第三話

もうひとつの姉妹の形 前編

〜1〜
 いつものようにお弁当を持って祐巳ちゃんの教室に行くと、そこで思わぬ人物に出くわした。凛とした空気を伴ってドアの前に立っているのは……
「祥子?」
「あら、白薔薇さまごきげんよう」
「ごきげんよう」
 祥子もお弁当を手に持っているということは……思ったとおり「お待たせしました」と志摩子が教室から出てきた。
「白薔薇さまもなのですね」
「うん。まあ、祐巳ちゃんとその友達と一緒にね。姉妹体験の時からの習慣みたいになってるんだけど、そっちはどうなの?」
「私たちは今日初めてです。今朝会ったときに志摩子から誘われたので」
「そうなんだ。と、祐巳ちゃんを呼ばないと」
 ドアから顔を出すと、こっちを見ていた祐巳ちゃんが私に気づいてお弁当を鞄から取り出した。
「呼ぶまでもなかったようですね」
 祐巳ちゃんが他の二人と一緒にやってくる。
「白薔薇さま、お待たせしました」
「うん、それじゃあ私たちは行くね」
「はい、それではまた後ほど」
 祥子と志摩子の二人と別れていつもどおり四人で屋上に向かうことにした。
「志摩子さんも祥子さまと一緒にお弁当ですよね?」
「そうだって祥子が言っていたよ。今朝志摩子から誘われたんだって」
「そうなんですか……蔦子さん、ひょっとしてあっちにおじゃまできればとか考えてた?」
 カメラちゃんが何か考えている様子なのに祐巳ちゃんが気づいて聞いた。
「……どうかな。私がおじゃましてしまったら、本当におじゃまになってしまいそうだし、それよりは近くから見ていたいかな」
 確かに、あの二人が一緒にお弁当を広げているところが絵になることは私も保証できる。でも、さすがというか相変わらずというかといった感想を三人ともが持ったに違いない。けれど、そう言うわりには私たちと一緒になることで二人を撮りに行けないことは特に残念そうではなかった。
 屋上に出てお弁当を食べ始め、しばらくたった頃、桂ちゃんが二人はどこで食べているのかって疑問を口にした。
「二人がどこで食べているか、か。志摩子ならいつも銀杏の木の下で食べてるけれど、祥子って銀杏嫌いだから中庭のベンチか薔薇の館かな?」
「祥子さまって銀杏お嫌いなんですか?」
「うん。まあ、祥子って嫌いなものが多いから銀杏はそのうちの一つってだけだね」
「祥子さまらしいのかもしれませんね」
 祐巳ちゃんも祥子のことをいろいろとわかってきたようだ。
「でも、桜が嫌いなのは意外じゃない?」
「え、桜がお嫌い?」
「そう。だから桜の花が咲く頃は元気をなくしちゃうんだな」
 元気をなくしてしおらしくなってしまった祥子は、ある意味見物だと思う。特に満開の時期なんかは同じ人間かって思うほどになってしまうからおもしろい。
「ちょっと想像がつかないですね」
「春になればわかるから、楽しみにしていると良いよ」
 あの状態の祥子は知らないとなかなか想像できないだろう。それから祥子の嫌いなものの話をしていると、カメラちゃんがところでと一つ提案をしてきた。
「幸いこちらは屋上で見晴らしは良いですし、二人がどんな様子でお弁当を食べているか探してみませんか?」
「いいねそれ」
 祐巳ちゃんも桂ちゃんも乗り気のようで、早速みんなで手分けして二人を捜してみることになった。
 薔薇の館でなければ見つけられると思うが果たして……桂ちゃんが銀杏並木の下でお弁当を食べている二人を発見した。
「驚いた」
 確かにまだ銀杏が落ちるにはもう少しかかるとはいえ、あの祥子があんなところでお弁当を食べるなんて……志摩子があそこで食べたいって言っても却下しそうだし、そもそも祥子の銀杏嫌いを知っている志摩子が言い出すとも思えない。だから、たぶん祥子の方からいつも志摩子が食べている場所で食べようと言ったのだろう。
(祥子もかなりがんばってるのか)
 私がそうであるように、志摩子の中でもまだまだ私の存在が大きいはず。あちらの姉妹がうまくいっているのには志摩子はもちろん祥子の努力もあるのだろう。
 柵に手を乗せながら二人を見ている祐巳ちゃんを見て、ふと祐巳ちゃんにとって私の存在はどのくらいなのだろうかと思った。元々祥子のファンだった祐巳ちゃん。志摩子と同じように姉ではない存在の方が大きいのだろうか?
 ……まるで嫉妬しているみたいじゃない。姉妹になった理由も理由なのだし、そもそもすべての原因は私にあるのだから、たとえ祐巳ちゃんの中でどうあっても私がそれをどうこう言う資格はないはずだ。


 薔薇の館の二階で蓉子が難しそうな顔をしながらお茶を飲んでいた。
「劇の配役の心配?」
「……それもあるわ」
 蓉子があんな顔をしながら考えていることだからなかなか難しい問題なのだろう。私なんかが力になれるかどうか……蓉子もそう思っていたのか、他にもあるんだと言うと「ええ」と短く肯定しただけで特にその内容にはふれようとはしなかった。
「私もお茶をもらっていい?」
「ええ、入れてあげるわね」
 湯飲みを棚から取って、急須でお茶を入れて差し出してくれた。そのお茶をありがたく飲んでいると、蓉子が何か言いたげにしているのに気づいた。
 しかし、蓉子は少し考えたあとため息をついてそれを引っ込めた。言おうとしないならこちらから聞くこともあるまい……私の方もそう考えたから、令と由乃ちゃんがやってくるまでのしばらくの間二人で静かにお茶を飲むだけだった。
 そして全員揃った後、机や椅子を端に寄せてここで立ち練習をすることになった。
 練習のスケジュール自体は予定どおりではありけれど、脇役をつないでいくことになった祥子はともかく、主役をつとめることになった志摩子は大丈夫だろうか? 当然始めから終わりまでほとんど出ているし、台詞の量もぶっちぎりに多い。
「お姉さま、御髪はこんな感じでいかがですか?」
「良いわ。ところでシンデレラ、あなたも舞踏会に行けたら嬉しいと思わない?」
「……いえ、私なんかが行っても恥をかくだけですから」
「あら、案外自分というものをわかっていたようね」
 さすがにあの量を一晩で暗記しきれるわけはないから台本片手ではあるけれど、私の心配など杞憂に過ぎないとでも言わんばかりに役をこなしていく。台本も時折見るくらいで、たいていの台詞はすらすらと出てくるのだから、これは昨夜のうちに相当練習したのだろう。むしろ、祐巳ちゃんよりもうまく役をこなしているかもしれない。
 そして、その祐巳ちゃんは同じことを考えたのか少しへこんでいた。……ふむ、休憩時間に入ったら気分転換もかねて由乃ちゃんと一緒にお使いにでも行ってもらおうかな。


〜2〜
 一人で薔薇の館に入る。前に一人で来たときはずいぶん緊張したけれど、いつの間にかそう感じなくなっていた自分にちょっと驚く。私もここの住人なんだって自分でも認められるようになったってことだろうか? ……それはないな。昨日の練習でも嫌というほど自覚できたし。
 でも、落ち込んでても始まらない……軽くほおをたたき、気合いを入れてから階段を登る。
 前に一人で来たときに祥子さまだけが先に来ていらっしゃって、二人っきりでいろいろとお話しできたことがあったっけ。またそんな風になればいいなと思いながらビスケットのような扉を開けると、そこには祥子さまのお姉さまである紅薔薇さまが一人でお茶を飲んでいた。
「あら、ごきげんよう」
「ごきげんよう、紅薔薇さま」
「緑茶でよければ入れてあげるわよ」
「い、いえ、そんな……自分でしますから」
「良いから、座って待ってなさいな」
 そう言われてしまっては……言われたとおりに座って待つことにした。
 そして、はいと差し出された湯飲みをありがとうございますと言って受け取る。
「あの、皆さまは?」
「白薔薇さまと黄薔薇さまはダンス部に行っているわ。後はまだだけれど、揃ったら第二体育館に行くわよ」
「今日からダンス練習ですよね」
 いよいよ劇の練習も本番ってことだ。ダンスなんか初めて……果たして大丈夫だろうか?
「ええ、でも心配しなくても良いわよ。そのために練習するのだから」
 前にも似たようなことを言われたっけ。そうは言っても昨日のことを考えるとなぁ……ふと、黄薔薇さまが言っていたことを思い出した。私が山百合会幹部になったことを一番喜んでいるのは紅薔薇さまだと。本当なのだろうか?
「あの、お聞きしたいことがあるんですけれど、よろしいですか?」
「私に答えられることならね」
「……私みたいな平々凡々の一生徒が白薔薇のつぼみになってしまったことを紅薔薇さまはどう思われているんでしょうか?」
 どこかおそるおそる聞いてみると、微笑みながら「喜んでいるわよ」ときっぱりと言われた。
「どうして、でしょうか?」
 黄薔薇さまが言っていたとおりではあるが、理由が全然わからない。
「山百合会幹部はみんなから特別視されているでしょう? 尊敬や敬意、権威は生徒会として動く上で都合が良いからそのことは良い。でも、それが強すぎて一般生徒との間に壁ができてしまっているのはどうかしら? 祐巳ちゃんだって最初のうちはここに来るだけでガチガチだったでしょう?」
 確かに。入るだけでも恐れ多い場所だった。あの蔦子さんでさえも。
「何とかしたいと思っていても、なかなか変えることができなくてね……けれど、祐巳ちゃん、あなたなら自然と橋渡しができると思うのよ」
 そういえば、薔薇の館にやってきた人たちへの取り次ぎに出たときに、私でよかったと言ってもらえたっけ。
「それで、良いのでしょうか?」
「ええ。自然とそうできるのは祐巳ちゃんしかいない。だから祐巳ちゃんが加わってくれて喜んでいるのよ」
 なるほど。それなら生まれてこのかたずっと普通の生徒だった私ならぴったりかもしれない。あこがれはもちろん、私を恐れ多く思う人なんて間違いなくいない。
「私の方からも一つ良いかしら?」
「なんでしょうか?」
「聖とのこと。仲良くしているみたいだけれど、聖の妹になってよかったと思っている?」
「はい、白薔薇さまにはずいぶんよくしてもらっているし、そう思います」
 それは良かったわと優しい笑みを浮かべて言ってくれた。
「多分ピンとこないだろうけれど、私は『包み込んで守るのが姉。妹は支え』だと思っているの。何かあった時に思い出してくれれば嬉しいわ」
 確か、一昨日志摩子さんが代役を申し出るときに妹は支えだと紅薔薇さまがおっしゃっていたと言っていたっけ。姉が困っているときにそれを支える役目が妹ということだろうか?
「あと、聖のお姉さまはもう卒業されてしまっていないから、姉妹の間で困ったことがあれば私が代わりに相談に乗るからね」
「ありがとうございます」
「さて、キリも良いし、祥子たちが来たようだから二人のお話はここまでにしましょうか」
 聞こえてきた階段を上って来る音の主に祥子さまが含まれているらしい。


 第二体育館を貸し切ってのダンス部との合同練習は、私の紹介から始まった。
「よろしくお願いします」
 ぺこりとダンス部の皆さんに頭を下げる。
 いきなり踊るのは無理だろうからと、私は見学から始めることになった。
 全体把握のために見学をする紅薔薇さまと一緒に壁際で、みんなの様子を見る……一番大切な主役の志摩子さんと、王子様の代役である令さまの二人を中心にダンス部の人からステップを教えてもらっている。
 二年生にはダンスの授業があるそうだけれど、一年生である私にはダンスなんてまともに踊ったことはない。それは同じ一年生の志摩子さんも同じはず……果たして、うまくできるだろうか?
 実際に曲にあわせて踊り始めると、そんなことを考えたこと自体、間違いだったと思うほどに志摩子さんのダンスはすばらしかった。正直、一緒に踊っている令さまよりもうまい。
「志摩子さんって、すごいですね」
「志摩子は日本舞踊をしているから振り付けを覚えるのはお手の物なのでしょうね」
 そんな事情があったのか。それなら納得。しかし、それにしてもうまいものだ。
 他の人に目を移すと、ダンス部の人と踊っている祥子さまに目がとまった。なんと祥子さまはダンス部の人よりも華麗に踊っていたのだ……さすがは生粋のお嬢様中のお嬢様。もちろん志摩子さんが見劣りするってわけではないけれど、祥子さまが主役でなくなってしまったのはやっぱり惜しい気がしてしまう。
 しばらくそうやってみんなの様子を見ていると白薔薇さまがこちらにやってきた。
「祐巳ちゃんも参加しようか」
「あ、はい。でも、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫大丈夫、私が手取り足取り教えてあげるから」
 そうして白薔薇さまから文字どおり手取り足取り教えてもらったのだけれど、何度も足を踏んづけてしまった。
「あぁ! またしてもすみません……」
「いいからいいから、気にしないでほら」
 白薔薇さまは笑ってそう言ってくれたし、踏んでしまっても良いようにとみんな履物を脱いでいるわけではあるが、度を超えているような気がしてやっぱり申し訳ない。
 それでも練習を続けているうちに、少しは覚えてきたのか、何とか足下を見なくても踊れるようになってきた。そうなると周りに視線をやる余裕も出てきて、令さまと由乃さまのペアが何度も視線を向けてきていることに気づいた。……まあ、このできでは仕方ないか、私のできを心配するのはある意味当然なのだから。
 紅薔薇さまがパンパンと手をたたいて、休憩の後一度劇を通してやってみましょうと言って、ダンスの練習から劇全体の練習へと移行することになった。
 ダンス部という初めてのギャラリー付きでの練習……緊張してしまう。
「大丈夫、さっきのダンスを見せちゃっているんだし、今更恥ずかしがる必要なんかないよ」
 白薔薇さまが言ってくれたことは確かにそのとおりだけれど、そういうフォローってどうなんだろう? 自分でわかっていても指摘されるとへこんでしまいそう。
「そうだね。ダンスの練習は一人でやるのも難しいだろうし、家庭教師してあげるよ」
「本当ですか!?」
 それはすごくありがたい。相手をイメージしながら一人で練習なんて難しいことはとてもできないから、白薔薇さまが相手になってくれるととても助かる。
「うん。早速今日終わった後でも良いよ」
 ありがとうございますと言いかけてお母さんのことを思い出した。いきなり白薔薇さまが訪ねてきたらまたとんでもないことになるんじゃないだろうか?
「あ、そっか。祐巳ちゃんも大変だね」
「どうも……驚かないように今日話しておきます」
「それじゃ明日からってことで」
「よろしくお願いします」


 翌日の放課後。白薔薇さまと一緒に我が家へ向かっているのだけれど……
「そういえば、お母さんの様子ってどうだった?」
 帰りが近づくにつれて顔にはっきりと「不安」と書いてある私を見て気になったのか、M駅南口のバス乗り場でバスを待っているときに白薔薇さまがお母さんのことを聞いてきた。
「それはもう。ご想像のとおり……それ以上かもしれません」
「そっか、なかなか大変だね」
 この前の暴走と言ってしまった方が良いような行動は、突然のことに驚いてパニックになってしまったからであって、今日はあんなことにならない。そう信じたいが……完全には信じ切れないのが悲しい。
 まあ、心配していてもどうにかなるものではない。ひどくないことを祈ろう。やってきたバスに乗って後ろの方の席に並んで座る。
「そういえば、祐麒と花寺の文化祭で何があったんですか?」
 お母さんのことを話していても……なのでもう一つ気になっていたことを聞くことにした。
「あれ、聞けなかったの?」
「聞いても教えてくれなかったんです」
「ふうん。でも、男の子なら恥ずかしくて言えないってのもわかるかもね」
 そんなことを言われたらますます気になってしまう。
「お互い生徒会の役員が文化祭を手伝いに行く伝統があるのは前に話したよね? それで今年は私たちが『ミス花寺コンテスト』の審査員をやったのよ」
「……ミス花寺?」
「そうそう。みんな女装してね」
 なるほど、そんなイベントに祐麒も参加していたわけだ。
「ほんとに可愛い子から、筋肉もりもりで服が張り裂けそうなくらいな人までいろいろといたのよ」
 男子校でミスコンテストをするとしたらすごい光景になりそうだ。
「ちなみに弟君は準ミスだったから、表彰してあげたんだよ」
 なんと! 準ミスとは、ネタ系ではなく純粋に可愛かったのだろう。あの祐麒が女の子の格好か……
「まさか、あのときの子が祐巳ちゃんの弟だったなんてね」
 白薔薇さまは何か思いついたのかポンと手のひらをたたいた。
「そうだ、弟君にもゲストとして出てもらおうか」
「え、祐麒もですか?」
「うん。福沢姉弟で王子様とシンデレラをしてさ、楽しそうじゃない」
「ひょっとして祐麒の方がシンデレラですか?」
「うん、その方がおもしろそうでしょ」
 私が王子様というのは嫌だけれど、祐麒のシンデレラ姿はちょっと見てみたいかもしれない。自分勝手な姉ですまない。でも、祐麒があのシンデレラの台詞を覚えて演じきるなんてとても無理だと思う。
「今から主役を変えるのは無茶でしょう」
 さすがに本気で言っているわけではないようで、あっさりと認めた。
「うん、確かに。でも、もっと前に思いついていればなぁ。くぅ、惜しい」
 白薔薇さまは本気で惜しがっていた。
「ところで、白薔薇さま。王子様役のことなんですけれど」
「どうかしたの?」
「出ているシーンは少ないと言っても、練習時間もほとんどないし、ダンスとかも大丈夫なんでしょうか?」
 昨日の夜、王子様役の彼はダンスがうまく踊れるのだろうかと気になって祐麒に聞いてみたところ、一般的に見れば文武両道で非の打ち所のないような男性。そんな感じの答えが返ってきた。ダンスぐらいあの人なら当然のようにこなすだろうとも言っていた。
 それでもと聞くと、白薔薇さまは顔を嫌そうにゆがめながら、「あいつなら、大丈夫だろうね」と答えた。
「そんなに嫌いなんですか?」
「嫌いっていうか、生理的にあわないってところかな」
「祥子さまの男嫌い克服のための相手として白羽の矢を立てたんですよね?」
「そう。だから、普通は特に悪印象は持たないと思うよ。ああ、でも完璧すぎて苦手になるっていうのはあるかもしれないな」
 祐麒もそんな感じのようだった。しかし白薔薇さまの場合は普通ではないと。なかなか難しいものだ。あ、次は降りるバス停だ。
 こうしてバスから降りた後、少々徒歩で移動し、いよいよ我が家に到着……
「いらっしゃいませ」
 そして、いつからそこで白薔薇さまの到着を待っていたのか、玄関でお母さんに出迎えられた。
「おじゃまさせていただきます」
「いえいえ、おじゃまだなんてとんでもない。いつでもご自由にいらしてくださいな。なんと言っても祐巳の『お姉さま』なんですから」
 二階に上がる前にリビングを覗いたけれど、特にものすごい準備をしたという感じはなかったから少しほっとした。玄関での挨拶を終えてすぐに台所に引っ込んだお母さんが準備している夕飯が多少心配ではあるものの、この前のことを考えれば問題にするほどのことはないかもしれない。
「あ、佐藤さん、こんばんは」
 私の部屋に入ろうとしたときに、ちょうど祐麒が自分の部屋から出てきた。
「弟君、こんばんは」
「今日はどうしたんですか?」
 そういえば祐麒には白薔薇さまがくることを話していなかったけ。まあ、お母さんの反応で十二分に伝わっていただろうけれど。
「祐巳ちゃんのダンスの練習」
「学園祭の劇ですか?」
「そう。良かったら見に来てよ」
「はい、行かせてもらいますね」
 祐麒が見に来るのか……見られたくなんかないが、お母さんは当然のように来るだろうからそうはいくまい。家族の前で恥をかくわけにはいかないし、いっそう練習をがんばらなければ。
「ちょっとうるさくなるから、ごめんね」
「ああ、全然大丈夫ですよ。姉をよろしくお願いします」
「うん。任せておいて」
 そして、部屋に入る。
「へーこれが祐巳ちゃんの部屋か。くんくん」
「ちょ、白薔薇さま! 何においをかいでいるんですか!?」
「祐巳ちゃんのにおいがするかどうか確認してたんだけど、ちゃんとするね」
「そうですか……」
 これがさすがは白薔薇さまと思えるような礼節がとれた行動ができる人と同じ人間の行動とは……
「さて、時間ももったいないし、さっさと始めようか」
「そうですね……お願いします」
 少し精神的に疲れてしまったけれどおっしゃるとおり。ダンスの練習を始めることにした。


〜3〜
「白薔薇さま、できる人は本当に何でもできるんですね……」
 帰り道を歩きながら祐巳ちゃんが言ったのは柏木のこと。今日から練習に参加だったにもかかわらず、完璧に王子様役を演じきったのだ。それを見て、あれだけ練習してきたのに自分はこの程度でしかないとかそんなことを考えてへこんでいる。
「あんなのと比較しても良いことなんか何もないよ。例外中の例外なんだから」
「はあ……」
「祐巳ちゃんは祐巳ちゃんらしくしてればいいの、あんなのみたいになったら絶交だからね」
「白薔薇さまは本当に柏木さんが嫌いなんですね」
「うん。志摩子のおかげで失敗しちゃったけれど、祥子の男嫌い克服作戦がなかったら、絶対に他の人間を呼んでたね」
 顔合わせの時、祥子は嫌なことはさっさと済ませたかったのか、自分から自己紹介をしてそのまま引き下がり、それをフォローするようにすぐさま主役の志摩子が一歩前に出て自己紹介をしたのだ。それから祥子は柏木にまったく近寄りもせずという感じだった。
「ああ、今考えたら、弟君の方が良かったなぁ」
「え? 祐麒ですか?」
「うん、リリアンの制服着させておけば祥子も気づかないだろうし、仲良くなった上で実はって作戦ね」
「どうでしょうか? 祐麒の方が自然に振る舞えないと思いますよ」
「そっか。確かに難しいな」
 そんな話をしながらバス停までやってきたところで、「ところで白薔薇さま、鞄は?」と祐巳ちゃんが聞いてきた。
 言われて気づいた。今帰り道なのに、私は手ぶらだった。なんだか身軽だとは思っていたけれど、言われるまで気づかなかったのは我ながらちょっと問題かもしれない。
「忘れてきたみたい。教えてくれてありがと、取ってくるね」
「それじゃあ、待っていますね」
「早く戻ってくるね」
 そう言って薔薇の館に戻った……のだが、薔薇の館の二階には電気がともっていた。
「……まずいかも」
 この前財布を忘れたばっかりなのに、また鞄を忘れるだなんて。もし蓉子がまだ残っていたら、どんな顔で待ちかまえているのやら。慎重に扉を開けて中に入ると、上から話し声が聞こえてきた。この声は、志摩子と祥子かな?
 蓉子がいないかどうか確認するために階段を忍び足で上り、扉に耳を当てて中で行われている話を聞いてみることにした。
「の人が苦手とかそういったことはないわよね?」
「はい」
「私は苦手。お父さまもお祖父さまも、親としては素晴らしい人だけれど、男性としては軽蔑するしかないような人たちなの。そんな家で生まれ、過ごしてきたからでしょうね……」
 話しているのは祥子の家と祥子の男嫌いについてか。とりあえず蓉子はいなさそうだ。
「話しづらいことでしたら、何も今でなくてもよろしいですよ」
「でもね、志摩子……」
 話していること……祥子が話そうとしていることは、祥子がいやがっていた本当の理由だ。それは知りたいけれど、こうして妹の志摩子にだけに話そうとしているのだから、盗み聞きをしていい話ではない。そして、ここで鞄を取りに中に入って邪魔をするべきでもない。
 今日のところは鞄のことは諦めることにして、来たときと同じように音を立てないように注意しながら階段を下りた。
 そして、鞄を持たずに戻ってきた私を見て祐巳ちゃんは当然のように「白薔薇さま、鞄は?」と聞いてきた。
「やめた。鞄を持って帰るのも重いし、薔薇の館に置いておけば誰も盗っていったりはしないでしょ」
「……良いんですか?」
「私は蓉子みたいに家で勉強するわけじゃないし、定期も財布の中だから鞄は必要じゃないのよ」
「不真面目ですね」
「うん、そう。私は不真面目なのよ」
 あっけらかんと肯定すると、祐巳ちゃんは軽く顔を引きつらせた。
「それとも、祐巳ちゃんは紅薔薇さまみたいにきまじめな方が良い?」
 おぉ、くるくる表情が変わる。可愛いなぁ、本当に。ちなみに結論は相当渋い顔で「きまじめよりは良い」というものだった。
「というわけで問題なし。さて、祐巳ちゃんって明日暇?」
「え、暇ってどういうことですか?」
「まだまだ不安みたいだから、また家庭教師してあげても良いよ」
「ありがとうございます。お願いします!」
 こうして、日曜日の予定は丸一日祐巳ちゃんの特別レッスンに決定した。