第二話

姉妹体験ふたたび 前編

〜1〜
「姉妹体験、してみない?」

「……え?」
 乃梨子ちゃんは私のことばをすぐには理解できなかったようだが、すこししてみけんにしわを寄せて、「どういうことですか?」と聞いてきた。
「うん、今まさに、私と乃梨子ちゃんが姉妹体験をしているって噂になっていて、乃梨子ちゃんがみんなの注目の的になっているわけだけど、私と乃梨子ちゃんの関係を事細かに、リリアンかわら版……学校新聞とかで公にするにもいかないし、このままだと今の状態って当分続いてしまうことになると思うの」
「確かに私のこととか公にすることでないし、されても困りますし……それで?」
「うん。乃梨子ちゃん自身説明したのに、だめだった。そもそも、今回のことは自分がここまで注目される存在なんだって全然わかっていなかった私が悪かったわけだけど」
「そんなことはないです。いろいろと教えてくれた祐巳さんがいなかったらいっそう居づらかったでしょうし」
「ありがと。でも、私が不注意だったのはうごかしようのない事実……で、話を戻して今の状態をすぐに変える方法は限られている。一つは、私が今後乃梨子ちゃんをあえて無視するようにすること。端から見ると私が乃梨子ちゃんを振ったみたいな形になると思うけど、その場合はしばらくの間だけ同情とかさまざまな目で見られるかわりにその期間さえすぎれば静かになるはず。あんまりおすすめしないけど」
「確かに、今後ずっと祐巳さんに無視され続けるってのは、いくら演技でもちょっといやですね。少なくても気乗りする方法ではないです、間違いなく」
「だよね。そこで提案するもうひとつの方法が、さっき言ったみたいに形だけでも私と乃梨子ちゃんが噂通りの関係、つまり姉妹体験をするようになることってわけ」
「……でも姉妹って、特に仲のいい先輩後輩でしたよね? それをわざわざ体験って……しかも祐巳さんがそれを初めてやったご本人って聞きましたし。どうも私の思っていることとかなり違うみたいな気がするんですけれど、どういうことなんですか?」
 ああ、そうか。ただでさえ……な乃梨子ちゃんには姉妹の意味とかロザリオのこととか深い話は全然していなかったっけ。
「ごめん、頭が痛くなる話かもしれないけれど、さすがに説明しないと通じる自信がないからちょっと聞いてもらえる?」
「ははは、少しは慣れましたから。どうぞ」
「ありがとう、ごめんね。まず姉妹ってのはね……」
 そもそも姉妹とは何か等、以前にごく簡単に説明したことをもっと突っ込んで説明した。あと、ある日突然当時の白薔薇さまにロザリオを渡されてしまったので、何かの間違いだと思い(実際そうだった)お返しするため薔薇の館に行ったにもかかわらず、肝心のロザリオ自体を忘れてしまった私へ提案されたのが姉妹体験の始まりだったという経緯も。さらにそうなった背景とか、あまり深いところは話すのははばかられて、ぼかしたりとかでちょっと心苦しかったけれど。
「……そういうことだったんですね」
 納得顔になった乃梨子ちゃんは一つ深く息をついた。
「さらに遠いところだと思っちゃったかな? そう思ってほしくなくて、今までちゃんと説明できなかった。ごめんね」
 乃梨子ちゃんは首を振った。
「はい、確かにすごい学校だという気がますます。でも、祐巳さんがそうしたのは正解ですよ。あの時にそこまでいっしょに説明してくれていたら、もうはるか彼方の存在に思えてついて行けなくなったのはまちがいないですから」
 やっぱり乃梨子ちゃんって頭の回転が速くて、気も回せる人間だと思う。
「ありがと。それで、また話を戻して……私たちが姉妹体験をするってことになれば、新聞部だって食いついてくるし、こちらの思うとおりの情報を流せる。そうできれば、裏で噂としてってことはなくなる。それに姉妹体験ということになれば、乃梨子ちゃんが困っているようなときに私が堂々と助けることができるしね」
「でも、注目は集めてしまいますよね?」
「うん、確実にね。でも、いっそのこと徹底的にやってみるっていうのはどうかな?」
「徹底的に、ですか?」
「うん。徹底的に逆・隠れキリシタンをね」
 乃梨子ちゃんは難しげな表情を返してきた。これは、お断りとかそういうのではなく、単に私の説明不足か。
「前にも言ったように、今は私は江戸時代だったらある意味御三家の当主にあたるような形なんだよね。その妹となれば、一門、親藩大名に当たる感じだとおもう。それが、逆・隠れキリシタンだなんて結構すごい話でしょ?」
「……そういうことですか」
「どうかな?」
「同時に、アイドルみたいなものでもありますよね。そうすると今以上に騒がしくなりません?」
「最初の最初だけはね。でも、残念ながらになる話だけど……山百合会幹部はみんなから敬意をもたれている。ただ、行き過ぎで、一般生徒の間には精神的な壁ができてしまっているの。だから今回もアイドルもどきの私自身ではなく、声をかけられた乃梨子ちゃんに注目が集中しちゃったわけだし。そのことを考えると、最初の対応さえうまくいけば、みんな乃梨子ちゃんのことを白薔薇のつぼみ……ああ、つぼみっていうのは薔薇さまの妹のことね。つまり、将来の白薔薇さまとしてみることになる。実態は全然そうでなくたってね。そしてそうなってしまえば、ちょっと寂しいことなんだけど、気軽に声をかけてきたりする人は減ると思う」
「……煩わしさは減るはずだってことですか」
「きっとね」
「……それは歓迎ですし、逆・隠れキリシタンの親藩大名なんてのも少しおもしろいそうかもしれません。でも、形だけの姉妹体験だなんて、祐巳さんはそれでいいんですか? さっき姉妹ってのがどういうものなのか話してくれたばっかりなのに」
「まあ私もっていうか、私こそその姉妹体験をした張本人だからね。さっきも軽く話したけれど、経緯が経緯だったから、最初なんか本当に形だけみたいなものだったんだよ? 結局私の場合はそのまま本当の姉妹になっちゃったわけだけど、仮に体験だけで終わっていたとしても、今思えばすごく良い経験ができたと思う。だから気にしなくていいよ」
「うーん……」
 私が伝えた姉妹の意味というものを乃梨子ちゃんはしっかりと受け止めてくれたのか、かえって納得いかないみたい。だから、私にもこの「形だけ」ってものにメリットがあると冗談めかして伝える。
「それにぶっちゃけた話になるんだけど、つぼみは薔薇さまの仕事をつぼみのそのまた妹と一緒に手伝うのが慣例になっているの。だからこそ将来の薔薇さま扱いされるわけだけど。で、薔薇さまの仕事は割と忙しいから、毎年のように二年生は三年生から早く妹を……人手をつくるようにあの手この手で言われ続けてしまうのよ。でも、姉妹体験をしてますってことにできれば、私は妹を作れって頻繁に言われずに済むというわけ」
「……もし、祐巳さんと姉妹体験ってことになったら、白薔薇のつぼみも体験しないといけないんでしょうか?」
「ううん。私の時も、佐藤聖の妹体験と白薔薇さまの妹体験は別って言われて、実際つぼみ体験の方はなしだったし、乃梨子ちゃんもその必要はないよ」
「そうなんですか……なんだか、私にいいことばっかりなのがちょっと心苦しいですけれど、お受けいたします」
 そんなこと無い。
 そうは言えないけれど、乃梨子ちゃんに姉妹体験を申し出たもうひとつの理由を言うこともできなかった。少なくとも、今はまだ。
 だから心からお礼を言う。
「ありがとう。もし乃梨子ちゃんがこの学校に慣れて……というより嵌ってかな? 姉になって欲しい人ができたとか、そんなことがあったら遠慮無く言ってね。できるだけのことはするから」
「いえいえ、こちらこそ。うーん、でも私が本当の姉とか妹とか、そんな日が来ることはあり得ないと思いますけどね」
「分からないよ。運命なんてほんとどこに転がっているのか誰にも分からないんだから」
「そんなものですかね?」
「なにしろ、いつの間にか白薔薇さまになっていた私が言うのだから間違いないよ」
「またまた……」
「ふふふ、じゃあお昼に行こうか。今後どうしたらいいかも教えてあげるから」
「はい、よろしくお願いします」
 こうして私と乃梨子ちゃんの姉妹体験……形だけの姉妹体験が始まったのだった。


 五時限目が終わった後の休み時間、私の方から真美さんの席に向かった。
 今回のことは公開してこそ意味があるのだし、なるべく早くしたほうがいい。そして、そのためには新聞部とリリアンかわら版を利用させてもらうのが一番だ。なにしろ真美さん自ら売り込みをかけてきたのだ。喜んで記事にしてくれるだろう。
「祐巳さん? ……何かご用?」
 私の方から来た時点で何かあるに違いないと踏んだのか、早速メモ帳を取り出している真美さん。
「真美さん、先日の件だけど、やっぱり一口乗らせてもらうわ。流してもらいたい情報があるの」
「それはそれは。ご用命いただきありがとうございます。……で、外に行く?」
「ええ、お願い」
 芝居がかった口調で深々と頭を下げた後にそうささやく。いずれ明らかになるとはいえ、今の時点で波風を立てたくないのでお願いする。
「で、私は白薔薇さまの公式見解として二条乃梨子さんとは姉妹体験をしていないって記事を作ればいいのかしら? まあ少しは記事をおもしろくするために協力してもらいたい部分もあるけれどそのあたりの……」
 前と同じく、階段の踊り場についたと思ったらすぐさま聞いてきて、その後の展開まで話し出そうとする真美さん。
 三奈子さまに比べたらはるかに慎重で冷静なはずだけど、それでもこのあたりは新聞部魂、あるいはさすがあの方の妹とでも言えばいいのだろうか?
 それはおいておくとしても、提案自体はさすがだと思う。昨日までの私が真美さんにお願いするならその内容以外ではあり得なかったはずだから。
「えーと、逆」
「……は? ちょっと待ってよ、それって……」
 おお、目を丸くする真美さんなんて初めて見た。
 ……ま、この後薔薇の館で直面するであろう試練を考えたらこのくらいの役得があってもいいよね。
「ええ、本日のお昼から私と乃梨子ちゃんは姉妹体験を始めました。……特ダネでしょ?」
「もちろんよ!」
「で、こちらから出す条件は基本的に一つ。乃梨子ちゃんは私、福沢祐巳の妹体験をしているのであって白薔薇のつぼみ体験をしているわけではない。……言いたいこと分かるよね?」
「了解。少なくとも現時点で乃梨子さんに直接取材に行くのは部内規定に反する。そういうことでいい?」
「うん、それさえ守ってもらえれば答えられる範囲で協力する。写真はそう、蔦子さんが私と乃梨子ちゃんのお昼の光景とか撮っていたはずから、それを使えるように頼んでおく」
「逆を言えば、写真撮影を口実に二人そろってのインタビューなども無しってことね?」
「理解が早くて助かるわ」
「それでは早速だけど経緯等を教えてもらえるかしら? そして、放課後にそれらをまとめた第一稿ができしだい薔薇の館へ伺って、再調整してから発行という形でどう?」
「それでいいわ、お願い。じゃあ、まずは乃梨子ちゃんと知り合ったきっかけだけど、高等部受験日の前日に……」


「で、真美さんとどんな話をしていたの?」
「どんなって……」
 六時間目の授業、ホームルーム、掃除と終わって、薔薇の館に行こうとしたところを由乃さんに捕まり、さっきも使った階段の踊り場に連行されていた。
「一昨日令ちゃんに相談していたことでしょ? 祐巳さんが姉妹体験をしてるかもっていう……どうなったの?」
「あー、うん。本当にしてみることにした」
「えー!!」
「よ、由乃さん、声が大きいってば」
「あっ、ごめんなさい」
 いくら放課後でもまだそこそこ人がいる中、由乃さんが大声を出そうとするものだから冷や汗が出た。ちなみにその張本人はまだ「信じられない」って呻いている。
「詳しくは薔薇の館についてから報告するんでよろしく」
「分かった。……でも祐巳さんってば案外度胸あるわね。三年生はどっちも今の状況良く思っていないってのに。あげく祐巳さん自身が姉妹体験するなんてきたら、令ちゃんはまだしも、祥子さまはヒステリーおこして喚いたうえにハンカチをビリビリに裂くぐらいのことはするかもよ?」
 ハンカチを引っ張り出して「祐巳ちゃん、あなた私を馬鹿にしているの!?」ってわざわざ実演までしてくださる由乃さん。
「うへ。やめてよ、由乃さん」
 覚悟を決めたといっても、そんなのを見せられたらめげそうになる。
「ちなみに、予行演習はした? せめて質問されそうなことの答えくらい考えておかないと、祥子さまにねちねち責められたら祐巳さん固まっちゃうかもよ? ……いや、泣いちゃうのか?」
 祥子さま大好き症候群だって発症したまんまなんだしとか、由乃さん言いたい放題言ってくれる。
 とはいえ、だいたい合っているので言い返すこともできない。
「うーん、まあ一応」
 実は六時間目の授業中もホームルームも掃除の時間もずっと考えていたりする。
 幸か不幸か、私の周りには真美さんや蔦子さんといった弁論部も欲しがるような交渉上手がいるので、彼女たちならどう答えるだろうというのも想像してみたり。特に真美さんが言っていた「新聞部を利用することも考えておいて」ってのは、私自身その場で納得しかけたし、そのまま参考にさせてもらえそうである。
「ま、がんばって。助け船くらい出してあげるから」
「ありがとう、助かるよ」
「それじゃあ、行きましょ」
「うん」
 そんな話をした後、私たちが薔薇の館に着いた時にはすでにみんな来ていた、といっても五−二の三人だけど。
「遅れてすみません」
「私たちも来たばかりよ、祐巳ちゃん」
 そういって微笑んでくださる祥子さま。ああ、いつみてもお美しい。マリア様、どうか願わくばこの麗しいお顔が歪まれる、なんてことになりませんように……
「全員そろったし、そろそろ始めようか」
 私がひそかに祈っている間に令さまが今日の作業を開始しようとしたので、あわてて口を開く。
「あっ! すみません、その前にご報告したいことが」
 みんなの視線が私に集まる。何を発表するのか知っている由乃さんだけが「がんばれ!」って感じで、他の人は「なんだろう?」って感じ。
 深呼吸を一つして、よし!


「……つまり、乃梨子ちゃんの今の状況を打開したいって気持ちがあって、さらに話をしてみても気が合いそうだから実際に姉妹体験をしてみようと。でも、それはあくまで祐巳ちゃん個人としてであって白薔薇さまとしてでないから、白薔薇のつぼみ体験はしない……こういうことでいいのね?」
「はい」
 令さまが私がした説明を自分にも言い聞かせるようにまとめてくれたのだけど、ずいぶん渋い顔をされている。
 いろいろ考えて、お姉さまに相談してとかお姉さまにおすすめされてとか、まして私が姉妹関係というものを見つめ直すきっかけの一つとして……なんて部分は経緯から省くことにした。
 そういうことを話せないような人たちだなんてまったく思っていない。ただ、お姉さま、あるいはお姉さまと私の関係を盾にして納得してもらうというのは何となく嫌だったのだ。
「うーん、始めたものを取り消せなんて言うつもりも資格もないけれど、もう少しやりようがあったんじゃないかな……」
「いいじゃない、別に。気が合わないならともかく合いそうってことなんだから。それとも何? お姉さまは寝ている妹にロザリオを握らせたとか、そういうお話でもなければ認められないっていうの?」
「別にそういうことを言いたいわけじゃ……ねぇ、祥子はどう思う?」
 由乃さんの怒濤の援護射撃の前に押され気味の令さま。感覚的にいかがなものかと思われている部分が大きいせいなのか、逆に感覚的に応援してくれる由乃さんの意見をたしなめにくいみたい。取りあえず、祥子さまに話を振ることにしたようだ。
 祥子さまは私が報告している時もその後もずっと黙ったままだった。どんなことを言われるのだろう? やっぱりさっき想像していたみたいに……?
「白薔薇さま、あなたはどう事態を収拾するつもりなの?」
 ……え?
「ねえ、今でも次々とあなたのまねをして姉妹体験を始めている子たちがいるわ。リリアンかわら版にあなたたちのことが発表されたら、たとえ白薔薇さまではなく個人としてと言おうがさらに増えるでしょうね。それをどうするの?」
「……」
「祥子さま、そんなのは祐巳さんに関係ないじゃないですか。おまけに「白薔薇さま」ってちょっと言い方がきつすぎ……」
「由乃!」
「由乃ちゃん、あなたには聞いていないわ。……でもそう。確かに祐巳ちゃんには関係ないわね。だから私は聞いているの、白薔薇さまに。生徒会長の一人としてこの事態をどう収めるつもりなのか、あるいは収めるつもりはないのか、はたまたまったく何も考えていないのか。どうなの?」
「お姉さま……」
「志摩子も黙ってなさい。さあ、白薔薇さま。何か案は示せて?」
「……自分をしっかり持った上でなお姉妹体験を始めたいというのであれば、私は最初から賛成なのでそのことについてはどうするつもりもありません」
「白薔薇さまの姉妹体験に対する考え方は分かったわ。では、結局何もする気がないってこと?」
「いえ。新聞部にこちらから記事にするよう持ちかけたのは、私の気づかないところでの事態の加熱を防ぐためです。興味本位の噂というものは真実がはっきりすれば沈静化しますから。さらに今回の記事でも、私のまねをしたいからという理由だけで姉妹体験を始めることがないよう働きかけたいと思っています」
「そんなこと、あの新聞部が応じてくれるかしら?」
「現部長の真美さんは先代の三奈子さまとは編集方針が異なり、憶測ではなく事実を掲載した上でいい記事にすることをとても重視していますから。互いに立場を尊重し合えば問題ないと思います」
「つまり、新聞部との交渉を含めて白薔薇さまが責任を持って対処するということでいいのね?」
「……はい」
「そう、分かったわ。……では帰るわよ、志摩子」
「お姉さま!?」
「祥子、ちょっと待ってよ。もう少ししたら真美さんがリリアンかわら版の原稿を持って来るんでしょ? いくら何でも祐巳ちゃんに丸投げするってのはどうかと思うけど」
「あら? さっき祐巳ちゃんだって言っていたし、あなたもまとめていたじゃない。今回の体験及び記事の内容は祐巳ちゃん個人として、でしょう? ならば私たちがいる必要はないわ」
「いや、だからって……」
「何もここから出て行けって言っている訳じゃないのよ? 薔薇の館は山百合会、つまり全生徒のための場所だから。むしろ、好きに使ってもらっていいからどうぞご自由に。では、ごきげんよう」
 そう言って荷物を持ち部屋から出て行く祥子さまと、申し訳なさそうにしつつも追いかける志摩子さんの姿が見えなくなったとき、私は腰が砕けてふらふらっと椅子に座り込んでいた……私、いつの間にか立ち上がって話していたのか。それすら気づかなかった。
「祐巳さん、大丈夫? 姉妹体験が気にくわないからって、いくら何でも祥子さまの態度ひどすぎよ! 私、全力で祐巳さんの応援をしちゃうから!!」
「ははは、頭真っ白だったよ。ありがとう由乃さん」
「祐巳ちゃんはよく言えていたと思うよ、なかなか説得力があったし。はい、お茶とお菓子。こういうことの後は甘いものが欲しいでしょ?」
 そう言って令さま自ら入れ直してくれた紅茶と、ソーサーにはクッキーを置いてくれた。
「令さま、ありがとうございます」
 温かい紅茶とクッキーの甘さが疲れた体に染み渡って、思わずため息が出る。
 そんな私をにこにこと眺めた後、くるりと由乃さんの方へ振り返る。
「それと由乃。さっきもそうだったけど言い過ぎ」
「だって、令ちゃん!」
「場所と言葉はわきまえなさい。……まあ確かに、祥子の様子が妙だったのは間違いないけれど」
 そうよねと大きくうなずく由乃さんと、何か理由があるのかもとぼやく令さま。
「その件はまた確認しておくからとりあえずおいておくとして。祐巳ちゃん、どうする? 真美さんとの話し合いに同席してもいいけど」
「ありがとうございます。でも、祥子さまのおっしゃることももっともですし、私一人で応対した方がいい気がするんです。それに、真美さんと掲載に関する条件などの話し合いもだいたい済んでいますから、大丈夫です」
 にっこり笑って、令さまの入れてくださった紅茶のおかげで元気が出ました、と腕まくり。
「そっか。まあ相談にはいつでものるから、あまり抱え込まないようにね。……ほら、祐巳ちゃんもああ言っているんだから、帰るよ」
「むう。祐巳さん、本当に無理しちゃだめよ。」
「分かってるって、由乃さん」
 まだ不満そうにこちらをちらちら見ながら令さまになかば引っ張られていく形の由乃さんに手を振って見送る。でも、そんな風に気にかけてくれる友達がいるってのはやっぱりうれしいものだ。
 そんなことを考えつつ紅茶を飲み干していたら足音が聞こえてきた。
「ごきげんよう、新聞部です……って、祐巳さん一人?」
「真美さん、ごきげんよう。その事情も説明するから、まずは一杯いかが? 執筆してすぐこちらへ来たのだろうし、疲れたでしょう?」
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えようかしら」
 こうして二人だけのささやかなお茶会兼号外検討会議は始まった。
「それでは読ませてもらうね」
「どうぞどうぞ」
 真美さんにお茶を振る舞った後、早速見せてもらうことにする。
 まず目に飛び込んでくるのは、いかにも号外という大きな見出しと、蔦子さんが一押しと言って提供してくれた私と乃梨子ちゃんのお昼の風景を納めた写真である。
 そこに写っている乃梨子ちゃんは、誰がみてもかわいいと思えるほどいい笑顔だ。さすが蔦子さん、盗撮とはいえほれぼれするほどのできである。
「さすが蔦子さん、としか言いようがないねえ……」
「この子からこれだけの笑顔を引っ張り出した祐巳さんも十分すごいと思うけど。前話したうちの椿組にいる子も驚いていたわよ」
「いやいや。元々これだけ笑える子なんだって、乃梨子ちゃんは。ただ、ちょっとまだリリアンに慣れていないだけでさ。本当にかわいくて、いい子だよ。私なんかにはもったいないくらい」
「あら、まだ姉妹体験が始まったばかりだっていうのにもうのろけ? こりゃ、体験の二文字が取れる日もそう遠くないのかしら? ま、そうなったらそうなったで、記事のネタが増えてありがたいばかりだけど」
「あははははは……」
 まあ現実はかりそめもいいところだけど、もちろん黙っておく。
 さて、目をその下に移す。いよいよ真美さん力筆の本文である。
 まずは私と乃梨子ちゃんが知り合ったきっかけに始まる。そして、何度か話をするうちに気が合いそうだと分かる私。だけど姉妹制度どころかリリアン自体に慣れていない乃梨子ちゃんにいきなり姉妹の提案はどうだろう? 
「そう思った私は『ちょっと体験してみない?』と申し出て、乃梨子ちゃんも受け入れてくれた、と。うん、ばっちり」
 真美さんの記事は経緯と私の気持ち(ということになっている)を丁寧に虚構を交えずつづりつつ、それでいて読んでいる人間を引き込むすばらしいものだった。魅せる写真と読ませる記事、最強の組み合わせだと思う。
「それは良かった。じゃあ他にご要望とかはあるかしら?」
 ああ、なんというかゆいところに手が届くサービスなのだろう。私の中の真美さん株、ストップ高である。
「うん、そこなんだけど実は……」
 先ほど祥子さまにも説明した、お願いについて話すことにした。
「……うーん、なるほどねぇ。あくまで白薔薇さまでなく祐巳さんとして、か」
 真美さんはティーカップを机に置くと、腕組みをしながら天井を見上げた。
「うん。あと伝えることがあるとすれば、私やお姉さまがやったからまねするんじゃなくて、妹にしたい・なってもらいたいって思う子がいるけど、声をかける勇気もない……って時にそっと後ろから押してあげる程度のきっかけであって欲しい。白薔薇さまとしても、単なる福沢祐巳としても」
「よし、分かったわ。新聞部としても騒ぎをことさらに大きくするのは本意じゃないし。じゃ、インタビューの最後のここの部分を書き換えてこうして付け加えたらどうかしら?」
「さすが真美さん、いい感じ。あと……」
 それからさらに二十分ほど。
 追加してもらいたいところやちょっと表現を変えてもらいたいところの打ち合わせも無事終わり、私たちは一息ついていた。
「いやー、ありがとう、祐巳さん。いい記事になりそうだわ」
「こちらこそ、いろいろお願いも聞いてもらってありがとう。編集長が真美さんで本当に助かったよ」
 もし、三奈子さまが今回の号外で陣頭指揮に立っていたらどうなったことやら。噂の沈静化を図るどころか、ある意味もっとひどい事態を引き起こしていたかもしれない。
「あら。お姉さまだって悪気がある訳じゃ無いのよ? ただちょっと暴走するだけで」
「ちょっと!? ……そこは少し見解の相違があるみたいだけど」
 これが妹のひいき目という奴だろうか? まあ私も端から見たら似たようなものなのかもしれない。
「そう? まあ、今後ともよろしく。今回みたいなお付き合いがこれからも続くことを願ってるわ」
「こちらこそよろしくね」
 本当に真美さんの言ったとおりだ。これを機会に山百合会と新聞部がもっといい関係になれば、と心から思っている。もうそろそろ、私たちの間での悶着は無くすべきだ。
「では、今から発行するから失礼するわね」
「守衛さんに怒られない時間までには下校してよ」
「分かってますって。では、ごきげんよう」
 真美さんを見送ったあと、そのまま窓に歩み寄り、外を眺めながら大きく伸びをする。
 ……さすがに疲れた。
 リリアンかわら版に掲載されるってことは、建前がどうであれ公式発表みたいなものになってしまうから、気を遣わざるを得ない。しかも良いことではあるのだけど、真美さんが校正に参加させてくれるものだから、その分責任も重く感じてしまう。
「でも、もう去年みたいなのはこりごりだから仕方ないよね」
「何が仕方ないって」
「それは三奈子さまが作るような新聞……お姉さまっ!?」
「や、祐巳。遅くまでおつかれ。今日はもう店じまい?」
「いえいえ。お姉さまが来てくださったのなら、もう少し営業しますよ。何がいいですか?」
「ふふふ、嬉しいことを言ってくれるわね。じゃ、コーヒーをお願いしようかな」
「はい、少々おまちください」
 私が支度をしていると、お姉さまは机の上に置いてあった号外の原案に気づいたらしく、目を通している。
「この子が乃梨子ちゃん?」
「はい」
「ふむ、志摩子が西洋人形ならこの子は日本人形って感じで好対照かも。趣味も含めてさ」
「あ、言われてみれば……」
 そんな風に考えたこと無かったけれど、確かに志摩子さんの横に乃梨子ちゃんが立っているとそのギャップがかえって映えるかも。なんと言っても趣味……というと志摩子さんに失礼か、でもまあとにかくそういった方向性まで、ある意味対照的なのだから。
「とにかく、こうして無事原稿ができているってことはうまくいったんだね、おめでとう祐巳」
「ありがとうございます」
「でもどうだった? 祥子たちには報告したんでしょ? あの子のことだからヒステリー起こさなかった?」
「ははは……ある意味もっとすごかったような」
 声色のせいが大きかったとは思うのだけど、祥子さまに「白薔薇さま」と呼ばれるのがあんなに怖いものだとは。どのくらい怖いかと言えば、今後一年ずっと「祐巳ちゃん」で通してもらいたいと思ってしまったくらいに。
「へえ、あの祥子がねえ……桜のことといい、なかなか驚かせてくれる」
 口笛を吹いてそんなことを言うお姉さま。
 あれ?
 なんか私たちの「何が起きているのか分からない」的な驚き方と違って、お姉さまのは口笛といい「そう来たか」的な驚きと感心が混じっているような気がしたので聞いてみた。
「お姉さま、理由が分かるんですか?」
「うん? あー……ま、いっか。祥子はね、たぶん祐巳を試したんだな」
「試した?」
「そう、似たようなことを蓉子や江利子にやられてたしね」
 お姉さま曰く、私が薔薇の館に出入りすることになるより前のことである。
 祥子さまは蓉子さまや江利子さまにちょこっと意見を述べた際、徹底的に追求されたりしたことが何度かあったらしい。
「私は自分が薔薇さまとしてどうかって部分もあったしね。せいぜいはやし立てていただけだけど、蓉子や江利子は違ったね」
 そういえば、シンデレラの王子様役が柏木さんであると祥子さまに伝えられたとき、ずいぶんと難色を示されたにも関わらず、優しく説得どころか蓉子さまは江利子さまとそろって相当厳しい対応をとられたんだった。あのときは結局志摩子さんが立候補することで丸く?収まったけれど。
「なるほど。そういったことにならって、いかがなものかと思う報告をした私を鍛えよう、と?」
「私が勧めておいて言うのも何だけどさ、祐巳が姉妹体験をするっていうのはある意味ツッコミどころ満載な話でしょ? ただ、祥子は可愛い後輩って感じで祐巳に甘々だったから、ちょっと驚いたわけよ。ひょっとすると、何かきっかけがあったのかもしれない」
 確かにお姉さまの妹になってからというもの、祥子さまに厳しくされた覚えがまったくないどころか、むしろ幸せな思い出ばかりというか。チョコだって受け取ってもらえたし。
 自分で言うのも何だが、わりとぼけぼけな行動を取っていたことも多々あるにもかかわらず、祥子さまがヒステリーを起こされなかったことを考えると……すごく甘やかされていた?
「まあ祐巳が気にする必要は無いよ。祥子が好きでやっていることだし。それよりも……」
 こほんと一つ咳払いをして、私の顔をじっと見つめたかと思うと、頬を緩めて優しく微笑んだ。
「祐巳、よく頑張ったね」
「あっ……」
 これは、まずい。ものすごくまずい。
 昨晩、もう涙が一滴も出ないと思えるほど泣きはらしたはずだったのに、お姉さまのそのたった一言を聞いただけで、鼻の奥がつんとするわ、目は潤み始めるわ、いつ涙がこぼれても不思議はない状態になってしまったのだ。
 なんだかここ最近の方が昔よりよっぽど泣きやすくなってないか、私!? と自分にツッコミを入れてみたり、お姉さまはなんでこのタイミングでこんなことを言ってくれるかなとため息をつく姿を想像してみたり等々……とにかく気を散らそうとするのだけど、もうどうにもならない。
 薔薇さまとしてのプライドなんか窓から放り投げて、お姉さまにしがみついてわんわん泣くのだ……
「お姉さ……」
「祐巳さーん、まだいるの? もう、ほどほどにして帰れって言ったのはどちらさま!?」
 そんな声とともにばたばたと足音が聞こえてくる。
 ……プライド、カムバック!!
 無事拾い上げることができたのか、はたまた感傷が吹き飛んだだけか、あれほど号泣直前だと思えていたのに、ハンカチでそっとぬぐえば、ぱっと見問題ないレベルに戻れた。人間、案外器用なものだ。
 ……お姉さま。その苦笑いもそろそろ心の中にしまっておいてくださいってば。
 そんなことを考えている間には扉が開けられていた。
「ご、ごきげんよう、真美さん」
「はい、ごきげんよう……って祐巳さん、あんなこと言っておきながら……聖さま!?」
 腰に手を当て、若干冷ややかな視線で私に文句を言おうとしたところで、お姉さまがいることに気づいたようである。
「ごきげんよう。号外、早速見せてもらったよ。よく書けているわね」
「あ、ありがとうございます!」
「祐巳のお願いも聞いてくれたんだって? 姉としてお礼をいわせてもらうわ。ありがとう」
「と、とんでもありません。こちらこそ祐巳さんにはいろいろとお世話になりまして……」
 そう言いながら、頬を紅潮させて頭を下げた。先代薔薇さまの威光はさすがの真美さんにも十分有効みたい。
「そう? まあこれからもよろしくね。あなただけが頼りなんだから」
 そう言ってさらに真美さんをよいしょするお姉さま。
 ……リップサービスの大盤振る舞いだなあ。でもまあ三奈子さまの暴走を止める最後の防波堤という意味では確かに間違いではない。
 ちょっとだけおもしろくないけれど、私のためを思ってやってくれているんだろうし、以前みたいに目の前で色仕掛け?をされるよりましだと割り切って後片付けを進めることにした。

 しかし、今日は本当にいろいろあった一日だったな。
 明日からは乃梨子ちゃんのことも含めて、もう少し心穏やかに過ごせると良いのだけど……



 中編へつづく