邂逅

◆第3話

 日本に着いた後、シンジとミサトはどこかの研究所に送られた。
 研究所でいくつかの検査や質問を受け、その後部屋を与えられた。ベッドが二つある部屋だった。
 二人いるからベッドが二つなのだろうが…本来だったらミサトは一人で生活することになったのだろう。
 一人担当としてついていて、何かあったら何でも言うようにとは言われているが、やはり本来であったならばこんな状態のミサトが一人であったならば言うも何もなかっただろう。
(僕がいることで…良い風になればいいかな?)
 ミサトはシンジのために色々としようとしてくれたし、今だってしてくれようとしている。だから、シンジもミサトに何かして上げたいと言うことなのかもしれない。
 そのミサトは疲れていたのか、既にベッドですやすやと寝息を立てている。
「そうだな、僕も寝るかな」
 こうしてこの研究所での生活が始まった。


 次の日、シンジは食堂で朝食を済ませた後研究所内を探検してみることにした。
(ここで住むんだったら、色々と知っておかないと)
 研究所はパスがないと入れない区画があちらこちらにあり、シンジが行ける場所は限られていた。塀に囲まれたこの敷地から出ることはできないと言うこともあわせると、シンジの世界は随分狭い物である。
 今のところシンジの待遇は決まっていないようで、特に何かしてくると言うことはないようである。
 一通り行ける範囲を見終わると新聞や雑誌などを貰って部屋に戻った。
「ただいま」
 一言窓際の日向で体育座りをしているミサトに声を掛けて自分のベッドの上に持ってきたものを置いた。
 新聞の日付は社によって違うがみんな途中で穴あきになっている。セカンドインパクト後の世界の住人だったシンジにとっては特別なものを感じさせる日付『西暦2000年9月13日』、どの紙面もそれが世界の半分の命を奪うようになった災害が起こった日のものとはとても思えない。
 最新の新聞の日付は10月で、もうセカンドインパクトから1月以上が経っている事が分かる。新聞は世界中で起こっている混乱や国内での被害、そして東京の消滅などを伝えている。
 みんな社会の授業で勉強したことばかり、この後どうなっていくのか、小さな事までは知らないが、大きな事は知っている。こういったものを見ていると、過去に来てしまったのだと言うことを改めて実感してしまう。


 それから何日か経ったが、最初と後一度色々と聞かれただけで、それ以外二人は殆ど放っておかれたような状態であった。
 何か聞こうにもミサトは心を閉ざし口がきけない状況、そしてシンジは記憶がないと言うことになっている。あの時に二人とも南極にいたとしても、今は何ら情報が得られないと言うことであるが…シンジの記憶喪失は信じてもらえたと言うことなのだろうか?
 食堂で鮭定食を食べ、ミサトのためにサンドイッチとミルクを持って部屋への帰り道を歩いている。
 部屋もそうだがミサトと一緒に救出されたと言うことは、シンジにとって非常に大きいことだったのかも知れない。
 ミサトとセットとして扱われる。身寄りもなく正体不明のシンジでもこうして食事にありつける。それも、世界が日本中が食糧不足に陥っているにもかかわらず、さっきのように極普通の食事を食べることができる。衣食住が約束されていると言うことは、この世界ではとても幸せなことなのかも知れない。
「ただいま、はい」
 部屋に戻るとベッドに座っていたミサトにサンドイッチとミルクが入ったパックを差し出す。ミサトはそれを受け取って、いつも通り黙って食べ始めた。
 シンジは自分のベッドに座って今日の新聞を読み始める。
 ある意味変わり映えしない内容……戦争・伝染病・飢餓・各種自然災害……使徒戦の時の被害など比べものにならないものを毎日受け続けているが、それでもこうも続くとショッキングな記事でも変わり映えのしないものに思える。
 もう読むに値しない記事ばかり。そう判断して途中で読むのを止めて折り畳んで棚の上に置いた。
 ミサトの方を見るともう食べ終わったようで、いつものように体育座りをしているだけであった。何を考えているのかそれとも何も考えていないのか……
(ずっとこんなんじゃ、良くないよなぁ…やっぱり、)
 部屋にずっと閉じこもって、生理的に必要なこと以外殆ど何もしない。不健康なことこの上ない生活である。
 その事で死ぬことはないが、そう言う問題でもないだろう。
「…外出てみる?」
 シンジがかけたその言葉はミサトにとって意外だったのだろうか、顔を上げて目を少し大きくしていた。


 研究所の庭はそう広いと言うわけではないが、それでも何本かの木が植えられていて、芝生になっているところ等は日向ぼっこをするにはいい場所であった。
 別に肯定も否定もしなかったが、手を引いてやると簡単についてきた。少なくとも嫌がっていないと言うことが分かったから、そんな場所にシンジはミサトをつれてた。
 芝生の上でごろんと横になる…ミサトはシンジの隣に腰をおろした。
(気持ち良いな…)
 シンジ自身もこんな風にこの芝生に寝転がって太陽の光を浴びるのは初めてである。こんな風に地面に寝転がって日向ぼっこをするなどといったことは、どれほど前の話だったろうか………


 何かいい夢を見ていた気がする。それがどんな夢だったのかはどこか漠然としていて良く覚えていないが……
 目を開けるとミサトの顔が目と鼻の先にあった。
「うわっ」
 思わずびっくりして飛び退く。
「な、何かよう?」
 上ずった声で問い掛けても答えが返ってくる事は無かったが、どうやらミサトはシンジの寝顔を間近でじっと見ていたようである。
「…そんなに面白かった?」
 飛び退いて移動した場所から元の場所に戻って問い掛ける。返ってきたのは肯定を表す微笑みだけだった。
(何が、そんなに面白かったのやら…)
 シンジとミサトは同じ部屋で寝ているし、それまでも同じ場所で寝ていた。寝顔を見る機会等いくらでもあったから珍しいものでもなんでもないはずだったのだが……
 改めて空を見上げる。もうお昼時だろうか、さっきに比べれば随分日が高くなっている気がする。
 シンジの横に戻ったミサトのほうを見ると…なんとなくミサトも心地よさそうにしているようだ。建物と高い塀にはさまれた空間でしかないが、それでもここのところミサトが過ごしてきたのは、閉鎖された部屋の中だけだったのだから、それに比べればはるかに広がりがある。
(つれて来てよかったな)
 ミサト一人であれば、あのままずっと部屋の中だけだったのだろう。特に今する事があるわけでもないし、天気のいい日は気が向いたらミサトをここにつれてこようと決めた。
「そろそろ昼御飯食べよっか」
 シンジはミサトをつれて食堂に向かった。


 食堂に入ると二人の姿を見たその場にいた内の何人かがミサトの姿に少し驚いていた。
「やあ、シンジ君、今日はミサトちゃんもいっしょなんだね」
 シンジ達の担当に付いている者が丁度居合わせ、声をかけてきた。
「ええ、今日は天気が良いですからね」
「うん、そうだね。良いことだ」
 うんうんと頷きながらそんなことを言っているが、自分からは特に何かしてこようとしなかった者からそんなことを言われると何となく苛立ってしまう。がそれを表に出すわけにもいかない。
 適当に会話を終わらしてさっさと食事を取ることにした。
 ミサトを窓際の席に座らせて、二人分の食事を貰ってくる。
 秋刀魚が実に脂がのっていて美味しそうだったので、秋刀魚定食にすることにした。二人分の秋刀魚定食を運ぶ。
 ミサトはゆっくりとした動きで箸をとって食べ始め、それに続いてシンジも秋刀魚の塩焼きに箸をのばした。
 部屋に持って行ったのはおにぎりやサンドイッチなど持ち運びしやすく食べやすい物が殆どだったから、こう言ったものをミサトが食べるのは、久しぶりのことになる。
 この秋刀魚は見た目通り実に美味しい…ミサトも顔をほころばせていた。


 それから、食事は二人で一緒に食堂で取ることが多くなり、また天気の良い日は庭でひなたぼっこをするような日が続いていた。
 ミサトの反応も前に比べると豊富になってきたし、それが何を意味するのかシンジも前よりも良くわかるようになってきたと思う。
 今も、隣で一緒にひなたぼっこをしているミサトは嬉しそうな表情を浮かべている。
 未だにミサトは言葉を取り戻していない。
 ミサトが少女時代をどう過ごしたのかは余り聞いていない。大学時代の話は、リツコからいくつか聞いたが、その時には既にシンジの知るミサトであったようだ。おしゃべり、酒飲み、ずぼら……今のミサトとはまるで結びつかない特徴ばかり。いったいこの二人のミサトの間には何があったのだろうか?
 ミサトは少しずつ反応の数が増えているし、このまま行けばもっと明るくなるのかも知れないが……それで、あのミサトのようになるのだろうか?
(まあ、いいか…)
 目に見える表面上の事がどうあっても、本質は変わらないはず。なら、そんなに考える必要もないだろう。
 そう、本質が変わらないのなら、やはりあのミサトも本質は今のミサトと同じだったのだろう。きっとあのミサトも随分苦しんでいたのだろう。そうであったのなら例えあのミサトが今目の前にいたとしても、復讐などする対称などにはならないのかも知れない。
「ん?」
 複数の足音が近付いてくるのが聞こえた。
 誰かがここにやってくる。
 みんな忙しいのか、二人がひなたぼっこをしているときに誰かがやってきたと言うことなんか無かった。何者なのか気になり、起きあがって視線をそちらに向ける。その訪問者達を見たシンジは声にならない叫び声を上げそうになってしまった。
 歩いてきていたのは5人の白衣を着た研究者達。
 白衣を着た人間などここが研究所であるからよく見掛ける。が、その5人のなかに見知った顔があった。
 …碇ユイ…
「初めまして、」
 ユイは微笑みを浮かべてシンジに声を掛けてきた。
「……初めまして、」
「私はユイ。碇ユイって言うの」
 貴方のお名前なんて言うの?そんな感じの表情を浮かべている。当然資料を読むなり、誰かに聞くなりして知っているのだろうが、シンジの口から聞きたいらしい。
「……シンジです」
「シンジ君ね。良い名前ね」
 良い名前、ユイが口にした言葉はお世辞ではなく本心からかも知れない。どちらが最初に考えたのかは知らないが、二人が良いと思わなければ、付いてなかっただろうから、
「今日から暫くここの研究所に移ってくることになったから、これから宜しくね。会ったときには気軽に声をかけてもらえると嬉しいわ。他の人達よりも歳も近いしね」
 言い終わってから、くすっと可愛く笑う。今、ユイは23歳…補完計画のなかで会ったユイよりも若干若い。
 そして、未だシンジが生まれていないからだろうか?それともシンジを子供だと認識できていないからだろうか?その両方からか、あのユイや想い出の中にあるユイが持っていた母親という雰囲気はまるでしない。
 だが間違いなく目の前にいるユイは、シンジの母親なのである。
 その後も何か話をしていたが…何を話していたか殆ど覚えていない。ただ、最後の去り際にこんなやり取りはあった。
「シンジ君、私たちどこかで会ったことあったかな?」
「あ、ごめんなさい。そうだったわね。それじゃ又ね」
 訊いて直ぐに、シンジは記憶喪失と言うことになっていたと言うことを思いだしたのだろう。一言謝罪して他のメンバーと一緒に建物の方に戻っていった。
「……冗談じゃないよ…」
 思いっきり疲れてしまった。
(奴に続いて今度は母さんだなんて)
 ミサト・六分儀・ユイ……どうしてこうも冷静に対応できそうにない相手が続々現れるのだろうか……
「…ん?」
 シンジが生まれたのは2001年6月6日…と言うことは、既にユイの胎内にシンジはいると言うことになる。
「やめてよ……」
 未だ先の話だが自分に会うことになったりするかもしれない……
 気付くと目の前にミサトの顔があった…どうしたの?と行った感じの表情を浮かべてシンジを直ぐ近くからじ〜っと見つめてきている。
「…さっきの人、少し関係があってね」
 ミサトは誰かに喋ってしまうようなこともないから、ミサトになら少しくらいなら良いだろう。少しくらい話してしまった方が自分も楽になるし、ミサトも納得するだろうし、
「あっちは気付かなかったけれど…」
(気付けるはずもないんだけれどね)
「どんな関係かは聞かないでくれると嬉しいかな」
 そう付け加えると、ミサトはどこか渋々と言った感じで諦めてくれたようである。
「……さてと、そろそろ御飯食べにいこっか」
 ミサトはこくりと頷いてかえしてきた。


 夜、ベッドに潜り込んでからユイのことを考えていた。
 ユイのことは結局シンジは殆ど覚えていないし知らない。補完計画の中でユイと接し話した以外では、幼いころの微かな想い出や断片的な知識や記憶しか持ち合わせていない。
 ユイの情報ならいくつか聞いた事はある。
 エヴァの開発をしていたこと、エヴァの登場実験で事故にあい、エヴァの中に消えたこと……その時の言葉はシンジに未来の希望を見せておきたいと言った事だった。ユイはシンジのためにと色々としてくれていた。そしてエヴァに取り込まれてからも直接シンジを守ってくれていた。それがシンジのためになったかどうかはまた別の問題だが……
 もし、ユイが計画に携わっていなければ、あるいは途中で計画から引けばどうなったのだろう?
(そんなの分かるわけないや)
 シンジには知らないことが多すぎる。何がどうなっていくのかなんて、とても想像できない。
 殆ど分からないけれど、強い関係がある存在であるユイとどう接していけばいいのか分からない。
 その夜はユイとどう接していけばいいのかと言うことを色々と考えていたが結局答えを出すことはできなかったが、そんなことを考えている内にいつしか眠りに落ちていった。


 なんだか、落ち着かない。
 今日も天気が良いのでいつも通りにひなたぼっこをしているのだが、時々ユイのことが頭の中をちらついてしまう。
(何かするか…)
 体を動かすのに十分なスペースはあるが、ミサトが何かすると言うことはないだろうし…一人でするのもばからしい。
 暫くどうしようか考えていて、ふと花を育ててみると言うことを思いついた。
(花か…)
 セカンドインパクトによる地軸移動で日本はずっと夏になった。一時期寒かったりしたし、気温が安定していなかったが、今はだんだん安定してきている。種や球根をもらえれば色々と育つだろう。
「ちょっと待っててね」
 ミサトに一つ声をかけて担当の研究者に会いに向かった。


「花?」
「はい、庭は誰も使ってないみたいだし…もし良かったら」
「う〜ん。そのくらいだったらいいだろう。花の種類の指定とかあるかな?気候が変わっちゃったから、何でも育つってわけじゃないけど」
「えっと、特にありません」
「そっか、適当に用意しておくよ」


 次の日…シンジは庭の空いていた一角をシャベルで掘り返していた。その時に一緒にその場に生えていた雑草を一緒に抜いていく。
 近くに貰ったブロックが積まれている。ここまで運んでくることは手伝ってくれたが、結構量があるし、貰った種や球根も結構な種類と数だった。
 もともと、何かすることができれば余計なこと考えなくて済むと言ったくらいのことで、そこまでするつもりはなかったのだが……まあ、他にすることがあるわけでもないし、少しずつ何日かで進めていけば構わないのだが、それらに対してこの貸して貰ったシャベルが小さすぎるのだけはどうにも気にいらない。もっと大きな物でやればもっと効率も良いし、深く掘り返すのも楽なのに……
「ちょっと疲れたな」
 中腰で作業をしていたので腰が痛くなってしまった。立ち上がり背を伸ばしてから痛くなった腰を軽くさする。
 ふとミサトの方を見るとじ〜っとシンジを見つめてきていた。さっきからずっとシンジの作業を見ていたのだろう。
「手伝ってくれる?」
 何気なく言った言葉だったのだが、ミサトはゆっくりと立ち上がってシンジの方に歩いてきた。これは手伝ってくれると言うことだろうか?
 ミサトに持っていたシャベルを渡すと、ミサトはシンジが掘り返したところの続きを掘り返し始めた。
(こんなの初めてだな)
 ミサトが自ら進んで何かする。こんなことは今までになかった。
 ザクザクとシャベルで土を掘り返す音だけで無言で作業を進めているミサトを見つめながら、シンジは微笑みを浮かべていた。
 ミサトの状態はだんだん良くなって行っている。シンジがその事に直接か関わることでそうなっていくというのは嬉しいことではないか、
「さ、ぼくもやるか」
 シンジは既に掘り返した場所の回りに煉瓦のブロックを並べ始めた。


 それから花壇作りは天気が良い日に少しずつ進めていっている。
 今日も午前中に花壇作りの続きをして、お昼を食堂でミサトと一緒にとっているとユイが食堂に入ってきた。
「こんにちは、一緒に良いかな?」
 ユイはにこにこと笑みを浮かべながらトレイを持って横に立っている。
 ユイどう接していけばいいのか分からない……本当に分からなくて悩んでしまった。答えが出せないのにそれを考えるのは止めようとしたが、なかなかそれができなかったから今花壇を作っているというのに……ユイの方からやって来てしまった。
 正直、少なくとも今はユイと距離を置きたかったのだが、特に適当な断る理由があるわけでもなかったので、構わないですよと一言返した。
「ありがとう」
 一言お礼を言ってから、ユイはミサトの横の席に座った。
「二人とも仲が良いのね」
「子供は二人だけしかいませんからね」
 少しだけ皮肉が混じった返答をする。別に外に出たいわけではない……この塀の直ぐ外がそうなっているかどうかは知らないが、外の世界一般がどんな風になっているかは新聞や食堂やロビーのテレビのニュースで知っている。好きこのんでそんな世界を見たくはないが、出ることはできないと言うのも事実である。
「そうね。でも、二人は良い雰囲気だってみんな言っていたし、私もそんな気がするから」
 そう言ってトーストを少しかじる。
「そうですか、」
「ええ。ところで、最近二人で何かしているみたいだけれど、何をしているの?」
「花壇を作ってるんです」
「そうなの?綺麗な花が咲くと良いわね」
「そうですね」
「ミサトちゃん」
 ミサトはユイから声をかけられると、箸を止めてユイの方に顔を向けた。
「二人で頑張ってね」
 ミサトはその言葉に微笑みで返した。それはシンジが見たミサトがシンジ以外の者に対して向けた初めての微笑みだった。


 あの後、何とかユイをやり過ごせたが、又やり過ごせるとは限らない。何かボロを出してしまわけにもいかないからユイと顔を会わせたくない。だから今日は部屋で過ごすことにした。
 貰ってきた新聞を横に置いてゴロンと横になる。日付はもう既に十二月…この研究所に来てから二月近くが経過していることになる。
 その間にこの塀の外の世界ではどれだけの者の命が失われたか、しかし自分たちはこの塀の中の世界でひなたぼっこを楽しむような暮らしを送っている。
 その中の住人も殆ど接触してこようとせず、積極的に関わろうとしてきたのはユイくらい。いったいだれがどんな目的で二人をここに置いているのだろうか?
(まあ、考えても仕方ないか…)
 考えて分かることではないのだから考えるのを止めて、横に置いた新聞を取って目を通す。
 今日もある意味変わり映えのしない記事ばかりだろうか……普段ポッとこれだけの記事が出たりすればそれこそ仰天たまげるしかないのだが、そんなことが続きすぎている。いつも通りに様々なところで様々なことで様々な犠牲者が出ているだけである。最も、松本の暫定政府も色々と動き出しているようで、その関係のこともあったが、それも又いつものことになり始めている。
 新聞を畳んで多棚の上に置きミサトの様子を見ると、窓の近くに座って射し込んでくる光を浴びていた。
 今日は又随分天気が良い。まさに快晴という空だったし、気温的にも涼しくて過ごしやすい。
(……しょうがないな)
「外、いこっか?」
 シンジが声をかけるとミサトは笑顔で答えた。最初はただ単に部屋の中に閉じこもっているのは、健康に良くないと思って連れ出しただけだったが、そう言った理由も今は随分変わったようである。


 出来上がった花壇の未だ空いている場所に種を撒いたり球根を植えていくことにした。ミサトもどこか楽しそうに球根を一つ一つ丁寧に植えていく。
 やがて花壇に空きが無くなり一段落して、次に花壇に水を撒くことにした。
 ホースを延ばしてきて水を出す…ホースの先に付いている器具から優しい水のシャワーが花壇に降り注ぐ。
(これで、花が咲いてきたら、良い感じになるな)
 この花壇一面に様々な花が咲いている光景を思い浮かべる。最もどんな花なのかシンジは知らない物が多かったし、実際に花が咲いたときはシンジが今思い浮かべている光景とは結構違った光景になるのだろうが、
 ミサトはじっとシャワーを見つめている。どうやら、シャワーのなかにできている虹を見ているようだ。
(なんだか良いなぁ)
 こうやって色々な物に興味を示してくれる。最初のころの完全に閉じこもった時とは大違いである。
 そう遠くないうちにもっと自分から色々と進んで何かをするようになってくるかも知れない。


 今日は雨が降っていて外に出ることはできなかった。
 雨が降っているので水を撒く必要はないが、その水を撒くと言うことも単なる作業ではなく楽しんでいたのだから、雨に楽しみを奪われてしまったという思いが強い。
 ベッドに寝そべりながら、いつも通り新聞に目を通す。 
 読み終わってミサトに目を向けると、ミサトは窓の近くに座ってどこか退屈げであった。
 別に外に出たって一日中水を撒いたり土いじりをしているというわけではないが、一日何もすることがないと言うことになると退屈と言うことになってしまうのだろうか?
 ミサトが退屈そうにするなんて初めて……
(何か読む物あったかな?)
 ミサトは口がきけないが、別に文字が読めないわけではない。なら、読む物があれば退屈と言うことはないだろう。
 と言っても、ミサトが読むような物はこの研究所にはないだろうが。
 シンジが読んでいるのだって、楽しいから読んでいる物よりも情報の収集のために読んでいる物が殆どだし……新聞にあるニュースなどくらい話ばかり、そんなものを好きこのんでみることはないだろう。
 雑誌もミサトが読むような物は置いてなかった。最もセカンドインパクト以降は殆ど発行されていないようで、シンジも楽しんで読めるような本は無いのだが
 誰かが持っている物を借りるにしても、この研究所の職員は男性が多いしそもそも年代が違いすぎる。しかし、そんななかで一人だけ該当者が思い浮かんだ。
(母さんか)
 ユイは他の職員に比べて若い女性である。ミサトが読むような本も持っているかも知れない。
(でもなぁ……)
 ユイに本を貸してなんて頼みにいきたくない。そもそもユイと接触したくないのだから……
 かと言ってミサトが退屈しているような状況はなんとかしたい。
 う〜ん、と悩んでいたらいつの間にか、ミサトの顔が目と鼻の先にあった。
「うわっ」
 吃驚して思わず飛び退く。前にも似たようなことがあったような気がする。
 ミサトはどうしたの?と言った感じでさっきシンジが悩んでいたことを聞こうとしているみたいである。
「…えっと…その何でもないよ、」
 そう答えたがミサトは納得していないようで、自分のベッドに戻っても暫くシンジの方をじ〜っと見つめてきていた。
 興味から聞こうとしたと言うよりも、シンジのことを心配しているという方が近いのではないだろうか?何となくだがそんな気がする。
 そんな、シンジのことを心配してくれるミサトのために何かしてあげたくなってきた。


 シンジは一人で通路を歩いていた。
 ユイがこの研究所で何をしているのかは分からないし、どこにいるのかも分からないが……暫くぶらぶらと歩いていたら、丁度ユイが4人の研究者達と一緒に反対側から歩いてきた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「今日は一人なのね」
「ええ」
「花壇の方はどう?」
「もうできました。後は育つのを待つだけです」
「そう、今度二人が作った花壇を見せてね?」
「……いいですよ」
「シンジ君?」
「博士」
 ユイが何か言おうとしたところを他の研究者が遮った。
「ごめんなさい、今急いでいるの。又今度ね」
「…はい」
 ユイ達は去っていった。
 結局本のことは口にすることはできなかった。
 最も口にできたところで、さっきの感じでは理由などを説明している途中で遮られただろうが…それ以前の問題。結局ユイとは接したくないのだ。さっきだって、花壇を見せてと言われて、答えるのに戸惑ってしまった。
 ミサトの前ではミサトのために何かしてあげたい。何とかしてあげたいと思うのに、ユイを目の前にすると、ユイとは接したくない距離を置きたいそんな風に思う。別にそのこと自体は相反する物ではないのだが、今はその間で困っている。


 部屋に戻ると、ミサトが又心配そうな視線を向けてきたが、窓際に座りながら見てくるくらいで近くからシンジの顔を覗き込んで来るというようなことはなかった。
 ミサトの退屈は今日のところは解消できたようだが、良いことではない。まあ、ミサトのことについては、別に本に拘らなくても良い。トランプでもオセロでもシンジが付き合えば幾らでも退屈しない物はある。
 しかしユイの方は、研究所と言う閉鎖されている空間の中にいるのだからいつまでも避け続けると言うのは厳しいかも知れない。さっきだって、結局約束してしまったのだし……いつまでも逃げているというわけにはいかないかもしれない。 
(どうすれば良いんだろう……)
 母そっくりの同姓同名の別人。そんな風に思えるのなら楽なのだろうが、そうはいかない。間違いなくユイ自身であるというのを知っているのだから、
 もっと、ミサトくらい表面上の物が違うのであれば、分けて考えられるかも知れないが、ユイは近すぎる。
 ……いや、その表現は正しくはないかも知れない。ユイのことをそんなに知っているわけではないのだから、遠くはないという方が良いだろうか。
 ユイに母という感じはしなかったし、違う点だってちゃんとある。
 シンジが持っているユイについての断片的な記憶を、こちらでの数少ないユイのイメージに一つ一つ当てはめて考えてみる。……どれもピッタリと当てはまっているわけではなかった。シンジにとってユイは母であり、無条件に守ってくれる存在だった。他人として接したことなど一度だってあるはずがない。だから当然のことであるかも知れない。
 ユイはユイである。本質的なところは同じはずである。だが、シンジの側の立場が変われば、まるで違った面で接することになるのだろう。
 それは、逆に言うと、ユイの母親としての面は自分には決して向けられることはない。母を10年以上も前に失い、それから母親という物に接することなど、補完計画中のつかの間のことしかなかった。すっかり諦めていたはずなのに、その事実はどこか悲しかった。
 母でないユイ。それはシンジにとって、そっくりの同姓同名の別人に近いのかも知れない。それ以上ユイのことを知らないのだから……
 又いつの間にかミサトが直ぐ傍でシンジの顔を覗き込んでいた。言葉が喋れたのならきっと大丈夫?そんな風に訊いてきたのだろう。
「うん、僕は大丈夫だよ…」
 その通りのことを訊きたかったのだろう。それでも納得していないようではあったが、自分のベッドの方に戻っていった。
(僕には、母さんはずっと前からいないんだから…)


 ユイはロビーで紙コップに入った何かをのみながら、赤ん坊のイラストが表紙に描かれた本を読んでいた。
 あの本はお腹の中にいる子のために読んでいるのだろう……ユイの母親としての面、それは自分には決して向かない物である。その事はやはり又悲しさを引き起こした。
 ユイとは余り接触したくないことも併せて、今のところユイはこちらに気付いていないようだし、このまま立ち去りたくなってしまったが、そんなことではいつまで経っても同じ事の繰り返しである。だから、軽く首を振ってそんな思いを振り払って声をかけた。
「あ、あの…ユイさん」
 初めてユイを名前で呼んだ。シンジはユイにとって他人なのだから、母さんではない…
「あら、シンジ君何か用?」
 本にしおりを挟んで横に置く。
 名前で呼ぶことで母を諦めたと言うことが自分の中でもはっきりしたのかも知れない。そこから後は、比較的スムーズにミサトのために読む物を貸して欲しいことを伝えることができた。
「明日適当なものを持ってくるわね」
 にっこりを微笑んでそう答えてくれた。
 嬉しさは湧かなかったが、笑顔を作ってありがとうございますと返した。


 ユイから20冊ほど文庫本やコミックを借りた。読み終わったら又他のものを貸してくれるらしい。
 それらを手に持って部屋に戻ってきた。
 今日も雨は続いていて、ミサトは部屋で退屈そうにしていた。
 適当なコミックを一冊ミサトに差し出す。
「はい、」
 ミサトは差し出されたコミックを前に小首をかしげる。
「雨で外出れないし退屈でしょ、ユイさんから借りてきたんだ」
 ミサトはふっと表情をゆるめ、笑みを浮かべてシンジが差し出したコミックを受け取った。
「……ありがと…」
「……、え?」
 今さっきミサトがありがとうと言ったような気がした。
 呆然としてしまい、シンジが疑問の声を発したのは、既にミサトがそのコミックを読み始めた後だったため、ミサトは少し小首をかしげて反応したが、それだけで又コミックに視線を戻してしまった。
 さっきのはひょっとしたら気のせいだったのかも知れないけれど、多分本当に言ってくれたのだろう。
 もうミサトが心を閉じていなかったのか、それとも何かそれだけの物をミサトが感じたのかは分からないけれど、ミサトがありがとうと言ってくれた。ミサトと色々と話をすることができるようになる日も近いかも知れない。
「明日は晴れるかなぁ…」
 何とはなしに窓から弱い雨が降る空を見上げた。