「……両天秤?」
「そう、両天秤」
 朝、マリア様にお祈りを済ませ教室に向かおうとした時、真美さんにそのまま空き教室に連行され(しかも鍵までかけた)何事かと思ったところで、困ったことになったといいながら飛び出したキーワードがこれである。もちろん何のことか分からない。
「ちょっと真美さん、らしくないよ。もうちょっと筋道立てて話してくれないと」
 ただでさえそんなに頭の回転が早くないんだからさと、冗談めかしてというかわりと本気でというか、そんな感じで付け加える。
「……ごめんなさい。ちょっと動転していたみたい」
「いいよ。でも真美さんがそれだけ慌てるなんて相当のことが起きたんだよね?」
「ええ、結局さっきの言葉につながるのだけど……」
 そうして真美さんが話し始めたことは驚くべきことだった。
 なんと、二人の一年生と同時に姉妹体験をしようとして、昨日それが二人ともにばれて大騒ぎになったというのだ。
「なんてことを……」
「最初はうまくいっていたみたいだけど、昨日の昼休みに片方の子とお昼を取っている時にもう一人の子と鉢合わせしたらしくて、とうとうばれたってわけ」
「騒ぎになったんだよね?」
「ええ、こうして祐巳さんを慌てて引っ張り出したくなるくらいに……その子たちが自主的に姉妹体験をし始めたのだったら祐巳さんには報告する程度だったんだけど、記事の後に体験を始めたパターンだったのよね」
 眉間にしわを寄せながら真美さんは答えた。
 新聞部自身が事件を引き起こしてしまったわけじゃないが、記事が引き金になっているのはまず間違いないから困り果ててしまったということか……先代部長ならそれでも素知らぬ顔をして特集を組みそうな気もしたが、今は関係ないので横に置いておく。
「でも、どうして二人と同時に姉妹体験を?」
「昨日は本人が捕まらなくて、取材するとしてもこれからだけど、二人の妹の方は両天秤にかけられていたって思ったみたいね」
「あぁ、それで両天秤だったんだ」
 ようやく最初のキーワードが出てきた。
「本人がどう考えていたのか分からないけれど、好みの子を見つけたい、それも手っ取り早く……だから同時に体験して比べてしまおう! って周りから思われても仕方ないわね」
「確かに」
 なにかやむにやまれぬ事情があったのかもしれないけれど、それにしたってこんな事をしてしまったらいつの日か大変なことになるって分かりそうなものなのに。
「いずれにせよ、祐巳さん。どうする?」
「うーん……」
 私を試そうとしていただけの祥子さまはともかく、職員会議でも話題になってしまった姉妹体験だ。白薔薇さまとしてどうにかなるってのはある意味仕方がないけれど、とにかく収拾を付けないと普通?に姉妹体験をしている子たちにも火花が飛んでいってしまう。
「ある意味無責任な言い方で申し訳ないんだけど、新聞部は祐巳さんが決めた方針に従おうと考えているわ。記事自体を掲載すべきでないとしたならもちろんそうするし、記事の書き方で話題の方向性を変えたいということであればできるかぎり協力する」
 真美さんは心苦しそうに私にそう告げた。
「無責任なんてとんでもない。早く知らせてくれただけでなく協力までしてくれるんでしょ? 本当にありがとう」
 三奈子さまのことを尊敬しつつも、こと記事の方向性に関してはかなり異なる真美さんが、どっちかと言えば三奈子さま寄りな書き方をしても構わないとまで言ってくれるのはありがたいかぎりだ。
 しかし、どうしたものか……
「もし記事にするということなら早いほうがいいと思うけど……」
 真美さんの言うとおりだ。結構な騒ぎだったみたいだし、話題性も十分なことを考えると放っておいたら取り返しが付かなくなりそう。
「そうなんだよね……よし、決めた。何人か相談に乗ってくれそうな人に声をかけるから、昼休みにここに再集合ってことでいい?」
 私一人で考えることが責任の取り方とも思ったけれど、私だけで収まらない問題なのだ。皆に謝って協力してもらった方がずっといい。
「了解、じゃあまたお昼にここで。時間もぎりぎりだったわね」
 真美さんの視線に釣られて時計を見れば、予鈴が鳴るまでもうどれほどもない。
 お昼まで休む間もないかも……そんなことを考えつつ二人で教室に向かった。



もうひとつの姉妹の形 〜チェリーブロッサム〜
第三話 マリアと子狸 後編



〜1〜
「ごめん、遅れた!」
「乃梨子さんには会えた?」
「うん、教室から出ようとしたところだったみたい……ある意味悪いことしちゃったけれど」
 そう言いながら扉に鍵をかける。
「祐巳さん、あらかじめみんなに詳細を伝えておいたから」
「ありがとう、真美さん」
 既に五人分の机が固められていて、一席だけ空いている由乃さんと志摩子さんの間に座ってお弁当を広げる。
 お昼までの休み時間に声をかけたところ、由乃さん、志摩子さん、桂さんが快く集まってくれた。
 蔦子さんだけは前日に姉妹体験から正式に姉妹になったペアに記念撮影を依頼されているとのことで、残念ながら無理だったけれど仕方ない。むしろこうしてうまくいっている人たちのためにもなんとかしなきゃという気持ちを強くしたくらいである。
「それで祐巳さん、とりあえずどんな風にしたいのか考えているの?」
「どんな風にっていうと?」
「私ならそんなふざけたことをしでかした人間は鉄拳制裁で決まりだと思うけど、祐巳さんはそういうの望んでいるわけじゃないんでしょ?」
 相応の報いをうけさせてやりたいんだけどなーと物騒なことを言いながら箸をつつく由乃さんの姿はちょっと怖かったものの、割合冷静でもあるようだ。
「うーん、私としてはとにかくことを大事にしたくないってのが大きいかなぁ。せっかく姉妹体験がうまくいっている人もいるのに、このことが原因で一斉に止めさせられるとかそういうのはちょっと……」
「止めさせられるって、何かそういう話でもあるの? あ、もし言えない話なら構わないのだけど」
 無理に聞く気は無いと示しつつ尋ねてくる真美さん。聞かれて気づいたけれど、さすがに祥子さまが山村先生にこっそり呼び出された所までは知られていないわけで。それにしても、どんなときであっても真美さんは抜け目がないなぁ。
 どうしたものかとちらりと隣の志摩子さんに目を向けると、軽く頷いてくれて口を開く。
「そこは私が。真美さんも申し訳ないけれど、ここだけの話ということでいいかしら?」
「もちろん。今回のことで何か交渉しようとかそういう気は無いから安心して」
 そう言ってくれる内容をそのまま信じられるか否かが、彼女の姉との信頼の差なのだろう。口には出さないものの、私だけでなく真美さん以外の皆がそう思ったに違いない。
「実は私のお姉さまが……」
 志摩子さんが以前私に話してくれた内容を話し終わると、皆軽く驚いていた。
「そういうことなら、大事にしちゃうと本当にまずいわね」
「うーん、やっぱり鉄拳制裁は無理か」
「これは口止めされなくても書いちゃいけない話ね」
「志摩子さん、ありがとう。そういうわけで、何とか穏やかに解決する落としどころのアイディアを分けてもらえると嬉しかったりするのだけど」
「この中の一般生徒代表として言わせてもらうと、やっぱり何かしら新聞に書いて欲しい気がするわ。これだけ注目を集める話題にリリアンかわら版が全く触れていなかったら、それ自体気になって変な噂がいくつも出てきちゃう気がするの」
「なるほど」
「あ、私もそう思う。別に記事にしたいからってわけじゃなくて、みんな知っているように「ああいう」記事をたくさん掲載されるようになってからリリアンかわら版の読まれ具合が違うってお姉さまが自慢していたけれど、それはある意味事実だと思うもの」
「記事にされる側はともかくね……まあその辺置いておいても、書くことまでは私も賛成」
「志摩子さんはどう?」
「やっぱりこういったことを記事にするのはどうかと思うの。だけど、桂さんの言うとおりだとも思うから、工夫を重ねた上で掲載するしか無いのかもしれないわね」
「みんな記事にするまでは度合いはともかく賛成と。私も真美さんの力を借りるのがいいかなと思っていたからそういう方向でいこうか。そうなると、掲載する記事の内容だけど……」


「みんな、本当にありがとう」
 改めて頭を下げてお礼を言う。全員でああでもない、こうでもないと話を進めた結果、授業には十分間に合う時間に一応の結論を出すことができた。
「じゃあこの内容で作り始めるから、もし他の薔薇さま方のストップがかかるようなら、すぐに知らせてね」
「悪いけどよろしく、真美さん」
「いやいや、さすがに想像できなかったとはいえ、記事にしちゃったこちらにも責任があるし。ではお先に」
 真美さんは、そう言うやいなや机を戻して教室を出た。残りの休み時間で少しでも記事を作っていくのだろう。
 残りの席を元に戻して皆で教室に帰ろうかとなったところで、ふと思い出したように由乃さんが「あっ」とつぶやいた
「どうかした、由乃さん?」
「真美さんの話を聞いていて、なんか引っかかるなぁとずっと思っていたんだけど、ようやく分かった。祐巳さん、志摩子さん。私は乃梨子ちゃんと祐巳さんの実際の関係を知っているし、志摩子さんとあの子が仲がよい理由も聞いているからいいんだけど……あんまりおおっぴらに仲よくしない方がいいんじゃない?」
「へ?」
「え?」
 私と志摩子さんの二人とも全く想像していなかった由乃さんの発言に、飛び出た一言こそ違えどちょっぴり間の抜けた返事をしてしまう。
「あ、それ、私もちょっと感じていたかも」
「桂さんまで!?」
「理由を聞いてもいいかしら?」
「この時期に乃梨子ちゃんが祐巳さんと志摩子さん、両方と仲よくするのはちょっとどうかなって」
「あ、桂さんもそう感じたんだ。私、ほら心臓のこともあって教室では浮いていた方だから、皆がどう思うって部分ではどんなものかと考えたけど当たっている感じ?」
「うーん、数日前に二人を見かけた時、ちょっと気になってはいたのよね……」
 志摩子さんの方に目をやると、首をかしげながらこちらを向く志摩子さんと目があった。うん、分からないよね。
 なんか、由乃さんと桂さんの間では理解が成立しているようなのだけど、私と志摩子さんにはさっぱりである。
「ねえ、二人とも、どういうこと? それじゃ分からないって」
 すると二人は顔を見合わせた後、少し迷うそぶりを見せつつこちらを振り向いた。
「えーっと、なんていうか……」
「あー、もういいよ、桂さん。言葉を濁すのも面倒だからはっきり言っちゃおう。つまり、乃梨子ちゃんが二人を両天秤にかけているように見えないか? ってこと」
「乃梨子さんが……」
「私と志摩子さんを……」
「両天秤……ぷっ」
 だめだ、止まらない。私と志摩子さん、二人そろって吹き出してしまった。
「あはははは、乃梨子ちゃんが両天秤って、はぁ、あり得っこないって。ねぇ?」
「ふふふ、本当。私と祐巳さんが秤にかけられるなんて……だいいち、それなら私たちこそ乃梨子さんを取り合っているってことになるわ、ははは」
「お姉さまならぬ妹争奪戦だね、ふふふふふ」
 いかんいかん。あんまりにも非現実的すぎて、ちょっと前に志摩子さんと姉争奪戦の冗談を言い合ったことを思い出して、笑いが止まらなくなっちゃった。
 でも、せっかく心配していってくれる二人にものすごく悪いので、何とか笑顔を押さえ込んだ。
「由乃さん、桂さん。気遣ってくれるのはすごくありがたいけど、取り越し苦労だと思うよ。志摩子さんもさっき言ったけれど、乃梨子ちゃんが両天秤しているとして隠し通せる間柄でない以上、私たちが取り合いをしているってことになるけど、普段の私たちの様子を見ればそれはないって一発で分かるでしょ?」
「……あー、うん、そうかも」
「……うん、私たちの気のせいかもね」
「二人とも、私たちと乃梨子さんのことを心配してくれて本当にありがとう。でも、大丈夫だと思うわ」
「うん、心配かけてごめんね。予鈴も近いし、そろそろ帰ろう?」


 由乃さんと桂さん、二人そろって忠告してくれたにもかかわらず、このときの私はことの深刻さが全く分かってなかったのだった。



〜2〜
「あ、乃梨子ちゃん、待って!」
 今日も祐巳さんとお昼をご一緒すべく屋上に向かおうと、今まさに教室を出ようとしていた時だった。
「あ、ごきげんよう」
「白薔薇さま、ごきげんよう」
 教室内や、既に教室から出ていた子たちも一斉にごきげんようとあいさつをする。
「はい、ごきげんよう。何とか間に合ってよかった……悪いんだけれど、今日のお昼はいっしょにできないの」
「あ、そうなんですか」
「うん……ごめんね。あと、明日もほぼ間違いなく無理だと思う」
 祐巳さんの表情が暗い。あらかじめ教えてくれた予定に入っていないことだし、元々忙しい祐巳さんがさらに忙しくなるような事件でも起きたのかもしれない。
「ううん。無理しないでがんばってください」
「ありがとう。それじゃあ、ごきげんよう」
 私だけでなく、皆にもあいさつした後、心なしかいつもより足早に去っていく祐巳さんに手を振ったりきゃあきゃあはしゃいでいる様子を見ると、改めて祐巳さんはすごい人気者なんだと思う。
 さて、となるとお昼は……うっ。瞳子さんをはじめとする何人かの目が私に向いていた。
「来週の月曜日はいよいよマリア祭。祐巳さまはお忙しいのですね」
「みたいですね」
「よろしかったら、お昼はご一緒しません?」
「ありがとうございます」
 ……そうなるだろうなぁという気はしたけれど。まあ仕方がない。せっかく誘ってもらったわけだし、今日は瞳子さんたちとご一緒することにしよう。


 クラスメイトとはお昼以外の休み時間くらいしか話をしていなかったので、今日はここぞとばかりに質問攻めにされるかも……そんな覚悟もしつつお弁当を広げたのだけど、始まってみれば拍子抜けするものだった。どんな具合かと言えば最初にちょこっと最近の祐巳さんとの過ごし方を聞かれた程度である。そのあとは皆で普通に世間話になった。
 祐巳さんも言っていたけれど、着実に薔薇の館という壁効果ができているのだろうか。最初からこのくらいの付き合いならクラスの皆ともほどよくやっていけたと思うのだが、今更そんなことを言っても仕方がない。まあ今がそうなっただけでもよしとすべきだろう。
「じゃあそろそろ予鈴ですし、移動教室に参りましょう」
「そうですね」
 次の時間は家庭科で移動しないといけないから、そろそろ出ようということになり、さきほどのメンバーのままぞろぞろと教室を出ようとしたところだった。
「ごきげんよう、乃梨子さん」
「あ、志摩子さん」
「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ」
 祐巳さんの時と同様に皆一斉にあいさつする。
「ごきげんよう、ちょっと乃梨子さんと話をしたいのだけどいいかしら?」
 私が瞳子さんたちと一緒に家庭科室に向かおうとしていたことに気づいた志摩子さんは、確認を取る。
「は、はい、もちろんです、紅薔薇のつぼみ!」
「ありがとう、じゃあ乃梨子さん、ちょっとこっちへお願い」
 もちろん私は志摩子さんにお願いされて文句などあるはずもなく、志摩子さんの後ろをほいほい付いていく。
 そんなに時間もないでしょうしここでと、人気がなさそうな階段の近くで止まった。
「志摩子さん、何かあったんですか?」
「昼休みに祐巳さんたちと話し合っていて、その時にふと気づいたのだけど」
 そこで志摩子さんはいったん区切って、人気がないにもかかわらずさらに声を潜めてささやいた。
「乃梨子さん、数珠も好きだったりする?」
「数珠ですか?」
「ええ、祖母から譲り受けた数珠の珠の中に仏像が入っているのよ」
「是非見せてくだっ!」
 思わず大きな声を上げてしまい、慌てて口をつぐむ。
「くすくす。そう言うと思ったわ。明日持ってくるから……そうね、よかったらお昼もいっしょにどうかしら?」
 明日も祐巳さんは夕方まで忙しいし、乃梨子さんはあんまり教室では取りたくなかったのよね? それなら……と誘ってくれる志摩子さんに私が異論などあるわけがない。一も二もなく頷いた。
「それじゃあ、明日、前と同じ場所でいい?」
「はい。また明日、あの場所で!」
 志摩子さんがおばあさんから譲り受けた数珠……家が家だけに立派なものに違いない。その数珠の珠に入っている仏像。いったいどんなのだろうか? 今から興奮してしまう。
 興奮のあまり、そんなに時間はないのに立ち止まってしまっていたから、志摩子さんはもう去ってしまったと思ったらまだ近くにいた。しかも目を丸くして……あ、今度は苦笑いしている。
「志摩子さん? うわっ」
 いったい何事かと気になって追いつくと、そこには……トーテムポール?
 なんと廊下の角に隠れるように何人もがこっちを覗いていたのだった。顔を上下に並べて……一番下の人に至っては廊下にしゃがみ込んでいた。まさしく顔面の塔。
 志摩子さんは慌てて立ち上がり始める子たちに何を言うでもなく、元塔のそばに立っていた瞳子さんに声をかけた。
「瞳子ちゃん、次の時間はお裁縫? 何ができるのかしら?」
「スカートです。紅薔薇のつぼみ」
「そう。素敵にできあがるといいわね。お励みなさい」
「は、はいっ!」
 それじゃあ……と立ち去りそうになってもう一度止まったかと思うと、さっきしゃがみ込んでいた子に近づきスカートの裾を軽く払った。
「ろ、紅薔薇のつぼみっ!」
「おてんばもいいけれど、ほこりは早めに落とした方がいいわ」
 そういって微笑みを浮かべ去っていく志摩子さんは、マリア様の化身がいるのであればこの人に違いないと思わせるに十分なものがあった。


 ……なに、この空気。
 被服室全体は雑然としているのに、私がいるこの大机だけは静寂が支配していた。
 原因は私の隣で作業している瞳子さん。よく言えば黙々となのだが、いつも乃梨子さん乃梨子さんと声をかけてくる人が黙っているのは違和感がある。
 もっとも、そこまでならなんの問題も無い。普段なら授業中の私語は厳禁な訳で、こういった授業の方が例外なだけだし。
 でも違うのだ。今の彼女にはなんとも言えない雰囲気をまとっていた。それこそ口を開いたら勢いよくバッサバッサと布地を裁断しているハサミが自分に向けて……みたいな。私が大げさに考えているわけではないというのは、正面の二人も一言もしゃべらないことからして間違いないだろう。
「あの、乃梨子さん」
 基本的に静かなことは好きだけれど、さすがにこれはきついと思っていたこの沈黙を打ち破ってくれたのは、さっきトーテムポールを構成していた人の一人だった。かなり離れた席の人だと思ったが、この際それは置いておこう。このあんまりな状況に突破口を開いてくれたお礼にいつもより笑顔をサービスしつつ答える。
「何か?」
「あの、先ほどのことですけれど……」
 む、来たか。
 志摩子さんの神々しい雰囲気に皆が呑まれていたあの時はともかく、その後で聞かれるかもしれないとは思っていたのだ。
「あぁ、先ほどはご心配をおかけしてごめんなさい。祐巳さんがもう数日かなり忙しくなるかもしれないというのを、たまたま私を見かけたから伝えてくださっただけですので」
「あ、いえ、それもあるのですけど、その……」
 事前に用意しておいた回答であっさり幕引きにできると思っていたのだが、どうやら聞きたいことが違うらしい。
「乃梨子さん」
「はい、なんでしょう?」
 どうしたものかと考えていた時、ついに瞳子さんが口を開いた。とはいえ、鋭い目つきも手の動きもさっきと何ら変わることがないものだからかなり恐ろしい。
「恭子さんは話の内容もさることながら、乃梨子さんと志摩子さまの関係がたいそう気になっていらっしゃるご様子。説明していただけると、喜ばれるかと」
 そういうことか。瞳子さんがいったいどうしてこんなに機嫌が悪いのか分からないが、それでもフォローしてくれたことに感謝して「そうですね……」と間を置きながら考える。
 私と志摩子さんの関係ってことだから、きっかけを語っておけばいいかな。後は前に祐巳さんが手を回して来てくれた黄薔薇のつぼみの島津由乃さんと同じような感じということで。そのぐらい説明すれば後は何とかなるだろう。
「瞳子さんとは薔薇の館でもお会いしましたし、ある程度ご存じの話の繰り返しとなってしまうかもしれませんが……実は登校中、マリア様にお祈りしている姿がとても印象に残った方がいらして、祐巳さんにそれを話すと志摩子さんであると分かって、せっかくだからと薔薇の館に招待してくれたんです。それからは祐巳さんの紹介もあり、黄薔薇のつぼみと同じように志摩子さんにはよくしてもらっています」
 今度こそ話は収まる……そう思ったのだが、むしろざわめきは広がっていた。「やっぱり」とか「そんな」とか聞こえるけど、いったいどういうこと?
 さらにタイミングが悪いというか、こんな時に限って先生が準備室に引っ込んだものだから、私の裏手に座っていた人が立ち上がったかと思うと、我も我もと皆立ち上がって私の周りに集結してきた。
「あの、乃梨子さん」
「な、なんでしょう」
 群がってきた人たちを代表するように恭子さんが今度は口ごもらずにはっきりと聞いてきた。
「乃梨子さんは、紅薔薇のつぼみからも特別によくしていただいているのでしょうか?」
 紅薔薇のつぼみから『も』? さっき説明したつもりなのだが、いったいどう解釈したらそういうことになるんだ? 志摩子さんとであったきっかけを説明して……あ。
 私が気づくのと恭子さんがさらに突っ込んでくるのはほぼ同時だった。
「乃梨子さん、紅薔薇のつぼみのことも志摩子『さん』って」
 そう、説明だったにもかかわらず普段の呼び方をしてしまっていた。しかも島津由乃さんの方は黄薔薇のつぼみと肩書きで呼んでいたから、志摩子さんの位置が黄薔薇のつぼみよりも祐巳さんに近いものだとはっきりわかってしまったのだ。
 こうなった以上は、「さん」付けの経緯は話すしかないだろう。
「ええっと……それは、ほら私は外部入学でしょう。紅薔薇のつぼみと声をかけるのを言いづらそうにしていたら、名前で呼んでくれて構わないと。でも『さま』付けすら慣れていなかったから、うっかり『さん』づけで呼んでしまったんです。そうしたら、そのままでいいと言っていただけたので……。私が無知だったせいで、皆さんにはご迷惑ばかりおかけして、本当にごめんなさい」
「そんな、頭をお上げになって、乃梨子さん。私たち、迷惑だなんて思っていませんわ。ただ、少し不思議に思っただけで……」
「そうそう」
「うらやましいわ、乃梨子さん。私も高等部からリリアンに入学すれば良かったなんて思ってしまいます」
 外の世界ならいざ知らず、ここにいるかぎり姉妹体験中でもない上級生、それも薔薇の館の人間を「さん」付けで呼んでしまう失態を演じてしまった私に、口々にフォローのようなことを言ってくれた。
「ありがとうございます、皆さん。私もそろそろ慣れてきたことですし、紅薔薇のつぼみのことに限らず気をつけますので」
 そこまで話したところで、先生が準備室から戻ってきたため自然とお開きになった。
 やれやれ、一時はどうなることかと思ったが、どうにか乗り切れたらしい。
 それにしても志摩子さんのことになった時のあの食いつきぶり。薔薇の館の壁効果があってすらああなのだからもっと気をつけないといけない。


 これだけ目に見えるきっかけがあったにもかかわらず、このときの私はことの深刻さが全く分かってなかったのだった。



〜3〜
「乃梨子さん、ごきげんよう」
 バス停でバスを待っていると後ろから声をかけられて少し驚いた。ふりかえるとそこには志摩子さんがいたのだ。
「ごきげんよう、志……紅薔薇のつぼみ」
「……乃梨子さん?」
「すみません、志摩子さん。これには少々事情がありまして」
 志摩子さんにしてみれば急に呼ばれ方が変わったことを、ささやき声で謝る。
 さすがに昨日の今日で前にも後ろにもリリアン生がいるこの場でさん付けはためらわれた。志摩子さんもささやき声の方はいつもの呼び方のままだったことから、何か事情があると分かってくれたようだ。何事もなかったかのように話しかけてくれた。
「今日は同じバスなのね」
「そうですね」
 M駅からリリアンへと向かうバス。この通学時間帯は本数も結構多いから、電車からして同じということがない限り、一緒になる可能性はかなり低い。実際祐巳さんともまだ数えるほどしか一緒になったことがなかった。
 そんなことを考えていると、バスがロータリーに入ってきて、早速乗り込む……せっかくなので二人がけのいすに並んで座ることにした。
「前の方に並んでいたからちゃんと座れてよかったかな」
「そうね」
「ところで、紅薔薇のつぼみ、あれのことなんですけど……」
 せっかく朝一から志摩子さんに会えたのだ。昨日の約束の話を周りの人にはわからないように出してみる。
「あれ? ……ああ。今はだめ、お昼にね」
 それに……と、今度は志摩子さんがささやき声になる。
「何か事情があるのでしょう? こういった場所で受け渡しをするのはまずくないかしら?」
「……はい」
 全くもっておっしゃるとおり。がっくりとうなだれてしまった私の様子に志摩子さんが微笑む。
「くす。よっぽど楽しみのようね」
「それはもう」
「お昼はこの前の場所でいいかしら?」
「ええ」
 ああ、はやくお昼よこい。


 そして待ちに待ったお昼休み。
 思わず授業が終わるやいなやお弁当を取り出して、ダッシュしそうになるくらいだが、そんなことをしてしまったら思いっきり目立ってしまう。以前と同様にいかにも祐巳さんと約束があるように自然に自然に……
 自然体という言葉を心の中で念仏のごとく唱えつつ、お弁当を持って教室を出た。
 念には念を入れて大回りをして志摩子さんとの待ち合わせの場所の桜の木の下に向かうと、もう志摩子さんは来ていてシートを広げていた。
「待たせてしまってごめんなさい」
「今シートを広げたばっかりでそんな待ったということはないわよ」
「じゃ、失礼して」
 シートの反対側に座る。
「お弁当を広げる前に渡しておいた方がいいでしょうね」
 そう言ってポケットから巾着袋を取り出した。
 もちろん中身は昨日話に出た仏像が珠に入っているという数珠だろう。
「ありがとうございます!」
「ほんとうにうれしそうね」
「ええ」
「でも……ここでは開けないでちょうだい。マリア様に申し訳ないわ」
 ……確かにここリリアンはそういう場所であり志摩子さんもそういった人ではあるが……朝に続いてお預けを食ってしまった犬のように、結構情けない表情をしてしまっている気がする。
「ごめんなさいね。その代わり気に入ったら、しばらく持っていてもいいから」
「え? いいんですか?」
「ええ、私は使わないし、乃梨子さんほどの目を持っていないから」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、お昼にしましょうか」
「あ、その前に。朝は本当にごめんなさい、志摩子さん」
 あまりに楽しみにしすぎて先に受け取ってしまったけれど、まずはこのことを謝らないと。
「何のこと?」
「呼び方のこと。クラスメイトに言われるまで気づかなかった私も悪いんですけど……」
 昨日の出来事をそのまま志摩子さんに伝えると、すこし悲しそうな表情を浮かべ、頭を下げた。
「そうだったの……ごめんなさい、私の方こそ気をつけないといけなかったわね」
「そ、そんな! 志摩子さんに謝っていただくようなことでは」
 言いづらそうにしていた私に配慮してくれて名前で呼んでもいいって言ってくれたんだし。でも、そういうと志摩子さんはかぶりを振って続けた。
「いえ、私が悪いわ。実を言うと、乃梨子さんが何気なく志摩子『さん』って呼んでくれたのがすごく嬉しくて……だからあの時気づいてはいたのだけど、下手に口を挟んで志摩子『さま』って呼んで欲しくなかったから何も言えなかったの」
 そういって志摩子さんは口をつぐんでしまった。
 そうか、あの時志摩子さんが一瞬見せた驚きの表情とその後の笑顔ってそういうことだったのか。
「顔を上げてよ、志摩子さん。もし、あの場で『さま』って訂正されていたら、今みたいな関係になれなかったと思うな。でも、そんなの嫌だよ、私」
 祐巳さんと志摩子さん。私が三年間この学園で何とか普通にやっていけそうと思えてきたのは間違いなく二人のおかげなのに、そんな大切な人が自分のやったことは間違っていたなんて悲しいことを言わないで欲しい。
「乃梨子さん……ありがとう」
 そういってくれた志摩子さんの顔からは悲しみは消え、いつもと変わらない微笑みがあった。
「いやいや、今後私がもっと気をつければいいだけだから。それより、私のせいで遅くなってしまってなんですけど、お昼ご飯食べません?」
「うふふ、そうね」
「そうしましょう、そうしましょう」
 そういって、さっきしまいそびれた巾着袋を大事にポケットにしまい弁当箱を広げ……そこで志摩子さんのお弁当箱が一回りいや二回りくらい大きいことに気づいた。
「志摩子さんの、大きくないですか?」
「せっかくだから乃梨子さんにもいろいろと食べてもらおうと思って」
「いいんですか?」
「ええ、そのために作ってきたのだから」
 なんと志摩子さんの手作り……
「はい、どうぞ」
「それじゃあ、いただきます」
 早速はしをのばして、一つ魚の煮物をいただく。
「おいしい!」
「それはよかったわ」
「志摩子さんが作ったんですよね?」
「ええ」
「ここまでのものが作れるだなんて、ほんとうにすごい!!」
「それほどでもないわ」
 何となく照れ恥ずかしそうにしている志摩子さんはとってもかわいく思えた。


 さて、待ちに待った放課後である。
 家に帰って数珠をたっぷりとたんのうさせてもらおう。話には聞いているが現物はまだまったく見たことがない。いったいどんなものなのかもう胸の高鳴りを抑えられない。
 しかし、昼休み決心したばかりだし、周りに変に思われるのを防ぐべく平静を装いながら下校をする……果たして本当に装い切れているだろうか? 言葉遣いは何とかなるとしても、今回はさすがに興奮の度合いが違うからなぁ……いっそ見たいドラマがあるとでも公言した方が良かったかも。そんな思いを抱えながら昇降口を出ると「乃梨子ちゃん!」と私を呼ぶ祐巳さんの声が聞こえてきた。
 声の方を振り返ると、祐巳さんが小走りにこっちにやってきた。後ろには黄薔薇のつぼみの姿も見える。
「ごきげんよう、乃梨子ちゃん」
「ごきげんよう」
「ちょっといろいろあって想像以上に忙しくなっちゃったせいで、乃梨子ちゃんとなかなか会えなかったり時間をいっしょにできなくてごめんね」
「そんな気にするようなことじゃないですよ。祐巳さんは生徒会長なんですし、確かマリア祭ももうすぐですよね」
「うん。来週の月曜日だからあと四日だね。もっともそっちの忙しさは織り込み済で乃梨子ちゃんに渡した予定表のとおりだったんだけどね……」
「何かあったんですか?」
「まあね……内容はあんまり人がいるところで話すようなことじゃないけど……それはともかく、今日は祥子さまも令さまも用事があって、早くに解散になるの。それで、ちょっと待っててもらわないといけないけど、それでよかったらいっしょに帰らない?」
 祐巳さんからのお誘い……少し迷った。今は一目散に帰って数珠を見たいところだが……
「どっかに寄り道していってもいいし」
 あ、そうか、その手もあったか。せっかくなのだ、ご開帳を祐巳さんと二人で楽しむというのもありではないだろうか?
「どこか、落ち着いて話ができそうな場所とかどうでしょうか?」
「OK、じゃあ、少し申し訳ないけどしばらく待っていてくれる?」
「はい、お仕事がんばってくださいね」
 祐巳さんといっしょにご開帳……うむむ、ますます楽しみだ。
 ……
 ……
 それから十五分ほどして、祐巳さんが少し息を切らせながらやってきた。
「待たせちゃってごめん」
「ううん、私の方こそ急がしてしまってごめんなさい」
「それじゃ、行こうか」
「はい」
 二人そろっての下校……考えてみるとこのひとつきほど、こういう風にいっしょに帰ろうと約束して帰るのは初めてな気がする。


 祐巳さんに案内されてM駅の近くの喫茶店に入り、一番奥の窓際に座った……ところで気づいた。
「そういえば……全然気にせず入った私が言うのも何なんですけど、寄り道ってよかったんでしたっけ?」
「うっ」
 痛いところを突かれたとばかりに絶句する祐巳さん。あ、やっぱり一応禁止はされているのか。
「まあ聞いてくださいよ、乃梨子ちゃん」
「はあ」
「私もね、去年の今頃、いやいやそれどころか秋頃までずっと寄り道しなかったんだよ。仮にどうしても立ち寄らなければならない場所があったとして、担任に承認の印をもらっていましたとも。それが……」
「それが?」
 どこか遠い目をしている祐巳さんに相づちを打ちつつ、続きを促した。
「佐藤聖というどこぞの白薔薇さまが、有無を言わせず私をそこかしこに連れ出したものだから……」
 内容だけだと悪影響を受けたと言わんばかりなのだけど、その口ぶりは祐巳さんにとって本当に楽しい思い出だったことが伝わってくる。
「なるほど、すっかり毒された、と」
「の、乃梨子ちゃーん」
 ちゃかしてそういってみたら、祐巳さんはひどく情けない顔を浮かべ、それが失礼ながらも実に可愛かった。
「まあでも祐巳さんがすごく真面目だったというだけで、実際の所、これくらいは普通に許されているんですよね?」
 斜め後方に目を向けると、やっぱりリリアンの別に不良(そもそもいるのか?)っぽくも何ともないごくごく普通の生徒が楽しそうにおしゃべりしているのを見ていれば、たいした問題ではないというのが分かる。
「まあ真面目っていうより単に小心者なだけなんだけど。でもそうだね、規則自体が学園ができた当時からあまり変わっていないっていうし、先生方もさすがに公認はしないけど……って程度かな」
 実際ここはリリアン生が結構来ていて、心地よく過ごせる店なんだと教えてくれた。
「そうなんですか」
 あ、向こう側もこちらに気づいたみたいで、目を輝かせている。そこに祐巳さんがウィンクしながら軽く手をふるものだから、なんかすごくはしゃいでる。それでも大きな声は出さないところはさすがリリアン生と言うべきなのか?
「ま、とりあえず何か頼んじゃわない?」
「あ、はい」
「乃梨子ちゃんは何にする?」
「そうですねぇ」
 メニューを見ながら考える。それほどおなかがすいているわけでもないし、ケーキを飲みながらコーヒーを飲むとかそんな感じだろうか。
 ということでケーキセットに決定。ケーキはこのチョコレートケーキにしよう。
「決めました」
「私も、それじゃ」
 ボタンを押してウェイトレスさんを呼んで、注文を伝えた。
「以上承りました。少々お待ちください」
 さて、一刻も早くご開帳を楽しみたい所ではあるけれど、さすがにケーキが届いた後の方が落ち着けるという程度の我慢は効く。せっかくだし、放課後聞きそびれていた祐巳さんがもっと忙しくなった理由を聞いてみることにしよう。
「そういえば祐巳さん、なんかマリア祭とは別のことで忙しくなったって先ほど聞きましたけど」
「あー……まあ乃梨子ちゃんならいいか。一応秘密にしておいてね」
 そう断ってから祐巳さんが語り出した内容は驚きのものだった。
「……どこの昼ドラですか」
「うん。正直、よくぞ思いついてくれたものだなーって」
 祐巳さんはそういってため息をついた。
 両天秤だか二股だか知らないけれど、そんなところだけ世間のどろどろしたところを真似しなくても……というのが正直なところだ。しかも今度はそれを新聞部に(ある意味)情報操作してもらうとか。
 私自身、質問攻めから解放されるのに一役買ってもらったわけだから、それをどうこう言う資格はないだろう。しかし、せっかく祐巳さんや志摩子さんのおかげで住み心地良くなってきたというのに、そういうのを聞くと引くなあ……
「お待たせいたしました」
 二人してなんとも言えない空気になってしまったのを打ち破るように、ケーキセットが届けられた。
「変な話聞かせちゃってごめんね、さあ食べよう?」
「いえ、私こそ無理に話してもらっちゃって、いただきます」
 あ、美味しい。なるほど、駅に近い上、価格もそこそこ、その上静かで心地よいなら人気があって当然だ。
「私が変な話をしちゃったからいけなかったのだけど、もともと何か話があったんだよね?」
「いえいえ。まあ、話と言えば話ですけど……実は祐巳さんといっしょに観たいものがあるんです」
「見たいもの?」
「はい」
 鞄から巾着袋を取り出してテーブルの中央に置く。
「何かな?」
「せっかく貸してもらったものだし、祐巳さんといっしょに観たいと思って」
「貸してもらった?」
「はい、あの人から」
 いきなりこの話し方では分かりづらいとは思うのだが、他のリリアン生もいる以上、名前を出すわけにはいかない。
 祐巳さんも私があえて名前を出そうとしないということに気づいたようで、しばらく首をかしげた後、納得顔になった。私の意図を察して「誰」をつけずに確認してくる。
「そういうことか。なにか貸してもらったんだね」
「そうです。それじゃ、開けますね」
 巾着袋を開けて数珠を取り出す……
 水晶でできた数珠はとてもきれいに透き通っていて、観ているだけで心が洗われそうなくらいである。そして、紫の房の上にあるひときわ大きな珠の中に、小さな仏像が入っている。象牙か何かで彫られたその仏像は釈迦如来のようで、見事に精密に作られている。その表情一つも心に訴えかけてくるような、素晴しい数珠であった。
「うわぁ、すごいね」
「ほんとうですね、ここまでのものだとは……さすがですね」
「うん……」
 各地へ通った時と同じ感動を、今、手元で味わえるなんて何と幸運なのだろう。少し上気した顔で黙って鑑賞している祐巳さんも似たような気持ちなんだと思う。
「ふぅ」
 結構な時間、少なくとも残っていたコーヒーがぬるくなってしまうぐらいは過ぎた後、どちらからともなく出たため息をもって、鑑賞会が終わった。数珠を巾着袋に収納したあと、鞄に大事にしまう。
「それにしても……よくここまでのものを貸してくれたね」
「ええ、私もこの場で初めて観たんですけど、まさかこれほどとは」
「それだけ乃梨子ちゃんが親しくなっているって証だよ。私が頼んだからって訳じゃなく、本当に自然に仲良くなったとは思うのだけど、それでもお礼を言わせて。ありがとう」
「そんな、お礼を言われるようなことじゃないです。むしろ私なんかにいつも良くしてくれる祐巳さんに感謝してもしたりないです。けど、それを置いておくとしても、こんな素晴らしいものを貸してくれるほど信頼してもらっているなら、すごくうれしいです」
「うんうん。それにしても帰りに乃梨子ちゃんに会えて良かったなあ。結構憂鬱だったんだけど、だいぶ元気が出たよ」
「私も。同世代の人と一緒に楽しむなんて絵空事かも……とも思っていたんですけど、祐巳さんと一緒に観ることができて幸せです」
「これからもよろしくね」
 何をとは言わないけれど、祐巳さんとのことはもちろん、志摩子さんとも、という意味が込められていることに気づく。もちろん願ったりかなったりだ。
「はい」
「よし、じゃあ今日はお開きにしようか。あ、そうそう。明日のお昼なんだけど、よかったらいっしょにどう?」
「明日ですか? もちろん大丈夫です」
「そう、良かった。最近、少なくとも一日おきに乃梨子ちゃんと一緒に食べるのが当たり前だったから、二日も空いちゃって変な気分でね。明日が楽しみだなあ」
「私もです」
 こうして明日のお昼の約束をしてから店を出た。


〜4〜
 なんだろうか? 何か視線が気になる感じなのだ。
 特に変なことをした覚えはないのだが、みんなから見られているような気がする。
 お昼に祐巳さんが迎えに来てくれた時も、視線が集まってくるのはある意味もはやお約束な話なのだが、何かがいつもと違うというか、私自身は滅多に受けたことがないものの、ある意味見覚えのある光景……そう、ここに入ってからはとんとご無沙汰になっていた陰湿なタイプのものだ。
 授業中、ぼんやりとこの視線の意味するところについて考えてみた。
 現時点では嫌がらせと呼べるような実害は何もないので全く問題ない。むしろ、いつも以上に話しかけられることが減ったのでメリット……と思えてしまうのもなんだかなと思うが、そんな感じである。
 ただ、その原因はやはり気になる。ここまではっきりと違和感を感じるようになったのは今日からだが、その前から前兆のようなものはなかっただろうか?
 ……昨日の昼すぎか。一刻も早く数珠を観たかったので気にもしていなかったが、今思えば午後からクラスの雰囲気が変わり始めた気がする。
 昼過ぎからとなると、原因は昼かそれ以前に取った行動がいない間に問題視されたか。後者は考え出すときりがないのでとりあえず昼と考え、昨日の昼と言えば志摩子さんとご一緒した訳だが……念を入れたつもりだったが、見られたか?
 前日に祐巳さんはともかく、同じくアイドルである志摩子さんへの「さん」付けが問題視、その翌日にやっぱり志摩子さんと楽しく過ごしている姿が目撃されてしまい、一部生徒が我慢ならず……そう考えればそれなりにつじつまは合う。しかし、これはどうだろう?
 この現代社会では信じがたいくらいの天使の園であるということを思い知ってきたこのリリアンである。そんないかにも世間でありがちな理屈が成り立つのだろうか?
 確かに昨日祐巳さんに聞いた両天秤の例があるとは言え、あれは姉妹制度というある意味非現実的な制度がさらに極端な方向に突っ走ってしまった結果であって、嫉妬だとかそういう方面のどろどろとはちょっと異なる気がする。
 となると……まてよ、両天秤? さっきの言葉をもう一度頭で復唱する。
 祐巳さんから聞いた話は上級生がこっそり二人の下級生と体験をしたというものだった。つまり1対2の関係である。
 1対2の関係……私と祐巳さん、志摩子さんの関係がそのように捉えられている。つまり私が祐巳さんと志摩子さんを両天秤にかけて姉妹になろうと考えているように思われたなら……うん、単に嫉妬されていると考えるよりもよっぽどつじつまが合う。ここリリアン基準なら私はアイドルをもてあそぶ極悪人ってところだろうか?
 仮定に過ぎないというのに、思いっきり納得がいってしまった。これ以上うまいこと説明が付く理由が考えられないし……どうしたものか。
 嫉妬なら放って置くしかないが、極悪人扱いとなると話は別だ。これは祐巳さんや志摩子さんにも迷惑をかけかねない。とはいえ、私がどう話をしても説得力はないだろう。
 祐巳さんがとった方法のように新聞部を動かす? ダメだ、あれはアイドルであり、生徒会長でもある祐巳さんだからできたことであって、私一人にそんな力はない。
 二人と距離を置く?
 冗談じゃない。「これからもよろしく」とか言い合ったばかりなのに、いきなり私がそんな態度を取ったらそれこそ二人に迷惑をかける。うぬぼれかもしれないが、そのくらいの自信はある。だいいち、なによりこんな事でそんな対応を取るのはおもしろくない。
 ……仕方がない。大変心苦しいものがあるが、祐巳さんに相談しよう。私一人だけでどう動いても結果的に迷惑を広げる気がするし。
 だが、さすがにいきなり今日の放課後ってのは、いくらなんでもないだろう。日曜日に出校するとは聞いていないし、そうなるとマリア祭までは今日と明日しか残されていない。そんな貴重な二日間だ、こんな事で時間を取らせてしまうのは申し訳なさすぎる。
 よし、それが終わるまで待つとしよう。数日様子を見れば、多少なりとも確信が持てるに違いない。
「今日はここまで」
 先生の声とともにチャイムが鳴る。
 うわ、もうそんな時間か。そんな状態でもノートだけは取れているのは自分を褒めるべきか否か。
 こうして、授業中の大半を費やしつつも、何とか結論づけたのだった。


 そして翌日の土曜日。
 うん、明らかに周りの視線が厳しくなっている。噂としてクラス中に伝染していったという感じだろうか。
 もっとも、靴に画びょうが入れられるみたいな嫌がらせとか、事務的な会話も成立しないとかそういうことは無いので、被害もなく確信を得やすくなるという意味で、都合がいいとも言えるのだが、やっぱり微妙である。
 やっぱり来週祐巳さんに相談コースは避けられないか……それ以外に方法が思いつかないとはいえ、やはり心苦しいものがある。ため息をつきながら、掃除を終えて教室に戻ってきた。
「あれ?」
 決して居心地は良くない教室からさっさとおさらばすべく、机に戻ると鞄が机の上に置いてあった。掃除の時、そんな風にしてあったら迷惑きわまりないので、当然鞄は横にかける。そして鞄が勝手に机の上に移動することはあり得ない。つまり……
 ついに物的嫌がらせか? そんな諦めと覚悟の入り交じった心境で、鞄を空けてみる。すると、想像していたみたいな中身が墨だらけとか、あるいは空っぽとかそういうことにはなってなかった。念のために中身をあらためてみる。
 現国、数学……教科書・ノートは全部ある。中身は帰ってからにするとして、定期入れ、サイフ、ペンケース……え?
 慌てて、教科書の間やらなにやら、あるはずのない自分のポケットまで、くまなく探す。しかしない。
 そう。志摩子さんの数珠だけが、そこから消えてなくなっていた。


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