦子さんたちは?」 「カメラちゃん達? 先に帰ったよ」 さっき帰りの旅費がもったいないから一緒に帰らない? という話をしていたのだけど…… 気を利かしてくれたのか……それとも一刻も早く記事を書いたり原稿にしたいのかもしれない。 それぞれの車に乗り込んで、走り始める。 窓の向こうに来るときと反対側に見える堤防と海…… 「ねぇ、祐巳、また来たい?」 「はい、また来たいです」 「「でも、今度来るときは二人っきりで……」」 二人の声がきれいにハモったので笑いあった。 正真正銘の二人っきりの旅行もやっぱりしてみたい。 やがて、海岸から離れ高速道路につながる道に移った。 「あっ、そうだ」 「どうしました?」 「いっそのことこのままどっかいっちゃおうか?」 「え? このまま」 「うん、どこ行くとかまるで決まってないけどそんなのもいいんじゃない?」 「そうですね、いきましょう!」 「よし」 二人の意見は一致。 本線に乗るための分かれ道、先行している蓉子さまたちのワゴンはもちろん上り方面に行くけれど、私たちは下り方面につながる道を選択した。 私たちのことに気づいた助手席の江利子さまがしてやられたって顔をしている。 「じゃ〜ね〜」 私とお姉さま、軽く手を振ってみんなに別れを告げる。 青く澄んだ空の下で正真正銘の二人っきりの旅行が始まった。