邂逅

◆第2話

 あの後シンジとミサトは通りかかった船に助けられ、3日後に自衛隊の艦船に引き渡された。
(…これからが、正念場かも…)
 シンジは記憶喪失と言うことで色々なことをごまかしてきた。日本語が何とか分かるという程度の者がいた程度だったためそう言った部分では結構容易に対応できたが、ここでは言葉が確実に通じる分、色々とごまかすのが難しいかも知れない。持っていた身元が確認できそうなものは全て途中の海に捨ててきた。
「君が、シンジ君だね」
「…はい、」
 自信なさげに答える。
「姓の方は思い出せるかい?」
「いえ…ちょっと…」
「そうか、何か自分のことで思い出せることはないかい?」
 暫く考えるそぶりをしてから首を振り一つ息を吐く。
「何か思い出したら教えてくれるかい?」
「…はい」
「それで、彼女のことだけど…」
 椅子にじっと座っているミサトの方に目を向ける。
「記録や持っていたものから彼女が葛城ミサトだって事は分かるんだが…」
「僕と二人でカプセルの中にいました…でも、その時からあんな感じで…」
「そうか…あれだけのことがあったのだから仕方ないかも知れないな…」


 深夜、シンジは飛び起きた…あの時の夢を見ていた…現実に起こったこと、しかしそれは下手な悪夢よりも残酷であった。
 息も自然に荒くなっている…ふと横のベッドで寝ているミサトが目に入った。
 その瞬間、再びミサトへの怒りが立ち上ってきた。
 ゆらっと言ったような感じでベッドを抜け出しミサトの方へと足を進め、半ばまで来たところではたと足を止める。
「……、何をしようとしていたんだ?」
 自分が今何をしようとしていたのか?ミサトに近寄り…そしてミサトにされたことの復讐をするつもりだった。
 この少女に復讐を…救命カプセルの中で見殺しにできなかったのに、自分の意志で自分の手で殺そうとでも?
 確かに同じ葛城ミサトだが…とても同じとは思えないこの少女に対して復讐して何になるというのだろうか?
 そんなのは意味がないではないか…
 溜息をつき自分のベッドに戻ったが、あの夢を見たと言うことからくる胸の中でざわざわとしているものはなかなか収まらなかった。
 このやり場のない気持ちを抑えようと、少し風にでも辺りに船室を出る。通路を抜けて甲板にでると沖の強い風が吹き付けてきていた。
 甲板上では3人ほどが作業をしていて、シンジに一瞥をくれるが皆直ぐに作業に戻った。
 海を眺める…どこまでも続く海、星も月も見えない夜…空と海がとけあい、ただの暗い空間のようにも見える。シンジは暫く風に当たりながら、そんな光景を眺め気持ちを落ち着かせた。


 その後数日間はあの船にいたときと特に大きく変わったことは起きなかったのだが…ある日、一機の大型ヘリが艦にやってきた。
 シンジは甲板に出て、いったい何なのか様子をうかがっている。
 ヘリがヘリポートに着陸し中から何人かが降りてくる。シンジは大きく目を開いた…その中の一人に、碇…六分儀ゲンドウがいた。
(奴がいる…)
 シンジが心の中に抱えていたどす黒い物が一気に大きくなっていく…全ての根源であるあの男…六分儀は、他のメンバーとともにこちらにやってくる。
 近付いてきたときに一気に襲いかかるか?…いや、だめだ、武器を持っていない。素手で大人の男を殺れるはずがない…それに他の者がいるところでは邪魔をされるし、もし殺れたとしても殺人犯となってしまう。ここは一端引くしかない…チャンスを待とう。ある意味密室に近い船の中ならいくらでもそのチャンスはあるはずである。六分儀を強烈な殺意を込めて睨み付けた後シンジは船室に戻った。


 船室に戻ると、ミサトがさっとシンジから一番遠い部屋の隅の方に動いて行った。
「?」
 その行動の意味が分からず軽く首を傾げたが、暫くミサトの様子を観察していると…どうやら怯えているというのだろうか、怖がっているというのだろうか、そう言った物のようである事が分かった。
「……僕が恐いのか?」
 自分が恐い…それもそうだろう。なんと言ってもあの男を目にしてきたのだから、今まさにどす黒いものが胸の中に渦巻いているのだ。
 原因がわかり、シンジはそのまま自分のベッドに腰掛けた。
 暫くしてミサトが自分に怯えていると言うことが分かったとしたら、大人達はどう思うであろうかと言うことに思い至った。このまま怯え続けていたとしたら、自分がミサトに対して何かをしたと判断されるだろう。そうなれば、立場が悪くなるのは間違いない。何をしでかすのか分からないと判断されてしまったら、監視なりなんなりがついて、あの男を殺ることができなくなるかもしれない。
(…拙いな…せっかくのチャンスなのに…)
 しかし、この沸き起こってしまったどす黒いものはどうしたらいいのだろうか…
 大きく深呼吸をしてみる…がこの程度では気休めだろう。こんな程度で収まるような物であれば、そもそも殺意にまでなるはずがない。
 今度はこんな理由で困ってしまった…全く上手く行かないものである。
 深い溜息をつく…そうしているとどこか虚しくなってきて、どす黒い物が少しずつ薄らいでいった。気付くといつの間にやらミサトも自分のベッドの上に戻っていた…中で蠢いていたどす黒い物が顔を顰めているようだ。
「…なんなんだか…」
 何とも言いようがないような奇妙な気持ちになってしまった。


 複数の足音が近付いてくる…六分儀あの男が来たのだろう。
 シンジは再び蠢き始めたどす黒い物を必死で出てこないように抑える…これを悟られてしまうのは拙すぎる。これを押さえ込むのは大変である…大変であるが、この大きなチャンスを逃すわけには行かない。
 足音はちょうど船室の前で止まる。ドアが開き、六分儀達が姿を表す…六分儀はまずミサトに目を向け、そしてシンジに視線を向けてくるが、シンジは押さえ込むのに必死になってそれに反応する余裕はなかった。
「この子は?」
「はい、同じカプセルにいた子供なのですが…記憶喪失のようです」
「…そうか、同じカプセルに子供か…」
 六分儀は何か考え込むようなしぐさをしている。一方のシンジはベッドの上で軽く蹲ったまま、こみ上げてくる物を抑え続けている。六分儀の姿を見るたびに、その声を聞くたびにそのものが大きくなっていき、更に押さえ込むのが大変になる。だが、押さえ込まなければならない、これを解き放ち外に出してしまったらもう止められない、このまま飛び掛かってしまうだろう…そうすれば全てが終わってしまう。
「………まあ良い…到着までは未だ時間があったな」
「はい、2週間は掛かるかと、」
「…どうやら機嫌が悪いらしい、又いい時を見てこよう」
 六分儀たちは船室を出て行った…感づかれていないだろうか?
 とりあえず一つ難は去ったとシンジは安堵の息をつき、ベッドに倒れこんだ…本当に疲れてしまった。
 胸の中の物を押さえ込むのがこんなにも疲れる物だとは初めて知った。
 よほど精神的に疲れてしまっていたのか、暫くしてそのまま眠りに落ちていった。


 次の日、六分儀は又何人かと共にやって来た。
 今日、起きてからずっと六分儀に対してどう対応するのかを考えていた。その結論どおりに対応する…入って来た六分儀に視線を向ける…どす黒い物を抑え警戒を装うつもりだが、敵視になっているかもしれない。
「…シンジと、言うらしいな」
 この声を聞くと、やはり衝動が込み上げてきてしまう…だがそれを押さえ込み、間を置いてから頷く。
「…何か覚えている事はあるか?」
 じっと暫くの間睨みつける…そうやってある程度紛らわそうとするが、一層激しくなると言うことはなかったが、あまり落ち着かせるという効果もなかった。首を軽く振る。
 六分儀はシンジの行動と様子、言葉の意味するところを考えているようだ。
「…そうか、分かった。何か思い出したらどんな些細な事でもおしえてくれ」
 その言葉はどこか事務的な口調のようにも聞こえた。まるでその事は期待していないのだろうか?
 その後は特に言葉もなく六分儀たちは出て行った。
 今日はすんなり行った…ほっと息をつき、横のミサトに視線を向ける。ミサトは相変わらずベッドの上で蹲ってじっとしている。怯えるというようなことはないようであり、上手く押さえ込めていたのかも知れない。


 夜、シンジは六分儀の様子をうかがうために船室を出た。
 食堂に顔を出してみると丁度六分儀たちが食事を取っていた。シンジは軽いものを頼み、それを食べながら様子をうかがう。他のメンバーと話をしながらだが何を話しているのかまでは分からない。
 六分儀達が食べ終わり食堂をでていくのを確認し、少し遅れてシンジも食堂をでて後をつけ、六分儀達の部屋を確認した。
(…ここか、)
 これだけで良い、今日のところは怪しまれないためにもさっさと船室に戻ることにした。


 船室に戻るとミサトがじっとシンジを見つめてきた。
「…どうかしたのか?」
 シンジが聞くとふっと視線を背けてしまう。
(ホント、なんなんだかな…)
 ベッドにゴロンと横になり眠りについた。


 翌日、シンジは食堂でくすねてきたナイフをじっと見つめていた。せめて包丁くらいは欲しかったが上手く行かなかった。これは食事用の物であり殺傷力は低いが不意を突けばこれでも殺ることは出来るだろう。
(…夜、忍び込むか…)
 どうやって殺そうかと言うことを考えていると、ふとミサトの視線が気になった…ミサトはじっとシンジのことを見つめている。確かに夜中ナイフをじっと見つめていたら誰でも不審がるかも知れない。
「そりゃそうだな」
 シンジは軽く苦笑してから、ナイフを枕の下にしまい、眠りにつくことにしたのだが、ミサトがシンジにじっと視線を向けてくることは変わらず、なかなか眠れなかった。
 ミサトは喋ることは出来ないようだ。だが、何かを伝えたい、もしくは何かを聞きたいと言うことなのだろうか?
「何か言いたいことがあるのか?」
 ミサトはじっと見つめたままである。言葉が使えないためにどうすればいいのか困っているのかも知れない。
 暫く経ったが、結局その状態から変化することはなかった。
「…今日はもう寝る。寝ろ」
 シンジは布団を頭まで被り眠りにつくことにした。


 次の夜、シンジはミサトが寝静まった後にそっと抜け出して六分儀を襲いに行こうと考えていたのだが、なかなかミサトは寝ようとせずにじっとシンジのことを見つめ続けて来ていた。
 こんな風に見つめられていては、とても殺しに行く気にはなれない…
 昼間はこんな事はなかった…あるいはミサトが寝た後自分が何をしようとしているのかを、意識的なのか無意識的なのかは分からないが感づいているからなのかも知れない。
 結局その夜、シンジが行動を起こすことはなかった。


 又、六分儀達が船室にやってきた。
 皮肉なことだが、ここのところの空回りのせいであろうか、どす黒い物は抑えやすく以前に比べれば随分余裕があった。
「すこし、聞きたいことがあるがいいか?」
 今日の調子なら、怪しまれないような対応が出来るだろう。少しでも警戒心を薄くするためにも、協力してやった方が良い…そう結論付け、ゆっくりと頷いた。
「……前にも聞いたが、何も覚えていないのか?」
「…気が付いたらカプセルの中にいました。その前のことは…全然思い出せません」
「そうか、」
 暫く間があった。
「…あの時、基地にはこの葛城ミサト一人しか子供はいなかった…君はいったいどこから来たのだろうな…」
 呟くように行った六分儀の言葉…それは、いったいどういう意図が含まれているのだろうか?さっぱり読めない…
「…僕が、聞きたいです…」
 その後は事務的な言葉のやり取りのみで、暫くして六分儀達は帰っていった。
(…いったい、どう言う意味で言ったんだ?)
 その事を考えるが答えが出ることはなかった。


 夜、やはりミサトがじっと見つめてきていた。
 果たしてミサトは何を言いたい、伝えたいのだろうか?
 殺しに行くなと言うことであろうか?いや…それはない。いくら勘が良くても殺すという行為に直ぐ結びつけられるはずがない。しかし、漠然と何か悪いことをしに行くと言うことはわかるのかも…いや、自分がしようとしているの事が悪いことのはずがない。あの男のせいでどれだけ苦しめられたのか…そう、それだけじゃない、自分以外にも無数の者があいつのせいで苦しめられたのだ。悪を倒する事は良い行為である。そう、あの男を殺すのは良いことなのだ。そう、あの男は殺さなくてはならないのだ。
 そんな結論に達した後、ふと、ミサトに目を向けると…その怯えたような視線に変わっていた。
 暫くの間、何故ミサトがその様な態度に変わっているのか分からなかったが…やがてその答えに思い至った。
「…こわい…のか?」
 ゆっくり軽く頷く…
「…なんで…」
 なぜ、良いことをしようとしているのに恐いのだ?良いことをしようとしているのに恐いはずが無いじゃないか…
 ミサトのことがまるで分からない…自分は良いことをしようとしているのだ、それを自分でも確認するために、窓のガラスに映った自分の顔を見る…鏡のように鮮明には映らないが…それでも禍々しい表情をしていると言うことが分かってしまった。
 どうして自分はこんな顔をしているのだろうか?今から良いことをしようとしているはずなのに…なのに…全然結びつかないではない、それよりはまだ悪いことをしようとしていると言った方がしっくりくる…
「…何でなんだよ…なんで、こんな顔してるんだよ…」
 シンジの言葉に答える者はいなかった…だから、何故なのかを考えた。考えたが答えは得られなかった…答えを求めてミサトにも聞いてみたが勿論答えを得ることは出来なかった。だが長い間の後…窓の外が徐々に明るくなり始める頃になって、漸くシンジは逆の考えに辿り着いた。
「…僕は良いことをしようとしているんじゃない、悪いことをしようとしているって言うのか?」
 それが答えであるように思える…何故なのかは分からないが、確かにそれが答えとして一番しっくりとくる。
「…なんでなんだよ…」
 シンジはどこか力が抜けたかのようにベッドに座り込んだ。
 その後も考え続けたのだが結局その答えを得ることは出来なかった。


 シンジは甲板で発艦の準備をしているヘリを見つめていた。
 六分儀達は今日帰っていく、今甲板で艦長達と握手を交わしている。出発まで時間は残されていない…もう六分儀を殺すチャンスはない…結局、こんな大きなチャンスを捨てることになってしまった。
 準備が終わったのか六分儀達がヘリに乗り込んでいく、そして暫くしてヘリは大空へと飛び立っていった。
 ヘリの機影が見えなくなるまでじっとヘリを睨んでいた…
 もやもやとした複雑な気分のままポケットに忍ばせていたナイフを海に放り投げる…ポチャンと言う軽い音を立ててナイフは海に沈んでいった。


 複雑な気分を抱えたまま船室に戻ると、ミサトが視線を向けてきた。
「…なんだよ」
 ミサトはしゃべりはしない…だが、ふっと軽い微笑みを浮かべた。シンジは驚きで目を丸くしてしまった。なぜ、ミサトが微笑みを??
 それを尋ねたが、勿論答えが返ってくることはなかった。 


 結局シンジが導き出した答え…いや答えとは言えないようなものは、ある意味密室のような船の中で殺す危険性を考えればもっと安全な殺し方があるはず、それを選ぶ。生きていれば、チャンスはあるはずであると…結局、ミサトの事に関しては考えないことにした。
 一つ溜息をつく…今は、今のこと、そしてこれからのことを考えよう…
 日本にこの船が到着するまでは未だ暫くかかるが、それからどうなるのかはまるで分からない。
 今は2000年…シンジが物心付く前どころか生まれる前、だが、どういう時だったのかは今までにも何度も先人の話、テレビや映画等で知っている。身よりもない、正体も不明の自分が果たして生きていけるのだろうか?これからのことを考えるととたんに不安になってきた。
 その不安から更に様々な不安が呼び起こされ、やがて様々な不安で頭が一杯になってきて、これからのことに怯えていると、ミサトがシンジの隣にやって来た。ミサトは体を寄り添わせるほど近くに座る。
「……なんだ?」
 ミサトが答えることはない…だが、一つの答えが頭に思い浮かんだ。シンジが六分儀を殺しに行こうとしたとき、それを感じ取ったのか、じっとシンジを見つめることでそれを止めさせようとした。具体的なものが分かるはずがない、だが、漠然としたものは読みとれるのかも知れない。ならば、先ほど不安に怯えていたというのが分かり、それを軽くしようとするためにこんな行動にでたのではないかと
 かつて…ミサトにこんな事をして貰ったことはあっただろうか?
 …そもそも、ミサトが自分を半ば無理矢理に引き取った事それ自体が似たようなものだったのではないだろうか?その行動の大胆さなどは今のミサトとは似てもにつかないが…あの時、もう全てがどうでも良くなっていた部分もあった…そんな自分を放っておけなくてあんな事をしたのではないだろうか?あの時の行動は手駒として手懐けるという事とは関係ない、純粋に放っておけなかったという事からだったのではないだろうか?
 もし、そうだったとしたら…ミサト自身、そう言った者を駒とすることに悩んだり苦しんだりもしていたのかも知れない……
「……、ありがと、」
 ふっと表情をゆるめてミサトに、いまの行動と、そしてかつてミサトから受けた数々のことに関して感謝の言葉を述べる…勿論ミサトに関する想いに整理がついたわけではない…今も、もやもやとした物は抱えている…だが、今はその言葉を言いたくなった。
 ミサトは少し驚いたような表情をしたが、直ぐに同じように微笑みを浮かべた。
 なぜだかは分からないが、ミサトといるとこれからのことも何とかなるのではないかという気がしてきた…シンジはもう一度心の中でミサトにありがとうと言うことにした。