〜1〜 電車がM駅に到着した。 時間が早いから降りたホームにはまだ人もまばらしかいない。時計を見ると待ち合わせの午前六時までにはまだ結構時間がある。 少し待つことになるかもと考えながら階段を上って改札を抜けようとしていたら、改札の向こうで祥子さまとお姉さまがもう待っているのを見つけた。急いで二人のところに行く。 「お待たせして申し訳ありません、祥子さま、お姉さま」 「おはよう乃梨子ちゃん、待ち合わせ時間までまだかなりあるし気にすることはないわよ」 お姉さまもおはようと言ってくれたから、私もおはようございますと返した。 余裕を持って着いたから、待つことになると思っていたけれど、むしろ待たせてしまうことになったのは少し驚き。 「さて、行きましょうか」 祥子さまの声で北口に向かって三人でそろって歩き始めた。 「いつ着かれたんですか?」 「十分ほど前よ、志摩子は五分くらいかしら」 「そうでしたか」 この朝早い時間なのにそんなに早く着いていたとは。いや、こんな時間だからこそ早く着いてしまったのだろうか? 「お姉さまも言っていたけれど、みんな早いわね」 「かもしれませんね」 「まあ、車だから、時間差が大きくなければかまわないけれど」 祥子さまの家の車で行くのだから、電車と違ってみんながそろっても時間まで待っていなければいけないとかそういうことはないから、結果オーライかも。 話をしながら北口から駅の外に出ると、ロータリーのそばに少し場違いにも思える黒塗りの車が止まっているのを見つけた。きっとあれだろう……思った通り、祥子さまは車の方に歩いていく。 「お嬢さま方、どうぞ」 運転席に座っていた運転手さんが降りて後部座席のドアを開けてくれた。 「おはようございます。よろしくお願いします」 「はい、おはようございます」 そうして私たちが車に乗り込むと、運転手さんはすぐに車を走らせた。 「二人は車に強い方?」 車が大通りに出てすぐに祥子さまが私たちに聞いてきた。 「車酔いをするかという意味ですか?」 「ええ、どう?」 二人とも大丈夫だという答えだったのだけれど、祥子さまは少し残念そうな顔を浮かべた。 「酔い止めですか?」 お姉さまが聞くと、祥子さまはうなずきで返した。そういえば、前にひどく車酔いをしたという話があったっけ。 「家を出るときに飲んできたから途中寝てしまうと思うわ。ごめんなさいね」 薬の副作用では仕方ない。 「それではその前に、食べてしまいますか?」 お姉さまが膝の上にのせていた包みを少し持ち上げながら聞く。朝ご飯はお姉さまがお弁当を作ってくることになっていた。 「いいわね」 そうして包みが開けられて姿をあらわした二段のお弁当箱を見てびっくりした。こんなに朝早い集合時間だったのにおかずの数も多いし、これは手間もかかったのではないだろうか? 「元々家の朝は早いですから、さ、どうぞ」 「早速いただくわね」 「はい」 祥子さまは箸を取って、おかずの中で定番の卵焼きを一つつまんで口に運んだ。 「おいしいわ」 祥子さまの言葉にお姉さまはうれしそうな笑みを浮かべた。 「私も、いただきます……おいしい。でもお姉さまのお弁当ってやっぱり、女子高生の作るお弁当には見えないですね」 まあ私の趣味はいっそう女子高生……さらにはリリアン生らしくないから、私が言い出すのはどうなのかってのはあるけれど。 「本当にね。でも、志摩子のおかげで食べられなかったものが食べられるようになったし、私にとってはありがたいことかもしれないわね」 「祥子さま嫌いなもの多そうですしね」 「ええ、だから最初は戸惑ったわ……ああ、そう言えば最初にお弁当を一緒に食べたのは学園祭の前だったわね」 「そして……おかずの交換をしたのは学園祭の後でしたね」 「何か、含みのありそうな言い方ですね?」 「ええ……そういえば乃梨子ちゃんにはまだ話していなかったわね。私たちが名実ともに姉妹になれたのは学園祭の直前なのよ」 「そうだったんですか」 私がまだリリアンに慣れてすらいなかったときに起こったブームのおかげで祐巳さまと聖さまの姉妹体験の話は有名だけれど、祥子さまとお姉さまの間でも何かあったのか。 「聞きたい?」 聞きたくないわけではない。いや、それどころか二人の姉妹のきっかけの話につながりそうなこと。お姉さまの姉妹関係の成立に関わる話に興味がないはずがない。 聞きたいと言えば二人は気軽に話してくれるだろう。けれど話が重くなりそうな予感がする。これから楽しい旅行だというのに、結末はめでたしめでたしだとわかっていても重くなる話を出だしから聞くのはどうだろうか? 「……いえ、今は良いです。どちらかというと、祥子さまの嫌いなものを克服した奮闘記の方が聞きたいです」 機会はいつでもあることだし、今はやめて話題をお弁当に戻した。奮闘記といわれて苦笑いを浮かべた祥子さまの表情からすると、本当に奮闘記だったのかもしれない。 「あまり人に話すような話でもないのだけれど、まあいいわ」 そうして祥子さまの話をしてくれているうちに、だんだん祥子さまの様子が眠たそうになってきた。 「祥子さま」 「ああ……ごめんなさい、休むことにするわ」 「私たちのことは気になさらずに」 「ありがとう」 眠気をこらえながら話をしていたようで、それからすぐに寝てしまった。 「私たちも寝てしまいましょうか?」 祥子さまはもう深い眠りに入っているようで、ちょっとやそっとでは起きなさそうだけれど、すぐ横でおしゃべりを続けるのは気が引けてしまう。それに、私としても今日は朝が早かったからお姉さまの提案は賛成だった。 目を閉じてこれから一週間の楽しい旅行のことを考えているうちに心地よい眠りに落ちていった。 「? 乃梨子、どうかした?」 「ううん、なんでもない」 「そう?」 ちょっと不思議そうな顔をして首をかしげるお姉さま。そんな姿も実に絵になると思う。 ……話を戻して。軽井沢の別荘についた後、管理人のキヨさんと源助さんにあいさつしてお茶をいただいた後、薬の影響もあるのか、祥子さまは夕食の頃まで横になるということで、私とお姉さまだけでお昼をいただくことになったのだった。 ここ最近の旅というと、お小遣いをはたいて京都や奈良に行ったときのことが思い出されるのだけど、充実はしているもののあわただしいものばかりだった……まあ、中学生に優雅な旅行が楽しめるようなゆとりはあらゆる面から無いのだから当たり前だ。 そんななかで、今回の軽井沢である。あまりに時間がゆっくりと流れているような気がして、少し違和感があったのだけど……こうしてゆっくりと過ごすのも、まさに避暑、まさにバカンスって感じでいいものかもしれない。何より隣にはお姉さまがいるんだし。うん、何時間こうしていても飽きないな。 そんなこんなであっという間に夕方になり、祥子さまも起きてきて山の幸満点の晩ご飯のあとは皆でゲームをして楽しく過ごしたのだった。 そして翌朝の朝食後、祥子さまが昨日はやめることにした話をしてくれることになった。 一日置いたとは言ってもと思ったけれど……「私たち姉妹のきっかけの話なのだし、むしろ今まで話さなかったことの方が問題だったかもしれないわ」と理由を説明してくれた。乃梨子ちゃんも気になったままは気持ち悪いでしょうし、とは言われなかったけれど、見抜かれていたように思う。 実際あの時はながせたけれど、思い出すたびに気になっていたのだ。 ………… ………… 「すごく複雑な話だったのですね……」 祐巳さまと聖さまの姉妹体験の裏側で進行していた話で、しかもそもそもきっかけにもなっていた話だったとは、何かあったどころの話ではなかった。 「今はお姉さまに妹にしてもらえてよかったと、本当にそう思っているわ。乃梨子ともこう姉妹になれたし」 そんなこと言われたら恥ずかしいじゃないですか。 話が終わって、それぞれ宿題をしようという話になったところに来客があった。 「お嬢さま、綾小路さま、西園寺さま、京極さまのお嬢さまがお見えです」 そうしてキヨさんに続いて「おじゃまいたします」と三人が姿を見せた。三人ともそろって服装をはじめとしてお嬢さまって雰囲気をまとっている。そう言えばリリアンに入ったとき、お嬢さま学校というものに戸惑ってばっかりだったけれど、この三人は正真正銘のお嬢さまか。 「お久しぶりです祥子お姉さま」 『祥子お姉さま』という呼び方に瞳子のことと、瞳子が言っていたことを思い出した。ひょっとしたらこのメンバーの誰か、あるいは全員が瞳子が言っていた人なのかもしれない。 「皆さん、学校で私の妹になった藤堂志摩子と、その妹の二条乃梨子です。月曜日までここに滞在していますから、仲良くしてやってくださいね」 「よろしくお願いします」 お姉さまに続いて私もお願いしますと言いつつも、心の中では三人に対して警戒をしていた。 テーブルを囲んで座り、キヨさんが用意をしてくれた紅茶を飲みながら話を始めたのだけれど、しばらくすると、三人が話す話は自慢話や誰かのうわさ話ばかりになっていった。 これがお嬢さまの世間話というものなのだろうか? 品があるとはちょっと思えない。 それに、私はそんな話には興味はないし、お姉さまもそのようで、困ったように祥子さまの方に視線を向けていた。そして、その祥子さまは今はと目で謝ってくれた。なるほど、三人の品が本当にないだけか。 祥子さまもこんな話には興味はないのだろうけれど、この三人はお客様。気を遣わなければいけない立場も大変だと思う。 …… …… こちらは、お客様の話を無視するわけにも行かず、けれど積極的に加わる気にはなれずで相づちを返している位でしかないのに、三人の話は延々続いていく。露骨に乗り気でないのはわかると思うのに、やめる様子はまるでない。 何かおかしいと思い始めたころ祥子さまがお手洗いに席を立つことになった。そして、祥子さまの姿が見えなくなったのと三人の雰囲気が少し変わったような気がしたのは同時だった。 「ところで、詳しくは存じ上げないのですけれど、リリアンの方では春に事件があったと言うのを小耳に挟んだのですが」 「事件?」 「なんでも、小寓寺とかいうお寺の娘さんがリリアンに通っているのがわかったとか」 『小寓寺』という言葉にお姉さまの表情がこわばった。この人たち私たちのことを調べてきている? 「まあ、どうしてそれが事件になるのでしょうか?」 「さぁ……残念ながら私は少し聞いただけで詳しくは存じないので、よろしければリリアンに通っていらっしゃる方に教えていただきたいですわ」 どこか楽しそうな笑みを浮かべているようにも見える。 間違いない。私たちのことを調べてここにやってきたのだ。さっきまでの話も全部わざと……瞳子はこのことを言ってくれたのだろう。 「あら? どうかしまして?」 うつむいてぎゅっと手を握っているお姉さまを見て、明らかに楽しそうにしている。人の傷口をいじり回すようなまねをするなんて、なんて陰湿なんだろうか。 「申し訳ありませんが、個人のプライベートに関わることですから、山百合会幹部の一人としては会員のそういったことはお話しできません」 すっとぼけて聞いてきたのだからこっちもすっとぼけて答えてやることにした。 「あら、こんなところにまで来てまでそんなことをおっしゃるとは、乃梨子さんはきまじめな方ですのね。志摩子さまはいかがでしょうか?」 「私がきまじめだなんてとんでもない。人のうわさ話をおもしろおかしく話すような趣味を持っていないだけです」 お姉さまに話を振ったのに対抗して、にっこりと笑ってそう答えてあげると、皮肉を込められていたことがわかったのか、おもしろがっていた表情が変わって私を見る目つきが厳しくなった。 「個人のプライベートとおっしゃられても公の場だったそうですし、私たちの耳にも入ってくるくらいですし、それほど気にされることでもないと思いますけれど?」 「たとえそうであったとしても、必要以上に触れ回る必要はないでしょう?」 「そうですか……けれど、むしろ逆かもしれませんわよ?」 「逆?」 「噂というものは簡単に尾ひれや背びれがついて話が大きくなってしまうものですから、そういったものがつかないように正しい情報をあえて流すのも一つの手ではないでしょうか?」 その『ひれ』をたくさんつけそうな人間がよく言ったものだ。 「確かに、正しい情報を知らしめることは妙な噂を流さないようにするためには大きいかもしれませんけれど……それも噂として流されるようではあまり意味はないでしょう?」 あれほど延々とうわさ話をするような人間に話しても無駄だろうと言ってあげる。 「あら、私たちのことをご信用いただけないのですか?」 「そういうわけでもありませんけれど、流れている噂が先ほどお聞きしたくらいでしたら、わざわざプライバシーの侵害をしてまで訂正しなければならないほどのこととは思えませんでしたし……違いますか?」 どう切り返すか考え始めたようなのでその前にもう一つ打ち込むことにする。 「先ほどのおっしゃり方も興味本位でのことのように聞こえましたが、いかがですか?」 「そんなことはございませんわ」 祥子さまがお手洗いから戻ってきたけれど、私たちの間に流れている不穏な空気を感じたのだろう、彼女たちの背中から私たちの様子をうかがうことにしたようだ。 「私たちは流れている話では、事情がよくわかりませんでしたから、このままでは妙な想像力を働かせてしまう人もいると思ってお聞きしたのでしてよ」 「そうでしたか、それは申し訳ありませんでした」 と、軽く頭を下げる。 「実は知り合いに聞きかじった話にわざわざ想像と妄想を組み合わせて話を大きくした上で吹聴するような困った方がいまして……時々やっかいな目に遭わされてしまっていたので、思わず警戒してしまいました。良家の方々がそんな下品なことをなさる訳はなかったですよね。私ったら何を考えているのか……本当に申し訳ありませんでした」 何か言おうとしたようだけれど、祥子さまの「失礼したわ」と言う声の方が早かった。 奇妙な沈黙が流れる中、祥子さまが席に戻る。 「お話の途中で席を立ってしまってごめんなさいね」 「いえ……仕方のないことですから……」 どこからかはわからないけれど途中からは話を聞いていた。そのことはわかったのだろう。三人そろってかなり気まずそうにしている。 それからまもなく話を切り上げる方に持って行き、三人そろって帰って行った。 一つ大きなため息をつく。 瞳子から聞いてはいたけれど、本当に出くわすとたまったものじゃないな。 「何があったか聞いていいかしら?」 「あ、はい……」 三人がお姉さまのことを調べてきた上で仕掛けてきたことを説明した。 「二人ともつきあわせてしまってごめんなさいね」 「お姉さまが気になさってしまうと、こちらこそ気が重くなってしまいます」 「むしろ、私の方こそ一応お客様をやりこめてしまってすみません」 「二人ともありがとう」 『一応』をつけたけれど特に何も言われたり反応されたりせずに流された。たぶん、祥子さまもそんな感じのことを思っていたのだろう。 しかし、陰険な三人組……やり返したは良いけれど、これで収まるとは思えない。何かやってくるだろう。 でも、お姉さまをつらい目に遭わせたり、祥子さまに恥をかかせたりするようなことには絶対にしない! 〜2〜 「……はっ」 うとうととしてしまっていた。 慌てて腕時計を見てほっと一安心。時計の針からするとまだ軽井沢駅には着いていない。 窓の外に目を向ける……新幹線は順調に軽井沢を目指して走り続けている。成田から上野までとそれほど変わらない時間なのは、成田が遠いのか新幹線が速いのか……まあどうでも良いことではある。 今日成田で二人を実際に見送り終わるまで内心不安だったけれど、一緒に行けないのを残念がっても、私のことを心配はあまりしていなかった……少なくとも嫌われてしまったのではないかとかそういった心配はしていなかった。そのことはよかったと思う。 元々理由も疑われたりはしなかったと思うけれど、乃梨子さんが一緒に試験勉強をするために私の家にまで来てくれたのは大きかった。私の理由をいっそう補強することになったし、乃梨子さんに教えてもらったポイントのおかげで私の成績もあがったし、彼女には本当に感謝しなければいけない。 軽井沢駅に近づいてきたのだろう、車内放送が流れた。 今頃乃梨子さんは祥子お姉さまと一緒に夕食を取っているだろうか? ……紅薔薇ファミリーがそろって、楽しげな会話をしながら夕食を取っているところを想像して、少しうらやましいと思った。 明日祥子お姉さまのところに行った時に、夕食の時間までいようか? そうすれば祥子さまはきっと誘ってくれるだろうし……けれど、姉妹そろってのところに部外者が入り込むのはよくないかもしれない。誰もそんなことは気にしないだろうけれど、気にされなければいいというものでもない。 考え事をしている内に新幹線が軽井沢駅のホームに到着した。荷物を持って新幹線を降りる。 列車の外の空気はやはり東京に比べると幾分涼しい。 しかし本当になぜああ言ってしまったのだろう? いまだにわからない。 ここ、軽井沢にその答えはあるのだろうか? 後編へ