もうひとつの姉妹の形

第一話

聖さまの妹は白薔薇のつぼみ?

 あの後、どこをどう走ったか分からないけれど、人目につかないところにまで逃げてきた。
 私なんかにはとんでもなさすぎるものを震える手で隠していたポケットから取り出す。
 まあ、見かけは年季がかっていることを除けばただのロザリオで、このリリアンでは見慣れたものでしかないけど……その持ち主が凄すぎる。
「白薔薇さま、上の空だったわね」
 追いついてきた蔦子さんの第一声はそれだった。
「上の空?」
 突然のことで白薔薇さまの様子を確認している余裕なんか無かったし、していても絶対に忘れていた自信がある。
「あんな白薔薇さま初めて見たわ、何かとんでもないことがあったのかも知れないわね」
「そう……」
「祐巳さんって白薔薇さまと知り合いなんかじゃないわよね?」
「も、もちろん……」
 私みたいな平々凡々の生徒にあの白薔薇さまと接点なんかひとつたりともあるはずがない。
「だとすると、白薔薇さまが祐巳さんにロザリオを渡すなんてとても考えられない。つまり、何かの間違いって事ね」
「何かって何?」
「白薔薇さまに聞くしかないでしょう?それは」
「そうね……」
「白薔薇さまはぼんやりとしたまま帰ってしまわれたから……祐巳さんも今日のところはもう帰った方が良いわよ、このままいてもし新聞部にでも捕まったら大変だから」
 うう、明日どうしよう……
「朝早めに来る事ね、休み時間は何とかして上げるから」
「できるの?」
「私を誰だと思っているの?」
「写真部のエース?」
「そう言うことよ」
 どう関係しているのか分からないけれど、とにかく嬉しい。
「昼休みにでも薔薇の館を訪れるべきね」
「うん……そうする」
 蔦子さんはとても頼もしかった。
「で、一つお願いが増えたんだけれど」
「……え?」
 そのお願いとは要するに……祥子さまの場合と同じだった。
 やっぱり、蔦子さんは本当に抜け目のない人だった。


 朝、昨日蔦子さんに言われたとおりに早い時間に登校した。
 まだ人が少ない教室に入って自分の席に座り、あれからいったい何度目になるのだろうか、又溜息をつく。
 この溜息の原因は今は巾着袋に包んで鞄に入っている。
 どうしてこんな物を私が持っているような事になってしまったんだろう?
 そんなことを考えているうちに、教室の人が増えて来てだんだん騒がしくなってきた。でもいつもとは雰囲気が違う。もしかして、昨日のことがみんなに広まっているのだろうか?
 そんな中、桂さんが登校してきた。
「ごきげんよう、祐巳さん」
「ごきげんよう、桂さん」
「祐巳さん、疲れてる?」
「ちょっと、ね」
「かわら版でも読んだけれど、凄いことになっているみたいね」
 凄いこと……とんでもないことだ。ああ、そっか、みんなかわら版で知ったんだ。いったいどんな風に書かれているんだろう?
「どんな風に書かれているの?」
「読む?はい」
 桂さんが差し出したリリアンかわら版を受け取って、何が書いてあるのか見てみる。一番上にでかでかと『紅薔薇新姉妹誕生!!』って書かれていた。
「そっか、祥子さまに妹ができたんだ……」
 私のあこがれの祥子さまの妹。いったいどんな人なんだろう?祥子さんに妹にしていただけるなんて、いいなぁ〜
「そ、そうなんだけどね……」
「あ、」
 記事に目を走らせたら直ぐに志摩子さんの名前が出てきた。
 そうか、志摩子さんが祥子さんの妹になったんだ。昨日福沢建設の工事の結果を話すと、文字通り腹を抱えて笑われてしまったけれど……昨日桂さんが色々と言っていたみたいにはならなかったんだ。
「そうだよね。志摩子さんだったら祥子さまの妹に相応しいよね」
 今日みんなの様子が普段と違うのもこのクラスの志摩子さんが、紅薔薇のつぼみの妹になったからだったんだ。
 ……あれ?桂さんが額を押えている。
「祐巳さんってある意味凄いわね……肝心なのはその下よ」
「下?」
 そこに並んでいた文字を見たら、声が出なくなってしまった。だって『白薔薇のつぼみ誕生!!??』って書いてあったから……
 そ、そうだった。白薔薇さまからロザリオを受け取るって事は、白薔薇のつぼみになるって事で……そうすると、受け取っちゃった私が白薔薇のつぼみ!?ってことで、白薔薇さまが御卒業される来年は私が白薔薇さま!!?
 ふっと、宝くじで一等が当たった時ってこんな感じなのかなぁ?とても現実離れした事が起こって、いったいこれからどうすればいいのか全く分からなくなってしまったみたいな……
(……私ってバカ?)
 これは絶対に何かの間違いなんだから、昼休みに返しに行くって昨日蔦子さんと話したって言うのに……
「私はたまたまあの場所にいたから、これが誰なのか知っているのだけれど、かわら版には誰なのかは書いてないから、ひとまずは安心しても良いんじゃない?」
「そっか……」
 桂さんもあの場所にいたんだ……他にどんな人があの時見ていたんだろう?
 記事に目を通してみると、色々と推測で話を膨らませて書いているけれど、桂さんの言うとおり受け取ったのが私だってことがわかるような言葉は何もなかった。
 ほっと一つ息を吐く。
 落ち着いてクラスメイトの様子を見てみたら、みんな同じようにリリアンかわら版を片手に色々と話をしていた。話している事は全然違うと思うけれど、
「それで、私見ていただけじゃ分からないことを……知りたいんですけど?」
 う……桂さんの目が輝いている。
 私もうわさ話は好きだけれど、まさか自分が噂の対象になるなんて今の今まで全く考えたことなかった。
 桂さんにそんな風に言われても私に話せることなんか殆ど無いんだけれど……一応私にとって昨日何があったのかを話した。
 話を聞き終わると、なるほどと一つ大きく頷いてから、これはチャンスねなんて言って来た。
「チャンス?」
「だって、切っ掛けはともかく、山百合会幹部、しかも白薔薇さまとお近づきになるチャンスじゃない」
 お近づきと言われても……
「……この私が?白薔薇さまと?」
「……ま、まあ、ひょっとしたらそう言うこともあり得るのではないかと」
 何よその答えはと言いたいところだけれど、実際のところ私はそんなだ。
 同じ切っ掛けでも、祥子さまとなら全く釣り合わなくても、私のことを覚えて頂けるだけで嬉しいのに……と言っても、あんな切っ掛けはあまりに酷い……
 突然教室の空気が変わった。何事かと思ったのだけれど志摩子さんが登校してきたのだった。私も含めて教室中の視線が集まる。
 志摩子さんは首からロザリオをかけていた。あれが祥子さまから頂いたロザリオなんだ。
 やっぱり、良いなぁ〜って思ってしまう。そんなことを思ったって、私なんかとても祥子さまの妹になんて相応しくないから意味ないのに。そんな私だから今凄く困っているんだから……
 その志摩子さんは、軽く視線を教室中に向けた後、微笑みながら「皆さんごきげんよう」と言って自分の席に着いた。
 私も含めてみんな色々と聞きたいだろうけれど聞けない。そんな独特の雰囲気が志摩子さんを包んでいた。


 目が覚めたら時計の針はとっくに遅刻確定の時間を指していた。だから開き直ってゆっくりやって来た。
 最近涼しくなってきているけれど、まだ昼は少し暑いなぁ
「聖!!!!」
 校門の近くで、よく知っているけれど今こんなところで聞くはずもない声で呼ばれて吃驚した。
 見ると蓉子が校門で私を待っていた。いったい何の用事で待っていたのかは知らないけど、優等生が服来て歩いてるみたいな蓉子がこんな事するなんて……今日は雨かな?傘持ってくれば良かったな
「何?紅薔薇さま?」
「良いから来なさい!!」
 ガシッと腕を捕まれて引きずるように薔薇の館に強制連行された。
 今までに見たこと無いくらい随分気が立っている。
 私何かしたかな?……ここまでされるようなことは何も心当たりはないんだけれど
「コレは何!!?」
 サロンに入るなり何かの紙を突きつけられた。
 見るとリリアンかわら版だった。『紅薔薇新姉妹誕生!!』の文字が踊ってる。
 そうだった。昨日、志摩子が祥子からロザリオを受け取ったんだった。
「……蓉子が嗾けたんじゃないの?」
「違うわ!!その下よ!!」
 下?えっと……なになに、『白薔薇のつぼみ誕生!!??』……??
「蓉子、白薔薇さまって、私じゃなかったっけ?」
「決まっているでしょ、説明して頂戴」
「何を?」
 一瞬はぁ?って感じの表情を浮かべた後、じぃ〜っと私の顔を見つめてくる。
「まさか、覚えてないの?」
「何を?」
 そう聞き返すとさっとかわら版を私から取り上げて、私を椅子に座らせた。
「いつもので良い?」
 蓉子がコーヒーを入れてくれるらしい。最近は志摩子か由乃ちゃん、二人ともいないときでも祥子がだいたい入れてくれていたから、蓉子がここでコーヒーを入れてくれるなんて随分久しぶりになる。
「お願い」
 いつも通りインスタントのブルマンのお湯割りがカップに入れられて目の前に差し出される。
「聖、順を追って説明するわ。私の責任も大きいから」
「ん」
 入れてくれたコーヒーを飲みながら、短く了解の意を伝える。
「志摩子は山百合会に必要な人材、いずれは薔薇さまにと考えていたって事は前に言ったわね」
 頷いて続きを聞く。アレは6月だったか、志摩子がここに出入りするようになってまだ余り経っていないときの事だったと思う。
「一番良いのは聖の妹になると言うことだったけれど……他にも2つ方法があった」
「一つ目は誰の妹にもなることが無いまま志摩子を選挙に立候補させると言うこと」
 そう、蓉子はそう考えていると思っていた。だから、わざわざ私が妹にしてもしなくても志摩子には白薔薇さまの椅子が用意されているはずだった。
「そして、もう一つはまだ妹がいない祥子の妹にすると言う事だったわけね。この事は祥子には勿論話してないけれど、あの子も私とよく似たことを考えていた」
 いずれは薔薇さま……なるほど、祥子の妹になれば再来年の紅薔薇さま候補になるわけだ。
「昨日の内に祥子から聞いたのだけれど……志摩子は山百合会の一員のようなものになってきてる。けれど、正式に薔薇の館に迎え入れられていない。所詮ようなものどまりなのよ。そんな待遇は良いものとは言えないわ」
「それに、あの子自身も妹にしたかったのね。他にもつぼみとしての責任もあったと思う。いろんな事が重なって、祥子はこのままにしておくよりも、自分の妹にする方が良いと考えたわけね……けれど、志摩子は祥子の申し込みを断った」
「え?」
 断った?でも、確かに私は見たし、かわら版にだって……
「昨日祥子が志摩子に申し込んだのは二度目だったのよ」
 そう言うことか……それにしても、あの祥子が一度断られたのにもう一度申し込むだなんて、そんなにも志摩子を妹にしたかったんだろうか?
「以前に志摩子が断ったとき、いつでも飛び立てるように身軽なままでいたいと言ったそうよ」
 ……飛び立てるように、身軽なままでいたい?
「今の居場所が無くなったら、本当に飛び立ってしまうつもりだったのかも知れない。けれど、それは望んでの事じゃないって祥子は思った」
 志摩子が受け取ったと言うことは、その通りで本当は飛び立ちたくなかったと言うことなのだろうか……
「それでも、昨日申し込まれてから受け取るまでには随分悩んだらしいわ。本当は聖から貰いたかったんでしょうね……」
 最初に志摩子を見つけたのは私だったかも知れない。だけど、私は行動を起こさなかった。誰かと親密な関係を持つことを恐れていた。それなのに、常に目の端に入れていたいと言う、そんなずるい人間なのだ。
 私は志摩子のことは全く考えていなかった。志摩子もそれで良いとばかり勝手に思いこんでいた……一歩私が踏み出すのを望んでいたというのに……
(自業自得だ)
「聖、でも、まだ続きがあるの。更にショックかも知れないけれど……」
 話しにくそうだけれど、いったいどんな話だろう?
「念のために確認しておくわ。聖、今、ロザリオを持っている?」
 ロザリオ?いつも腕に巻いて……あれ?無い。
「おかしいな。ぼうっとしてたから忘れてきたかな?」
「間違いないわね。祥子が志摩子にロザリオを渡したところ……違うわね。志摩子が祥子からロザリオを受け取ったところを見た聖は、偶然通りかかった生徒にロザリオを渡してしまったらしいのよ」
「……は?」
 蓉子が言った言葉の意味が分からない。何だって?
「今のところ、それが誰なのか分かっていないわ。新聞部が動き回っているから、今日中には分かるでしょうけれど」
「ちょ、ちょっと蓉子」
「思い出せない?」
 とても嘘とか冗談を言っているなんて雰囲気じゃなかった。
 深呼吸をして自分を落ち着かせてから、昨日のことをじっくり思い出してみる。
 ……そう言われてみれば、誰かにロザリオをいらないかと言ったような気がする。
「あ……」
「どう?」
「そんな気がする。ああ、どうしよう」
 お姉さまから受け取ったロザリオ……昨日祥子が渡すのを妨害するために私が渡そうとしていたロザリオ……それが今無い。どこの誰かも分からない生徒が私のロザリオを持っている。
「傷口は広がらない内に塞がなければいけないわ、新聞部が本格的に動く前に返して貰わなないとどうなるか想像もできないわ」
 蓉子の言葉が胸に突き刺さってくる。
 どうして、こんなとんでもない事をしてしまったのだろう……


 昼休みが始まると直ぐに、蔦子さんが今直ぐに薔薇の館に行った方が良いと言いに来てくれた。
 私はそれに従って、蔦子さんと桂さんと一緒に教室を出る。そしたら、ドドドドド!って地響きがするんじゃないかと思うくらいの勢いで3人がこっちに走ってきた……多分新聞部の部員。
「遅かったか……」
 蔦子さんが無念そうに呟いたということは、間違いないみたい。
「あら、ごきげんよう、貴女もこちらのクラスだったの?」
「ごきげんよう、新聞部のみなさま。今日はいかがなさいまして?」
「福沢祐巳さんと藤堂志摩子さんのインタビューに参りましたの。ちょうどよかった、呼んでくださる?」
「え〜っと、志摩子さんは……いないみたいね。祐巳さんは……っと」
 蔦子さんは横にいる私のことを無視してすっとぼけて教室を見回す。
「あ、あそこにいるの、祐巳さんかしら?」
 眼鏡をずらす仕草をして、一番奥の席あたりを指さした。
「呼んで参りますわ。どうぞお待ちになって」
 いったいどうするつもりなんだろう?と思っていたら「そうそう」と言って振り返った。
「ナツメさんと桂さんはお急ぎでしたわね?どうぞお先にいらっしゃって」
「は?……あ、はい」
 わざわざ祐巳の目を見て、その上で小さくウインクまでしてくれたし、桂さんも一緒なのだから、そのナツメさんとは自分のことであろう。
「では、お先に」
 蔦子さんと新聞部の生徒に小さく会釈して、桂さんと一緒にその場を立ち去った。
 そして廊下を歩きながら、白薔薇さまは薔薇の館に本当にいるのだろうかって疑問を桂さんに聞いてみた。
「白薔薇さまが逃げ込む先は薔薇の館しかないって、蔦子さんが言っていたわ」
 なるほど、言われてみれば確かにそうかもしれない。新聞部と色々と関わり合いがある写真部だけに、似たようなケースを何度か見ているのだろうか?
「祐巳さん」
 廊下を歩いていたら、突然呼びかけられて驚いた。
 声の方を振り返ると私に声を掛けたのは志摩子さんだった。
「薔薇の館に行かれるの?」
 私がそうだったと言うことを分かっていたみたい、だから素直に頷いた。
「そう……」
 今一瞬だけ志摩子さんが浮かべた表情は何だったのだろう?初めて見る志摩子さんの表情だった。でも今はいつも通りの表情に戻っている。
「行きましょう」
 桂さんと一緒に志摩子さんについて薔薇の館に向かった。


 私たちが着いたとき、薔薇の館の前に黄薔薇さまが立っていた。
「あ、志摩子!その子?」
 その子というのは、かわら版の子と言う意味だろう……だから私って事だ。
「黄薔薇さま……」
「今回は私は黙って見させて貰うわ、今中にいるのは紅薔薇さまと白薔薇さまだけよ」
 なんだか黄薔薇さまとっても楽しそう。
「祥子さまは?」
「まだ来てないけど、来たらどうしたら良い?」
「……分かりません」
「あ……そう言っていたら、来ちゃったわね」
 振り返ると、祥子さまが私の真後ろにいらっしゃった!やっぱりあの時お見かけした通りお美しい。
「祥子さま……」
「志摩子、この子なの?」
 桂さんは笑っていたけれど……祥子さまはあの時のことは覚えてらっしゃるのだろうか?
「……はい」
「どうぞ、お上がりになって」
 確かめることができないまま、祥子さまの言葉に従って薔薇の館のドアをくぐった。


 階段を上ってくる音が複数聞こえる……少し多いな。
「蓉子……」
「345、5人、多いわね」
 蓉子は5つの音を聞き分けたみたい。
 ビスケット扉が開いて、祥子、江利子、見知らない二人、そして志摩子が姿を現した。
 志摩子は祥子から受け取ったロザリオを身につけている。
(もう、紅薔薇ファミリーの一員なんだ……)
 志摩子にとって私が一番……そんな風に思い上がっていた。多分、それは事実だった。
 でも、ずっとそのままであるわけじゃなかった。志摩子が求めていたのに、それで良いって勝手に思いこんでいたのだから……
「福沢祐巳さんをお連れしました」
 志摩子から紹介されて、髪をリボンで二つに縛った子が頭を下げた……あの子が持っているんだ。
「さ、座って」
 蓉子が二人に椅子を薦めて二人が私たちの対面に座る。それから祥子達も座り、志摩子が飲み物用意をする。紅茶の香りが漂ってくる。
 最近は由乃ちゃんと志摩子が用意していたから、当たり前の光景なはずだけれど、どこか今までとは違って見える。
 志摩子は私をどう思っているんだろう?祥子という立派な姉ができた今、私は志摩子にとって何なのだろう?
「どうぞ」
 まずはお客さんの二人から飲み物を出す。
「ミルクとお砂糖は?」
 由乃ちゃんが棚から出してきたかごに入ったスティックを差し出し、志摩子の方は淡々と私の前にもコーヒーが入ったカップを置いた。
 カップに注がれた湯気が立ち上る紅い液体の味はいつもとは違うように思えた。中身は一緒なのにね……
 祥子の妹になって私の妹になることができなくなったこと、紅薔薇のつぼみの妹として薔薇の館の正式な住人になったこと、私がこの祐巳ちゃんにロザリオを渡してしまったこと……貴女はどう思っているの?
 勿論その問いに志摩子が答えることはなく、てきぱきと自分の役目を片付けていく。
 祐巳ちゃんだったかと話をしている蓉子が、チラッチラッとこっちを時々睨んでくる。声をかけなくて良いのか?ってところかな?そう言われても、なんて声をかければいい物やら……
 カップを配り終えて祥子の隣に座って自分の分を飲んでいる志摩子を見ると、表情は無表情ではないけれど何も読みとれなかった。……さっきも自然に対応していたし、別に何も感じていないって事?
 蓉子、祥子って言う立派な二人がいる紅薔薇ファミリーに入ったら、私なんかもうどうでも良いって事?
 そんな風な事が頭の中に思い浮かぶと、続いて胸の中から何かが込み上げて来てしまった。
「えっと、祐巳ちゃんだっけ?」
「あ、はい」
 蓉子と話をしていたところにやっと割り込む。
「昨日渡してしまったロザリオのことなんだけれど」
「あ、は、はい、今ここ……あれ?」
 祐巳ちゃんはポケットに手を突っ込んで……次々に別のポケットにないかと探し回ってる。
(ああ、忘れたのか、丁度良いや)
 表情に見せない志摩子をちらりと見ながらそんな風に思った。今私の顔には押し隠しきれない嫌な笑みが浮かんでいるかもしれない。
「持ってくるのを忘れちゃったの?」
「も、もうしわけありま!ぎゃっ!!」
 思い切り頭を下げようとして机に額をぶつけた……物凄い音がしたけれど、大丈夫かな?
「「大丈夫!?」」
 付き添いの子と蓉子が直ぐに尋ねたけれど、祐巳ちゃんは「大丈夫です」って言ってからもう一度私に謝りなおした。額に跡が付いていたし目が涙ぐんでた。相当痛かったみたい。
「祐巳ちゃんって、お姉さまはいる?」
「え?……そ、その、いませんけれど?」
 ちょっと、怯えているかな?
「そう、だったら丁度良いわ」
 私の言葉を直ぐに理解できた人間はいない。あの蓉子も驚きで何も反応出来ていない。ただ、江利子だけが何が始まるのかって目を爛々とさせてるだけ、
「暫く、あのロザリオ預かっててもらえない?」
「聖!!?」
「私ってまだ妹がいないのよ、だから、私の妹になっても良いかどうか試してみない?」
 蓉子の叫びを無視して最後まで口にする。吃驚しすぎたのか、祐巳ちゃんは口をパクパクとさせるだけで言葉がでてこない。
「やっぱり、駄目だって言うんだったら、その時返してもらえれば良いだけだし。佐藤聖の妹体験。そうそうできる事じゃないわよ、どう?」
 志摩子は目をまん丸に大きくして驚いている。でもそれだけじゃない、怒ってる。間違いなく怒ってる。他のみんなには分からないだろうけど、私には分かった。
 それは本当になりたかった私の妹をそんなに簡単に誰か他人にやってしまうなんて納得出来ない……許せないって事。私の妹の事をキッパリと割り切れたわけじゃなかった。まだ志摩子の中で私の存在は大きい。さっきはそれを押し隠していただけだった。
 そんな事がはっきりと分かったことで、私は喜びを感じていた。
 こうやっていけば、いずれどうなっていくのかなんて分かりきっているのだけれど…………


「馬鹿」
 二人だけになってから蓉子が私に言った単語は、今の私を一番良く表していると思う。
「自分でもそう思ってる」
「全く……本気なの?」
「本気よ」
「……だったら、もう止めはしないわ、止めても無駄だから。でも、あの子祐巳ちゃんを泣かすような目に遭わせたら……その時は軽蔑するわよ」
 少しの間の後、蓉子が辛そうな表情をしながら突きつけてきた言葉。祐巳ちゃんを、関係のない誰かを私の歪んでしまった志摩子への感情の犠牲にしたら許さない。
 祐巳ちゃんにはロザリオを預けた。だけど私は十字架を背負う事になった……そんな感じなのかも知れない。
 だけど、一度走り出してしまった物は直ぐには止まらない。そう、止められない。


「送っていくわ」
 そう言った黄薔薇さまが私たちを送ってくれる事になった。
「私……どうしたらいいんでしょうか?」
 薔薇の館を出て暫く歩いてから黄薔薇さまに訊いてみた。
「妹体験のこと?いっそ開き直って楽しんだらどう?滅多にできる経験じゃないのは、間違いないわよ」
 そんなこと言っても……
「それとも、誰かお姉さまにしたい方でもいたのかしら?」
「え?い、いえ、そんな方は……いませんけれど、」
「なら、そんな生真面目に考えずに、もっと楽にしていればいいわ。姉妹制って言うのは、そんなに重いものじゃないわよ。実際に一緒にいて楽しければ姉妹になればいいし、楽しくなければならなければいい。それだけよ、」
 黄薔薇さまは、薔薇さまだからこそ、そんなことが言えるんだと思う。私みたいな平々凡々の生徒にはとてもそうは思えないんです。
「ま……何か困ったことがあったら私の所に相談にいらっしゃいな。私は紅薔薇さまと違った意味で中立だから、何か出来ることあるかも知れないしね。それでは、ごきげんよう」
 昇降口のところで別れるときに、黄薔薇さまはそんな言葉を残して3年生の昇降口に消えていった。
「……大変なことになったね」
「うん……」
 桂さんと二人で歩く残りの帰り道はとんでもなく足が重かった。どうして私がこんな目にあっているんだろう?
 私なんか極々普通の平々凡々な生徒でしかない筈なのに……
「あれ?何があったの?」
 蔦子さんは私の様子が想像していた物とは全く違うことに驚いたみたい。
「もう時間がないし、授業中に紙に書いておくから」
 なんだか涙が出てきちゃった。
 マリア様、私何かしてしまったのでしょうか?
 思えば……祥子さまにタイを直して貰った事、アレが全ての切っ掛けだったのかも、祥子さまの前であんな恥をさらさなければ、こんなことにはならなかったのかも知れない……マリア様、私のした事ってそんなにも罪なことだったのでしょうか?
 歪んだ視界の端に志摩子さんの姿が見えた。志摩子さんはこちらを見ているけれど、みんな歪んで見えちゃうからどんな表情をしているのか良くわからない、ただ、くるりと向きを変えて私たちよりも先に教室に戻っていった事だけが分かった。



あとがきへ