最終話

もうひとつの姉妹の形

〜1〜
「最低」
 波のようにおそってくる頭の痛みに目を覚ました。
 熱を測ってみたところ三十七度八分。昨日の出来事は体まで冷やしきってくれたらしい。
 お母さんが病院へ連れて行くといったけど断った。どこにも、たとえ病院にだって出かけたくない気分だったから。
 それでも……と言いつのるお母さんに祐麒が
「祐巳、学校の行事も多かったし、疲れがたまってたんだよ。家でゆっくり寝かせてやれって」
 風邪で病院に行っても早く治るもんでもないしさ、と付け加えて説得してくれた。
 もし風邪じゃなかったら……となおもぶつぶつつぶやいていたけど一応納得してくれたようだ。
 明日になっても熱が引かなかったら連れて行くわよ、との言葉を残して学校へ連絡するために階下におりていった。
「姉ちゃん、ゆっくり休めよ」
「余計なお世話」
 部屋を出て行く際にそう声をかけてくれた弟に減らず口をたたく。なんかなにもかも分かったような顔をして言うものだから、なんだか無性に悔しかったのだ。
 祐麒は苦笑して、部屋を出て行った。
「いったいどっちが年上なんだか」
 風邪で頭が回ってないせい、そういうことにしておこう。
 起き抜けに飲んだ薬が効いてきたのか、痛みもやわらいできたのでもう一寝入りすることにする。今はただなにも考えず眠りたかった。


 翌朝、いつもよりだいぶ早い時間に目が覚めた。うーんと伸びをするとバキバキと体中から音が響く。
 結局、あれから薬と簡単な食事をとる時以外ひたすら眠り続けて朝を迎えることとなった。
 まだ若いからか、はたまたゆっくり休んだからか熱もすっかり引いたみたい。
「しっかりしなきゃ、ね」
 自分に言い聞かせるようにつぶやく。ここ数日で何度も登場したこの言葉。それでも口に出して言えばまだ効果があったみたい。
 鏡にはほんのちょっとぎこちない笑みを浮かべた制服姿の私が映っていた。これだけ笑えていれば、みんなに心配をかけずに済むかな?
「それじゃあ行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。祐巳ちゃん、今日は無理しちゃだめよ」
「大丈夫だって。もう元気いっぱい」
 ほらこんなに、と力こぶを作るポーズ。それを見ておかしそうに笑っていたお母さんが不思議そうな顔をしたので横を見るといつの間にか祐麒がいた。
「あら。今日は二人一緒なのね」
 もう一度いってらっしゃいと見送るお母さんに返事をして二人で家を出る。
「……」
「……」
 どうしよう、言葉が出ない。たまに一緒に出かける時、ずっと話をしているわけではないのだけれどそういう「話をしない」というわけではないのだ。今日はどっちかというと「話ができない」という感じだ。
「……」
「……」
「あのさ、」
 二人の声がぴったり重なった。話しかけるタイミングまで一緒になってしまうとは。
「あ、どうぞお先に」
「いやいや、祐巳の方こそ」
「いやいやいや、祐麒が先でいいよ」
「祐巳、先に言っちゃえって」
「祐麒こそ先に言ってよ。弟なんだし」
「それなら祐巳が先に言えよ。レディーファーストだ」
 ……はて、なんで朝から二人で漫才のようなことをしているのだろうか?
 なんだか無性におかしくなってきた。それは祐麒も一緒だったみたい。二人して笑いあった。
「……昨日は大人げなくてごめんね」
 一通り落ち着いたところでさっき話しかけたことを切り出した。
「なんか祐麒が一歩も二歩も先を進んでいるようで悔しかったんだよね。私のことをみんな分かっているようで」
 せっかく助け船を出してくれたのにごめん、ともう一度あやまる。
 しばらく黙って聞いたまま歩いていた祐麒が私の方を見ずに口を開いた。
「……俺には姉妹関係ってよくわかんないんだけどさ」
 ほら、うちの学校の先輩と後輩みたいな関係とは違うんだろ? と、手振りを交えながら続ける。
「端から見ていてもなんか依存しているっていうか……悪い、今の言葉取り消すわ」
 依存、か。お姉さまのことで一喜一憂、あげく風邪まで引く私はそう見られても仕方がないかもしれない。
「で、でさ! 確かに祐巳は薔薇さま、要するに生徒会長だよな? になるわけだし体面も保たなきゃいけないのかもしれないけど……」
 しばらく金魚のように口をぱくぱくさせてそのまま閉じる。心なしか頬も染めているようだ。でも言いたいことは十分に伝わった。本当に優しい子だ。そういえばバレンタインデーの前に無理したときも祐麒が一番心配してくれたんだっけ。
 うれしさやら申し訳なさやらそういったもので胸がいっぱいになったので、意地を張らずに素直に謝ることにした。
「ごめん、確かに抱え込みすぎてたかも」
「……ん」
「でもさ、いろんなことがありすぎて、どうしていいのかわかんないんだ。本当に」
「姉ちゃん……」
 昨日の今日でお姉さまに会えるわけがない。では、いったいどうすればいいのだろう。


〜2〜
「でも祐巳さん、病み上がりでしょう? 掃除日誌は私たちが……」
「ありがとう。でも今日はこの通り元気いっぱいですから。皆さんは部活もあるでしょうし、私は薔薇の館に立ち寄るついでだし」
「そうですか、それでは」
 一緒に掃除当番をしていた三人が、うなずきあってほほえんだ。
「ではまた明日。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 三人が帰って行くのをにこやかに見送ってから、一息ついて音楽室に引っ込む。
 何となく一人になりたかったから、この音楽室の静寂が心地よかった。
「薔薇の館、かあ……」
 別に薔薇の館に行くこと自体に問題があるわけではない。お姉さまがいるわけでもあるまいし。ただ何となく気が乗らないだけだ。昨日、床に伏せっていたことも皆知っているだろうし、さっきはああ言ったものの、病み上がりを理由にして休んでも、何も言われないとは思う。
「どうしようかな」
「さぼるかどうか決めかねる?」
 私の独り言に答える声があって、思わず悲鳴を上げそうになった。
「思ったより元気そうね」
 入口を振り返ってみればそこには「今、会いたくない人」のベスト(ワースト?)3に入ること間違いなしの静さまが立っていた。
「ごきげんよう、静さま。もう部活の時間ですか? すみません、長居して。今すぐ出ま……」
「ああ、そうじゃないの祐巳さん。今日は早く来てみただけ」
 そう言われて腕時計をのぞいてみたら、部活が始まるにしてはまだ早い。
「私たちの間も何かの「縁」で結ばれているのかしらね?」
 「縁」を強調して、くすくすと笑う静さま。
「ちょっと意地が悪いですね」
 今、会ってしまったらどうなるのだろう?
 そんなことも考えたのに、実際こんなことを言われても言い返す余裕のある自分にちょっと驚く。案外、心は丈夫にできているのかもしれない。
「意地が悪いですって? とんでもない。そりゃ最初はもしここで出会えたら『ごきげんよう、祐巳さん。今日は言いづらいのだけど……ロザリオをもらい受けに来たの』とかそういう冗談も考えたけど、さすがに病み上がりの祐巳さんに申し訳がなくて」
 まぁ心外と肩をすくめ、大げさに驚いた表情を作ったあとにそんなことを言う。この人、やっぱり苦手だ。
 ……ちょっと待て。
 今、なんと言った?
「あ、あの!」
「どうかした、祐巳さん?」
 相変わらず不敵な笑みを浮かべている静さま。
「さ、さっきなんと?」
「ロザリオをもらい受けに?」
 これが事実だったらもう私は立ち直れなかったかもしれない……が!
「そのあと!」
「さすがに病み上がりの祐巳さんに申し訳がなくて?」
「その前です!」
 ふうん、と満足げにほほえむ静さま。私がそこにかみつくことも織り込み済みだったということだろうか?
 でもそんなこと関係なく静さまの答えが聞きたい!
「そのとおり、あらゆる意味で「冗談」よ。盗み聞きした悪い子ちゃん」
「……お気づきでしたか」
 笑みを崩さないまま一昨日のことを言い当てた静さまに、そう答えることしかできなかった。
「確信とまではいかなかったけどね。あなたが昨日休んだと聞いて可能性は高いとは思ったわ。でも今日会ってみたら案外平気そうな顔をしてるじゃない?」
 だからかまをかけてみた、ということか。
「平気っていうか。ただ、もうどうして良いのかも分からなくて」
 悲しんでいるのか笑っているのか自分でも分からない表情のまま、そうつぶやいた。
 すると、静さまはさっきまでのからかうために浮かべていたものとはちがう、まるで私を包み込んでくれるようなやわらかな笑みを浮かべて言った。
「あの時、何を話していたのかを教えてあげる」


「つまり、昔話やこれからのことを話していただけ、と」
「ま、そういうことね」
 だからあなたが心配しているようなことは何もない、とはっきり言った。
「……本当にすみません」
「気にしなくていいわ。私もあんな形で誤解されたままってのも気持ちよくなかったし」
 それよりも、と付け加える。
「今、上手くいってないんでしょ? 送る会のことは風の噂に聞いた程度だけど、相当の出来事だったみたいだし」
 私で良ければ聞くわよ? と静さまは言ってくれた。
 そこで少しだけ……と話し始めたのだけれど、いつの間にかここ二週間のことを洗いざらい打ち明けていた。
 時折、声を詰まらせそうになる私の話を辛抱強く聞いてくれて、話し終わったときにはそれだけで何か気持ちが楽になった気がした。
「そう……つらかったわね」
「いえ、すいません。こんな話につきあわせちゃって」
「白薔薇さまに何があったのか、それは私にも分からない。けれど、これは間違いなく言えるわ。白薔薇さま……聖さまはあなたのことを大事に思っているし、何も言わないまま去るなんてことも決してしない。あなたも私も好きな「佐藤聖」という人はそういう人」
 目を閉じ、自分自身をぎゅっと抱きしめながら。その姿は、お姉さまへの想いを決して離すまいとしているように見えた。
「あなただって分かっているはずよ」
 ただ、ちょっとびっくりして、忘れていただけ。そういってフッと笑った。
 そうだ、静さまの言うとおり。お姉さまがそんなことをするわけがないじゃないか。どうして私はそんな大事なことを忘れていたのだろう。
 自分が「お姉さまがただただ大好きな福沢祐巳」にみるみる戻っていく気がした。
「どう、少しは気休めになった?」
「そんなものじゃないです」
「それは上々。さてと、祐巳さんの気分も少しは晴れたようだし、今日の所はお開きにしましょうか」
 そう言われて静さまが立ち上がったので、時計を見ると部活が始まっていても少しもおかしくはない時間だ。
「あっ、すいません。こんなに長々と。おまけになんとお礼を言えばいいのやら……」
「別に構わないわ。祐巳さんが落ち込んでいると張り合いがないじゃない」
 おちおちからかうこともできないし、なんて言って笑う。まったくこの方ったら。どちらからともなく笑みがこぼれる。
「ふふ、それじゃまたね、祐巳さん」
「本当にありがとうございました。それでは、ごきげんよう」
 手を振りながら見送ってくれる静さまに礼をして音楽室を出た。
 まずは掃除日誌を提出すべく職員室に寄らないと。
「あら福沢さん、今日は遅いのね」
 廊下でそう声をかけてきたのは合唱部の顧問の先生。
 私が白薔薇のつぼみだということもあるのだろうけど、掃除の終わった後にちょくちょくお会いするので、直接教えを受けているわけではないのにすっかり顔を覚えられてしまっていた。
「す、すいません。部活の支障になりかけてしまって」
 掃除自体は終わっていたとはいえ遅れたのは事実なので、そう頭を下げると不思議そうな顔をしたあと、何かに気づいたようにご自分で納得されている。私にはさっぱりだけど。
「確かに遅めだとは思うけど…… そもそも今日、部活はないわよ? 私が外の会議で出張するから」
「そ、そうでしたか。それでは失礼します」
 思わず声が出そうになるのを抑え、首をかしげている先生を残し、足早に職員室へ向かう。
 ということは、だ。
 静さまは私に会うためだけに音楽室に来てくれたことになる。
 絶対に認めようとはされないだろうけれど、おそらく私を心配して。
 つくづく不思議な人だと思う。ご本人も言うように私のライバルであるはず(実際、意地悪したりもするし!)なのに、時にはこうして「優しいお姉さん」になってくれたりもする。だから私はあの方を嫌いになれない、むしろ好きなんだと思う。
 もし。もし、万一お姉さまに二年生の妹がいたら、そして私が孫で……そういった形もあり得たのだろうか?
 そんなことをぼんやりと考えながら、用事の済んだ職員室を後にして、薔薇の館に向かった。


「遅れてすみません!」
 一階の扉を開けたら、なぜか皆そこにいたので早速遅刻をわびる。
「祐巳ちゃん、今日は無理しなくていいのよ」
「そうそう、由乃だって以前はよく休んでいたんだし」
「お姉さまに先に言われると何ですけど……でもその通り。祐巳さん、今日は気張らなくていいからね」
「祐巳さん。朝、元気だと言っていたけど、ぶり返しもありえるから……」
 志摩子さんから話を聞いていたのだろう。
 祥子さま、令さま、由乃さん、そして志摩子さんが次々と声をかけてくれた。
 その暖かさに思わず涙をこぼしそうになったけれど、今ほろりと来たらもっと心配をかけそうなのでこらえる。
「今から一階の部屋の点検をしようとしていたところだよ」
 なるほど、それでみんなここにいたんだ。薔薇さま方の私物が残っていないか、確認するためだとのこと。
 もちろん白薔薇さまの分を祐巳ちゃんにもチェックしてもらうつもりだったけど、と令さまが付け加える。
 そもそも今日の予定は卒業式における生徒が準備する部分の再確認等でわりとあわただしいスケジュールだったはず。私のことを考慮して楽なメニューに変えてくれた、ということか。
「じゃ、私もさっそく……」
 みんなの心遣いに応えるためにも、せめて目の前の仕事に精を出すことにしよう。

……
……

「……またか」
 部屋の隅に転がっていたお姉さまのボールペンを拾う。
 それにしても薔薇さま方の私物を探しているのか、私のお姉さまの私物を探しているのか。教科書、ノート、スポーツタオル、各種筆記用具……果ては空で助かったけれどなんとお弁当箱まで。
「お姉さまの物ばっかりで済みません……」
 探し終わって祥子さまと令さまに頭を下げる。
「いいのよ、お姉さまの私物も出てきたのだし」
 そう言う祥子さまの手には紅薔薇さまのシャーペンが一本。黄薔薇さまのものはハンカチが一枚発見された。それぞれ一つずつなのに、こっちは紙袋一つ……単位が違います。
「備品も色々と出てきたしね」
 ハサミやらマジックペンやら色々と、これはお姉さまの私物と良い勝負だった。
「そうですね」
「さ、整理も終わったし今日はこのあたりにしましょう」
「賛成。……こちらはお返ししないとね」
 令さまが綺麗に折りたたんだハンカチを眺め、目を潤ませながらポツリとつぶやいた。
「そうね……明日、お返ししましょう」
 いとおしげにシャーペンを頬ずりしていた祥子さまは頬に涙がつたうのをぬぐおうとしないままそう言った。
 そんなお二人を見ていたら私もまたこみ上げてきてしまった。でも今は我慢しないことにする。昨日までとは違う、大好きだから、心の底から慕っているからこそ流せる涙だと思ったから。


「うぷ……」
 ものすごいにおいに絶句する。
 空……とはいえ、洗ったときのように綺麗というわけじゃなくて。三ヶ月放置されたお弁当箱はやっぱりものすごいにおいがした。
 すぐに大量の水でにおいも何もかも流してしまう。
 冬で助かった……夏だったらカビやら何やらがびっしりになっていてもおかしくなかったかもしれない。
 洗剤をたっぷりつけたスポンジでごしごしと洗う。
「あれ? 何洗ってるの?」
 帰ってきた祐麒はただいまよりも先にそんな言葉をとばしてきた。そうか、私がこうして流しに立つのはそんなにも珍しいか、弟よ。
 色々と言いたいところはあるけれど、ともかく「お帰り」と言うことにした。
「ただいま」
「うん……お姉さまの忘れ物」
「弁当箱か……薔薇の館だっけか、あそこに忘れてあったの?」
 私の洗っているものをのぞき込んでそんなことを、そんなにも珍しいか?
「……正解」
「そっか、部室とかで卒業生の忘れ物が出てきてって話は聞くし、そのパターンか」
「よくわかるね」
「こっちも卒業式近いからな」
「リリアンの次の日だもんね」
 同じ丘にあるリリアンと花寺。同じ日にそろって卒業式をやっても良いのかもしれないけれど、家みたいな年子の場合はずれているのがありがたいだろう。
「まあ結構ほったらかしになっててだいぶ後になって出てくることが多いらしいけど……ところで、なんだかずいぶん元気そうじゃん」
 さっきの軽口もこれをなかなか言い出せなかったからかな?
 昨日からのお礼もこめて意地を張らずに素直に話すことにしよう。
「そう見える? なら祐麒ともうひとりのおかげ。ありがとね」
 姉からこの質問でこんな素直なお礼の言葉が出るとは想像していなかったに違いない。金魚のように口をぱくぱくと開いている。おまけに照れているのか頬には赤みが差している。ちょっとかわいい。
「ま、まあ俺は何もやっていないけどな。で、もうひとりって誰のことだよ?」
 照れている自覚があるのか、すぐさま話を振ってきた。
 どうしたものか。さすがに私のライバルって言ってしまうのはいろいろと問題がありそうだ。まあここは無難に。
「うーんと。私の先輩」
「先輩? 一緒に生徒会長になる人たちとか、その辺か?」
「そんなところ」
 一票差。つまり、生徒会長になりかけたのだから「その辺」といえないこともないだろう。
「私が考えていたことは誤解なんだって教えてもらったんだ」
「祐巳が勘違いしていただけだったのか?」
 眉間にしわを寄せる祐麒。それだけでは納得できないって感じか。
 まあ、あれだけドタバタめそめそしてましたっていうのに、誤解と教えてもらった途端に「はい、納得。元気いっぱい」になった、なんて言われたら簡単には頷けないかも。だから、少し言葉を補うことにする。
「うん。でもそれはきっかけ。結局、私がお姉さまを信じられなかったのが悪かったの」
 確かに、人の心は移ろいゆくもの。けれど、私がもっと強ければ……そうすれば、お姉さまを疑ってしまうなんてことはなかったのだ。
 そして最後に一番重要なことを口に出す。少し恥ずかしいけど、これは外せないことだから。
「で、ようやく思い出せたんだ。私はお姉さまが大好きだって」
 理由や条件なんて何もない。ただただお姉さまのことが大好きといえる「いつもの祐巳」に戻ることができたのだ。
「ま、そういうわけ。……祐麒?」
 さっきから祐麒は胸のまえで腕を組んで、「うーん」と唸っている。
 ……私、そんなに変なことを言ってしまったのだろうかと考えていたら、ようやく口を開いた。
「やっぱり祐巳は佐藤さんにべったりだな。その点では確かに心配だけど……」
「だけど?」
「祐巳、お前、ずいぶんと強くなったな」
 そう言って苦笑した。
 強く? 弱いからこんなことになってしまったというのに?
「ま、その様子なら大丈夫だろ。早く前みたいになれるといいな」
 私がその理由を聞く暇もなく祐麒はキッチンから出て行ってしまった。


〜3〜
 ――マリア様、今日も一日私を見守っていてください。
「では、お先に」
 マリア様へのお祈りも済ませ、ちょうどやってきたクラスメイトに声をかけ歩き出そうとしたそのときだった。
「お待ちなさい」
 背後からのその言葉に、思わず背筋がピンと伸びる。ああ、祥子さまのこの一言から始まったんだよなあ。半年程度しかたっていないはずなのにずいぶんと昔のことに感じる。
「ごきげんよう、蔦子さん」
 とりあえず、その感慨は置いておいて、くるりと振り返ってにこやかにご挨拶。
「タイが、曲がって……もう。最後まで言わせてよ、祐巳さん」
「その冗談は結構ですっ!」
 ごきげんよう、と口元に笑みを浮かべ、近づいてくる蔦子さん。
 しかし、その間もカシャッ、カシャッと撮影が止むことはないためまるでロボットみたいな姿に思わず苦笑い。
 しかし、新聞部ならともかく、蔦子さんには撮影されてもなんとも思わなくなってきているあたり、私の元々あまり豊かでない感性もちょっと問題ありなレベルに到達してきているのかも。
「うん、朝はこんなものかな」
「撮り慣れているでしょうに」
「とんでもない。ここ最近では貴重な一枚ですとも」
「あー……」
「昨日なんかすごかったし。ま、あれはあれで記念になるかもしれないけど」
 カメラをポケットに収めた蔦子さんからの返事は思ってもみないものだった。
「へ?」
「ああっ! その顔もいいね」
 まだしまうべきじゃなかったかとぶつぶつ言っている蔦子さんに思わず尋ねる。
「ねえ、それってどういうこと? 私、少なくとも昨日は笑っていたよね?」
「祐巳さん、それを私に言う?」
 私を真っ直ぐ見据える蔦子さん。
 ……確かに。ずっと撮り続けていた人には作った笑顔はバレバレだったのだろう。
「ま、誰も彼もにってわけじゃないけど、少なくとも志摩子さんと桂さんは気づいていたね。祐巳さんのこと、不安げに見てたよ」
 全然気づかなかった。昨日の私は相当呆けていたのかもしれない。
「そっか。心配かけてごめんね」
「わ、私は別に何もしていないから。でも、その様子だとうまくいったようだけど?」
「う〜ん。お姉さまと、という意味なら進展無し」
 照れくさそうにしていた蔦子さんが一転して不思議そうに私の顔をのぞき込む。
「どういうことか、聞いていいわけ?」
 姉妹関係は何も変わらず、されど私は元気いっぱい、これいかに?
 こんな感じで疑問符が飛んでいるに違いない。蔦子さんにもずいぶん迷惑をかけたので正直に話すことにしよう。
「……ふ〜ん。なかなかどうして。祐巳さん、強いわ」
 昨晩、祐麒にしたのとほぼ同じ説明だったんだけど、まさかまったく同じ反応が返ってくるとは。
「そ、そうなのかな?」
「うまくいくよう……いや、うまくいくに決まっているだろうけど。その日が早く来るのを祈ってるわ。じゃ、部室に寄ってくるから」
 理由を聞く暇もなく去っていってしまうところまで一緒だった。


 ……何をしているのだろうか、この人は?
 お手洗いの帰り、廊下に生首。もとい、三奈子さまがいた。
 下に続く階段から首だけひょっこり出して。風紀に厳しいシスターがこの方の姿を後ろから見たら、怒りを通り越して目を回してしまうかも。
 げ、目があった。
「祐巳さん、祐巳さん」
 こっち、こっちと手招きしている。ただでさえ、あまりおつきあいしたくないのに、こんな珍妙な格好をされた方からは今すぐ逃げ出したいところだ。
 しかし、この方の場合、逃げたところで追い回されるに決まっているのだ。どうせ捕まるなら、ていうわけで素直に三奈子さまの元へ向かう。
「……何なさっているんですか。三奈子さま」
 声が大きいと唇に人差し指を立てるので、もっと近づいてもう一回尋ねた。
「何をなさっているんですか?」
「見つかるわけにはいかないからね」
「……これじゃ、かえって目立っていると思いますけど」
「見つかりたくない人にさえ見つからなければそれでいいの。ささっ、まずはこっちへ」
 なるほど。でも誰に? と、考える間もなく手を取られて引っ張られた。
 階段を下っていきたどり着いた先は一階の階段下。死角になっていて、放課後の掃除の時間でもなければ好きこのんで人がやってくる場所ではない。
「ここなら大丈夫ね」
 一息つく三奈子さま。こっちとしては引っ張り込まれたあげく二人きりである。あまり気持ちの良いものではない。
「で、なんの御用ですか?」
 念には念をと、まだ辺りをうかがっていた三奈子さまに問いただす。
 私がそう言うやいなやくるりと振り返り、じっと見つめてくる。
 元から行動が読めない方だけど、それでもこうも奇妙な行動ばかり取られるとなんというか……
「ふむ、いつもの顔ね」
「はぁ?」
 言うに事欠いて、いつのも顔、だぁ? いきなり連れ込んだあげく、この一言。いくら何でも失礼すぎやしないだろうか、この人。
「ああ、ごめんなさい。容姿の意味で言ったわけじゃないわ」
 ようやくこちらの思いに気づいたのかフォローにもなっていないようなことを言う。
「……じゃあどういう意味で言ったんですか」
 うーん、と人差し指を頬にあて首をかしげたあとに飛び出た言葉は思ってもないものだった。
「いつもの祐巳さんってのが一番近いかしら?」
「いつもの、私?」
 オウム返しに問いただしてしまう。
「そう。昨日見せてた作り物の笑顔じゃなく」
 愕然とした。三奈子さまにもばれていたというのだろうか。それでこんな強硬手段に打って出たとか?
「何いってんですか、三奈子さま。昨日は病み上がりでちょっと気分が悪かっただけですから。何でもかんでも事件にするのは勘弁してくださいよ」
 肩をすくめ、「またか、この人」と呆れている様子を上手に演技できたと思う。
「ま、解決したのならそれで良いけどね」
 私の返事なんか聞いていなかったようにつぶやく。
「ああ、記事のことを心配しているのかもしれないけど一切載せないから安心して……ってこれは虫が良すぎるかしら?」
 苦笑する三奈子さま。ご自分の前科はさすがに理解されているようである。
「紅薔薇さまに止められているからですか?」
「ああ、そうそう。元々そのためにあんな形で祐巳さんをお呼び立てしたのよ。紅薔薇さまに見つかったら、どう弁明しようとも無駄そうじゃない?」
 ご自分の立場をよく分かってらっしゃる。しかし、その口調からするに本当に新聞とは無関係というのだろうか?
「いや、実を言うと紅薔薇さまにストップをかけられたあとも、まったく祐巳さんたちのことをあきらめたわけではなかったんだけど」
 ……かえって安心してしまう。正直、あまり信用できない人からその人らしからぬ品行方正な返事が返ってくるよりもよほど頷けるというものだ。
「仮に今回記事にできなかったとしても、背景を知っておけば今後の参考にすることも可能でしょ? そういうわけで、昨日、祐巳さんの様子をうかがってみたらあの笑顔。もう、いっぺんにその気が失せたわ」
 ……これはもう完全にばれているとしか言いようがないだろう。
 思えば、この方。「ではないか」「のように思われる」をはじめとして憶測で記事を書かれることは多々あるが、ご本人が直接嘘をつくことはなかった気がする。
 全面的に信用したわけではないけど、この件に関しては素直に認めてしまおう。
「やれやれ……そんなにバレバレでしたか。修行が足りなかったんですかね?」
 冗談めかしていったつもりだったのに、三奈子さまはクスリとも笑わなかった。
「無理して冗談にしなくても良いわよ。ただ、そうね。普通の人なら騙せたんじゃない?」
「新聞部部長たる三奈子さまだから気づけた、と?」
 確かに普段から追いかけられているしなあ……。
「いいえ。新聞部としての私は気づかなかったわ。真美も間違いなく気づいてはいないでしょう」
 よくできた演技ではあった、と三奈子さま。では、どうして?
「どうしてか? ……それは、昨日のあなたが見せた微笑みとよく似た顔をする友人がいるから。ま、こっちは現在進行形で続いているんだけど」
 苦い顔をしてそうこぼす。
 三奈子さまのご友人に今もなおつらい思いをしている方がいらっしゃるのか。
「あんな顔をする子をこれ以上見たくなくてね。余計なお節介だとは思うけど、つい祐巳さんを呼び止めちゃったわけ。悪かったわね」
「あ、いえ。こちらこそご心配をおかけしまして」
「気にしないで。ただ……そうね、いつの日か単なる笑い話として話せる時が来たら、そのときは記事にさせてもらえると嬉しいわ。同じような想いを抱えた子がほんの少しでも、心から笑えるようなものをきっと書いてみせるから」
「そのときは、きっと」
「楽しみにしてるわ」
 軽く手を振って、三奈子さまは教室へ戻っていった。
 後ろ姿を見送ったあと、壁にもたれてしばらく待つ。
 紅薔薇さまにばれるとまずいから、少し時間をおいて帰ってほしいと頼まれたからだ。
「よく似た顔をする友人、か」
 三奈子さまのあの一言を思わずつぶやいてしまう。
 蔦子さんは志摩子さんや桂さんは気づいていると言っていた。私も同じような気持ちを味わわせていたのかもしれない。
 ちゃんと謝ってそれからお礼もしないと、そんなことを考えながら歩き始めた。


「祐巳ちゃーん」
「ロ、紅薔薇さま!」
 昼食にするべく志摩子さんと薔薇の館に行こうと廊下に出た時だった。
 目の前の団子のような人だかりをスパッとモーゼのように切り開いて紅薔薇さまが現れた。
 さっきから廊下が騒がしいと思ったら紅薔薇さまが来ていたのか。道理で。
「祐巳ちゃん、それに志摩子も。ごきげんよう」
「あ、はい。ごきげんよう紅薔薇さま」
「今日はね、祐巳ちゃんとお昼ご飯をご一緒したくて来ちゃった」
 てへっと笑う紅薔薇さま。
 普段より幾分幼げに見えるそのいたずらっ子のような微笑みに「おぉ」とか「わぁ」とか歓声が上がる。私も思わず首を縦に振ってしまったのだけど……
「はい……って。はいぃ!?」
「そう、良かった。うん? どうかした、祐巳ちゃん?」
「いや、その、お誘いは嬉しいのですが……」
 薔薇さま自らが食事を誘いに来る。それだけでも驚くべきことだけど妹である祥子さまや孫の志摩子さんにならまだ納得もいく。そんな日だって時にはあるだろう。
 しかし、私に、である。目の前に志摩子さんだっているのに。
 私の表情の変化を見て納得がいったらしい。くるりと志摩子さんの方を向くやいなやとんでもないことを言い放った。
「うっかりしてたわ。ごめんなさい、志摩子。祐巳ちゃん借りるわね。さあ祐巳ちゃん、行きましょう」
 ここにいらっしゃる方は本当に紅薔薇さまなのだろうか? どこかの怪盗のようにベリっと一皮むくと黄薔薇さまかお姉さまが現れるのではなかろうか。
 そんなことを考えたまま楽しげに微笑みながら見送っている志摩子さんを残して、紅薔薇さまに連行されていくこととなった。
 ……何か今日は同じ展開を何度も繰り返しているような。
「えーと。祐巳ちゃん、どこ行こうか」
「てっきり行くあてがおありになるのかと……」
「薔薇の館で祐巳ちゃんにお茶でも入れてあげようと思ったんだけど、せっかくだから別の場所にしようかなと思って。あ、そうだわ」
 そう言うやいなや紅薔薇さまは立ち止まり、ポケットからお財布を取り出した。何かを探しているのだろうか?
「よし、あったあった。さあ祐巳ちゃん、行きましょ」


「あの……」
「うん、どうかした?」
「本当に良かったんですか?」
「大丈夫。お店の人だってご自由にって言ってくれたでしょ?」
「はぁ……」
 連れ行かれた場所は大学のカフェテリア。窓際のテーブルにお弁当を広げて雑談をしながら食べていたのだけど……なんとも居心地が悪かった。
 救いといえば、人がまったくいないこと。大学は春休みのど真ん中で、ランチでここを使う人はほとんどいないらしい。
「はい、食後のコーヒー。前に江利子が先生からちょろまかしてきたコーヒーチケットのことを綺麗さっぱり忘れていたわ」
 使わないままになってしまうところだったわね、と微笑む。
 こんなささいな一言でも紅薔薇さまはもうリリアンを巣立ってしまわれる、そのことが実感できて寂しくなった。……そしてお姉さまも。
「あ、おいしい……」
 コーヒー自体もインスタントではないから深みがあるのだけど、紅薔薇さまが入れてくれた砂糖とミルクの量が良いあんばいだった。私好みの味だ。
「どう? 聖にはかなわないけれど私もなかなかのものでしょう?」
 紅薔薇さまが言っているのはお姉さまの妙な特技のことだ。
 あの人は魔法でも使っているんじゃなかろうかというくらい絶妙に人の好みに合わせられるから。
「ありがとうございます。紅薔薇さまがいれてくださったのもおいしいですよ」
「どういたしまして。それにしても自分はブラックばっかりなのに、どうしてあんなにうまいのかしらね?」
「さぁ、謎な人ですから」
 謎な人と言ったのが受けたのか紅薔薇さまはくすくすと笑った。
「本当ね……そんな謎な人間の妹になって五ヶ月。いままでどうだった?」
 コーヒーを飲む手が止まる。紅薔薇さまのお話はその話だったのか。妹になっての総括のようなもの。
「そうですね……いろんなことがありましたね」
 いきなりロザリオを渡されたかと思えば「妹体験してみない?」がなれそめなんて姉妹はそうはいまい。
 あれから時間にすれば半年もたってないのに、いったいどれほど多くの出来事があったのだろう。お姉さまと泣いて笑って……
「……本当にいろんなことがありました」
 様々な想いを込めて、もう一度口に出す。
「……そうね。今、今はどう? 幸せ?」
 つらいとか悲しいとかそう言う気持ちがまったくないといえば嘘になる。でも紅薔薇さまが聞きたいことはそういうことではないだろう。そしてそれは私が思い出せたこと。だから自信を持ってはっきりと答える。
「はい! お姉さまが大好きですから」
「そっか」
 安心したような、そして気のせいかもしれないけど、どこか寂しげにもう一度「そっか」とつぶやいた。
「少し、昔話をして良いかしら?」
 黙ってうなずく。
「ありがと。私は中等部からの入学ってのは知っていたわよね? そして、入学早々、聖や江利子と知り合うことになったの。今思うとすごいことよね、将来の薔薇さまが三人とも同じクラスだったんだから。おまけに今とは似ても似つかぬ関係で」
 その頃のことを思い出しているのだろう。窓の外を眺めながらクスリと笑う。黄薔薇さまが以前言ってたっけ。お姉さまとは犬猿の仲で紅薔薇さまがいなかったらどうなっていたのか分からないって。
「江利子は……変わったというよりはあの頃から今の形に近づいてきた、という感じかしら? ……でも聖はずいぶん変わった」
 お姉さまの話になり、さっきまでの楽しげな表情が消え去った。
「栞さんとのことがあれば、当たり前なのかもしれないけれど……あのとき、私はそばからずっと見ていて全部わかっていた。だから、そのまま行けば聖が不幸なことになるってわかっていたのに、最後まで口を出せなかった。最後の最後、もう手遅れになってからようやく……」
 栞さまが修道院に入ることをお姉さまに知らせた話だ。そのときまでお姉さまは栞さまと離ればなれになるなんてことまるで、考えすらしなかった。……『いばらの森』の須加星と同じように。
「志摩子の時もそう。動けなかった。たとえそれが本人のためであっても、口だけじゃない、本当に聖が嫌がるようなことをしてしまったら……怖かった。そう、私は怖くて動けなかったの」
 その気持ちは痛いほど分かる。
 お姉さまは一部の人を除いて「人」そのものに無関心なところがある。自分を含めて冷めた目でしか見られないことがあったともいっていたっけ。
 もし、お姉さまが今誰かのことが嫌になったとするなら、かつて黄薔薇さまに向けたようなむき出しの敵意ではない、関心を持たれない対象に成り下がるのだろう。
 今の私のように「避けられる」のではない、「相手にされない」のだ。そんなのとても耐えられない。
「結果だけ見たら、栞さんの時も、志摩子の時も動かなかったからこそ……聖は祐巳ちゃんと出会い、今みたいに本当に楽しそうに笑ったりできるようになった。だから、必ずしも悪かったというわけではないとは思う。……でも、過程はどうあれ結局聖を救えたのは、あのときはいなかった祐巳ちゃんだけだった。ずっとそばにいたにもかかわらず私ではどうにもできなかった」
 どうにもできなかったのよ、とうつむき気味にもう一度。
 ……うすうすは思っていたけれど、やっぱり蓉子さまもお姉さまのことが……
「……前に妹は支えだって言ったのを覚えている?」
「はい……『包み込んで守るのが姉。妹は支え』でしたよね?」
「ええ。姉の方は置いておいて、妹の方は本当にその通りになったわね……今の聖があるのは祐巳ちゃんのおかげ。あなただけが聖を立派に支えることができる。だからこれからも聖のそばにいてくれるかしら?」
 私ではなくてって、そう言っている。きっとより相応しいものにバトンタッチという感じなのだろう。でも、これだけは伝えないと。
「お姉さまは、紅薔薇さまに本当に感謝してるって、今の私があるのは蓉子のおかげだって、どうやっても返しきれないくらいの恩があるって言ってました。栞さまの時だってそう、紅薔薇さまがいたからこそお姉さまはお姉さまであれたんです」
 紅薔薇さまは少し間の後、言葉を加えた。
「わざわざ伝えてくれてありがとう。……でも、聖にはもう私は必要ないでしょうね」
「……」
「だから、聖のことをお願い」
「はい」
「ありがとう」
 私にお礼を言った蓉子さまはどこかすっきりした顔をしていた。
 栞さま、志摩子さん、静さま、そして蓉子さま……お姉さまはなんて罪づくりなのだろう。結局、私だけがお姉さまの一番そばに残った。
「あのっ! 何か私にできることはないでしょうか?」
 そんな紅薔薇さまのために何かしたくなって、でも私なんかが紅薔薇さまのためにできることなんてお姉さまのこと以外ではまるで思い浮かばなくて、情けないけど直接聞いてみた。
 すると、「そうね……」と紅薔薇さまは少し考えてから私にお願いをしてきた。
「……じゃあ、これは祥子のお姉さま、志摩子のおばあちゃんとしてのお願いだけれどいいかしら?」
「はい、もちろん」
「二人のことで、一つ心残りがあるのよ。解決したかったけれど、できなかったことが」
「……」
「いずれ、そのことが表に出てくると思う。そのときに大なたを振るうことになったなら、ためらわないで欲しいのよ」
「大なたですか?」
「ええ」
「ふるうことに不安なら私に連絡してちょうだい。大なたを振るう前でも後でもいいから」
 連絡をくれたら飛んでくる。責任は自分がとる。……あの二人のことでそこまでのことなんてあるのだろうか? いや、あるからこそ、こうして言っているのだろう。
 それにしても、私が紅薔薇さまのためにできることって聞いて、祥子さまと志摩子さんのことが返ってくるなんて……
「祐巳ちゃん、どうかした?」
「なんでもないです」
 そんな人だからこそ、あのお姉さまが根負けしてしまったのだろう。そして、そんな人だからこそ、お姉さまのことを私に託したのだろう。
 紅薔薇さま、本当にありがとうございます。
「さて、結構長居しちゃったわね。そろそろ出ましょうか」
「あ、はい、そうですね」
 今から校舎に戻ったらちょうど予鈴がなるくらい、という絶妙な時間だ。
「それにしても祐巳ちゃん、あなた強くなったわね」
 カフェテリアを出て、高等部に戻る途中でそんなことをおっしゃる。まさか紅薔薇さまにまでそう言われるとは。
「あの姉だから鍛えられたのかしらね……ってどうかした?」
 私が複雑な表情を浮かべていることに気づいたようだ。
「いえ、その……昨夜は弟に、今朝は蔦子さんに同じことを言われたんですけど。全然実感がなくて。おまけに二人とも理由を聞く暇もなく去っちゃうし」
「ふーん」
 そう言うと、紅薔薇さまの顔が楽しげなものに。……この顔はさっき私を連れ去ったときに浮かべていたものだ。
 ってことは。
「じゃ、私も内緒」
「えぇー」
 私が情けない声を上げると、くすくすと笑い出す。
「まあ、そのうち分かるわよ」
 紅薔薇さまはまぶしげに青空を見上げながらそう言った。


〜4〜
 お姉さまに何か考えがあって私を避けているというのであれば、ただ信じて待とう。
 そう思えるようになって数日、いよいよ明日は卒業式。
 薔薇の館で明日の打ち合わせを終え解散したあと、私はなぜか校舎に戻ろうとしていた。
 自然とお姉さまが一年過ごした教室、三年藤組に向いていたのだ。
 別にお姉さまに会えると考えてのことじゃない。
 そうじゃないんだ。そうじゃなくて、ただ……そう、寂しかった。
 それは理屈でないだけに厄介だった。
 何か忘れ物をして戻る学生のように、私は廊下を突き進む。見つかるあてなんて何もないのに。

 すると、そこには――。

「忘れ物、ですか?」
 思わず声をかけてしまった。
 ぼんやりと教室の真ん中に立っていた、「いるはずのない人」は振り返る。
「ああ、祐巳」
 そこには、どれほど望んでもかなうことのなかった、ニッコリとほほえんで私を迎えてくれる「いつもの」お姉さまがいた。
 たったそれだけ。少し前までは当然のように与えられていたものが目の前に返ってきた、それだけで涙がこぼれそうになってしまう。
 でも、そのまま泣いてしまうのはちょっと悔しかったので、ぐっとこらえてもう一度尋ねた。
「何か、忘れ物でもありましたか?」
「忘れ物、といっちゃ忘れ物かな」
 決着をつけないままにはできなかったから。そう言うと、お姉さまは扉を閉めてと人差し指を振った。
 言われるままに閉めた後、問い返す。
「決着、ですか?」
「そう。決着」
「結果はどうでした?」
「勝てたんだと思う。……それよりごめんね、私の勝負に祐巳をメチャクチャに巻き込んで」
 どうやらお姉さまが決着をつけねばならない何かが、今回の出来事につながったようだ。
「……聞いても良いんですよね?」
 お姉さまは黙ったまま後ろ隣の机をたたく。そこへ座れってことだろうか?。
 もう一度繰り返した。そうなのだろう。どなたか知りませんが、机に座ってごめんなさい。心で謝って腰掛ける。
 すると、お姉さまも机に座って窓の外を眺めたので、私も自然にそちらへ目がいく。
 ぽっかりと綿のように浮いた雲には赤みが差し始めている。日暮れはもう近い。
 どれほど二人で空を眺めていたのだろう? 数秒? あるいは数分かもしれない。
「私さ、のめり込みやすいタイプなんだ。それもどうしようもなく。祐巳も知っているよね?」
 栞さんのことを言っているのだろう。私は黙ってうなずく。
「それでもってお姉さまから『大切なものができたら一歩引け』と言われたら今度は二歩も三歩も引いちゃって。それも相手が望んでいるって分かっているのに。ずいぶんと酷なことをしちゃったよね」
 今度は志摩子さん。
「そんな私の前に現れたのが祐巳。あなたのおかげで私は救われた。ありがとう、本当に感謝してる」
「そんな。私は何も……」
 改めてそう言われると、あの姉妹になれた日のことを思い出して照れくさい。
「謙遜しなくていいよ。本当に祐巳のおかげなんだから。で、三度目。今度こそ良い距離で関係を築いてこられた、そう思ってた」
 私もそう思っていたのだけど違うというのだろうか?
 『やっぱり祐巳は佐藤さんにべったりだな。その点では確かに心配だけど……』
 ふと、そのとき脳裏に祐麒との会話が思い浮かんだ。まさかお姉さまが考えたことって……
「卒業が近づくにつれ、何かしら皆やり残したことを考えたりしてた。由乃ちゃんなんかは江利子に果たし状を送りつけたりね。そこで思ったんだ。もし、祐巳と別れたらどうなっちゃうのだろうって」
 ああ、やっぱり。お姉さまが何を言おうとしているのかが分かった。それにしても……
「同じことを繰り返していないだろうか。結局依存しているんじゃないだろうか。もしも、祐巳がいなくなってしまったら? あの時、私を支えてくれたお姉さまも蓉子ももういない」
 耐えられなくて、どうかなってしまうかもしれない。それがたまらなく怖かった。
 そう言って立ち上がると私の方を向く。
「だから、私は自分と勝負をすることにした。卒業までの間、自分の気持ちを抑えつけることができるかどうか。たとえ、どれだけ祐巳に会いたくても、話したくなっても」
 正直、私だって負けないくらい、ううん、それ以上に依存してしまっているかもしれない。お姉さまがいなくなった世界なんか考えられないくらいに。
 とはいえ、どうして「我慢できるかどうか自分を試そう」なんて考えられよう。
 でも、お姉さまは違うんだ。
 確かに、少し鈍感でチャランポランに見えたりするときだってある。でも、それはお姉さまの一面に過ぎない。
 もうひとつの顔はとても繊細で弱い人。
 それだから……それ故に、あまりにもつらい二度の出来事を経験しちゃったから。
 本当にこの人は……
「バカ、ですね」
 うつむいて、お姉さまの顔を見ないままそう言う。顔を上げたらそれだけで涙がこぼれそうだったから。
「うん、蓉子にもそう言われた。江利子なんか馬鹿の天然記念物として飾って鑑賞したいとまで言ってたよ。その通りだと思う。それでもやっておかなくちゃいけないことだったんだ。でも、そんな私の勝手でつらい目にあわせちゃって本当にごめん」
 お姉さまへの愛おしさが胸の中にとめどもなくあふれている。もうちっとも怒ってはいないし、怒れない。
 だけど、せっかくだから、一つ聞いてみた。
「……私が勝手に吹っ切れて『あなたなんかもう知りません!!』とかなったらどうするつもりだったんですか?」
「ああ、そんなこと考えもしなかった。祐巳は……私が好きなあなたならきっと分かってくれると思っていたから」
 ……反則だ。もう限界だった。とどめることができなくなってしまった涙が頬をつたっていく。
 私は立ち上がった。胸の中だけに収めきれず、あふれ出てしまった想いの行き所を求めて。
 そして、突然のことに驚いているお姉さまの首に腕を絡め……
「え……!?」
「本当に……バカ」
 少し背伸びして、唇に……キス。

 ファーストキスは、コーヒーのほろ苦さと涙のしょっぱさが混じった味だった。

 唇が離れた後、まだ呆然としているお姉さまの胸にそのまま飛び込んだ。我ながら恥ずかしすぎて、これ以上お姉さまの顔を見ていることができなかったから。
 すると、私の鼓動に負けないくらいお姉さまの胸もドキドキと高鳴っていた。
「しょうがないから、許してあげます。私も、お姉さま……あなたのこと大好きですから」
 顔の見えない位置をキープしたまま、私も想いを伝える。
 半ば宙に浮きかけていたお姉さまの両腕が私をギュッと抱きしめた。
「……さんざん誰かを不幸にしてきたこんな私でも、祐巳は幸せにできたんだよね」
「はい」
「ありがとう……祐巳と出会ったから私は前を向いて歩いていける。本当にありがとう」
 私はお姉さまを抱きしめる。もっと、もっと強く。
 西からの日差しが差し込む教室に一つできた影は、いつまでも消えることがなかった。


〜5〜
 すっかり日も暮れ、綺麗な半月が頭上でやわらかな光を放つ中を、足音が二つ。
「まったく。祐巳ったらちっとも離してくれなかったんだから」
「えぇ!? それはお姉さまでしょう?」
 あのあと、守衛さんが見回りに来るまでずっとあのままだった私たち。
 守衛さんが廊下を歩く足音で気づいてあわてて飛び離れて、なんとか見つからないようにこっそりと校舎の外へ出たのはいいのだけれど、当然のように下校時刻は過ぎている。
「うーん。正門、閉まっているかもしれないねー」
「いや、お姉さま。そんなのんきに言わないでくださいよ」
「あ、祐巳にはまだ教えてなかったっけ? 私が昔、愛用していた場所があるんだわ。この前見に行った時も治ってなかったから余裕、余裕」
 なんでも、木陰に隠れた先にある塀には、少し崩れて登りやすくなっているところがあるそうな。そして、この前ゴロンタを探していたとき近くまで来たので久々に覗いてみたのだという。
「……却下」
「祐巳でも簡単に登れるよって……なんでよ?」
 月明かりだけだからはっきり見えるわけじゃないけど、絶対にむっとしてるよ、この人。
「何が悲しくて、卒業式の前日に泥棒やら不審者のまねをしないといけないんですか!!」
「ちょっと、姉を不審者呼ばわりするわけ?」
「あなた、薔薇さまなんですから、そういう箇所はとっとと学校に報告してくださいよ!」
 曲がりなりにもお嬢様学園の生徒が「まあっ、なんて危険!」ならともかく、「これは使える!」って……。
「じゃあどうすればいいのよ?」
「姉なんですから、何か考えてください。正攻法で」
「もう、祐巳ったら本当に贅沢なんだから」
 まだぶつぶつ言っているけど、それでも考えてはくれるらしい。
「そうだ。祐巳が何か忘れ物をして、それをどこに落としたのかも分からずに校内を下校時刻にも気づかないほど夢中で探してて、姉の私もずっと手伝っていたってのはどう?」
 ちょっと弱いかもしれないけど、お姉さまがよそ行きスタイルで説明すれば何とかなるような気がする。
「忘れ物をしたのは逆の方がピッタリな気もしますけどね……あっ!」
「なに? ……まさか本当に忘れ物をしていたとか?」
「とんでもない! 忘れ物をしていたのはお姉さまですって。あなた薔薇の館にいったいいくつ物を……」
 静寂が支配しているはずの学園に仲むつまじげ?な話し声が響く。
 二人が姉妹の絆を深めた夜。


 月と、マリア様だけが二人を見ていた。



 エピローグ