なんとなく
とかく批判ってのは事を荒立てます。
でまあ、批判の批判って奴も存在するわけでそうなると泥沼のフレームに突入するわけですが。
たとえば批判の批判というとこんな感じ
一例
なんも考えずに発言すんじゃねーよ!
間違いだらけで言いたい放題言って、言い訳無しに謝罪もできない(批判するときは一方的に「まずい」側面ばかり見て、自分が批判された際には「確かに『この点では』謝ります(本当か?)が、しかし!」みたいに後ろの逆接以降の方がよほど強調されているのは一層叩きが激しくなったりも。「謝罪ってレベルじゃねーよ!」ってやつですな。)ようなチキンな奴がグダグダ抜かすな。
そういうダブルスタンダードを平気でかますからこそ「考え無し」で発言できるんだろうけどなー
と、
このようにまた事を荒立てるがごとくぼろくそ書くので、仮に「批判の批判」における内容が事実だったとしても頭の下げ所が無くなってさあ大変。
せっかくなので、上の意図の文章をオブラートに包んでみました。
マイルドにした。
「自分のいうことが間違えていたら?」
「反対意見を持つ人から猛烈な批判を浴びたら?」
そのようなことを考えてしまって口を出せない人はいないだろうか?
もちろん、上記のようなことは典型的なケースのいくつかに過ぎず、人に発言を押しとどめようとする要素はいくらでも存在する。
しかし、だからこそ思ったことを勇気を持って口に出すことは重要なことなのだ。
たとえ、無配慮、無根拠、思いこみに過ぎなかったとしてもだ。そんなものは結果論に過ぎない。
信念を持って発言する、これこそが大事なことなのである。
なに、自分が間違えていたときは言い訳などせずに素直に謝罪すればいいだけである。最初に発言をした時のことを思い浮かべれば、その程度、問題と呼ぶのもばからしいほど簡単なことだ。
批判されることを恐れて何も発言が生まれない社会。それは閉塞への第一歩であり、はるか先の終焉を意味する。
故に
「相手のことを考えて……」
などと、配慮しているように装って、その実もめ事を嫌がっているだけの言論封殺主義者の言うことなど放っておけばいい。
私は妨害にも負けず、勇気と情熱を持って発言する人々を心から尊敬する。
本音の
「なに、自分が間違えていたときは言い訳などせずに素直に謝罪すればいいだけである。最初に発言をした時のことを思い浮かべれば、その程度、問題と呼ぶのもばからしいほど簡単なことだ。」
このあたりを荒立てずに言いたいがために適当に飾り立ててみました。
実際には
ここがぶっ飛びすぎているので「○○が言った」だの「○○イズム的に考えてみると」と、適当になんかエライ奴も言っているみたいな補強をするとよりごまかせて良いかも。
素直に要約すると?
発言という行為を押しとどめようとする要素は、世の中に枚挙にいとまがないほど存在し、それらは常に私たちに物を言わせまいとする。
しかし、それらの圧力に屈し、物を言わなくなってしまったらどうなるだろう?
意見の言えなくなった世の中などに明るい未来を見いだすことは困難なのである。
故に私たちは勇気を持って発言し、そうする人を尊敬するのだ。
上のように
あんな感じに裏を感じずに読めるようにまで飾り立てられると完璧なのですが。
休日に何をやっているんだろうかと思ったのでここでお遊びはやめ。