第二話

姉妹体験ふたたび 前編

〜1〜
「姉妹体験、してみない?」

「……え?」
 乃梨子ちゃんは私のことばをすぐには理解できなかったようだが、すこししてみけんにしわを寄せて、「どういうことですか?」と聞いてきた。
「うん、今まさに、私と乃梨子ちゃんが姉妹体験をしているって噂になっていて、乃梨子ちゃんがみんなの注目の的になっているわけだけど、私と乃梨子ちゃんの関係を事細かに、リリアンかわら版……学校新聞とかで公にするにもいかないし、このままだと今の状態って当分続いてしまうことになると思うの」
「確かに私のこととか公にすることでないし、されても困りますし……それで?」
「うん。乃梨子ちゃん自身説明したのに、だめだった。そもそも、今回のことは自分がここまで注目される存在なんだって全然わかっていなかった私が悪かったわけだけど」
「そんなことはないです。いろいろと教えてくれた祐巳さんがいなかったらいっそう居づらかったでしょうし」
「ありがと。でも、私が不注意だったのはうごかしようのない事実……で、話を戻して今の状態をすぐに変える方法は限られている。一つは、私が今後乃梨子ちゃんをあえて無視するようにすること。端から見ると私が乃梨子ちゃんを振ったみたいな形になると思うけど、その場合はしばらくの間だけ同情とかさまざまな目で見られるかわりにその期間さえすぎれば静かになるはず。あんまりおすすめしないけど」
「確かに、今後ずっと祐巳さんに無視され続けるってのは、いくら演技でもちょっといやですね。少なくても気乗りする方法ではないです、間違いなく」
「だよね。そこで提案するもうひとつの方法が、さっき言ったみたいに形だけでも私と乃梨子ちゃんが噂通りの関係、つまり姉妹体験をするようになることってわけ」
「……でも姉妹って、特に仲のいい先輩後輩でしたよね? それをわざわざ体験って……しかも祐巳さんがそれを初めてやったご本人って聞きましたし。どうも私の思っていることとかなり違うみたいな気がするんですけれど、どういうことなんですか?」
 ああ、そうか。ただでさえ……な乃梨子ちゃんには姉妹の意味とかロザリオのこととか深い話は全然していなかったっけ。
「ごめん、頭が痛くなる話かもしれないけれど、さすがに説明しないと通じる自信がないからちょっと聞いてもらえる?」
「ははは、少しは慣れましたから。どうぞ」
「ありがとう、ごめんね。まず姉妹ってのはね……」
 そもそも姉妹とは何か等、以前にごく簡単に説明したことをもっと突っ込んで説明した。あと、ある日突然当時の白薔薇さまにロザリオを渡されてしまったので、何かの間違いだと思い(実際そうだった)お返しするため薔薇の館に行ったにもかかわらず、肝心のロザリオ自体を忘れてしまった私へ提案されたのが姉妹体験の始まりだったという経緯も。さらにそうなった背景とか、あまり深いところは話すのははばかられて、ぼかしたりとかでちょっと心苦しかったけれど。
「……そういうことだったんですね」
 納得顔になった乃梨子ちゃんは一つ深く息をついた。
「さらに遠いところだと思っちゃったかな? そう思ってほしくなくて、今までちゃんと説明できなかった。ごめんね」
 乃梨子ちゃんは首を振った。
「はい、確かにすごい学校だという気がますます。でも、祐巳さんがそうしたのは正解ですよ。あの時にそこまでいっしょに説明してくれていたら、もうはるか彼方の存在に思えてついて行けなくなったのはまちがいないですから」
 やっぱり乃梨子ちゃんって頭の回転が速くて、気も回せる人間だと思う。
「ありがと。それで、また話を戻して……私たちが姉妹体験をするってことになれば、新聞部だって食いついてくるし、こちらの思うとおりの情報を流せる。そうできれば、裏で噂としてってことはなくなる。それに姉妹体験ということになれば、乃梨子ちゃんが困っているようなときに私が堂々と助けることができるしね」
「でも、注目は集めてしまいますよね?」
「うん、確実にね。でも、いっそのこと徹底的にやってみるっていうのはどうかな?」
「徹底的に、ですか?」
「うん。徹底的に逆・隠れキリシタンをね」
 乃梨子ちゃんは難しげな表情を返してきた。これは、お断りとかそういうのではなく、単に私の説明不足か。
「前にも言ったように、今は私は江戸時代だったらある意味御三家の当主にあたるような形なんだよね。その妹となれば、一門、親藩大名に当たる感じだとおもう。それが、逆・隠れキリシタンだなんて結構すごい話でしょ?」
「……そういうことですか」
「どうかな?」
「同時に、アイドルみたいなものでもありますよね。そうすると今以上に騒がしくなりません?」
「最初の最初だけはね。でも、残念ながらになる話だけど……山百合会幹部はみんなから敬意をもたれている。ただ、行き過ぎで、一般生徒の間には精神的な壁ができてしまっているの。だから今回もアイドルもどきの私自身ではなく、声をかけられた乃梨子ちゃんに注目が集中しちゃったわけだし。そのことを考えると、最初の対応さえうまくいけば、みんな乃梨子ちゃんのことを白薔薇のつぼみ……ああ、つぼみっていうのは薔薇さまの妹のことね。つまり、将来の白薔薇さまとしてみることになる。実態は全然そうでなくたってね。そしてそうなってしまえば、ちょっと寂しいことなんだけど、気軽に声をかけてきたりする人は減ると思う」
「……煩わしさは減るはずだってことですか」
「きっとね」
「……それは歓迎ですし、逆・隠れキリシタンの親藩大名なんてのも少しおもしろいそうかもしれません。でも、形だけの姉妹体験だなんて、祐巳さんはそれでいいんですか? さっき姉妹ってのがどういうものなのか話してくれたばっかりなのに」
「まあ私もっていうか、私こそその姉妹体験をした張本人だからね。さっきも軽く話したけれど、経緯が経緯だったから、最初なんか本当に形だけみたいなものだったんだよ? 結局私の場合はそのまま本当の姉妹になっちゃったわけだけど、仮に体験だけで終わっていたとしても、今思えばすごく良い経験ができたと思う。だから気にしなくていいよ」
「うーん……」
 私が伝えた姉妹の意味というものを乃梨子ちゃんはしっかりと受け止めてくれたのか、かえって納得いかないみたい。だから、私にもこの「形だけ」ってものにメリットがあると冗談めかして伝える。
「それにぶっちゃけた話になるんだけど、つぼみは薔薇さまの仕事をつぼみのそのまた妹と一緒に手伝うのが慣例になっているの。だからこそ将来の薔薇さま扱いされるわけだけど。で、薔薇さまの仕事は割と忙しいから、毎年のように二年生は三年生から早く妹を……人手をつくるようにあの手この手で言われ続けてしまうのよ。でも、姉妹体験をしてますってことにできれば、私は妹を作れって頻繁に言われずに済むというわけ」
「……もし、祐巳さんと姉妹体験ってことになったら、白薔薇のつぼみも体験しないといけないんでしょうか?」
「ううん。私の時も、佐藤聖の妹体験と白薔薇さまの妹体験は別って言われて、実際つぼみ体験の方はなしだったし、乃梨子ちゃんもその必要はないよ」
「そうなんですか……なんだか、私にいいことばっかりなのがちょっと心苦しいですけれど、お受けいたします」
 そんなこと無い。
 そうは言えないけれど、乃梨子ちゃんに姉妹体験を申し出たもうひとつの理由を言うこともできなかった。少なくとも、今はまだ。
 だから心からお礼を言う。
「ありがとう。もし乃梨子ちゃんがこの学校に慣れて……というより嵌ってかな? 姉になって欲しい人ができたとか、そんなことがあったら遠慮無く言ってね。できるだけのことはするから」
「いえいえ、こちらこそ。うーん、でも私が本当の姉とか妹とか、そんな日が来ることはあり得ないと思いますけどね」
「分からないよ。運命なんてほんとどこに転がっているのか誰にも分からないんだから」
「そんなものですかね?」
「なにしろ、いつの間にか白薔薇さまになっていた私が言うのだから間違いないよ」
「またまた……」
「ふふふ、じゃあお昼に行こうか。今後どうしたらいいかも教えてあげるから」
「はい、よろしくお願いします」
 こうして私と乃梨子ちゃんの姉妹体験……形だけの姉妹体験が始まったのだった。


 五時限目が終わった後の休み時間、私の方から真美さんの席に向かった。
 今回のことは公開してこそ意味があるのだし、なるべく早くしたほうがいい。そして、そのためには新聞部とリリアンかわら版を利用させてもらうのが一番だ。なにしろ真美さん自ら売り込みをかけてきたのだ。喜んで記事にしてくれるだろう。
「祐巳さん? ……何かご用?」
 私の方から来た時点で何かあるに違いないと踏んだのか、早速メモ帳を取り出している真美さん。
「真美さん、先日の件だけど、やっぱり一口乗らせてもらうわ。流してもらいたい情報があるの」
「それはそれは。ご用命いただきありがとうございます。……で、外に行く?」
「ええ、お願い」
 芝居がかった口調で深々と頭を下げた後にそうささやく。いずれ明らかになるとはいえ、今の時点で波風を立てたくないのでお願いする。
「で、私は白薔薇さまの公式見解として二条乃梨子さんとは姉妹体験をしていないって記事を作ればいいのかしら? まあ少しは記事をおもしろくするために協力してもらいたい部分もあるけれどそのあたりの……」
 前と同じく、階段の踊り場についたと思ったらすぐさま聞いてきて、その後の展開まで話し出そうとする真美さん。
 三奈子さまに比べたらはるかに慎重で冷静なはずだけど、それでもこのあたりは新聞部魂、あるいはさすがあの方の妹とでも言えばいいのだろうか?
 それはおいておくとしても、提案自体はさすがだと思う。昨日までの私が真美さんにお願いするならその内容以外ではあり得なかったはずだから。
「えーと、逆」
「……は? ちょっと待ってよ、それって……」
 おお、目を丸くする真美さんなんて初めて見た。
 ……ま、この後薔薇の館で直面するであろう試練を考えたらこのくらいの役得があってもいいよね。
「ええ、本日のお昼から私と乃梨子ちゃんは姉妹体験を始めました。……特ダネでしょ?」
「もちろんよ!」
「で、こちらから出す条件は基本的に一つ。乃梨子ちゃんは私、福沢祐巳の妹体験をしているのであって白薔薇のつぼみ体験をしているわけではない。……言いたいこと分かるよね?」
「了解。少なくとも現時点で乃梨子さんに直接取材に行くのは部内規定に反する。そういうことでいい?」
「うん、それさえ守ってもらえれば答えられる範囲で協力する。写真はそう、蔦子さんが私と乃梨子ちゃんのお昼の光景とか撮っていたはずから、それを使えるように頼んでおく」
「逆を言えば、写真撮影を口実に二人そろってのインタビューなども無しってことね?」
「理解が早くて助かるわ」
「それでは早速だけど経緯等を教えてもらえるかしら? そして、放課後にそれらをまとめた第一稿ができしだい薔薇の館へ伺って、再調整してから発行という形でどう?」
「それでいいわ、お願い。じゃあ、まずは乃梨子ちゃんと知り合ったきっかけだけど、高等部受験日の前日に……」


「で、真美さんとどんな話をしていたの?」
「どんなって……」
 六時間目の授業、ホームルーム、掃除と終わって、薔薇の館に行こうとしたところを由乃さんに捕まり、さっきも使った階段の踊り場に連行されていた。
「一昨日令ちゃんに相談していたことでしょ? 祐巳さんが姉妹体験をしてるかもっていう……どうなったの?」
「あー、うん。本当にしてみることにした」
「えー!!」
「よ、由乃さん、声が大きいってば」
「あっ、ごめんなさい」
 いくら放課後でもまだそこそこ人がいる中、由乃さんが大声を出そうとするものだから冷や汗が出た。ちなみにその張本人はまだ「信じられない」って呻いている。
「詳しくは薔薇の館についてから報告するんでよろしく」
「分かった。……でも祐巳さんってば案外度胸あるわね。三年生はどっちも今の状況良く思っていないってのに。あげく祐巳さん自身が姉妹体験するなんてきたら、令ちゃんはまだしも、祥子さまはヒステリーおこして喚いたうえにハンカチをビリビリに裂くぐらいのことはするかもよ?」
 ハンカチを引っ張り出して「祐巳ちゃん、あなた私を馬鹿にしているの!?」ってわざわざ実演までしてくださる由乃さん。
「うへ。やめてよ、由乃さん」
 覚悟を決めたといっても、そんなのを見せられたらめげそうになる。
「ちなみに、予行演習はした? せめて質問されそうなことの答えくらい考えておかないと、祥子さまにねちねち責められたら祐巳さん固まっちゃうかもよ? ……いや、泣いちゃうのか?」
 祥子さま大好き症候群だって発症したまんまなんだしとか、由乃さん言いたい放題言ってくれる。
 とはいえ、だいたい合っているので言い返すこともできない。
「うーん、まあ一応」
 実は六時間目の授業中もホームルームも掃除の時間もずっと考えていたりする。
 幸か不幸か、私の周りには真美さんや蔦子さんといった弁論部も欲しがるような交渉上手がいるので、彼女たちならどう答えるだろうというのも想像してみたり。特に真美さんが言っていた「新聞部を利用することも考えておいて」ってのは、私自身その場で納得しかけたし、そのまま参考にさせてもらえそうである。
「ま、がんばって。助け船くらい出してあげるから」
「ありがとう、助かるよ」
「それじゃあ、行きましょ」
「うん」
 そんな話をした後、私たちが薔薇の館に着いた時にはすでにみんな来ていた、といっても五−二の三人だけど。
「遅れてすみません」
「私たちも来たばかりよ、祐巳ちゃん」
 そういって微笑んでくださる祥子さま。ああ、いつみてもお美しい。マリア様、どうか願わくばこの麗しいお顔が歪まれる、なんてことになりませんように……
「全員そろったし、そろそろ始めようか」
 私がひそかに祈っている間に令さまが今日の作業を開始しようとしたので、あわてて口を開く。
「あっ! すみません、その前にご報告したいことが」
 みんなの視線が私に集まる。何を発表するのか知っている由乃さんだけが「がんばれ!」って感じで、他の人は「なんだろう?」って感じ。
 深呼吸を一つして、よし!


「……つまり、乃梨子ちゃんの今の状況を打開したいって気持ちがあって、さらに話をしてみても気が合いそうだから実際に姉妹体験をしてみようと。でも、それはあくまで祐巳ちゃん個人としてであって白薔薇さまとしてでないから、白薔薇のつぼみ体験はしない……こういうことでいいのね?」
「はい」
 令さまが私がした説明を自分にも言い聞かせるようにまとめてくれたのだけど、ずいぶん渋い顔をされている。
 いろいろ考えて、お姉さまに相談してとかお姉さまにおすすめされてとか、まして私が姉妹関係というものを見つめ直すきっかけの一つとして……なんて部分は経緯から省くことにした。
 そういうことを話せないような人たちだなんてまったく思っていない。ただ、お姉さま、あるいはお姉さまと私の関係を盾にして納得してもらうというのは何となく嫌だったのだ。
「うーん、始めたものを取り消せなんて言うつもりも資格もないけれど、もう少しやりようがあったんじゃないかな……」
「いいじゃない、別に。気が合わないならともかく合いそうってことなんだから。それとも何? お姉さまは寝ている妹にロザリオを握らせたとか、そういうお話でもなければ認められないっていうの?」
「別にそういうことを言いたいわけじゃ……ねぇ、祥子はどう思う?」
 由乃さんの怒濤の援護射撃の前に押され気味の令さま。感覚的にいかがなものかと思われている部分が大きいせいなのか、逆に感覚的に応援してくれる由乃さんの意見をたしなめにくいみたい。取りあえず、祥子さまに話を振ることにしたようだ。
 祥子さまは私が報告している時もその後もずっと黙ったままだった。どんなことを言われるのだろう? やっぱりさっき想像していたみたいに……?
「白薔薇さま、あなたはどう事態を収拾するつもりなの?」
 ……え?
「ねえ、今でも次々とあなたのまねをして姉妹体験を始めている子たちがいるわ。リリアンかわら版にあなたたちのことが発表されたら、たとえ白薔薇さまではなく個人としてと言おうがさらに増えるでしょうね。それをどうするの?」
「……」
「祥子さま、そんなのは祐巳さんに関係ないじゃないですか。おまけに「白薔薇さま」ってちょっと言い方がきつすぎ……」
「由乃!」
「由乃ちゃん、あなたには聞いていないわ。……でもそう。確かに祐巳ちゃんには関係ないわね。だから私は聞いているの、白薔薇さまに。生徒会長の一人としてこの事態をどう収めるつもりなのか、あるいは収めるつもりはないのか、はたまたまったく何も考えていないのか。どうなの?」
「お姉さま……」
「志摩子も黙ってなさい。さあ、白薔薇さま。何か案は示せて?」
「……自分をしっかり持った上でなお姉妹体験を始めたいというのであれば、私は最初から賛成なのでそのことについてはどうするつもりもありません」
「白薔薇さまの姉妹体験に対する考え方は分かったわ。では、結局何もする気がないってこと?」
「いえ。新聞部にこちらから記事にするよう持ちかけたのは、私の気づかないところでの事態の加熱を防ぐためです。興味本位の噂というものは真実がはっきりすれば沈静化しますから。さらに今回の記事でも、私のまねをしたいからという理由だけで姉妹体験を始めることがないよう働きかけたいと思っています」
「そんなこと、あの新聞部が応じてくれるかしら?」
「現部長の真美さんは先代の三奈子さまとは編集方針が異なり、憶測ではなく事実を掲載した上でいい記事にすることをとても重視していますから。互いに立場を尊重し合えば問題ないと思います」
「つまり、新聞部との交渉を含めて白薔薇さまが責任を持って対処するということでいいのね?」
「……はい」
「そう、分かったわ。……では帰るわよ、志摩子」
「お姉さま!?」
「祥子、ちょっと待ってよ。もう少ししたら真美さんがリリアンかわら版の原稿を持って来るんでしょ? いくら何でも祐巳ちゃんに丸投げするってのはどうかと思うけど」
「あら? さっき祐巳ちゃんだって言っていたし、あなたもまとめていたじゃない。今回の体験及び記事の内容は祐巳ちゃん個人として、でしょう? ならば私たちがいる必要はないわ」
「いや、だからって……」
「何もここから出て行けって言っている訳じゃないのよ? 薔薇の館は山百合会、つまり全生徒のための場所だから。むしろ、好きに使ってもらっていいからどうぞご自由に。では、ごきげんよう」
 そう言って荷物を持ち部屋から出て行く祥子さまと、申し訳なさそうにしつつも追いかける志摩子さんの姿が見えなくなったとき、私は腰が砕けてふらふらっと椅子に座り込んでいた……私、いつの間にか立ち上がって話していたのか。それすら気づかなかった。
「祐巳さん、大丈夫? 姉妹体験が気にくわないからって、いくら何でも祥子さまの態度ひどすぎよ! 私、全力で祐巳さんの応援をしちゃうから!!」
「ははは、頭真っ白だったよ。ありがとう由乃さん」
「祐巳ちゃんはよく言えていたと思うよ、なかなか説得力があったし。はい、お茶とお菓子。こういうことの後は甘いものが欲しいでしょ?」
 そう言って令さま自ら入れ直してくれた紅茶と、ソーサーにはクッキーを置いてくれた。
「令さま、ありがとうございます」
 温かい紅茶とクッキーの甘さが疲れた体に染み渡って、思わずため息が出る。
 そんな私をにこにこと眺めた後、くるりと由乃さんの方へ振り返る。
「それと由乃。さっきもそうだったけど言い過ぎ」
「だって、令ちゃん!」
「場所と言葉はわきまえなさい。……まあ確かに、祥子の様子が妙だったのは間違いないけれど」
 そうよねと大きくうなずく由乃さんと、何か理由があるのかもとぼやく令さま。
「その件はまた確認しておくからとりあえずおいておくとして。祐巳ちゃん、どうする? 真美さんとの話し合いに同席してもいいけど」
「ありがとうございます。でも、祥子さまのおっしゃることももっともですし、私一人で応対した方がいい気がするんです。それに、真美さんと掲載に関する条件などの話し合いもだいたい済んでいますから、大丈夫です」
 にっこり笑って、令さまの入れてくださった紅茶のおかげで元気が出ました、と腕まくり。
「そっか。まあ相談にはいつでものるから、あまり抱え込まないようにね。……ほら、祐巳ちゃんもああ言っているんだから、帰るよ」
「むう。祐巳さん、本当に無理しちゃだめよ。」
「分かってるって、由乃さん」
 まだ不満そうにこちらをちらちら見ながら令さまになかば引っ張られていく形の由乃さんに手を振って見送る。でも、そんな風に気にかけてくれる友達がいるってのはやっぱりうれしいものだ。
 そんなことを考えつつ紅茶を飲み干していたら足音が聞こえてきた。
「ごきげんよう、新聞部です……って、祐巳さん一人?」
「真美さん、ごきげんよう。その事情も説明するから、まずは一杯いかが? 執筆してすぐこちらへ来たのだろうし、疲れたでしょう?」
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えようかしら」
 こうして二人だけのささやかなお茶会兼号外検討会議は始まった。
「それでは読ませてもらうね」
「どうぞどうぞ」
 真美さんにお茶を振る舞った後、早速見せてもらうことにする。
 まず目に飛び込んでくるのは、いかにも号外という大きな見出しと、蔦子さんが一押しと言って提供してくれた私と乃梨子ちゃんのお昼の風景を納めた写真である。
 そこに写っている乃梨子ちゃんは、誰がみてもかわいいと思えるほどいい笑顔だ。さすが蔦子さん、盗撮とはいえほれぼれするほどのできである。
「さすが蔦子さん、としか言いようがないねえ……」
「この子からこれだけの笑顔を引っ張り出した祐巳さんも十分すごいと思うけど。前話したうちの椿組にいる子も驚いていたわよ」
「いやいや。元々これだけ笑える子なんだって、乃梨子ちゃんは。ただ、ちょっとまだリリアンに慣れていないだけでさ。本当にかわいくて、いい子だよ。私なんかにはもったいないくらい」
「あら、まだ姉妹体験が始まったばかりだっていうのにもうのろけ? こりゃ、体験の二文字が取れる日もそう遠くないのかしら? ま、そうなったらそうなったで、記事のネタが増えてありがたいばかりだけど」
「あははははは……」
 まあ現実はかりそめもいいところだけど、もちろん黙っておく。
 さて、目をその下に移す。いよいよ真美さん力筆の本文である。
 まずは私と乃梨子ちゃんが知り合ったきっかけに始まる。そして、何度か話をするうちに気が合いそうだと分かる私。だけど姉妹制度どころかリリアン自体に慣れていない乃梨子ちゃんにいきなり姉妹の提案はどうだろう? 
「そう思った私は『ちょっと体験してみない?』と申し出て、乃梨子ちゃんも受け入れてくれた、と。うん、ばっちり」
 真美さんの記事は経緯と私の気持ち(ということになっている)を丁寧に虚構を交えずつづりつつ、それでいて読んでいる人間を引き込むすばらしいものだった。魅せる写真と読ませる記事、最強の組み合わせだと思う。
「それは良かった。じゃあ他にご要望とかはあるかしら?」
 ああ、なんというかゆいところに手が届くサービスなのだろう。私の中の真美さん株、ストップ高である。
「うん、そこなんだけど実は……」
 先ほど祥子さまにも説明した、お願いについて話すことにした。
「……うーん、なるほどねぇ。あくまで白薔薇さまでなく祐巳さんとして、か」
 真美さんはティーカップを机に置くと、腕組みをしながら天井を見上げた。
「うん。あと伝えることがあるとすれば、私やお姉さまがやったからまねするんじゃなくて、妹にしたい・なってもらいたいって思う子がいるけど、声をかける勇気もない……って時にそっと後ろから押してあげる程度のきっかけであって欲しい。白薔薇さまとしても、単なる福沢祐巳としても」
「よし、分かったわ。新聞部としても騒ぎをことさらに大きくするのは本意じゃないし。じゃ、インタビューの最後のここの部分を書き換えてこうして付け加えたらどうかしら?」
「さすが真美さん、いい感じ。あと……」
 それからさらに二十分ほど。
 追加してもらいたいところやちょっと表現を変えてもらいたいところの打ち合わせも無事終わり、私たちは一息ついていた。
「いやー、ありがとう、祐巳さん。いい記事になりそうだわ」
「こちらこそ、いろいろお願いも聞いてもらってありがとう。編集長が真美さんで本当に助かったよ」
 もし、三奈子さまが今回の号外で陣頭指揮に立っていたらどうなったことやら。噂の沈静化を図るどころか、ある意味もっとひどい事態を引き起こしていたかもしれない。
「あら。お姉さまだって悪気がある訳じゃ無いのよ? ただちょっと暴走するだけで」
「ちょっと!? ……そこは少し見解の相違があるみたいだけど」
 これが妹のひいき目という奴だろうか? まあ私も端から見たら似たようなものなのかもしれない。
「そう? まあ、今後ともよろしく。今回みたいなお付き合いがこれからも続くことを願ってるわ」
「こちらこそよろしくね」
 本当に真美さんの言ったとおりだ。これを機会に山百合会と新聞部がもっといい関係になれば、と心から思っている。もうそろそろ、私たちの間での悶着は無くすべきだ。
「では、今から発行するから失礼するわね」
「守衛さんに怒られない時間までには下校してよ」
「分かってますって。では、ごきげんよう」
 真美さんを見送ったあと、そのまま窓に歩み寄り、外を眺めながら大きく伸びをする。
 ……さすがに疲れた。
 リリアンかわら版に掲載されるってことは、建前がどうであれ公式発表みたいなものになってしまうから、気を遣わざるを得ない。しかも良いことではあるのだけど、真美さんが校正に参加させてくれるものだから、その分責任も重く感じてしまう。
「でも、もう去年みたいなのはこりごりだから仕方ないよね」
「何が仕方ないって」
「それは三奈子さまが作るような新聞……お姉さまっ!?」
「や、祐巳。遅くまでおつかれ。今日はもう店じまい?」
「いえいえ。お姉さまが来てくださったのなら、もう少し営業しますよ。何がいいですか?」
「ふふふ、嬉しいことを言ってくれるわね。じゃ、コーヒーをお願いしようかな」
「はい、少々おまちください」
 私が支度をしていると、お姉さまは机の上に置いてあった号外の原案に気づいたらしく、目を通している。
「この子が乃梨子ちゃん?」
「はい」
「ふむ、志摩子が西洋人形ならこの子は日本人形って感じで好対照かも。趣味も含めてさ」
「あ、言われてみれば……」
 そんな風に考えたこと無かったけれど、確かに志摩子さんの横に乃梨子ちゃんが立っているとそのギャップがかえって映えるかも。なんと言っても趣味……というと志摩子さんに失礼か、でもまあとにかくそういった方向性まで、ある意味対照的なのだから。
「とにかく、こうして無事原稿ができているってことはうまくいったんだね、おめでとう祐巳」
「ありがとうございます」
「でもどうだった? 祥子たちには報告したんでしょ? あの子のことだからヒステリー起こさなかった?」
「ははは……ある意味もっとすごかったような」
 声色のせいが大きかったとは思うのだけど、祥子さまに「白薔薇さま」と呼ばれるのがあんなに怖いものだとは。どのくらい怖いかと言えば、今後一年ずっと「祐巳ちゃん」で通してもらいたいと思ってしまったくらいに。
「へえ、あの祥子がねえ……桜のことといい、なかなか驚かせてくれる」
 口笛を吹いてそんなことを言うお姉さま。
 あれ?
 なんか私たちの「何が起きているのか分からない」的な驚き方と違って、お姉さまのは口笛といい「そう来たか」的な驚きと感心が混じっているような気がしたので聞いてみた。
「お姉さま、理由が分かるんですか?」
「うん? あー……ま、いっか。祥子はね、たぶん祐巳を試したんだな」
「試した?」
「そう、似たようなことを蓉子や江利子にやられてたしね」
 お姉さま曰く、私が薔薇の館に出入りすることになるより前のことである。
 祥子さまは蓉子さまや江利子さまにちょこっと意見を述べた際、徹底的に追求されたりしたことが何度かあったらしい。
「私は自分が薔薇さまとしてどうかって部分もあったしね。せいぜいはやし立てていただけだけど、蓉子や江利子は違ったね」
 そういえば、シンデレラの王子様役が柏木さんであると祥子さまに伝えられたとき、ずいぶんと難色を示されたにも関わらず、優しく説得どころか蓉子さまは江利子さまとそろって相当厳しい対応をとられたんだった。あのときは結局志摩子さんが立候補することで丸く?収まったけれど。
「なるほど。そういったことにならって、いかがなものかと思う報告をした私を鍛えよう、と?」
「私が勧めておいて言うのも何だけどさ、祐巳が姉妹体験をするっていうのはある意味ツッコミどころ満載な話でしょ? ただ、祥子は可愛い後輩って感じで祐巳に甘々だったから、ちょっと驚いたわけよ。ひょっとすると、何かきっかけがあったのかもしれない」
 確かにお姉さまの妹になってからというもの、祥子さまに厳しくされた覚えがまったくないどころか、むしろ幸せな思い出ばかりというか。チョコだって受け取ってもらえたし。
 自分で言うのも何だが、わりとぼけぼけな行動を取っていたことも多々あるにもかかわらず、祥子さまがヒステリーを起こされなかったことを考えると……すごく甘やかされていた?
「まあ祐巳が気にする必要は無いよ。祥子が好きでやっていることだし。それよりも……」
 こほんと一つ咳払いをして、私の顔をじっと見つめたかと思うと、頬を緩めて優しく微笑んだ。
「祐巳、よく頑張ったね」
「あっ……」
 これは、まずい。ものすごくまずい。
 昨晩、もう涙が一滴も出ないと思えるほど泣きはらしたはずだったのに、お姉さまのそのたった一言を聞いただけで、鼻の奥がつんとするわ、目は潤み始めるわ、いつ涙がこぼれても不思議はない状態になってしまったのだ。
 なんだかここ最近の方が昔よりよっぽど泣きやすくなってないか、私!? と自分にツッコミを入れてみたり、お姉さまはなんでこのタイミングでこんなことを言ってくれるかなとため息をつく姿を想像してみたり等々……とにかく気を散らそうとするのだけど、もうどうにもならない。
 薔薇さまとしてのプライドなんか窓から放り投げて、お姉さまにしがみついてわんわん泣くのだ……
「お姉さ……」
「祐巳さーん、まだいるの? もう、ほどほどにして帰れって言ったのはどちらさま!?」
 そんな声とともにばたばたと足音が聞こえてくる。
 ……プライド、カムバック!!
 無事拾い上げることができたのか、はたまた感傷が吹き飛んだだけか、あれほど号泣直前だと思えていたのに、ハンカチでそっとぬぐえば、ぱっと見問題ないレベルに戻れた。人間、案外器用なものだ。
 ……お姉さま。その苦笑いもそろそろ心の中にしまっておいてくださいってば。
 そんなことを考えている間には扉が開けられていた。
「ご、ごきげんよう、真美さん」
「はい、ごきげんよう……って祐巳さん、あんなこと言っておきながら……聖さま!?」
 腰に手を当て、若干冷ややかな視線で私に文句を言おうとしたところで、お姉さまがいることに気づいたようである。
「ごきげんよう。号外、早速見せてもらったよ。よく書けているわね」
「あ、ありがとうございます!」
「祐巳のお願いも聞いてくれたんだって? 姉としてお礼をいわせてもらうわ。ありがとう」
「と、とんでもありません。こちらこそ祐巳さんにはいろいろとお世話になりまして……」
 そう言いながら、頬を紅潮させて頭を下げた。先代薔薇さまの威光はさすがの真美さんにも十分有効みたい。
「そう? まあこれからもよろしくね。あなただけが頼りなんだから」
 そう言ってさらに真美さんをよいしょするお姉さま。
 ……リップサービスの大盤振る舞いだなあ。でもまあ三奈子さまの暴走を止める最後の防波堤という意味では確かに間違いではない。
 ちょっとだけおもしろくないけれど、私のためを思ってやってくれているんだろうし、以前みたいに目の前で色仕掛け?をされるよりましだと割り切って後片付けを進めることにした。

 しかし、今日は本当にいろいろあった一日だったな。
 明日からは乃梨子ちゃんのことも含めて、もう少し心穏やかに過ごせると良いのだけど……


〜2〜
「ごきげんよう、白薔薇さま。どうぞ、号外です」
「ごきげんよう、ありがとう」
 校門をくぐってどれほどもないところで、新聞部の一年生と思われる子に渡された。まあ確かに号外といえばこうやって配布されているイメージがあるけど。
「真美さん、張り切っているなぁ」
 どれどれ。昨日さんざん見たとはいえ、決定稿までは目を通していないわけで読ませてもらうことにする。
 うん、昨日頼んだところもしっかり反映されていた。ちょっとは効き目があるといいのだけど……
「祐巳さん、ごきげんよう」
「あ、ごきげんよう、志摩子さん」
 志摩子さんの声に目を上げると、マリア像の前まで来ていた。
 ……危ない危ない。お祈りせずに素通りするところだった。
「志摩子さん、ありがとう。マリア様を無視しちゃうところだったよ」
「ふふ、祐巳さんがお祈りを終えてから声をかけようと思ったのだけど、そのまま進んで行っちゃいそうだったから」
「え? ひょっとして私を待っててくれたの?」
「ええ。でも、まずは……」
 そう言って私の後ろ側に視線をやる志摩子さん。それにつられて後ろを振り返ると……
「うわっ。志摩子さん、もうちょっと待っててね」
 私たちに遠慮して後ろで待っている人たちの列ができかけていた。
 マリア様、相も変わらずぼけぼけで申し訳ありません。そんな私ですが、今日も一日よろしくお願いします。
「よし。みなさま、ごきげんよう。お待たせして申し訳ありませんでした」
「ごきげんよう、白薔薇さま!」
 お仕事頑張ってくださいとか、おめでとうございますといった声にありがとうとお礼を言いつつ、少し離れたところで待っていてくれた志摩子さんに歩み寄る。
「お待たせ、志摩子さん」
「ううん、私が勝手に待っていただけだから」
「いやいや、それでもだよ。おまけにドジするところを助けてもらったし。で、どうする? 薔薇の館に行く?」
 ちょっと首をかしげたあとに、そこまでかかる話じゃ無いからと、志摩子さんは首を振った。
「昨日のことなのだけど、どうしても祐巳さんに伝えたいことがあって」
「ひょっとして祥子さまのこと?」
「ええ、お姉さまはその必要は無いと……でも話してはいけないとはおっしゃらなかったから」
 祥子さまが話さなくてもいいと言ったことをそれでも、なんて……そんな志摩子さんを久しぶりに見た気がする。
 でも本当にいいのかな?
「聞いていいの?」
「もちろん。むしろ私が聞いて欲しいの」
 志摩子さんにそこまで言われたら……これは心して聞かないと。
 私が頷いたのを見て、志摩子さんは話し始めた。
「……そんなことがあったんだ」
 私が乃梨子ちゃんに姉妹体験を申し込んだまさに同時刻、祥子さまは生活指導室にいた。もちろん放送なんかで呼び出されたわけではない。そんなことがあったなら以前と同じく大騒ぎになっている。
 ではどうしてかというと山村先生に連れ込まれた。「どういう事態になっているのか?」と。もちろん姉妹体験のことだ。
 あれだけのブーム、さすがに先生方の耳にまったく入らないなんてことはなく(リリアンかわら版は先生方にも回っているし)、職員会議中の話題になってしまったらしい。さすがにメインの議題というわけではなく、あくまでちょっとした余談から飛び火したようなのだが。
「ええ。でも余談のはずがかなり大きな話になったらしいの……」
 すぐ呼び出して指導をなんて言い出す先生もいたのを山村先生や鹿取先生をはじめとするリリアンOG、なんと最後は学園長までが話を収める方向に動いてくれたらしい。
「あの場ではフォローしてくれたものの、ちょっと気になった山村先生が祥子さまにこっそり聞いてきたって事かな?」
「そうなの。そして、その……」
「その放課後に私が乃梨子ちゃんとの姉妹体験を報告した、と」
 言葉を継いで話した私に志摩子さんは頷いた。
 なるほど。
 これはお姉さまも言っていた「きっかけ」になるに値する出来事だ。状況によっては私自身が生活指導室に呼び出される可能性が十分あるわけで、その時に相応の回答ができなかったら大変なことになるだろう。
 それが分かったからこそ、祥子さまは私を試したのだ。
「……お姉さまのこと、嫌いになった?」
「まさか。むしろ惚れ直しちゃったくらい」
「ふふふ、祐巳さんならそう言ってくれると思ったわ。でもお姉さまを取っちゃだめよ?」
「そんな。志摩子さんこそ、やっぱりあきらめられないって言ってお姉さまを取ったらだめなんだからね?」
「……ふ」
 一瞬の沈黙のあと、どちらが先か分からないほど同じタイミングで腹を抱えて笑い合った。こんな場所で二人して笑っていたら変に思われるよなあと思いつつも止まらないものは止まらないのだからしょうがない。
「ふふふ、でも、教えてくれてありがとう志摩子さん。ほっとした、あはは」
「ははは、どういたしまして。ふふふふふ」
 温室の中で二度目の約束をしてからというもの、私たちの関係はよりやわらかとか優しくとか、そんな感じの関係になった気がする。
 もちろんそれまでも弱かったとは思わないけれど、なんというかピンと張り詰めた強さがなくなったような。それこそ、こうして軽口を言い合えるくらいに。そしてそのことがうれしくてうれしくて仕方がなかったりする。
 うん。私たち、あの約束を守れているよね、志摩子さん。
「……何やってんの?」
「あ、よ、由乃さん」
 笑いすぎて苦しくなった呼吸を何とか整えながら返事をする。
 私だけならともかく(残念ながら)、志摩子さんまでそんな調子だから、由乃さんは目を丸くしていた。あまりにも驚きすぎたのか、理由を聞かれることもなかったくらいだ。まあ聞かれたら聞かれたで何と答えていいのやらと考えてしまうので、ある意味救われたのかもしれない。
 そんなわけで、ちょっと妙な雰囲気のまま下駄箱に到着した。あ、そうだった。
「ねえ志摩子さん、桂さんに後ほどか、ひょっとすると今度になるかもしれないけれど、あいさつに行くからって伝えてもらえる?」
「それは構わないけれど?」
「先日、相談に乗ってもらったからお礼と事情をちょいと説明したいなって思ってさ」
「そういうことね。確かに伝えておくから」
「じゃ、また薔薇の館で……お待たせ、由乃さん」
「いやいや。ところで、桂さんにも相談に乗ってもらったんだ?」
「うん。放課後に会った時にね。私が普段一年生の子からどう見られているのかとかいろいろ教えてもらってさ」
「ふーん、確かにその辺り、桂さんの方がよく分かるかも知れないわね。私たちが近くにいるだけで構えちゃう部分があるだろうし……あのくるくる縦ロールみたいのを除けば」
「ははは……」
 由乃さんの中で瞳子ちゃんは相当の印象になっているようだ。まあ端から見ていても相性が良くないような気がしないでもない。ひとのことを言えるのかと問われれば大変微妙な立場だが。
 とにかく、そんな話をしている間に教室に着いたわけだけど、案の定姉妹体験(主に私)の話で一杯だった。
「ごきげんよう白薔薇さま」
「ごきげんよう祐巳さん」
 早速何人かが私の元にやってきた。
「ごきげんよう」
「白薔薇さまは姉妹体験を始められたのですね」
「うん、そうさせてもらったの。詳しいことはかわら版に書いてもらったけれど、他にも質問があるようなら答えるよ。何かある?」
 そうして質問に答えながら、乃梨子ちゃんのことを思う……乃梨子ちゃんならうまく対応できていると思うが多少心配でもある。いくら何でも過去の私と同じことにはなっていないだろうが、それでも……何かもう一押しできればなぁ。
 あ。
 ふと、白薔薇のつぼみになったとき、紅薔薇さまがわざわざ教室まで足を運んでくれ、みんなの前で私のことを認めているっていうパフォーマンスをしてくれたことを思い出した。
 状況は違うわけだが、ああいうことができればもう一押しになるかもしれない。
 だけど、祥子さまには昨日の経緯を踏まえればとても頼めそうにない。令さまにしたって祥子さまほどでないにしろ、少なくとも今の事態を好意的に考えているわけではない。それなのにお願いするのは……
「おおっ」
「祐巳さん、どうなさったの?」
「すみません、由乃さんに用がありますので失礼します」
 話というか質問の受け答えをしていた人たちに一つ謝って、荷物も整理し終わってくつろでいる由乃さんのところに行く。
「由乃さん、お願いがあるんだけれどいい?」
「いいわよ」
 さすが由乃さん。お願いの内容も聞かずにいきなりうんと言ってくれる。
「ありがとう。じゃ、こっち来てもらえる?」
 由乃さんといっしょに教室を出て廊下を歩きながら、お願いの中身を話した。
「ふーむ、乃梨子さんを認めているってパフォーマンスか」
「私の時と違って白薔薇のつぼみってわけじゃないから、単によろしくね程度でいいんだけど」
「……いいわよ。祐巳さんのお願い、叶えてあげようじゃありませんか」
 そうして一年椿組の前までやってくると、ちょうど瞳子ちゃんが教室から出てきたところだった。
「あ……祐巳さま、由乃さま、ごきげんよう」
「ごきげんよう、瞳子ちゃん」
「乃梨子さんにご用ですか?」
「うん、大したことじゃないんだけど、お願い」
「わかりましたわ」
 瞳子ちゃんが教室の中に戻り、乃梨子ちゃんの方に行く。
 ドア越し見えた乃梨子ちゃんの様子はみんなに囲まれているが……その間から見えた乃梨子ちゃんの表情は作り笑顔。少なくともぐったりとかそんな感じになっていないからそれなりにうまくいったってことなのだろう。
 乃梨子ちゃんが教室から出てくる。もちろんみんなの注目がばっちり集まってくる。
「ごきげんよう、乃梨子ちゃん」
「ごきげんよう……」
 こちらはどなた? と目で聞いてくる。
「私は島津由乃。祐巳さんの親友の一人で、黄薔薇のつぼみ。これから乃梨子さんは祐巳さんの妹を体験するって聞いたわ。そうなると、私とも会ったりすることもあるだろうからちょっとあいさつまでにね。よろしくね」
「あ、はい、わざわざありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします」
 そう言って深々と頭を下げる乃梨子ちゃん。後ろからはさすがに大声は出さないものの歓声が聞こえてくる。
「そうそう、肝心の用件を忘れていたわ。乃梨子ちゃん、お昼空いてる? 良かったら一緒に食べようと思ってさ」
「あ、はい。もちろん大丈夫です」
「良かった、じゃあまたお昼に」
 そういって別れる際「ありがとうございます」と小声で言ってくれた。みんなの見ている前でわざわざこんなことをした意味がわかったのだろう。おおむねうまくいったかな?
 そんなことを考えながら、私たちの教室に戻る途中の階段のところで、由乃さんが「で、本当のところは、乃梨子ちゃんとはどんな感じなの?」と聞いてきた。
「え、何が?」
「いやまあ昨日も思ったんだけどさ。令ちゃんや祥子さま、私たちに説明したことがすべて、という訳じゃないでしょう?」
「……やっぱり分かっちゃう?」
「まあねえ。祐巳さん、心情的には令ちゃんに近いと思ってたし。乃梨子ちゃんを助けたいという気持ちを酌んでも、相性があうかもしれないってだけで、姉妹体験を持ち出すとはちょっとね。姉妹体験のこと、かなり特別なものとして考えているのは間違いないでしょ?」
「ご名答」
 さすが親友。しっかりばれているようだ。しかし、その上で昨日は何も言わずに支援してくれたってのがすごくうれしい。
 ここは私も正直に話さないと。
 さすがに誰にでも聞かせられる話ではないので、周囲に気を配りつつ口を開いた。
「実は……」
「なるほど、それなら納得いくわ。ついでに祐巳さんが言いたがらなかったのも分かる。聖さまの名前を出されちゃ、錦の御旗みたいなものだもんね。私が祐巳さんの立場でも同じように説明したと思うわ」
「そう言ってもらえると助かるよ」
「でも、姉妹関係を見つめ直すためか。ま、黄薔薇革命起こした私にはそれに関して何も言えないわ……でもさ。先のこと、たとえば具体的に乃梨子さんとどういう関係になりたいかとかは考えてる?」
「う、うーん……あんまり先のことはまだ考えてない」
「そうなの……ある程度承知の上の乃梨子ちゃんや祐巳さん自身はよくても周りがほおっておけないってこともあるかもしれないわよ?」
 私たちの姉妹体験時、さらには姉妹にはなったがほんとうの意味で心を通わせることができるような姉妹になる前、ずっとそばから見ていた由乃さんの言葉は考えさせられるものがあった。
 今回はあえて利用したわけだが、確かにこのままの関係が半年も一年も続くと言うこともないだろう……乃梨子ちゃんがもっと気楽に過ごせるようになったときにはどういう関係になっているのだろうか? 私はどういう関係にしたいのだろうか? その答えを要求されるときはいつか必ず来るだろう。
「期限付き、か」
「うん?」
「いや、お姉さまも私と姉妹体験をって言いだした時、同じ感じだったのかなーって」
「……ああ、そうかもしれないわね。でも祐巳さん、騒動まではまねしてくれなくていいから。あの時は端から見てて結構冷や冷やしたんだから」
「ほんとあの時はご迷惑を。でもやめてよ由乃さん、そんな縁起でもないことを。私だって騒動は好きじゃないんだから」
「そりゃそうよね……って祐巳さん、時間やばいかも」
「あ、本当だ。ごめんね、ぎりぎりまで付き合わせちゃって」
「気にしない、気にしない」
 そんなわけで姉妹体験を迎えて初めての朝は過ぎていくのであった。


 お昼休み、さっき約束した通りに、お弁当を持って乃梨子ちゃんのクラス……一年椿組を訪れた。
 ちょうどでてきた子に乃梨子ちゃんをお願いと頼む。今回はもう人目を気にする必要は無いので気楽なものだ。ややあって乃梨子ちゃんがお弁当の包みを片手に出てきた。
「おまたせしました」
「ううん、行こうか」
「はい」
 そして、乃梨子ちゃんと二人でそろって教室の前を離れたとたん教室の方からいろんな話し声が聞こえてきた。やれやれ。
 まあそういったことは横に置いておくとして、歩きがてら乃梨子ちゃんに実際の様子を聞いてみることにした。
「どうだった? みんなから質問攻めにあっていたみたいだったけれど」
「あいました。でも、祐巳さんのアドバイスどおりにしたら簡単に流すことができました。祐巳さんが島津由乃さん……黄薔薇のつぼみでしたっけ? を連れてきてくれた後は、さらにみんなが私を見る目がわかったみたいでしたし。さすがみんなのことわかってますね」
 元々は私がお姉さまに教えられたアドバイスや紅薔薇さまが行ったパフォーマンスだったわけだが、うまくいってよかった。
「まあ、私も半年前はアドバイスされた人間だったしね」
「そうだったんですか」
 そんな話をしながら階段を上ろうとすると、乃梨子ちゃんがどこへ行くんですかって聞いてきた。
 そうだった。自分の中では決めたが、乃梨子ちゃんには何も話していなかった。
「うん。体験とはいえ姉妹になったんだし、堂々とみんなの前でも食べられるじゃない。それだったら、去年の秋ごろ、私が妹体験をしていたとき、よくお姉さまや友達といっしょにお弁当を食べていた屋上に行くのもいいかなって」
「屋上、出られるんですか?」
「うん、今日はお天気もいいし、気持ちいいと思うよ」
「いいですね」
 校舎裏の目立たない人気がないところでってのよりもずっといい。それを快く受け入れられるだけの変化が乃梨子ちゃんにもあったのだろう。
 私たち二人がそろって屋上に出てくるとやっぱり視線が集まってきた。まあこれだけいい日和なのだからもとからたくさん人がいるわけで、当たり前と言えば当たり前なのだけど。
「注目度が高いですね」
「まあね、すいているあの辺にしようか」
 他の人たちと少し離れた場所に一枚シートを敷いてその上に腰を下ろす。
「で、乃梨子ちゃんとしてはどう?」
 お弁当をのおかずをつつきながら周りには聞こえないように少し小声で乃梨子ちゃんの感想を聞く。
「……そうですね。徹底的にやってしまうのも、少し楽しいものですね」
「そっか。それなりに楽しんでもらえるようで本当に良かったよ。もうしばらくはこんな感じが続くと思うけど、それさえ過ぎてしまえば落ち着くはずだからあとちょっと辛抱してね」
「そんな辛抱だなんて。先日までと比べたら天国みたいなものですし。本当にありがとうございます」
「いやいや、少しは役に立てたみたいでうれしいよ。あ、全然話が変わっちゃうけど、そういえば先日ね……」
「え、そうなんですか?」
 こうしてちょっとした世間話などをしながら昼休みを過ごした。
 どうやら狙い通り乃梨子ちゃんもうまくいっているようだ。
 朝由乃さんと話していたみたいに、いつの日かこの後のことを考えなければいけない。が、今しばらくはこの穏やかなひとときを楽しみたいものだ。


「ごきげんよう、白薔薇さま。志摩子さんにご用事かしら?」
「ごきげんよう。ええ、志摩子さんと桂さんにちょっと」
 う。ここでもか。もちろんこの方も去年クラスメイトだったのだけど、二年になって他のクラスになった人たちにも「白薔薇さま」の呼称が浸透しつつあるような……
「祐巳さん、お待たせ」
 そんなことを考えている間に二人とも来てくれていた。
「ううん。ちょっと二人に聞いてもらいたい話があってさ。今付き合ってもらってもいい?」
「もちろん。志摩子さんも大丈夫よね?」
「ええ」
「それは良かった。じゃあこっちへ……」
 この四月に入ってから既に何度になるのか分からないくらい利用させてもらっている内緒話といったらここでしょう! な踊り場へと移った。
「で、聞いてもらいたいのはたぶんご想像のとおり姉妹体験の話。志摩子さんには薔薇の館で報告しているけれど、あそこでは話せなかった部分があるから……」
「え、じゃあ紅薔薇さまや黄薔薇さまもご存じない話だったりする?」
「うん」
「それはちょっと光栄かも。……ま、それを置いておいてもびっくりしたのよ。確かに手段として姉妹体験はありだと思ったけれど、祐巳さんは絶対選べないと思ったから」
 それだから選択肢として挙げることすらしなかったと桂さん。
「うん。私自身もあり得ないと思ってた」
「え? それって……」
「……勧めてくださった方がいる、ということかしら?」
 桂さんの言葉を引き継ぐように志摩子さんは聞いてきた。
「うん、実はお姉さまが……」
 ここからは由乃さんに話したように、最初信じられなかったこととか、よくよく考え直してみたら私のことを考えてあえてそう言ってくれたことと分かったこと。そしてそれは間違いじゃなかったことなどを説明した。
「……やっぱり聖さまはすごいわね。そこまで考えてくださるなんて、ねえ志摩子さん?」
「ええ、本当に。祐巳さんは幸せ者ね」
「うん、私もそう思う」
「まあ、のろけてくれちゃって。妬いてしまいそう」
「ふふふ。……でも、祐巳さん、この後はどうするの?」
 志摩子さんは微笑んだ後に由乃さんと同じようなことを尋ねてくる。
「うん。由乃さんにも聞かれたんだけど、正直まだアイディア無し。乃梨子ちゃんと気は合うと思っているけど、それが即本当の姉妹へなのかと言われると自信が無いし。姉妹って何なんだろうっていうか……」
「そう……何となく分かるわ」
「その辺はやはり山百合会幹部と一般生徒の違いかしら? 私は気が合うならそれでいいと思うのだけど。でも、確かに祐巳さんの妹イコール白薔薇のつぼみだものねえ。感情的な部分を除いてもいろいろと難しいか」
「まあ、ちょっとね……」
 私が白薔薇さまってのもまったく関係していないとは思わないけれど、それより志摩子さんや私自身が姉妹になるまでの道筋が大きい気もする。そんなに姉妹ってのは重いものじゃないという考えは分かるのだけど、それでもというか……
「なんにせよ、志摩子さんだけでなく私にまで教えてくれてありがとう、祐巳さん」
「ううん、こちらこそ相談に乗ってもらって助かったよ。じゃあ、またね。志摩子さんもまた後ほど」
 改めてお礼を言って二人と別れる。
 あんまり漏らして褒められるような本心ではないことは重々承知しているけれど、それでも分かっていて欲しい人たちに伝えられて少し気が楽になった気がした。


〜3〜
 さて、乃梨子ちゃんのお姉さま体験をはじめて今日で三日目になったわけだが、今までのところ場違いなところに進学してしまって気まずい思いをしている新入生に、ちょっと優しく接する先輩程度の役割しかしていないよなと思い、少しはお姉さまらしいことも……と図書室にやってきた。
 乃梨子ちゃんがこのリリアンに通うことになった原因でもあり、来て悩むことになった原因でもある乃梨子ちゃんの趣味、仏像について少しでも知ってみようと思ったのだ。
 実際お姉さまになった人たちなら皆妹にしたい・なって欲しいと思ったきっかけ以上にもっと知ろう……いや知りたいと思うだろうし。ともかく思い立ったが吉日と朝早くに登校してここを訪れたわけである。
 朝早い図書室に人気は少なく検索用のコンピューターも三台ともに空いていた。
 以前にこの検索用のコンピューターに『バラ』と入力してしまいすごいことになってしまったっけ。こういう検索は考えてしないといけないわけだが、さて『仏像』か……『バラ』と違ってバラバラ殺人とかそんなのが引っかかることもないだろうし、そのまま入力すればいいかな?
「祐巳さん、何か調べ物?」
 キーボードをたたこうとしたところで声をかけられて、そちらを向くと静さまがいた。
「静さま、ごきげんよう」
「ええ、ごきげんよう」
 以前もロサ・カニーナのことを調べようとしていたときに静さまに声をかけられたっけ。あの時朝拝の時間を知らせてくれたわけだが、その後に静さまがロサ・カニーナだとはまるで気づかずに、ロサ・カニーナのことを聞くなんてことをしてしまったっけ。
「私でよかったらお手伝いするわよ」
 静さまは私のために(親切心といたずら心から)図鑑を用意してくれていたりとかしたんだった。
 確かに図書部員の静さまに協力してもらえれば、私一人で探すよりもずっと早くふさわしい本にたどり着けるだろうが……乃梨子ちゃんの秘密のことでもあるからどうしたものか……静さまも江利子さまみたいな部分があるからここで頑なに遠慮すればますます興味を引きそうな気がする。で、その気になれば私が何を借りたということも知ることができる立場ときた。
 よし、ここは好意をそのまま受けてしまおう。どのみちばれてしまうなら協力してもらった方がお得というものだ。
「仏教美術を扱っている本とか、仏像のきれいな写真が載っている本とかありますか?」
「仏教美術に仏像?」
 まさか私の口からそんな言葉が出るとは思っていなかったのだろう、少し驚いたあと、すっと目を細めて何か楽しそうな顔に変わった。
 ……やっぱりまずかったかな。
 静さまにお会いした時点でどう転んでもみたいな部分は覚悟していたが、しっかり心の琴線にふれてしまったらしい。はあ。
 まあこれ以上墓穴を掘る訳にもいかないので、取りあえず何も聞かないでおく。
「そうね……たぶんこっちにあるわ」
 静さまもそれ以上はなにも聞こうとせず、本棚の林の中に入っていく。
 そして本棚から一冊の分厚い本を取り出してぱらぱらとめくった。
「このあたりなんかどうかしら?」
 そういって見せてくれたページには『東大寺金剛力士像』と教科書で見たような気もする像の写真と解説らしき文章が並んでいた。
「ありがとうございます」
「祐巳さんは閲覧していていいわよ、私はもう少し見繕ってみるから」
 重ねてお礼を言う。
「そうね、祐巳さんが今度来てくれたときのために書庫の方も少し探しておくわね」
「そんな、そこまでしてもらわなくても」
「いいのよ。好きでやっていることなんだし、気にしないで」
 申し訳ないことは申し訳ないのだが、さっきからの静さまの楽しそうな顔が気がかり……いったい何を考えているのだろうか?


 そんな不安を小さくするどころか大きくする出来事が週明けの月曜日にやってきた。
 先週と同じように乃梨子ちゃんと二人でお弁当を食べていると、静さまがやってきたのである。
「静さま、どうかしました?」
「大したことではないのだけれど、二人が仲よく屋上でお弁当を食べているって聞いてね。祐巳さんの妹体験中という乃梨子さんの顔を見に来たのよ」
「……二条乃梨子です」
 ぺこりと頭を下げる乃梨子ちゃん。
「蟹名静よ。よろしく」
「静さまは図書部と合唱部を兼部しててね、合唱部の歌姫とも呼ばれているの」
「そうなんですか」
「小恥ずかしい話ね。まあ、合唱部員では特に乃梨子さんの役には立たないでしょうけれど、図書部員としては図書室で何か捜し物があったら声をかけてもらえれば協力するから」
「ありがとうございます」
「それで、私もご一緒してもいいかしら?」
 そういってお弁当箱を見せてくる静さま。
「ええ、どうぞ」
 シートに座る位置を移動して静さまのスペースを空ける。
「ありがとう、では失礼して」
 その日のお弁当は三人で話をしながらとなったわけで、それなりに楽しかったわけだが、私としては静さまのことが気になりっぱなしだった。
 端から見て姉妹水入らずのところに入り込んでくる大胆さってのはもう驚くべきところではない。とはいえ、そもそもどうして静さまはやってきたのだろうか? 土曜日に図書室に調べ物にいったとき様子も考えると、とても気になる。
「じゃあ私はこれで。ごめんなさいね、水入らずのところをずかずか押しかけちゃって」
「そんな。楽しいお話ができるならいつでも歓迎しますよ」
「ふふ、ではまた顔を出させてもらうかもしれないけれど、その時はよろしくね」
 そう言って笑みを浮かべて去っていく静さまを見送った後にため息一つ。
「あのー……」
「何かな、乃梨子ちゃん?」
「ちょっとぶしつけな質問かも知れないんですけど、静さまのこと苦手だったりします? あ、苦手っていうのも違うか。うーん、たとえるなら彼氏……例えるにしても照れますね。まあともかく彼氏を両親に紹介しようとする彼女だけど、彼氏が親に何を言うか冷や冷やしているっていうか。とにかくうまいこと切り抜けたいって感じで」
 どうやら乃梨子ちゃんは勉強だけでなく観察力も抜群らしい。
「……とりあえず、いつか知ることだろうから先に教えておくと、あの方は生徒会長選挙の際の候補者の一人にして、実質的に最後の椅子を私と争った人なんだ。残りのお二人はまあ誰からみてもなってしかるべき方々だったしね」
「つぼみがそのまま薔薇さまになってしまうのが基本でしたよね? その中で選挙に打って出る、しかも祐巳さんの口ぶりだとわりと善戦したって事ですか?」
「うん、これもまた分かることだろうし言ってしまうと一票差」
「……なかなかにすごい御仁ですね」
 さすがに乃梨子ちゃんも驚いているようである。
「そう、でも苦手ってわけでもないんだ。好きか嫌いかと問われても、もちろん好きになるし。とはいえ、お姉さまといわずしも単なる仲のいい先輩と言い切るのもまた微妙という。だから冷や冷やしながらうまいこと切り抜けたいっていう乃梨子ちゃんの想像は大正解」
「何というか……お疲れさまです」
「たはは……ありがとう」
 乃梨子ちゃんに労われてしまったところで今日のランチはお開きとなった。
 静さまが来られるとやっぱり調子が狂う……そう思いつつも本気で嫌がっていない自分も自分だと考えながら階段を下りていたところに紙を丸めて作られた筒がにゅっと。そしてたかれるフラッシュ。
「うわっ……」
「新聞部です! 蟹名静さまを交えた昼食の感想を一言!」
「白薔薇さま! 一枚、一枚お願いします!!」
「……相変わらず絶好調だね、お二方」
 こんな事をするのはもちろん真美さんと蔦子さんに他ならない。
「そりゃもう祐巳さんのおかげです。でも本当に静さまとの昼食ってのも普段ならネタになるわよ。今はもっと大きなネタがあるってだけで」
 そう言うと筒にしていた紙を綺麗に折りたたみポケットに入れ、今度はメモ帳を取り出した。
「まあそんな祐巳さんに私たちからサービスってことで、最新情報をお届けに」
「さいですか」
 いろいろと思うところもないではないが、新聞部とうまくいっている証であると自分を納得させてありがたく耳を傾けることにした。
「えっと、まずはリリアンかわら版頒布後の姉妹体験をしているペアの数だけど、そこまで急激に増えてはいないわ。もちろんそれなりにはいるけど」
「うん。私の実感からしてもそう思う。単なる姉妹体験が急上昇っていうより、前も話したけど三年生が二年生に申し込むとか、ちょっとイレギュラーなパターンが多い感じ」
「確かに。新聞部で把握している情報とも一致するわね」
「祐巳さんの『お願い』はそれなりに効を奏したわけだ。良かったじゃない、ささっ、記念に一枚」
 そういってまたパシャリ。
「でもさすが白薔薇さまというべきかしら。今まで思い切れなかった人たちに勇気を与えつつ、単なるまねっこを多少なりとも抑えるなんて。ご感想は?」
「うん、素直に嬉しい。私のお願いを酌んでくれた皆さんに感謝したいのと、あとは今姉妹体験をされている人たちには、たとえどう転んだとしてもやって良かったと思えるような関係になってほしいってところかな」
「ふむふむ、それは祐巳さんと乃梨子さんにも当てはまるってことでいいのかしら?」
「ええ。もちろんこのままいい姉妹関係を築いていける仲になれればいいなって思ってるけど。ただ、まだどこかに遊びに行ったりとかそこまではしていないから、しばらくはそうやってお互いを知っていければと思ってる」
「そしてゆくゆくは祐巳さんと聖さまのように?」
「うん……そうなれたら理想かな」
「そう。あ、ちなみにこれは掲載していい情報よね? ありがとう、次号に掲載させてもらうわ。もう明後日だし」
「水曜発行に戻すんだ?」
「まあここ二回が例外だったし。連休前までにペースを戻さないと。お姉さまもぐちぐち言うのよ、顧問になってかえって……」
 そんな真美さんと蔦子さんの会話を聞きながら、心を落ち着かせる。
 さっき、お姉さまと私のような関係にと聞かれた時、ちょっとどきっとした。よく顔に出さなかったものだと自分を褒めてやりたいくらいだ。
 やはりお姉さまのことを出されるとほんとうにそんなことができるのか、そもそもお姉さまとのような関係を他の誰か……この場合は乃梨子ちゃんと持ちたいかといわれたら返答に困ってしまう。
 期限付き。
 どんなに私が望まなくても、否応なくその言葉がやってくるのを改めて実感したのだった。


 放課後、薔薇の館に向かっている途中で瞳子ちゃんと出くわした。……途中といっても、もう薔薇の館はすぐそこで、薔薇の館の前で会ったとほとんど同義である。
「ごきげんよう、祐巳さま」
「ごきげんよう、瞳子ちゃん」
「瞳子、また薔薇の館に遊びに行かせてもらおうとしていたところだったんです」
「そうだったんだ」
 他に理由も思い浮かばなかったが、やはりそうだった。そうとわかった以上は、薔薇の館の住人として、白薔薇さまとして瞳子ちゃんをお客様として招待するべきであろう。
「はい、どうぞ」
 ドアを開けて瞳子ちゃんを薔薇の館に招き入れる。
「おじゃましますー」
 この前『それにしてもこの館居心地いいですねー。瞳子気に入っちゃった。祥子さま、また遊びに来てもいいですか?』なんて言っていたし、そんなものだろうとは思うが……ほやほやの新入生が薔薇の館に入るというのにまるで緊張している様子がない。私なんかがちがちに緊張していたっていうのになぁ……
 二階には誰もおらず、今日は私たちが一番乗りだったようだ。
「何か飲み物を用意するね、瞳子ちゃんは座って待ってて」
「はーい。ありがとうございます」
 瞳子ちゃんを座らせて、飲み物の用意をする。ああ、リクエストを聞いておこうか。
「瞳子ちゃんは何か飲みたいものある?」
「それでしたら紅茶を」
「紅茶ね」
 戸棚からティーバッグを取り出して、紅茶を入れる用意をしていると、祥子さまがやってきた。
「ごきげんよう。瞳子ちゃん、遊びに来てくれたのね」
「はい、祥子お姉さま……祥子さま。ごきげんよう」
「祥子さまも紅茶でよろしいですか?」
「ええ、ありがとう」
 一つカップを増やして三人分の紅茶を運び、私も席に着いたところで、新たな……訪問者がやってきた。
「ごきげんよう、皆の衆」
「お姉さま! ごきげんよう」
「うんうん、元気そうで何より……あれ?」
 お姉さまは瞳子ちゃんの顔を見つけてしばらくじーっと見た後。
「クリスマス以来だね」
「覚えていてくださってありがとうございます。あの時は失礼をいたしました」
「いや、ぜんぜんいいよ」
 それより、『君』は誰かの妹にでもなったの? なんて聞いているし、十中八九名前の記憶はどこかかなたへと消え去っているだろうが、あの特徴的なくるくる縦ロールはお姉さまの記憶にもしっかりと残っていたようだ。
「そういうわけではなく、瞳子は祥子お姉さまと親戚なんです」
 そう答えた瞬間お姉さまの表情に思いっきり影がさした。ああ、あれは同じ祥子さまの親戚である柏木さんのことを連想したのだろう。
「白薔……聖さま、どうかなさいました?」
「あ、いや、ごめん……瞳子ちゃんがどうかしたとかそういう訳じゃないから気にしないで」
 二人とも祥子さまの親戚である以上二人もお互いに親戚なのだ。いやな奴のこと思い出しただけだからとかそんなことは口にしなかった。
「さて、話を変えて、祐巳。今日来たのはだね」
 これを見なさいとパンフレットを何枚か私の前に置いた。どれも旅行のパンフレットだ。
「いよいよ今週末に迫るゴールデンウィーク、その予定を決めようと思ったわけよ」
「ゴールデンウィークにお姉さまと旅行ですか!」
「そう、もちろん行くよね?」
「はい!」
「楽しそうな話をしているみたいですね」
 令さま、由乃さん、志摩子さんの三人が入ってきた。
「うん、祐巳とゴールデンウィークの予定をね。とりあえず旅行に行くことは決まったわけだけど」
「いいですね。私たちも遊びに行くんですよ」
 そういったのは令さま。
「へぇ、どこに?」
「日本最大のテーマパークに、三日がかりで回りまくるつもりです!」
 ああ、あそこに行くんだ。それにしても三日がかりとはすごい気合いの入れようだ。まあ、ゴールデンウィークとなれば人手も半端ないだろうからそれでも回りきれないかもしれないが……
「いいねぇ」
 白薔薇と黄薔薇の二組が旅行の話で盛り上がってきたところで、祥子さまが「志摩子」と志摩子さんに声をかけた。
「はい、なんでしょう?」
「私たちも行く?」
「うれしいです。どちらにでしょうか?」
「三日に地方都市で行われる絵画の展覧会に招待されていたのよ、どう?」
「いいですね」
「そうね……志摩子がよければ日帰りでなくてもいいかもしれないわね」
 志摩子さんはとてもうれしそうだ。
 二組の予定が決まり、私たちもさっさと行き先を決めよう! とお姉さまと二人でパンフレットをめくり始めた。
 その何枚目かには満開になった桜の写真が大きく写っていた。ゴールデンウィークの旅行なのに春のパンフレットを持ってきてもなぁと一瞬思ったが、函館という地名が大きく書かれていたのに気づいた。そうか、桜前線はいまだに北上中、ゴールデンウィークのあたりでようやく北海道にたどり着けるのか。
「お、祐巳ちゃん、函館とはおもしろいのに注目したね」
 お姉さまは自分が見ていたパンフレットを置いて、私の見ていたパンフレットをのぞき込んできた。
「またお花見できますね」
「うん。そうだねぇ……お花見と言えばどこかの姉妹が美しい姉妹愛を見せてくれたわけだし、対抗するのもいいね」
「どうぞ、お二人の仲がいいのは私たちも歓迎ですので」
 とほほえみを返す祥子さま。やんわりとかわされてお姉さまは若干不満げだったが、ともかく私たちのゴールデンウィークの予定は函館旅行に決まった。
「おきまりになったのならよろしいでしょう? 今日はマリア祭について……」
 雑談は終わり、会議が始まった。
 三週間後に行われるマリア祭についての話をしていて、以前の三年生を送る会でもあったことだが、人手不足……白薔薇のつぼみの不在の話が持ち上がった。
「マリア祭では薔薇さまとつぼみはセットになっているから、二人で三人分ってわけにもいかないね」
 白薔薇のつぼみがいないのが問題なのであるが、それなら私の妹を体験中の乃梨子ちゃんがなんて話になったら反対しないと。そう思っていると「はーい!」と瞳子ちゃんが手を挙げた。
「どうしたの瞳子ちゃん?」
「はい、祥子さま。瞳子がお手伝いをします!」
 え? 瞳子ちゃんが白薔薇のつぼみ役をすると。抵抗感をなくさないとと思いつつもやはり……今鏡がないから見えないけれど、私はどんな顔をしているのやら。
「それはだめだね」
「えー黄薔薇さま、どうしてです?」
「だって、瞳子ちゃんは一年生。オメダイを受け取る側でしょ? だから白薔薇のつぼみ役は二年生でないといけないのよ」
 ああ、そうか確かにそうだ。同じ理由で乃梨子ちゃんが候補に上がることははじめからなかったのか。それこそ、ほんとうに妹にしていて乃梨子ちゃんが白薔薇のつぼみであったとしても代役を立てることになっていただろう。
 ……ぼけぼけだなあ。瞳子ちゃんのことが気にかかりすぎて、あるいはゴールデンウイークの旅行に思いをはせすぎか? どっちにせよ気を引き締めないと。
 なお、立候補したのにあっさり却下されてしまった瞳子ちゃんは理由が理由であっても、やや不満そうであった。まあこればっかりはね。
「そうなると……前回は桂さんに手伝ってもらいましたけど」
「そうだったわね。祐巳ちゃんも分かっているとは思うけれど、基本的にはつぼみといっしょに行動することが多いから……」
「あ、はい。由乃さん、志摩子さん。良かったら二人で決めてもらえない? 私はどなたでも構わないから」
「どなたでも……」
「……と言われても」
 そう言いながら、困惑して顔を見合わせているお二人。ううむ、あまりにも急なふりだったか。まあ自分でもぱっと答えられる自信はまったくないな、うん。
「じゃあ、もしお二方に特に意見がないなら今回も桂さんに依頼してみるってのはどう? その上で桂さんも事情があって無理ということであれば、その時こそ本当に一任ってことで」
「桂さんなら私もまったく問題ないわ。志摩子さんもいいよね?」
「ええ、大歓迎」
「話はまとまったみたいね。じゃあこの件はどう転がるにせよ祐巳ちゃんたちに任せるわ」
「はい、祥子さま」
 こうして方針は定まり、マリア祭での白薔薇のつぼみ役は無事桂さんにやっていただくことになったはず……だったのだが。


「当日は全力でアシスタントさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
 今、目の前であいさつをしているのはなんと真美さん。
 どうしても外せない用事があるということで、とても悔しそうに桂さんが辞退した現場に真美さんが居合わせたそうな。最近は仲も良好だし、仕事ぶりを考えても十分歓迎できる人ではあるのだけど……
 いやはや。


〜4〜
「ごきげんよう、乃梨子さん」
 登校途中、マリア様の前で声をかけてきた人がいた。
 この人は瞳子さん。私に声をかけてくれる回数もかなり(……たぶん)多いし、容姿も両耳の上で縦ロールを作ったレトロなヘアスタイルをしていて印象が強いので、確実に顔と名前を一致させることができる数少ない人の一人だ。
「ごきげんよう」
「いっしょにまいりましょう」
 それじゃあ少し待ってもらえる? と聞いて、形ばかりではあるが、マリア様にお祈りを捧げる。
「お待たせしました」
「いえ」
 二人でいっしょに銀杏並木を歩く。
「ところで乃梨子さん、ゴールデンウィークは祐巳さまとどこかへ行かれますの?」
「え? ゴールデンウィーク?」
 ゴールデンウィークの予定は幽快の弥勒を見せていただきに、小寓寺というお寺に行くことに決まっているが、祐巳さんとは関係ない。というか、どうして祐巳さんとどこかへと行くとかいう話になるのだろうか?
「いえ、特に予定は決まってないけど」
「そうですか、乃梨子さんの予定がまだ何も決まっていないのでしたら大丈夫でしょうが、祐巳さまとどこかへ出かけられることを考えていたのでしたら、調整が必要かもしれませんよ」
「祐巳さんと?」
「祐巳……『さん』?」
 あ、しまった。リリアンでは先輩のことは『さま』付けにするのがマナーだったのだった。
「ああ、さん付けで呼んでいいよって言われてたから」
「そうでしたか……祐巳さまは乃梨子さんと目線の近い姉妹関係を目指しているのかもしれませんね」
 そうだった。姉妹体験をしている以上、せっかくの大型連休、予定の一つや二つくらいって周りは思うものなのかもしれない。姉妹体験の話は、取り扱いに気をつけないとな……
「それで先ほどの話ですが、祐巳さまが祐巳さまのお姉さまの佐藤聖さまと旅行に行かれるので、その日は祐巳さまとご一緒はできないかもしれないという話でした。いっそお二人の旅行に混ぜてご一緒させていただくのもありかもしれませんが」
「そうなんだ。ありがとう……でも、どうして瞳子さんがそのことを知っているの?」
「一昨日、薔薇の館に遊びに行ったときに、聖さまがいらして祐巳さまと旅行の約束をしていたんです。……そういえば、乃梨子さんは薔薇の館には顔を出していないのですか?」
「ああ……祐巳さんの時もそうだったらしいけど、妹体験と白薔薇のつぼみ体験は別なんだって」
 頭の中のメモ帳を参照して答えた。
「そうなんですの」
「うん、祐巳さんは結局白薔薇のつぼみにも今は白薔薇さまにもなったんだけどね」
「乃梨子さんはどうなんです?」
「うーん、まだちょっとわからないかな」
 そのうち気になる人もいるかもしれないからと、祐巳さんがあらかじめ用意してくれた回答集だが、まさかこんなに早く使うことになるとは……
「瞳子さんは薔薇の館にちょくちょく遊びに行くの?」
「まだ二回だけですけれどね。紅薔薇さまの小笠原祥子さまと親戚なんですの」
「あ、そういうことでね」
「ええ」
「あら、乃梨子さん、ごきげんよう。ちょうどよかった」
「ごきげんよう、どうかしました?」
 もう少しで教室というところで、呼び止められた。えっと、この人はいったい誰だったか。同じクラスでもなかったと思うが……いや、もしクラスメイトならいくら何でも失礼だし……
「手芸部のものなのだけれど、放課後申請書を出しに薔薇の館に伺うと白薔薇さまに伝言をお願いできるかしら?」
 ああ、よかった、そういうことか。
「わかりました。伝えておきますね」
「ありがとう。よろしくお願いするわ」
「……隣のクラスの方ですもの、無理ありませんわ」
 その方が去ってからささやく瞳子さん。少なくとも名前を覚えていないところまではばれているようだ。……実際には名前どころか顔も、さらに言うなら同じクラスの人たちですら依然としてあやふやなのだけども。
 ……そういえば、この話を祐巳さんにしたときに、ちゃんとその理由もあるんだし心配いらないって言っていた。祐巳さんのお姉さまである佐藤聖さまは、本当に人の名前を覚えない(られない?)人だったのだという。それでも立派に白薔薇さまをやっていたんだから大丈夫だと。
 でもそれは、佐藤聖さまがそんな部分を補ってあまりあるだけのものを持っていたからこそな気はするのだが。しかし、まあ、致命傷にはならないということは言えるのだろう。
「乃梨子さん、どうかしました?」
 少し考え込んでしまった私に心配そうに声をかけてくれた瞳子さんに「少し考え事を。けれど、たいしたことではありませんので」と答えた。
「そうでしたか、ともかく参りましょう」
「ええ」
 二人で教室に入る……やはり、私にはこの教室にいる人の多くが同じように見えてしまう。
 しかし、最近は頻繁に声をかけてくれる人は以前よりぐっと減ったぶん、その人達の区別がしやすくなった。しきれているとはとても言えないが、それでも改善はしていると思う。
 それもこれも姉妹体験のおかげということを考えると……まさに祐巳さん様様である。


 そしてお昼いつものように祐巳さんといっしょに屋上でお弁当を食べるとき、頼まれた伝言を伝えた。
「あ、そうなんだ……でも、今日はみんな用事でいなくて薔薇の館お休みなんだよなぁ。よし、放課後すぐに私の方から手芸部に行くことにする。伝言ありがとう」
「大したことじゃないですから。ところで、今朝……瞳子さんって知ってます?」
「あ、うん。瞳子ちゃんね、薔薇の館にも遊びに来るし知ってるよ」
「朝、瞳子さんに祐巳さんとゴールデンウィークにどこかへ行く予定かって聞かれたんです」
「そうなんだ」
「姉妹体験をしているなら予定の一つや二つ入れるのが普通なんでしょうか?」
「どうかなぁ……確かに姉妹体験をして初めての大型連休だし、早速予定を入れている人たちも多いだろうけど、入れなければいけないってこともないしね。でも、せっかくだし私たちも一緒にどこかへ行ってみようか? 五月の三連休はもう予定が入っちゃっているけど、四月の連休なら乃梨子ちゃんの行きたいところにつきあえるし」
「五月はあいにく私も予定が入っていまして……そうですね、四月ですか」
 小寓寺に伺う日は既に決まっているからどうにもならないとしても、今週末の連休なら確かに空いている。
 でもなあ。
 行きたいところっていうと、やっぱりお寺とかそういうところばかり頭に思い浮かぶし。確かに同年代の友達(今回は先輩だけど)と一緒に行けたらと一度も思わなかったと言えば嘘になるけれど、まったく興味がないであろう祐巳さんを誘うってのはなあ……
「実はさ、乃梨子ちゃんがそれほど熱を入れる仏像ってどんなものなんだろうと思って、図書室で仏教美術の本を借りてみたんだ」
「え?」
 祐巳さんからのお誘いとはいえさすがに……と思っていたところでの思いがけない一言に面食らってしまった。
「ほら? 近くにいる人が少しくらいならともかく、これ以上ないほど好きってものになると気にならない? この人がそこまではまるものっていったいどういうものなのかなって」
「それはたしかに……」
「例えば由乃さん……あ、前会ってもらった黄薔薇のつぼみね。彼女は剣客ものが愛読書なんだけど、それだと多少なりとも読んだこともあるし知っていたわけで。対して、乃梨子ちゃんの趣味はさすがに教科書や資料集の写真以上には何も知らなかったし。そんなわけで興味がわいてちょっと調べてみたってわけ」
 うーん。
 それなりに納得いったものの、同世代でそこまでしてくれた人は初めてだったし、結局の所祐巳さんに無理させてしまっている気も抜けず、申し訳なかった。でもそう思う一方で、感想を聞きたくてうずうずしている私もいた。やっぱり自分が好きでやっていることを他の人はどう感じるのかって気になるし。
 おそるおそる聞いてみる。
「そ、それで、どうでした?」
「うん。最初に興味を持ったのが歴史の資料集にも載っていた空源上人立像でね。ほら、すごく印象的じゃない? で、そこから入っていったんだけど、同じお寺に安置されている座像の雲快って人が……」
 ……本当に驚いた。それはもう、図書室で本を借りてきたと聞いたさっきの比ではない。
 祐巳さんの口から出た言葉は、実のところ見ていようが見ていまいが言えてしまうような薄っぺらいものではなく、本当に関心を持って調べて・見てくれたってのが伝わってきたからだ。
 ついに身近な同志誕生!?
 そんな思いから心は沸き立ち、開いた口は止まらなくなっていた。
「そこから目をつけるとはなかなか祐巳さんもやりますね! そうですよね、空源上人のあの口から伸びる六体の阿弥陀なんかインパクトありますよね!! しかし、そこから雲快座像、さらに雲快自身の作品へと伸びていくあたりがまたお目が高い! うん、でも気持ちは分かります。雲快は何と言っても当時を代表する仏師ですし、国宝たる金剛力士像なんかやっぱり目を引きますよね。分かります、分かります。強いて難点といえば彼の作品の中で真作と確認されているは意外の他少ないところですけど、そこは私たち学者じゃありませんし真作か否かってことよりもその作品に感じるものがあるか無いかと言いますか……とはいえまったく気にならないのかといわれると、それもまた嘘になるのも複雑なところですけど。ところで、彼に目をつけられたってことは快派……ああご存じかもしれませんけど、名前の後ろに快の字が付く一派の人たちのことです……その中でやっぱりかなり有名な幽快の作品もごらんになりました? 私、あまたの仏師の中でも幽快が一番お気に入りなんです。彼の作品って不動明王や金剛力士像に多いんですけど、顔の表情なんかに特徴があって、そこに惹かれていって。で、五月の連休の予定なんですけど、実は幽快作の弥勒像が東京にあるって聞いてこれは拝観せざるを得ないとお……」
 ふと気づく。さっきから祐巳さんの声を聞いていないことに。それどころか祐巳さんの顔を見ているようで、話すことに夢中で見ていなかったことにも。合っているようで合っていなかった目の焦点を祐巳さんに……そこには目を丸くしてたじろぐ祐巳さんの姿があった。
 やってしまった。とうとうやってしまった。
 聞かれてもないことをだらだら語りだすのはマニアの悪い癖、とネットでもちょくちょく見かけていたが自分に限ってそんなことをやるわけがない……そう考えていたというのに。
「……申し訳ありません」
 ともかく、まずは謝る。そして大きなため息をついてしまう。
 せっかく祐巳さんが仏像に興味を持ってくれたのかもしれないのに、これじゃあどん引き間違いなしだよなあ……
 もうだめだ。そう思っていた私に祐巳さんからかけられた言葉はまたも想定外のものだった。
「いやあ、乃梨子ちゃんの熱意の前に圧倒されかけちゃったよ。うん、ちょっとかじったくらいで一緒に見に行こうなんて考えが甘かったよね。ごめんね、乃梨子ちゃん」
「と、とんでもないです! 私こそ本当にご迷惑を……」
「うん、私も乃梨子ちゃんと一緒にお寺を巡るなら、もっと勉強してからにしたいと思ったよ。その方がきっと満喫できそうだし。良かったら乃梨子ちゃんおすすめの本を貸してもらっていい? 連休中に読んでみたいな」
「それはかまいませんが……あの、本当にいいんですか?」
「もちろん! あぁー、ひょっとして場の空気からやむなくとか社交辞令とかそんな風に思ってない、乃梨子ちゃん?」
「その……お恥ずかしながら少し」
 あれだけの自爆をしてしまったのだ。それでも祐巳さんは優しいからフォローしてくれている……とまったく考えないのは逆に難しいというか。
 すると少し口をとがらせて「むー」という祐巳さん。失礼ながらちょっとかわいいと思ってしまった。
「乃梨子ちゃんには言っていなかったっけ? 不肖福沢祐巳、姉から百面相の名をいただいた女よ」
「百面相?」
「そう。表情がころころ変わり、嘘がつけないから……って、自分で言っていてなんだけど、へこんでくるね、これ」
「す、すいません」
「ううん、いいよ。そういうわけで乃梨子ちゃん、私は嘘のつけない性格なのです。OK?」
「りょ、了解です。……でも、それならそれで祐巳さんの気持ちを疑うようなことをしてしまってやっぱり申し訳ないような」
「気にしない、気にしない。もしどうしても気になるって言うなら……そうだね、私を仏像愛好家の世界に引っ張り込んじゃうようなお勧めの本を選んで欲しいな」
「あ、はい、分かりました! 祐巳さんに気に入ってもらえるようなものを持ってきますね!」
「うん、よろしくね」
 こうしてそのあとは五月の連休にお互いが行くところ……私はさっきもちらりと話した小寓寺のこと、祐巳さんは祐巳さんのお姉さまと函館へ花見に行くとのことなどを話して過ごした。
 話してて改めて実感することは、やっぱり祐巳さんは本当にすてきな人だなってこと。今日は帰ったら気合いを入れて本を探さないとな。


 
〜5〜
 今日もバスに乗ってリリアンに到着し他の生徒たちといっしょに校門をくぐる……ほんの二週間も前は、ほんとうに憂鬱な登校だったというのに、ずいぶん気が楽になったものだと自分でも思う。これもすべて祐巳さんのおかげである。祐巳さんがいなかったら、あるいは祐巳さんと出会えていなかったなら、今も憂うつな登校だったのはまちがいない。
 鞄の中にはこの学園からはちょっと外れた本が二冊。
 昨日は帰宅して夕食と今日の準備を済ませた後、手元にある冊子をずらずら並べ、夜遅くまでじっくり考えていた。祐巳さんが図書館で借りたという本と比べると、扱う時代が狭くなりその分ちょっと奥深さを感じられる……それでいて専門的になりすぎず眺めているだけでも満足できるものを選んだつもりだ。
 楽しんでもらえるといいな……そんなことを考えつつ、いつものようにマリア様の前まで来た私は息をのむことになった。
 数人の生徒が並んでお祈りをしている中でまったく異質な雰囲気の人がいたのだ。
 ただ一人、熱心にお祈りをする生徒……周りの生徒だって私みたいにほんとうに形だけのお祈りってわけではないだろうが、所詮五十歩百歩なんじゃないかと思えてしまうくらい、この人だけはほんとうにお祈りをしているっていうのが瞬間でわかってしまった。
 それに……お祈りを終えて歩き出したその人の容姿は、抜けるように色白で、人並み外れて整った顔立ちをしていた。日本人離れした西洋人形のような……いや、この場合はまさにマリア様や聖女様のようなと表現した方がふさわしいかもしれない……その人の姿が見えなくなるまでずっと私の目はその人を追っていた。
「乃梨子さん?」
「え? あ、瞳子さん」
「ぼうっとして、どうかなさいましたの?」
「あ、いや、ちょっとね……ああ、お祈りを済ましちゃったらいっしょに行く?」
「ええ」
 そうしてマリア様に……形だけのお祈りをしてから瞳子さんといっしょに教室に向かって歩き出した。
 あんな人がこのリリアンにいたんだ。入学式からもう三週間……まったく見かけすらしなかったなんてことはないかもしれないが、今まで気づかなかった。私の中に余裕が出てきたってことなのかもしれない。
 それはともかく、あの人はいったい誰なのだろうか? あれだけの人だけにそのことが気になった。


「ふむふむ、この二冊が乃梨子ちゃんのお薦めなんだ」
「は、はい」
「ではちょっと見させてもらうね……」
 そういって祐巳さんは本をめくり始める。
 ゴクリと唾を飲み込む。体はもうカチコンコチンで、それこそちょっと叩いたらそのまま粉々に砕け散ってしまうのではないだろうかとすら思ってしまう。
 ここは屋上、最近では恒例となった祐巳さんと一緒のお弁当なのであるが、まず先に本を……ということなり今に至っている。
 この瞬間に比べたら、新入生代表のあいさつやら受験の時の緊張などそう呼ぶに値しない程度としか思えない。少なくともそのように感じるくらいにはドキドキしていた。
「……うーん、すごいね、これ」
 本に視線を向けたまま祐巳さんがつぶやく。その瞳は真剣そのもので、昨日の話同様決して義理ではなく、本気で読んでくれているのが分かって少しほっとする。
「私みたいなド素人でも説明が読みやすくて、もちろん写真はほれぼれするほど綺麗。乃梨子ちゃん、この本探すのに相当苦労したんじゃない?」
「ああ、この本はネットをやり始めてから同好の方に教えてもらった本なんです」
 祐巳さんが直接口には出さなかったけれど、恐らく考えているとおりだ。
 趣味としては年齢層を抜きにしても決して大きくはない世界である。そのため、それなりに大きな書店でさえ取り扱っている量というのは知れている程度になり、しかも絶対数が少ないためその界隈では良書というものが置いてあるとも限らないのだ。
 まして地方ではなおさらその手の現物は確認できなくなる。
「ネット……インターネットのことだよね?」
「ええ、そうです。何でもある夢の世界……ってわけではないんですけど、それでも私みたいな趣味でしかも中高生だと実際にはなかなか出会えない方々とも知り合うことができて」
「良いお師匠さまがいたって感じかな?」
 そういって祐巳さんはクスリと笑った。
「師匠ってのはアレですけど、頼りになる先輩に恵まれたとは思います……ここでの祐巳さんのようないい人たちに」
「もう、乃梨子ちゃんったら嬉しいことを言ってくれるなあ! でも、本当にありがとう。今週末と言わず、家に帰ったら早速二冊ともじっくり読ませてもらうね」
「はい、気に入ってもらえたら幸いです」
「ちらりと見せてもらっただけでも、引き込まれちゃったから。すごく楽しみ……と、そろそろお昼にしようか」
「ええ、そうですね」
 こうして今日も楽しいランチが始まった。
「あ、そういえば」
「どうかした?」
 楽しくおしゃべりしながらお昼を終えた後、ついさっきまで緊張と不安で頭の片隅に追いやられていた事柄がむくむくと沸いてきたのだった。
 で、一度そうなると話さずにはいられなかった。だって正直名前と顔の一致が怪しいクラスメイトに話そうものならどう思われるか分かったものではない。頼みの綱はやっぱり祐巳さんだけだ。
 というわけで、朝の印象をそのまま素直に話したのだが、祐巳さんの回答はある意味予想通りだった。
「ふーん……たぶん九割方それが誰かわかるよ」
 印象と髪型を伝えただけで分かってしまうということは、祐巳さんが生徒会長であることを差し引いてもやはり結構な有名人に違いない。……クラスメイトに聞かなくて本当に良かった。
「どんな人なんですか?」
「藤堂志摩子さんって言うの」
「志摩子さんって言うんですか」
「うん、私の親友の一人」
 なんとあの人が祐巳さんの親友だったとは。
「志摩子さんはシスター志望だから私たちみたいなチャンポンな宗教観の人間じゃないの。確かに、志摩子さんお祈りの時他の人とは雰囲気が他の人とは明らかに違うよね」
「そうなんですか」
 祐巳さんは突然何かをひらめいたようでポンって手をたたいた。
「そうだ。志摩子さんって祥子さま……紅薔薇さま、入学式で在校生代表の挨拶をした人わかる?」
「ええ、一応」
 あのリンとした姿は憂うつそのものだった入学式の中でも印象に残っている。あの人も志摩子さんとは違う意味で他の生徒とはまとっている雰囲気が違った。
「祥子さまの妹で紅薔薇のつぼみなの」
 あの二人が姉妹だったとは……ある意味納得だが、一般生徒とは隔絶した姉妹だと思わなくもない。
「あ、つまり生徒会役員に近い方ってことですね?」
「そういうこと。だから普段薔薇の館にいるのよ。乃梨子ちゃん、せっかくだし薔薇の館に来てみない?」
「え? あそこにですか?」
「志摩子さんもいるし、純粋に遊びにって感じで、どうかな?」
 薔薇の館……このリリアンを象徴する中枢にか……あ、いやそもそもそこの主の一人である祐巳さんの妹体験をしている私がそんなこと言い出しちゃ元に戻っちゃうか。逆・隠れキリシタンの親藩大名の江戸城入城、上等って感じじゃなきゃ。
「私の時もそうだったけど、お客様としてみんなも歓迎してくれるから、どう?」
 ただ一つ……紅薔薇のつぼみである藤堂志摩子さんがシスター志望とまでいくほんとうの信徒であるところが気になったが、会ってみたいという興味心が上回った。


 放課後、祐巳さんに連れられて薔薇の館にやってきた。
 薔薇の館を見上げる……校舎の窓からは何とも見たりしていたが、こうしてすぐそばで見るのは二回目……生徒会室などではなく、生徒会のために一つこのような建物が用意されるだなんて……って祐巳さんに案内されたときに思ったっけ。
「さ、どうぞ」
「おじゃまします」
 祐巳さんに招き入れられ、階段を上がる。
「ごきげんよう皆さん。今日は乃梨子ちゃんを連れてきました」
 薔薇の館に集まっていた面々……その中にあの人もいた。
「乃梨子ちゃん、薔薇の館にいらっしゃい。歓迎するわ」
 そう、あの人の横に座っていた……紅薔薇さまが言ってくれた。
「ありがとうございます」
 祐巳さんに勧められて、席の一つに座りその隣に祐巳さんが座った。
「志摩子、祐巳ちゃんと乃梨子ちゃんの分をお願い」
「はい」
 紅薔薇さまに言われ流しの方に行く。もう一人三つ編みの方、先日祐巳さんと一緒に教室まで来てくれた黄薔薇のつぼみこと……たしか島津由乃さんも「私も手伝う」と向かった。
「入れてくれている間に自己紹介をしようか。私は支倉令。黄薔薇さまよ」
 とショートカットの人が言った。この方がもう一人の生徒会長か。
「小笠原祥子、紅薔薇さまよ」
「二条乃梨子です。よろしくお願いします」
 あいさつを終えたところで、紅茶の入ったカップが目の前におかれる。
「はい」
「ありがとうございます」
「私は藤堂志摩子、紅薔薇のつぼみをやらせていただいています。乃梨子さんよろしくね」
 そうほほえんだ志摩子さんはとても美しかった。
「えっと、既にお会いしたけれど、この流れで私だけ紹介しないってのも変だから一応もう一回ね。黄薔薇のつぼみこと島津由乃です。改めてよろしくね、乃梨子ちゃん」
「こちらこそ先日はお世話になりました。今後ともよろしくお願いします」
「へえ、由乃はもう紹介してもらっていたんだ。祐巳ちゃんに?」
「はい、お姉さま。たまたま機会がありましたので」
「そうなんだ。それじゃあ……」
 そのあとは祐巳さんが言ったとおりゲストとして扱ってもらいつつも肩肘を張ることもなく、終始穏やかな雰囲気で過ごすことができた。
 それにしても……二杯目の紅茶をいただきながら思うのだが、ここの生徒会役員、紅薔薇姉妹の二人を筆頭に美少女としてのレベルがかなり高いような。黄薔薇姉妹にしたって妹は正真正銘、姉だって方向性が違うだけで、この人が特別な何かと言われたら誰もがさもありなんと思う格好良い人だ。
 リリアンの生徒会役員は世襲制になっているから、わざわざ容姿のいい人間を選んでいるなんてことでもなければまさに類は友を呼ぶって感じなのだろうか?
 祐巳さんには悪いけれど、やっぱり私には場違いかもなあ。事務的な経験はあるとはいえ、この華やかな空気の中で一緒に作業をしている自分というものの想像がさっぱり付かなかった。


 
〜6〜
 ゴールデンウィーク前半……と言っても土曜日が休みになって連休になっただけだが……が終わり、五月になって最初の日の休み時間。
 瞳子さんがやってきて『私、乃梨子さんのお手伝いをさせていただきます!』なんてびっくり発言をかましてくれた。
「ど、どうして?」
 あまりの発言に思わずどもってしまいながら聞き返す。
「本来姉妹制とは姉が妹を指導していく制度ですし、祐巳さまが乃梨子さんにいろいろと教えてくださったということはわかっています。けれど、祐巳さまはやはり学年が違いますから、どうしても細かいことまでは手が回らないでしょう。さらに白薔薇さまということで、なかなか時間のやりくりも難しいご様子。どちらがいけないとかそういうことではないのですけど、それでも乃梨子さんはまだまだリリアンになれてはいらっしゃらないように見えますし、私がお手伝いしようと決心しましたの」
 ……そ、そうきたか。
 外部入学の私にいろいろと親切……そう本当に親切心からめいっぱい世話を焼きまくられて辟易していたわけだが、祐巳さんと姉妹体験をすることになってからは大幅に緩和されていた。
 しかしそんな状況にもかかわらずお世話をしてくれる人はいて、その中の一人が目の前の彼女である。
 まあそれだけでもいろいろと思うところが無いわけでもないが、これからは頻度を下げるどころかさらに上げていくとの宣言だ。
 ……勘弁して。
 ようやくうっとうしい空気から解放され、祐巳さんのおかげもあってか自分なりに学校生活を楽しめるかなー?と思いかけてきたところなのである。この瞳子さんの親切は正直逆効果というか、そんな感じでしかない。
 とはいえ、この純真無垢な天使さまを傷つけるわけにもいかないし、どういって断るべきか、そんなことを考えていた時に事態は発生した。
「乃梨子さん、そんな迷惑そうな顔なさっちゃって嫌。瞳子、乃梨子さんのことを思っているのにぃ」
 そして瞳からこぼれ落ちる雫。
 一瞬頭が完全にフリーズした。
 ……泣くか? いくら何でもそれくらいで泣くか!?
 こっちは好意が分かるから、せめてできるだけ傷つけないように断ろうと思っていたというのに!
 やっぱりこの学校は別次元だ。私にとって想定外な出来事が次から次へとやってくる。
 公立中学生としての経験だけでなく、良くも悪くも年齢による甘えが存在しにくいネットでの体験は年齢相応以上のちょっとやそっとの荒波なら乗り越えられる……そんな自信めいたものを私に与えていたはずなのだが、ものの一ヶ月少々で粉砕されたというのを改めて実感してしまう。
「瞳子さん、どうなさいました?」
 私が呆然としている間に早速他の天使が気づいてしまったようだ。ええと、アツコさんだったか、ユキコさんだったか。さらにわらわら集まってくる。
「が、学園にもっと慣れるまで乃梨子さんのお手伝いをしたいと申し出たら、乃梨子さんが頑なに遠慮されて……私、なんだかとっても寂しくて、悲しくて……」
「まあ」
「それはつらいわね」
「そのお気持ち、よく分かりますわ」
「でも乃梨子さんにも事情というものがあるでしょうし、無理は良くないと思うの」
「白薔薇さまとほんの少しでも長く一緒の時間を過ごしたいのかもしれないわね」
「たとえ会えない時でも、白薔薇さまに想いを募らせているのかも……」
「と、瞳子も皆さんのおっしゃることは分かります。乃梨子さんは少しも悪くありません。すべて私がかってに申し出たこと。でも、それでも瞳子、少しでも乃梨子さんのお役に立ちたかったから、つらくて、つらくて……」
「瞳子さん、乃梨子さんともっと親しくなりたかったのね」
「それはつらいわね」
「そのお気持ち、よく分かりますわ」
 とうとうもらい泣きする子まで現れ始めた。
 しかし、この場に及んでも瞳子さんに同情する人は数あれど、誰一人として私を責めようとする人間が現れないのがリリアンという別世界が別世界たる所以なのだろう。
 このときの私の心情をシンプルに表現するならこうなる。
 もうどうにでもなーれ。
「悲しませちゃってごめんね、瞳子さん。祐巳さんはいろいろと私に教えてくれてくれたし、よくしてくれているけれど……確かにおっしゃるとおりクラスメイトとかじゃないから、細かいところまではなかなかってところはあるし、さらには白薔薇さまですごく忙しいわけだし……そういう意味では、誰か一人くらいクラスメイトで、いろいろと聞ける人がいるのはありがたいかな……その方が瞳子さんだったらうれしいかも……」
 なかばやけくそ気味の発言だったが、効果は絶大だったらしい。ついさっきまで泣いていた瞳子さんはパッと表情を輝かせた。
「瞳子にお任せください!」
「良かったわね、瞳子さん!」
「私も乃梨子さんのお役に立ちたかったのですけれど、瞳子さんが一番お似合いですね」
「乃梨子さん、白薔薇さまという素晴らしいお姉さまだけでなく、瞳子さんほど思ってくださるお友達がいてうらやましいわ」
 そうしてこの後はお昼までのすべての休み時間にわたって、瞳子さんを中心として皆々様から直近の一大イベントというマリア祭についての講釈を受けることとなった。
 マリア祭自体のどうでもいい感もさることながら、ここぞとばかりにお世話を焼きたがる周囲の人たちにはほんと参った。
 祐巳さんという巨大な防壁の前に遠慮していたものの、やっぱりうずうずしていたということなのだろうか?
 その好意には心から感謝しなければいけないのだろうけど……なんとも。


 お昼休み、癒しを求めるかのごとくそそくさと教室を抜け出た私は屋上へ向かった。まあ堂々と出ようが、数少ない祐巳さんと一緒にいられる時間ということになっているため、たとえあの状況であっても問題は無いのだが、気分的にというやつだ。
「乃梨子ちゃん、今日は特に早いね……って、どうかした?」
「ああ、こんにちは、祐巳さん」
 祐巳さんは私の表情を見てすぐに何かあったと分かってしまったようだ。まあ隠してもどうなることでもないし、起きたことをありのまま話すことにした。
「うーん、それは災難だったね。まあクラスの子たちは今日中には落ち着くと思うけど、もし続くようなら言ってね。何か手を打つから」
「ありがとうございます」
 祐巳さんがそういうならたぶんそうなのだろう。少しだけ安心する。
「それにしてもあの瞳子ちゃんがねぇ……」
 首をかしげながら祐巳さんはそんな風につぶやいた。祐巳さんと私で瞳子さんに抱いている印象が結構違う感じ?
「ひょっとして意外、でした?」
「うーん、どうかなぁ。ピンと来ないという意味ではそうかも。……あ、でも考えたら私の時も涙を流しながら怒ってたっけ、しかも公道で」
 ……公道で? 涙を流しながら怒るっていったい……
「瞳子さんって紅薔薇さまの親戚で薔薇の館にも顔を出しているっていましたけれど、祐巳さんと何かあったんですか?」
「ああ、そのときもちょっとした出来事はあったけど、さっき言ったのはもっと前。去年のクリスマスの話でね……」
 そうして祐巳さんは去年のクリスマスに起こった出来事を話してくれた。
 新聞部が特集を組むべく追跡してくるなんて、生徒会役員というよりはアイドル(地域限定)だと、今までのことから分かっていたこととはいえ改めて実感する。
 まあその話は置いておくとして。
「……つまり、端から見ていてもちょっとやばいシーンを、よりによって瞳子さんが目撃したものだから、公道で泣きながら罵倒してきた、と」
「そういうこと。その時に私自身も情けない妹だって言われてしまってさ。まあその時はそれで終わったんだけど、四月になって薔薇の館に遊びに来たときも、最初は結構一触即発っていうか、かなりきわどくてね。もう私の中で苦手意識みたいなものができてしまっていたのかもしれない」
「あー、ちょっとびっくりしましたけれど、何となく想像つきます」
 祐巳さんみたいないい人にそこまで言うなんてどうかと思うが、あの感情のままに生きる姿を見ていると納得というか、さもありなんというものを感じるのだ。だから決して意外ではないというか。
「そう、そうなんだよ。私も話しながらそう思った。想像付くよね? 瞳子ちゃんの新しい一面とかそういうのじゃなくて、少なくとも私たちが知っている瞳子ちゃんならそこまで言ってしかるべき状況だった、ということなんだろうねぇ」
 祐巳さんはそう言って、苦笑いを浮かべながら小さなため息をついた。
「なんというか、いろいろと大変ですね……本当にお疲れ様です」
「ありがとう、乃梨子ちゃん。でも大変なのは承知の上で薔薇さまになったのだから仕方ないよ」
「そういうものですか」
「そういうものなのですよ。だから、乃梨子ちゃんには白薔薇のつぼみ体験をしてもらってないのだし。私の妹体験のついでにって程度では割に合わない部分もあるからね。と、まあこの話はここでおしまいにして、先週借りた本のことなんだけど……」
 そこからは午前中の気苦労が吹き飛ぶくらいの至福の時間だった。
 同世代の人とお昼をとりながら仏像について語らうなんて、それこそ仏像も好きになってくれる恋人でもできなければ無理だと思っていたのに。
 しかも夏休みかあるいは紅葉狩りもかねて秋頃に一緒に京都に行く約束(メインは当然仏像鑑賞だ)までしてしまった!
 もちろん今の時点じゃ行けたらいいね程度に過ぎないかもしれないけれど……夢みたい。
 私、リリアンに入って良かった!
 菫子さんが(理由を知らずに)聞けばさぞ喜びそうなことを考えながら、その日は過ぎていくのであった。
 ちなみに午後は午後で休みに入るたびにそこそこ騒がしかったのだが、かわいい小鳥のさえずりにしか聞こえなかったあたり私もほんと現金なものだ。


 
〜7〜
 五月四日木曜日、ゴールデンウィーク後半の三連休の中日……週休二日であれば五連休になったのだが、残念ながらリリアンはいまだに土曜日は半日授業があるのだ。ここに通うことになった以上はまあしかたない。
 そう言えば祐巳さんに私の中学が週休二日だった話をしたらうらやましがっていたなぁ。
 そんな貴重な三連休の二日目、私は電車に乗ってH市にやってきた。
 目的はもちろん幽快の弥勒を見せていただくため。
 今回はタクヤ君が細かくお膳立てをしてくれた。そのことはもちろん感謝しているが、それ以上にそこまでしてくれるだなんて、きっと幽快の弥勒が素晴しいものだからこそという部分があるのだろう。そうも思えて、まだ目的の小寓寺に向かう途中だというのにかなりドキドキしている。
 駅前のファーストフード店で簡単に昼食を済ませバスターミナルからバスに乗って小寓寺へと向かう。
 つくのが今か今かとほんとうに待ち遠しい。途中のバス停に止まる時間や赤信号での待ち時間でさえ、その少しの時間がなければいいのに! と思ってしまうほどだ。
 アイドルのコンサートに行く熱狂的ファンの人たちもきっとこんな感じなのだろうな。
 ふと、アイドルという言葉から地域限定とはいえ同様の存在といえる祐巳さんのことを思い出した。私のためにいろいろしてくれるだけでなく、まさか本当に仏像にも興味を示してくれるなんて思いもしなかった。
 今回はさすがに無理だったけれど、今後はこうして日帰りで行けるとこなら一緒に行くことも夢ではないのだ。なんと言っても京都へ行く約束だってしたぐらいだし!
 二人で仲よく仏像鑑賞かぁ……姉妹というのはいまだにピンと来ないが、結果として一緒に楽しめる人ができるのであればリリアンも姉妹関係も大歓迎だ。
 そんなことを考えていたら、目的地を告げるアナウンスが流れていた。さて、いよいよである。……うーん、ドキドキしてきた。
「あ……」
 緊張で震えている私の脇を黒塗りの超高級車が通り過ぎていった。小寓寺の方に向かっていったが、あんな高級車で小寓寺に乗り付けるような人がいるのだろうか?
 そう思ったが、山門に続く階段の脇にその車が停まっていた。運転席に男の人が一人……単に高級車というだけでなく運転手付きですか。
 山門を見上げる……今この寺をあんな車に乗ってやってきたお客さんがいる。いったいどんな人なのだろう? それともこれだけのお寺となると檀家さんもそうそうたる顔ぶれになるのが普通とか?
 そのことも気になっていたが、山門をくぐる頃にはやっぱり幽快の弥勒のことで頭の大部分が占められていた。
 そして寺男に本堂に案内されて住職を本堂で待つことになったのだが、ただ単にじっと待っていられないのが仏像愛好家の悲しきさがというもの。さりげなくのつもりが、いつのまにやら立ち上がって本堂の阿弥陀三尊像を見入ってしまっているところに声をかけられた。
「気に入りましたかな?」
 背後からの声に振り返ると、袈裟姿の中年のお坊さんがにこにこしながら立っていた。この寺の住職さんだろう。
「もしや、二条乃梨子さん、でしょうかな?」
「あ、はい。すみません、断りもなくじろじろと鑑賞してしまって」
「なんのなんの。こちらこそお待たせして申し訳ない。実はもう一人来客がありましてな」
 あの車に乗ってきた人か。
「ささ、こちらへ」
 幽快の弥勒は住職さんの自宅の方にあるとのことでそちらに案内された。そのときに、仏像を観ることにおいて誰が彫ったのかどうかというのは重要ではないとかそんな話もしていただいた。
 和室に通されて、住職さんの奥さんにお茶を運んでもらい頭を下げた。
「帰ってきてすぐだが志摩子に弥勒を持ってくるように言ってくれ、若い娘同士の方が話も弾むだろう」
「それもそうですね」
 二人の話から、どうやらシマコという住職さんの娘さんが相手をしてくれるらしい。シマコ……か。あの人、紅薔薇のつぼみと同じ名前だな。
 しばらくして「お父さま、弥勒像をお持ちしました」との若い女性の声がふすまの向こうから聞こえてきて、ふすまがゆっくりと開けられた。
「あ……」
「え? あ……」
 思わず上げてしまった私の驚きの声に、私の顔をはっきりと見たその人も驚いていた。
 なんと、紅薔薇のつぼみ、その人がそこにいたのだ。


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