〜1〜 暑い……いったい何なのだ、この暑さは。 梅雨明けしたのがほんの数日前。もちろん中学や高校なんか夏休みにも入っているわけもない。そんな時期だというのに蝉は全力全開で鳴きだすわ、真夏日連続記録中だわ冗談じゃない。 そのうち構内で蜃気楼でも見えるんじゃなかろうか……なんて思いつくほどにぼけた頭を叱咤しつつゆっくりと歩く。あと少しで目的地だ。 「……あぁ、天国」 カランカランといい音を立てて扉を開けばそこはこの地獄の暑さから解放された夢の世界。 今、私がいるのは学内の喫茶室である。高等部のミルクホールのような場所、つまりカフェテリアは別にあるけれど、静かに過ごしたいときはこちらに限る。……そのかわり、お値段もちょっと高め。 さして広くない、とはいえ決して狭くはない室内を見渡すこと数秒、窓際にお目当ての姿を見つけそちらへ向かう。 「あぁ、いたいた。ごめん由乃さん、おまたせ」 そのお相手とは由乃さん。 今日は夏休み明けの前期試験に向けて志摩子さんと由乃さん、そして私の三人で情報交換しようと約束していたのである。ところが、一昨日になって突如特別講義が入ってしまって行けそうにないと志摩子さんから連絡があり、今日のところは二人で会うことにしたのだ。 「ううん、私の方が早く終わっただけだから、お疲れ、祐巳さん。今日は法学概論だったっけ? どうだった?」 「どうもこうも。途中から教授がエキサイトしちゃって無茶苦茶。今日、スピード違反で捕まったらしくて、いきなり警察における勾留の是非がどうのこうのとか語り出しちゃって……あげく、レポートです、はい」 「あはは、ご愁傷様。やっぱり法律学はとらなくてよかったかも。それに比べて近代日本史、もう最高! 同じ脱線でも全然違うんだから!」 なんでも講師が池波正太郎大好きらしくて、すぐそちらの方向に脱線するそうで、由乃さんにとってはたまらない講義に違いない。 かたや、蓉子さまがどんな感じの勉強をされているのかと興味本位で法学概論を選択した私は……とほほ、である。 もっとも、一般教養で個々の好みを除くとしてもすべて「当たり」の講義をとれるわけもなく、もちろん「外れ」もあるわけで。その「外れ」を含めた総合的な対策を三人で考えられたらなーと思っていたのだ。 「……でさ、祐巳さんは夏休みどうするの? 私は菜々と池波正太郎記念館へ行こうかって話をしているんだけど」 今日の講義の内容や軽く試験資料の情報交換などが終わり一息ついた頃、氷が溶けかけたアイスティーを飲み干しながらそんなことを聞いてきた。 「お姉さまと、どこに行こうか? って感じかなぁ?」 「あー、確かまだふてくされているんだっけ、聖さま」 そういってクスリと笑われる。まあ、笑われても仕方がないのだ。 「自分がゴールデンウィークに誘おうと思ったら瞳子ちゃんが予約済でしたっと」 ……そうなのである。4月の頭、瞳子に高名な劇団の日本公演が札幌であってペアチケットが取れたので行こうと誘われていたのに、中旬になってからお姉さまがどこかへ行こうという話をしだして当然無理だと断ったらお冠なのである。 「なんか聖さま、高校の時よりかえって子供じみてきていない? ……祐巳さんが甘やかしすぎだったりして」 二杯目のコーヒーを思わず吹き出しそうになった。 「ぶっ。由乃さん、そりゃ、ちょっとは同意できる部分もなきにしもあらずだけど、甘やかしってのは……」 「そーかなー?」 「そうですとも」 「本当にそーかなー?」 「本当にそうですとも」 確かに高校の時よりもお姉さまはもっと自由奔放というか気ままになったような気がしなくもない。それはあの「折り合いをつける」ってのが十分にできるようになってきたというかそんな感じなのだとは思う。そのことに私の影響が少しでもあるのならとても嬉しかったりするけれど、だからって甘やかしってのはないだろう。 「ふーん、まあ祐巳さんがそう思っているならそれでいいけどね。でも、今ふと思ったんだけどさ、高二の聖さままでしか知らない人が見たら腰を抜かすかもね」 「うん……そうだね」 由乃さんは何の気なしにそういったんだろうけど、私は栞さまのことを思い出していた。今のお姉さまを見たらきっと喜んでくれると思う……いや、思いたいけど。 「私がなんだって?」 「わっ、聖さま」 「お姉さま、ごきげんよう」 「はい、ごきげんよう。なにを話していたのか気にならなくもないけど……祐巳、それより何より海外に行くよ!」 お姉さまからそろそろお誘いがくるとは思っていたけど、よもや海外とは。まあ大学生だから海外ってのもありかもしれない。 「いいですね、どこですか?」 「お、のりがいいねぇ、やっぱり祐巳はこうでなくっちゃ。それじゃ、あとで日程とか連絡するから。あ、貯金もしっかりしておいてねー」 そういって嵐のように過ぎ去っていくお姉さま。今日はそれが伝えたかっただけらしい。 ……しかし、あの様子からすると本当にまだ根に持っているのかもしれない。 「もてる女はつらいですなぁ、祐巳さんや」 クスクスと面白そうに私の顔を眺めて笑う由乃さんにとりあえずデコピンしておいて、ため息一つ。 とりあえず家庭教師のスケジュールを調整しないと。まったく、お姉さまったら。 「そう思いながらも、顔がにやけてくるのが止まらない祐巳であった」 ……デコピン一発では懲りないらしい。おでこを押さえながら珍妙なナレーションを入れてくるこの親友に次はどんなお仕置きをしてくれようか。 まあ、それはともかく。こうして夏はお姉さまと海外(どこかはまだ知らない)に行くこととなったのである。 〜2〜 「まもなく、成田空港です。どなたさまもお忘れ物なきようご注意願います。今日もJR東日本をご利用いただきありがとうございました。Thank you for traveling with us and……」 まもなくの到着を告げるアナウンスがあり、私はゆっくりと目を開ける。 ……ついに着いてしまった。しばしの間忘れることのできた現実と向き合う瞬間が今まさに迫ろうとしているのである。人間、いつまでも事実から逃げることはできない。私は覚悟を決めた。 「とりゃっ」 ……私がかけ声とともに電車から降りると、そのかけ声に顔を向けた人は一様に目をそらし、改札前の空港警備の方々のところまで、モーゼのごとく道ができたのである。はっはっは。……はぁ。 「ゆ、祐巳!?」 改札の外から驚きの声を上げて近づいてくるのは、家族をのぞけば本日初めて真っ正面から私を見てくれる方、お姉さまであった。 「ど、どうしたの、その格好……って、お義母さんか」 「はい……」 お姉さまが海外に行くと言い出したあの日から、できるだけ家庭教師を詰め込んでみたものの、貯金とあわせても旅費はともかく現地での資金が少々心許ないものとなり、どうしたものかと思っていたのだ。 そこにさっそうと現れたのがお母様。せっかくの白薔薇さま……いまや瞳子が白薔薇さまだというのに未だにお姉さまを白薔薇さまと呼ぶ……との海外旅行、思う存分満喫してらっしゃいとお小遣いというにはずいぶん多めに援助してくれたのである。 ただまあ、世の中すべてうまくいくはずもないというか……その代償がこれである。いつもならもう少しは抵抗するのだけど(そして人よりは多め、程度に落ち着く)今日の私にそんなことはできるわけもなく。 「特急停車駅までお父さんが送ってくれたのが救いでした」 本当にこの出で立ちで乗り換え、ましてその電車が通勤車両だったら周りの視線も含め地獄に陥ること間違いなしだったと思う。それが成田空港直通の特急であったため、それなりに人がいたとはいえ、「そこそこ」の荷物の人もいて、多少はましだったのである。 「ま、とりあえず荷物を預けようか」 そういってお姉さまは両肩に鈴なりに下がっているバッグを持ってくれたので、大きなトランクとリュックサックだけ持てばすむ状態になった。……あぁ、言っていて本当にむなしくなってくる。 とにかく、ここまでどうにか持ってきたのだ。これで義理も果たせただろう。そう考えることにして二人で荷物を預けられる場所を探し始めた。 「よし、これでいけるな」 「そうですね。本当にありがとうございました」 少し笑いながら見送ってくれるおじさんに再度頭を下げる。 手荷物預かり所は見つかったものの、これだけの量から必要なものを再度取捨選択する(母の手前、本当に持って行くもの・置いていくものを分別した収納は無理だった)ためにはいったん荷物を広げる必要があって途方に暮れかけたのだけど、受付のおじさんがそのあまりの惨状に同情してくれて、隣の小会議室を貸してくれたおかげでどうにかなったのである。 こうしてトランク一つとバッグ一つまで絞り込むことができた、というわけだ。 「余裕持ってきててよかったなぁ」 「本当ですね……」 ツアー(といっても現地フリープラン)の注意書きにはチェックインカウンターに一時間前に来るよう書いてあったので、私たちは念を見て二時間ちょっと前に改札前集合にして置いたのだけど、今の時間はまさに一時間と少し前であった。 もし、お姉さまがいつもみたいに時間ぎりぎり(どっちかというと遅刻気味)に来られていたらあの荷物とともにヨーロッパに飛ばざるを得なかったに違いない。 「あ、祐巳ももう何度も読んでいると思うけど、行きはフランクフルト経由、帰りはパリ経由だから。ま、安いから直行便じゃないのは仕方がないね」 「ええ。でも、あのパリなんですよね……観光できないのがちょっと残念です」 日程表を初めて見たとき、そんな頻繁に海外旅行へ行ける身分でない私はずいぶんと驚いてしまったものだ。まさかいったんフランスに行ってそこから日本へ戻る形になるなんて。 それだからわくわくしてしまって時刻を確認したら待ち時間は三時間弱。ただ待つにはあまりに長いが、観光に行けるような時間ではとてもない。まあせいぜい空港内で買い物できるといったところだろう。 「ま、フランスはまた今度ってことで」 「楽しみにしていますね」 そんな話をしつつ、チェックインも出国手続きも済ませいよいよ搭乗である。 フランクフルトで乗り換えてからさらに1時間半……実に成田を飛びたってからから半日以上が経ってようやく私たちの乗った飛行機がウィーン国際空港に到着した。 「あ〜、ようやく到着か……腰が痛い。エコノミーじゃしょうがないけどさ」 立ち上がって腰をさするお姉さま。 「学生がビジネスとかは無理ですし仕方ないですね」 座席の上の棚から私とお姉さまの手荷物をとる。 「まあ、そうなんだけどさ。同じエコノミーでもフランクフルトまではましだったのに、こっちはちょっときついねぇ」 「乗っている時間がまるで違いますからこんなものじゃないですか? はい、お姉さま」 「ありがと。そう言われるとそうなんだけど、帰りも同じかと思うとちょっとねぇ……ファーストクラスとかあこがれるよねぇ」 「乗れる身分になれると良いですね」 「う〜ん、そういうこと考えると祥子あたりを誘ったらよかったかなぁ? そしたらファーストクラス……下手するとチャーター機だよ」 「前に祥子さまのおかげで豪華コースってのありましたね。ひょっとしたら小笠原グループの専用機とかになるかもしれませんね」 「ああ、それもあるかもしれないね。とはいえ、祥子だけ誘ったりするのはいくら何でも露骨だし、山百合会の同窓会っていうか、そんな感じならいいかねぇ?」 「海外まではちょっとという気はしますが、またやるのもいいですね」 「そうだね」 そんな話をしながら飛行機を降りて入国審査を受けて、預けた荷物がベルトコンベアでぐるぐる回っているところにやってきた。 「あ、来た来た」 お姉さまのバッグが運ばれてきた。 来た…………のだけれど、私のは? 五分。 十分。 十五分。 一緒に預けたはずなのに私の荷物が出てくる雰囲気はこれっぽっちもなかった。 「いくら何でもおかしくないですか?」 「一緒に預けたんだけどねぇ……」 「……まさか、なくなっちゃったとか」 「ロストパッケージか、どうもそうっぽいな」 また荷物の大群がはき出されてきたけれど、これは私たちが乗ってきた便のものじゃない。ということは……行方不明なわけだ。 「ど、どどど、どうしましょう!?」 「……しょうがないな。あそこ行くよ」 お姉さまについてフロアの端にある事務所のような部屋に入った。そして、お姉さまが相変わらず流ちょうな英語で係の人に説明をすると、係の人がパソコンをかちゃかちゃと動かした後、やっぱり英語で説明して、それから紙とボールペンを出してきた。 お姉さまはその紙に何かを書き込んで返した。 「あの……どうなっているんですか?」 あれだけ早いといくつかの単語を拾うことはできても、それ以上は無理で何を言っていたのかわからない。 「荷物は責任を持って探し出してホテルまで届けてくれるってさ」 「そうなんですか」 「ここで待っていても仕方ないし、行こうか」 「……はい」 ちゃんと見つかって届けてもらえるといいな。というか、そうでないと真剣に困る。 空港からウィーン市街に向かう電車にのるために駅にやってきた。 「ああ、これがCATなんですね」 CAT……City Airport Trainウィーン市街と空港を結ぶ急行列車。総二階の電車で白と銀色のボディに緑色のラインが入った電車だった。 ガイドブックには写真とかはのっていなかったから、私の頭の中ではCATだけに猫に似た先頭を持つ電車や、猫がペイントされた電車が構築されていたわけだが……そんなわけはなかった。 「どしたの?」 「あ、えっと……」 私の想像というか妄想を話すと、文字通り腹を抱えて大笑いされてしまった。 何となくそうなるんじゃないかとは思ったけれど、こんなほかの人たちがいる場所でそこまで大笑いしなくてもいいじゃないか。 とにもかくにもウィーン・ミッテ駅で地下鉄に乗り換えてホテルの最寄り駅までやってきた。 やってきたのだけれど…… 「……う〜ん」 お姉さまが腕を組んで考え込んでいる。 「どうしたんですか?」 「いや、ホテルがどこにあるんだか」 「はい?」 「最寄り駅まで来ればわかる気もしてたんだけど、やっぱむりか。祐巳、地図お願い」 「あ、はい」 ちゃんと準備してきてよかった。国内旅行でもどうかと思うのに、海外旅行で近くまで行けばわかると思ったってそれはないでしょう。お姉さまがこれだから、私は準備をしっかりと…… 恐ろしいことに気づいて固まってしまった。 「あれ? どうしたの?」 「……地図、ないです」 「え? 準備してくれてなかったの?」 もうとっくにあきらめているけれど、やっぱり、それ、私の役目になっちゃってるんですね…… 反論の一つくらいしておきたいところだけれど、今はそれどころじゃない。 「トランクの中……です」 「あ……」 しばし見つめ合う二人。 「……」 「……」 「……仕方ない。探そう」 「……はい」 たしか駅から北側だったはずけれど……どっちが北だろう? 「まずい……方角もわからない」 私の荷物がなくなるなんてトラブルがあったせいでもうお日様もすっかり沈んでしまっているから、どっちが東なのか西なのかわからない。 そうして当てもなく駅の周りをうろうろと滞在することになる予定のホテルを求めてさまよっていたけれど……いっこうに見つけることができなかった。 「やばい。野宿はしたくない」 「そ、そんなの私も嫌です」 「聞くしかないか……なんか聞きやすい店はないかな?」 しばらく歩くと、二本の道に挟まれた間にたくさんの小さな店が並んでいる場所……市場が見えてきた。 「あっ、確か市場って駅の北側にあったはずです」 確か地下鉄のちょうど真上が市場になっていたはず。考えれば初めからこの市場を探せばよかった。 「おお、それじゃあ近くだし、聞けばすぐにわかるね」 市場の中に入る……お肉や野菜、フルーツなんかを店頭に並べた小さなお店が並んでいる。 文字通り商品が山積みになっていたり、切り売りをしますって感じなのは市場ならではだと思う。 そんな市場の中を歩いていたら日本語が聞こえて来て思わずそちらの方を見ると、料理を出しているお店の前の丸テーブルを囲んでソーセージやカツレツ……たしかウィーン料理のシュニッツェルだ……なんかをつつきながら、ビールを飲んでいる人たちがいた。 あの人達も日本からの観光客だろう。別にビールが飲みたいってわけではないけれど、私たちも早く安心してご飯が食べられるようになりたい。ああ、そういえばとっくに日も暮れているのに夕飯まだだな。 時差が結構あるし、飛行機の中で寝たりしたから、微妙な感じではあるけれど……ウィーンにあわせるなら夕飯の時間は過ぎているだろう。 「お、ここがいいね」 そういってお姉さまが入ったお店はパン屋さんだった。 確かにお肉や野菜とかを私たちが買っても困ってしまうだけだが、パンならそのまま食べられるしいいかもしれない。 そしてお姉さまがまたしても英語で道を尋ねることになったわけだが、こっちの人ってすごいと思う。こんな市場のパン屋のおじさんでもあんなぺらぺらに英語を話すなんて……ドイツ語圏だったはずなのに。 お姉さまは「danke schon」(そのくらいは私でもわかる)ってドイツ語でお礼を言って、道を教えてもらったお礼をかねてパンを二つ買った。 「よし、わかったこっちだ。行こう」 わかってよかった。 「はい、祐巳。おすすめらしいよ」 と一つパンを私にくれた。 「うん、おいしい」 と早速歩きながらパンを食べてるし……こんな普通の道で食べ歩きなんて、かつてリリアンを代表していた人間たちとしてどうなんだろうとも思ったけれど…… お姉さまが本当においしそうに食べるし、たぶん砂糖の固まりのつぶつぶがついているそのパンはふわふわで、実においしそうだったし、夕飯まだだしとかそんなことを考えた後……結局私も仲間入りした。 「ほんと、おいしいですね」 「うん、ちょっと回り道しすぎたけど、これが食べれたのはよかったかな」 しばらく歩いて市場の途中で外に出て横の道を渡って脇道に入るとすぐに、これからウィーンで滞在することになるホテルが見えた。何のことはない、近くには何度か来ていたのだ。知らない場所はこれだから恐ろしい。 とにかく、ガイドブックに載っていた写真の通りどっしりとした石造りの歴史がありそうなホテル。やっとの到着だ……本当にたどり着けてよかった。 「そうだ。これからちゃんとしたお店に行くのも面倒だし、歩き疲れたし、シャワーの一つでも浴びたらさっきの市場の適当な店で夕飯にしようか?」 「あ、それいいですね」 そうして、この歴史のありそうなホテルのエントランスをくぐった。まあ、町並み自体古そうな建物が多かったから、ホテル自体に歴史があるかどうかはわからないけれど。 まあ、そんなことはどうでも良い……今私は自分の行動に疑問を感じてしまっている。だいぶ歩きつかれているが、それでもやっぱり健康のためにも階段を使った方が……何よりも精神的によかったのではないだろうか? 建物だけでなくエレベーターも古くて上りながらがたがた揺れているのだ。どうにも怖くてお姉さまの服の裾をぎゅっとつかんでしまっている。 「祐巳は恐がりだなぁ〜点検もしてるだろうし大丈夫だってば」 「そりゃ、そうでしょうけれど……ひっ!」 大きな音ともにがたっと揺れたから、短く悲鳴をあげてしまったけれど、それは目的の階に到着したからだった。 「ほら、無事についたでしょ?」 「は、はい……」 扉を開けてエレベーターを降りる。無事に降りられてよかった……毎回こんな思いをするのは嫌だから、以後は階段にしよう。 「お、エレベーターのすぐ前じゃない」 お姉さまは目の前の部屋のドアノブに鍵を差し込んで扉を開けた。カードキーとかじゃなくて、重そうなキーホルダーがついた鍵。さすが、なのだろうか? 「うわ〜、良いねここ」 私も部屋に入った。 思った以上に部屋は広くて、二人なのになぜかベッドが三つも並んでいた。まあ、良いけど、とかく広い。 「お風呂も広いし」 お姉さまが開けていたバスルームのドアの向こうに見えるお風呂も確かに広い。 「贅沢だねぇ」 「本当ですね」 「この広さのお風呂なら一緒に入っても余裕だね」 「良いですね!」 「うん、早速入ろう」 「はい!」 まあ、たぶんそういう使い方をするものじゃないだろうとは思ったけれど、バスタブに湯を張って二人仲良くお風呂に入った後、ふと大事なことに気づいた。 「……着替えが」 入る前に気づかないあたり相当どうかしている気もしなくもない。どうにかこうにかホテルに着いた安心感ですっかり気がゆるんでしまっていたのだと思う。 今手元にあるのは手荷物に入れておいた寒さ対策用の羽織るもののみ。あとはすべてトランクの中。つまりオーストリアに来ているのかどうかも分からない状態である。 「あーそっか。でも大丈夫。このお姉さまが貸してあげましょう〜」 「ありがとうございます!」 そうして少し? サイズが大きくぶかぶか気味けれど、お姉さまから貸してもらった服を着る。 ……その理由に二つのお山も関係していることを考えると悲しくなってくる。ともかく夕飯を食べにさっきの市場に行くことにしよう。 もちろん、今度は階段を使った。 「まだ結構賑やかですね」 「そうだね」 それなりにお風呂に入って時間が経ったのに、市場の活気に衰えは見えない。むしろビールを飲んでいる人たちの数については増えたようにも見える。 さてどの店がいいものかと物色しながら私たちは歩いている。 なんて言うのだろう……下町情緒? そんな感じのものがこの市場にはある。いや、それとも市場だからこそそう思うのだろうか? いずれにせよ普段そういうところに行かないからここが海外ってことを除いても新鮮な感じがする。右側にも左側にもわいわいと楽しげな声が聞こえてきて、目移りしてしまう。 「とりあえず、端まで歩いて一番よさげに思った店に入ろうか」 「いいですね」 私が決めかねるのを見たのか、それともお姉さまも同じなのかそんな提案を受けて即座に賛成。今更少しくらい夕食の時間が遅くなったところで誤差の範囲である。それよりゆっくりと見てから決めたいものだ。 「す、すみま……え、Entschuldigung!」 と、考え事をしていたせいか、お店から出てきた人とぶつかってしまった。慌てて日本語で謝りかけたところをドイツ語で謝ってその人が落としてしまったのであろうものを拾う。 ……なんども筆舌に尽くしがたい……強いていうなら中世から近代ヨーロッパを描いた絵画に出てくる庶民の女性がかぶっているような帽子? とにかくそれを手渡そうとして目が合った。 うわっ……きれい。ふわふわしたセミロングの金髪美人さんだ。 「Es tutmir leid. Vielen Dank.(祐巳より丁寧にごめんなさい、本当にありがとう)」 私が固まってしまったのを見かねたのか、昔取った杵柄で話しかけるのを止められなかったのか、お姉さまが流暢なドイツ語で(私と同じ第二外国語だったのに!)丁寧にお詫びを言って、私の手にあった帽子を手渡す。 「Auf wiedersehen.(それでは失礼します)」 そう言われて去っていく方を見送り、しばらくしてようやく私は再起動した。 「すっごく、綺麗な方でしたね」 「うーん、さすが芸術の都、ウィーン」 いつもならお姉さまがあんな対応を見せたらお仕置きの一つでも……となるのだけど、そんな気も起きないぐらい。山百合会に入って以来、美人さんはそれなりに見慣れたつもりでいたけれど、やはり初対面だと違うというか。 「さて、気を取り直してお店探しといこうか」 「はいっ!」 「いやぁ、満足、満足」 「お姉さま、ちょっとみっともないです」 部屋に戻って来るなりベッドに倒れ込んでごろごろし始めたお姉さまにお小言ひとつ。まあ気持ちは分からなくもない。……いい年した乙女がするか否かを別にすれば。 あの綺麗な人に出会って、少し歩いたところにあった割と流行っていそうなお店に入ることに決めたのだけど、それがまた実に当たりなお店だった。 せっかくウィーンに来たのだからとメニューの中でガイドブックにも載っていたウィーン料理を頼んで二人でつつきあいをしたのだがどれもとってもおいしくて、これはお店自体がいいに違いないと適当に選んで追加注文をしてみたが、出てきたもの全てが美味しかったのだ! 良さそうな所を探して入ったとはいえ、実際にその店が当たりだった時の幸せってものは実に大きいものだと思う。 ……で、二人して普段よりたくさんぱくぱく食べた結果がこうである。 「祐巳だってそうしたいくせにー。ささ、遠慮はいらない。私しか見ていないんだし一緒に転がろうよー」 う、結構魅力的な誘いをかけてくる。とはいえこのまま二人して転がったら下手するとそのまま朝までコースだ。それはまずい。実際、お姉さまは「このまま寝てしまってもいいかもー」なんて言い出しているし。 そんなとき、ふと思い出した。そうだ、今は絶好の機会ではないか。 「祐巳−、なに、してるのー」 牛になりかけている人は放置しておくとして、さっそく手提げから取り出す。そう、携帯電話である。 私も大学生になって携帯電話を持つようになったのだけど、料金に気をつける必要はあるものの、そのまま海外で使えてしまうと聞いて持ってきたのだ。もちろん充電器や変換プラグも……トランクの中だけど。 まあ、ここでちょこっと電話するくらいはもつだろうし早速かけることにしよう。ちょうどあっちはおはようございますな時間かな? 私だったらせっかくの夏休み、もう少しゆっくりと寝ていようと思うところだが、あの瞳子ならきちんと起きているだろうし……たぶん。アドレス帳を開いて…… 「……もしもし、朝早くに大変申し訳ありません。私……って、瞳子? おはよう、朝早くにごめんね、ひょっとしてまだ寝てた? ああ、起きてたんだそれはよかった。ちょっとそこが不安だったけど、瞳子の声が聞きたくてね。あはは、そりゃそうだよね。うんうん。……それが聞いてよ、私のトランクがね……こっちは今から寝るところ。じゃあ、行ってらっしゃい。うん、ごきげんよう」 ポチッと。 これがやりたかったのだ。二年前の修学旅行、あのときはやりたくてもできなかったこと。 由乃さんが令さまと楽しげに話をしているのを見たあの時、どんなにうらやましかったことか。こっそりバスルームで泣いてしまったくらいだ。もし次の機会があれば……と思っていたのだけど今日ついにかなえることができたのである。あの普段は乃梨子ちゃんと同じでとても冷静な瞳子のちょっと浮かれた声も聞けたし……うん、大満足。 「じー」 ……後ろの人は満足からほど遠いみたいだけど。 「お姉さま、起きたんですか?」 「ええ、起きていましたとも。起きていましたよーだ」 振り向くと、いつの間にかベッドに入りこんで、目から上だけ出していた。 「お姉さま、そのままの格好で寝ちゃうと服にしわが寄っちゃいますし出ましょうよ」 そう言って毛布ごとゆするのだけど、しっかりしがみついているようで引きはがせそうにない。 「ふんだ、やっぱり祐巳は妹の方がかわいいんだ。あこがれの祥子さま病が無くなったと思えば今度はかわいいかわいい妹病だよ。私のことなんてどうでもいいんだ。ウィーンまで来たのだってしつこい姉がうるさく言うから仕方なくなんだ……」 そんなこといいながら目を潤ませている。 ええ、初めてお姉さまとお会いした頃ならそれはもう慌てふためいて百面相をこれでもかってくらい披露したでしょうとも。 ……しかし、しかし今はもう違うのだ! お姉さまの演技は確かにすごい。ここ一年に至ってはもはや神業といってよいくらいだ。されどそれを見抜く私もまた神の目(お姉さま限定)を持った自信あり!(いたちごっことも言う) その目曰く、今日のこれは嘘っ! 間違いない! となると、この悪戯大好きなお姉さまをどうしてくれようか。しばし考え込む。お姉さまから見れば昔ほどではないにしろ百面相に見えて喜んでいるだろうから問題なし。かわいい妹からのサービスだ。さて……!! こういうのを天啓と言うのだろう。マンガにするなら頭上にランプが現れて点灯するって所だ。すばらしいアイディアが浮かんでしまったので早速実行に移そう。 「うーん、どうしたらそんなことないって信じてもらえるんですかー」 「もし本当なら言葉だけでなくて行動で示して」 はい、ビンゴ。……まさかあの時の私の言葉を持ってくるとは思わなかったけれど。 薄目をあけながら口を突き出すお姉さまに私は……チュッ! 「お休みなさい、お姉さま」 「え、あ、えーと……うん、お休み、祐巳」 呆然としているだろうお姉さまの顔をじっくりと見られないのは残念だけど(私も真っ赤だから見せられない)、そのままベッドにこもる。 やっぱり旅はすごい。こんなにも気持ちを大胆にさせてしまうんだから。 明日はいったいどんなことがあるのだろう。恥ずかしさと明日への期待から胸を踊らせたまま眠りにつくのだった。 〜3〜 次の日の朝、ちょっとお互いぎこちない挨拶のあと、朝食を食べるためにロビーの横にある食堂に向かっているとき、ロビーにすごく見覚えのあるトランクが置かれているのが目に入った。 「あ……」 「あ、届いたんだね」 お姉さまがクラークの人と会話をして無事トランクを引き取ることができた。予想通り? オーストリアまで来ていなくて、フランクフルトで迷子になっていたところを深夜の貨物便でこちらに送ってくれたということだ。 とにかく荷物、つまり服もやってきたことだし、いったん部屋に戻り着替え直してから、食堂に向かうことにした。 さて、腹ごしらえも済ませいざ観光に! 私たちは意気込んで外に出て…… 「「さむっ!」」 二人揃って声を上げてしまった。 かなり寒い。冬のように肌を刺すような寒さではなくても夏用の完全な薄着だから風が冷たい。 「なんでこの時期にこの寒さな訳!?」 昨日はほとんど同じような格好で夜であっても全然問題なかったのに、どうしてたった一日、いや一晩でここまで温度が変わってしまったのだろうか? ひょっとするとニュースや新聞の天気予報に載っていたかもしれないけれども、当然のごとく見ていない私たち。 「も、戻ります?」 「そ、そうしよう」 この寒さでは観光どころじゃない。くるりと回れ右をしてホテルの中に戻った。 部屋に戻って改めてトランクを広げ、少し暖かめの服を引っ張り出した。 お母さんのはやり過ぎでしかないけれど、こういった服も持ってきて正解。備えあれば憂いなしであることは事実だった。 それにしてもトランクが届いて本当によかった。こういってはなんだけど、せっかくウィーンまで来て、バカンスではなく、寝泊まりのために選んだホテルでじっと待っているだけなんて拷問に等しいし。 「お姉さまもいりますよね」 「うん。ありがと」 サイズが違うから……できる限り伸縮性があって大きいのを渡したのだけれど。 「う〜ん……祐巳もうちょっと大きくならないときついよ」 人のを借りておきながら文句を言っている。しかし、お姉さまが言っているのは主に局部的な話であることがわかっているから、悲しいものがある。 「おろ? 痛いこと言っちゃった?」 「結構……これでも、昔よりはなんですけど。どうしてお姉さまみたいになれないんですかね?」 「む? むむむ……いざ聞かれるとむずかしいな。それは」 なにやら真剣に考え込み始めてしまったぞ。 「よし、ここはもんでみたら大きくなるかもしれない!」 なんてこと言って飛びかかってきた輩の脳天に空手チョップを食らわせる。 「あいた! なにするのよ!」 「こっちの台詞です! 何しようとするんですか!」 「何よ、真剣に……ごめんなさい」 そんなこと言うなら服貸しませんって言おうとしたらそれよりも早くお姉さまが謝ってきた。 そこまでパターン化してきたってことなんだろうな……やっぱり、どんなものだろうか。 「どしたの?」 「いえ……なんでもないです」 「それじゃ、いこっか」 「はい」 地下鉄に乗ってやってきたのはシュテファン寺院。 ガイドブックにも『初めてのウィーンなら町の中心となるシュテファン寺院からスタート』と書いてあったし、ここを最初の目的地に選んだ。 「いやぁ……観光都市のど真ん中だけのことはあるねぇ」 お姉さまがそんなことを言ったのは、地下鉄駅から地上に出たとたんに目に入ってきたのがたくさんの人……観光客の大群だったからだ。 「そうですねぇ」 あたらめて辺りを見回す……広場の真ん中にたっている大きな寺院。オーストリア最大のゴシック建築物というだけのことはあって、すごく大きい。よくもまあこんな大きなものを何百年も昔に作ったものだと思う。 「ただ……」 「あれだよねぇ……」 二人そろってためいきをこぼしそうなってしまった原因は、最初に少し視界に入ってしまったから、何となくそちらに目を向けないようにしていた塔だった…… 高い塔、ガイドブックによるとあの塔にある監視塔に登るとウィーン市街を一望できるらしい。しかし、その塔はまさにいま工事中ですって感じで真ん中あたりは足場が組まれてシートがかけられてしまっている。 古い歴史的なものをって感じなのに、見た目を損なうだけじゃなくて現代臭が漂っているのが残念。 それに、あれでは、せっかく登ってもシートがじゃまでまともに景色なんか見えないんじゃないだろうか? もし見えたとしてもシートの隙間から覗くって感じにしかならないだろう。 「古い建物だし仕方ないか……登るのは北塔にしておこう」 「そうですね」 気を取り直して観光を再スタートさせる。 寺院の中にはいると、たくさんの観光客であふれていた。 さすが歴史のある大寺院……あの高等部の修学旅行で行ったサン・ピエトロ大聖堂にはさすがに及ばないものの、リリアンのお聖堂などとは、規模も装飾も雰囲気も比較すること自体が失礼に当たりそうなくらいだった。 ただ、仕方ないのかもしれないが、中がやや暗いのが残念なところ。 個人的にはもう少し明るければもっと柱の一本一本に施されているレリーフや聖画やら祭壇やらがよく見えるのになぁと思いながら、寺院の中を見て回った後、エレベーターに乗って北塔の上へとあがった。 北塔は南塔には劣るものの、それでも周りの建物よりも高いからずっと遠くの山まで町並みを一望できる。 あちこちに歴史的建造物が建ち並び、町自体が古い建物によって構成されていて、まさにヨーロッパの歴史ある町に来たって感じだ。 「なんか王宮とかオペラ座とかそういうの見えないね」 「……人がせっかく浸ってるのに、ぶっちゃけないでください」 旧市街側だけあって、歴史のある町なみが広がっているのが見えるのだが、飛び抜けて高い建物とか大きい建物とか、私でもわかるような建物の姿がなくて、「あ、あれがあの有名な〜〜」などと言ったりすることができないのだ。 「南側が見えたら良いんだけど、あいにく屋根の方が高いんだもんなぁ……」 そういってお姉さまが南側に顔を向けた。そこにはシュテファン寺院の大きな屋根が視界を覆っていた。屋根自体にはモザイクのような紋章が屋根瓦で表現されていてこんなところまで凝っているって感じでそれはそれですごいが、南側の景色は全く見ることができない。 「塔よりも高い屋根なんてよく作ったよ、ほんと」 「塔があるお城を簡単でいいので描いてください」と言われたら、中心にお城本体を描いて端にそれより高い塔を……とするであろう私としては確かに妙な感じを受けた。そういえばこの塔は財政難でこの高さになっちゃったってガイドブックに書いてあったっけ。本当は南塔と同じ高さの設計だったのに、この高さになってしまったって。 やはりこれだけ大きな建物を造るというのは、大変な話だったのだろう。 いや、もちろん新宿の超高層ビルの方がずっと大きいが現代と数百年前では話はまるで違う。 そう言えば……あちらこちらにクレーンが見える。 「あのクレーンって修復工事ですよね?」 「たぶん、そうだろうね」 前に古いお寺の修復の話をNHKの番組でやっていたが、新しいものを作った方が遙かに手っ取り早いのではないかと思うくらい大変そうだった。歴史のある文化財である故に当然そうはいかないのだが。 ましてや、ウィーンは町自体がそんな感じだろうから、あっちこっちで直さなければいけないものがあるだろうな。 「古い町を残すのも大変なんでしょうね」 「だろうね。観光都市も大変だ」 とにもかくにもせっかくだしと風景を見ながら、二人で珍しいものはないか探しあい、遠くに見えるあれは何だろう? とかそんな感じで少し盛り上がった。さらに購入時、蔦子さんが一般人に一押し! と言ってくれたデジカメでパシャパシャと北塔から見える風景を写真に収めた。 周りを見終わって、今度は下を見てみたら馬車を見つけた。何台か並んで客待ちだろうか? 「あ、馬車ですね」 「ふむ……乗ってみたい?」 「はい」 「よし、王宮には馬車で行こう」 「良いですね! それ!」 次に行こうと思っていた王宮。王宮内に馬車で入るなんてお姫様……そこまでいかなくてもどこかの貴族の令嬢のようではなかろうか。 ああ、ドレスか何かを着ていればまさにそんな感じだったのになぁなどと、ちょっぴりのもったいなさと、たっぷりの期待を胸にエレベーターで塔を降りて寺院を出た。 王宮に自然史博物館、美術史博物館なんかを見て回って、今日の観光はおしまいとした。 それにしても美術史博物館……なぜにエジプトのものがかなり含まれていたのだろうか? 工芸品なんかが展示されていた一階は改装中か何かでみれなかった区画が結構広かったせいで、妙に古代エジプトの工芸品や美術品の印象が強い。 あそこに収められていたのはオーストリアの歴史的美術品とかではなくハプスブルク家が収集した美術品が中心だそうなので、かの有名な大英博物館と同じ理屈かそれとも過去にエジプトマニアの当主でもいたんだったりして。 「お、ここだね」 お姉さまの声に足を止める。そこにはガイドブックに載っていた写真通りにモノトーンのシックな外観をしたお目当ての店があった。 昨日は時間もなかったし、ホテルの近くの市場の店で適当にお腹をふくらませた(と言ってもかなりおいしかったが)だけだったが、今日の夕飯はガイドブックのレストランの章の最初に載っていた店にやってきたのだ。ここはウィーン名物の一つのターフェルシュピッツ……牛の様々な部位を煮込んだスープで有名な店だ。 店に入ると店員さんがすぐに席に案内してくれた。ガイドブックの最初に載っているくらいのお店だから並ぶことも考えていて、あんまり長いようだったらほかの店にしようとかそんな話をしていたのにそうならなくてよかった。都内だと有名な店=即行列ってイメージだからちょっと意外。 二人で何にしようかメニューを開く……ガイドブックに載っている有名なウィーン料理は名前でわかるけど、そうでないものはよくわからない。どうしたものか…… 「祐巳。飲み物は何にする?」 「え? 飲み物ですか」 「ここは一つBierなんかいかがですか、お嬢さん」 ビールか、こっちは本場だし、それもいいかもしれない。 「いいですね」 「よし、決まり! 料理の方は私にお任せでいい?」 どうやらメニューを見ながら渋い顔をしていたようでお姉さまには丸わかりだったようだ。 「ターフェルシュピッツが入っていれば後はお願いします」 「りょーかい」 お姉さまは店員さんを呼んで料理と一緒にビールを二つ頼んだ。 すぐに店員さんが私たちの目の前にビールを運んできてくれた。 「あれ? このグラスメモリついてるね」 「本当ですね」 確かに500mlとかかれた線ちょうどまで黒っぽい茶色の液体が入っている。明らかにこの線を目安に入れたようだ。これなら入っているビールが多いとか少ないとかでもめることはなさそうだな。 「ちなみに色ってこっちのはこんなのなんですか?」 「いや、たんに頼んだのが黒ビールだからでしょ」 「へぇ」 「ま、ともかく乾杯っと」 「はい、乾杯と」 軽くグラスを鳴らして、本場のビールを飲む……。 「これが、本場の味なんですね」 「うん。なかなかだね」 「ええ」 味がとても濃い。飲み会の「とりあえず生」とはずいぶんな違いだ。 そうしてビールを飲んでいると料理が運ばれてきた。ガイドブック通り目の前に鍋ごとどんとターフェルシュピッツが置かれる。 大きなお肉のかたまりがスープの中でデンと存在感を主張していて、これはお肉のだしがよく出ていておいしそうだ。 異国情緒あふれるお店でビールの中のビールを飲みながらおいしいものをつつく。そして目の前には大好きなお姉さま。最高じゃないか。 ちょっと浮かれた頭でそんなことを考えながら、二日目の夜は暮れていくのであった。