幕間

「……これ以上は無理ね。今日の所はこのくらいにしておきましょう」
 時計の針が四時にさしかかろうとするのを見て祥子さまがそう切り出した。
 賛成、と令さまが軽く伸びをしながら答えると部屋の空気が一気にゆるみ、思い思いにくつろぎながら後片づけをし始めることとなった。
 由乃さんはカップを洗いに行こうとする志摩子さんにくっついてさっき言いかけたことを聞き出そうとしている。私もちょっと興味があるのだけど祥子さまの視線が気になる。
 令さまも興味深そうに首をかしげているだけでたしなめようとしていないって事もあるのだろうけど、それを差し引いても祥子さまの視線をものともしない由乃さん、さすが青信号。そこにあこがれる……ことはあるような無いような。
 軽く肩を回す。さすがにちょっと疲れたかもしれない。午前中からだったからかれこれ六時間以上作業をしていたことになるのだ。
 今日は事務的なことが主体だったこともあり、途中で部屋を出るなんてこともなかったし延々と作業していたことになる。こういうのは教室移動に限らずなんだかんだと動く授業に比べてかえって疲れるものだ。これを毎日のように繰り返している世間の勤め人の皆さんは本当に立派だと思う。
 そういえばお父さんも自分の事務所を構える前は今とは違う苦労があったもんだってぼやいていたっけ。
「祐巳さん。……祐巳さん?」
 自分では一応手を動かしていたつもりだったのだけれど、割と長いことぼんやりとしていたらしい。志摩子さんが声をかけてくれてようやく自分だけがちっとも身支度できていないことに気づいた。
「祐巳さん、どうかした?」
「あぁ、ごめん。ちょっと気が抜けちゃったみたい。祥子さまもう下でしょ? すぐ支度済ませるから先に行っててくれる?」
「今日は少し長かったものね」
 心配気味の表情から一転して納得顔の志摩子さん。じゃぁお先に……と志摩子さんも扉の向こうに消える。黄薔薇姉妹は志摩子さんにずっと食い下がろうとしていた由乃さんを令さまが連行していったため部屋には私一人だ。
 先に行ったといってもみんな下で待っててくれているのだろうからそんなにゆっくりはしていられない。そうは思うのだけど、ふと窓に目が向いたとたん、また手が止まってしまった。
 吹雪って程の勢いはもう無いけどそれでもしんしんと降り続けている。
 この雪を見るとどうしても脳裏に浮かんでしまうことがある。無理はないと思うのだけど。
 なにしろまだほんの少し前のことなのだ。あの出来事も。そして、お姉さまが卒業してしまったことも。
 うっすらと白く化粧された世界、どこに目を向けるということもなくぼんやり眺める。ここから大学校舎を臨むことはできない。
 低木の垣根の向こう、並木道を一歩踏み出した先は大学の敷地だ。本当に近くて遠い場所。
「お姉さま……」
「……もしも〜し、祐巳さ〜ん?」
 振り向くと目の前に由乃さん。思わずヒィッと声を上げたくなるくらいびっくりし、壁に張り付かんばかりに後ずさってしまった。
「よ、由乃さん、驚かさないでよ」
「ご、ごめん。でも割と大きな声で呼んでいたのに祐巳さんちっとも返事くれないんで部屋に入ったんだけど……」
「そ、そうなの? それはごめん」
 そんなに上の空になっていたのだろうか。あげく一部始終見られていたってこと!?
 ちょっと、いや、すごく恥ずかしい。
「あ、あぁ……ようやくいつもの祐巳さんに戻った」
 ちょっと引っかかるものを感じたけれどお待たせしているのは事実。まずは超特急で身支度を調える。
「ごめん、お待たせ」
「ううん、じゃ、行こうか」
 由乃さんと一緒に階段を下りながらさっき気になったことを聞いてみることにした。
「ねぇねぇ由乃さん、いつもの私って?」
「う〜ん、分かっていたけどやっぱりか。あのね、何しているのかなと思って部屋に入ったんだけど、祐巳さんそれでも気づかなくてさ。それでね、どうしたのかなと思ってもっと近くに寄ったわけよ。そうしたら人差し指で下唇をゆっくりとたどりながら『お姉さま……』って。……ちょっとドギマギしちゃった」
 こうしてたの、ってため息まで再現しながら実演してくれる由乃さん。
 私こんなことしていたの!? ほんと恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。顔から火を噴きそう。
 でもそんな暇も与えないほどの由乃さんの大絶賛?になんというか開き直りに近いものを感じてきた。最後にはいつものほにゃららな笑顔の祐巳さんも捨てがたいけどあれは惚れるねとか言い出す始末だし。だいたいほにゃららってなんだ、ほにゃららって。確かに愛嬌がとりえの子狸顔ですけど。
 でもまぁそれだけ褒めてもらって悪い気はしない。
「……まぁ気になるセリフもなきにしもあらずですけど、褒めてくださってどうも」
「いや、ほんと。蔦子さんさっきの祐巳さんの表情のこと言ったら一生の不覚とばかりに泣くよ、きっと。なに、それが恋する乙女ってやつですか?」
 冗談めかしているけど、それでいて本気で心配してくれているのが分かった。本当に大丈夫なの? と。
 そうか。ずいぶん迷惑かけちゃったもんな。いつかもっときちんと説明しないと。でもこの場は由乃さんの配慮に乗らせてもらうことにする。
「そうですよー。まぁ白薔薇さまにもなると浮いた話の一つや二つ、可愛い子羊たちに……」
 ……これはダメだ。お姉さまを意識してみたつもりだったけれど、いくら何でも私が言えるセリフじゃない。キャラが違いすぎる、うん。
 あ、由乃さんの顔がえらいことに。
「も、もうダメ。祐巳さん最高!」
 我慢できないとばかりに腹を抱えて笑い出す由乃さんを見ていたらなんだか私も無性におかしくなって二人とも笑いが止まらなくなってしまった。
 結局、そんな風なまま館から出てきたものだからずいぶんと皆に不思議がられることになったのだけど。
 息を整えたあと、待たせてしまったことをあらためてお詫びして一緒に帰ることにする。
 みんなでマリア様に挨拶をしたあと、世間話や明日のことなどをとりとめもなく話しつつ歩けば校門はすぐそこだ。


 寂しくないわけはないけれど、こうして私はなんとかやっていきます。
 見ててくださいね、お姉さま。 


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