「乃梨子さん、紅薔薇のつぼみがお越しよ」 「え? 志摩子さんが?」 またやった。 水曜日の昼休みが始まって少し経ったころ、紅薔薇のつぼみの訪問があった。そして、紅薔薇のつぼみの方に行った彼女は少し話をしたかと思えば、席に戻りお弁当を持って二人して教室を出て行った。 その光景を見ていた者の一部は二人に続いて教室を出て行き、残りは少ししてから一斉に今のことを話題に挙げていた。 一昨日の思い出したくもないコメディーの効果か、彼女の孤立自体は変わらないものの、それでも多少は空気が和らいでいたというのに……元の木阿弥だ。 まったく…… 別に彼女がうかつな行動で痛い目を見たところで、私になにかあるわけではない。あるわけではないが……祐巳さまにとても近い位置に立っている人間故に、どうしてあんな行動をとってしまうのかという思いがある。 しばらくして、二人をつけていった者の一部が戻ってきた。彼女たちが言うには二人は薔薇の館に入っていったのだという。大抵の場所であれば、彼女たちは二人がどのような話をするのかまでしっかり聞いてきたのだろうが、あそこに乗り込む勇気はさすがにないらしい。何人かは薔薇の館の前に残って二人が出てくるのを待ち構えているのだという。昼ご飯もとらないまま実にご苦労なことだ。 そう思っていると、複数のお弁当箱を持って教室を出て行った者がいた。どうやらそのあたりはしっかりと気を回しているらしい。本当にご苦労さまである。 それにしても、紅薔薇のつぼみもうかつすぎる。つぼみという立場にあるのだから、自分の行いがどのように見られているかに気を配る必要があるはずだろう。 昼休みの終わり頃になって、乃梨子さんが教室に戻ってくると、ぴたりとおしゃべりがやみ、みんなの注目が彼女にあつまる。この異様な空気に少しは驚いたようだったが、今更何ができるわけでもなく、そのまま自分の席に着いた。 祐巳さまはこの状況をご存じなのだろうか? 下々の醜い嫉妬とは無縁の方からして、なかなかご自身では気づかれないとは思う。だが、人づてなりなんなり、とにかくこの事態を知ったなら、どうにかして収めようとされるはずだ。それも、皆がほんの少しの不満もなく納得してしまうような。 乃梨子さん、彼女自身がどうなろうが知ったことではないが、いかにして祐巳さまがご自身の器の大きさをさらに知らしめるか、そのことを考え、軽い興奮を覚えた。 〜2〜 「皆さま、聞いていただきたいお話があります」 木曜日の一限目と二限目の間の休み時間、お手洗いから戻ってくると、ちょうど乃梨子さんが立ち上がって大きな声を上げた。 何を発表するつもりだろうか? おしゃべりをしていた者も止め、教室中の視線が彼女に集まる。 「私、二条乃梨子は白薔薇さま、福沢祐巳さまに妹にしていただきました」 その発表にどよめきが起きる。けれど、それは小さいものだった。 祐巳さまが正式に妹を決めた。 その発表は本来ならとても大きなニュースのはずだが、乃梨子さんを選んだというのではこんなものだろう。 やや間あって、だれかが「おめでとう」と言うと、他の人たちもぱらぱらとそれに続く。しかし、本心から祝っているという感じは全然しない。中には露骨に非難の感情が見える目で乃梨子さんを見ているものまでいる。とはいえ、正式な白薔薇のつぼみを非難したりするような骨のあるものはいないようで、だれ一人として非難の言葉を口にすることはなかった。 そんな彼女たちを見ながら自分の席に着く。私のたてた音がきっかけになったというわけでもあるまいが、「乃梨子さんが白薔薇さまの妹に……いくつか、伺ってもよろしいでしょうか?」と小さく挙手をしながら聞いたものに対して乃梨子さんは「ええ、私に答えられることでしたら何でも」と答えた。 どんなやりとりが繰り広げられるのかと思ったが、「みんな大変よ!」と大きな声を上げて教室に飛び込んできたものによって質問の機会はつぶされた。さらに何人も続いて戻ってくる。その中の一人が乃梨子さんに近寄っていき、「乃梨子さん! これはどういう事ですの!?」と一枚の紙を突きつけた。そして乃梨子さんは「ちょっとよろしいですか?」とその紙を受け取って目を通す。 他でもいくつかのグループが同じ紙を読んでいる……あれはリリアンかわら版? いつもよりも大きいが、そのようだ。 「ちょうど、この話を皆さまにしようとしていたところだったんです」 「では、本当のことなのですね?」 「ええ、私は白薔薇さまの福沢祐巳さまに妹にしていただきました」 乃梨子さんが右手を軽く挙げる。その手首にはちょうど祐巳さまがそうしていたようにブレスレッドのようにロザリオが巻かれていた。 「まあ……」 「新聞部のインタビューに答えた内容がのっていますが……重複することでも何でもお答えしますよ」 「そ、それじゃあ……紅薔薇のつぼみである志摩子さまとの関係の事を」 最初の質問は紅薔薇のつぼみ関係だった。 「それでは、せっかくですし、順を追ってお話ししますね」 そうして、彼女からみたこれまでの出来事というものが語られていく。 趣味のこと、お寺での出会い、秘密を持つ者同士の連帯感から来る結びつき…… 彼女自身のことはたいして関心がないということと、紅薔薇のつぼみとの関係に絞って話しているせいか、いまいち分かりにくい。リリアンかわら版を読んでいることが前提、あるいは紅薔薇のつぼみのファンで、とにかくその部分を知りたい人向けの話になってしまっている……とりあえずリリアンかわら版を入手してみよう。祐巳さまもコメントを寄せている可能性があるし。 休み時間の内に新聞部員から入手したかわら版は授業中にしっかりと読んだ。かわら版は、紅薔薇のつぼみの秘密のスクープと白薔薇姉妹の成立についての二本立てだった。そして、乃梨子さんと紅薔薇のつぼみの関係について両方の記事に紹介エピソードなどの形でちりばめられていた。 これによると、やはり彼女……いや彼女らと言うべきか、のうかつな行動が誤解を招いてしまっただけ。 大型連休中に学外で知り合った紅薔薇のつぼみと、秘密の共有という関係を深くするのにうってつけの要素もあり、自然と親しくなってしまったというわけだ。今まで秘密を抱え込んできた紅薔薇のつぼみにとって、偶然とはいえ理解者が生まれたわけだから、その気持ちも分からないでもない……ご本人の立場を考えなければ。 紅薔薇のつぼみも祐巳さまと同時期に姉妹の契りを結んでいたはずだが、わずか数ヶ月で白薔薇さまにならなければならなかった祐巳さまとの隔たりは大きいということか。 まあ、もっとも、二人にうかつな部分があったという、その部分を差し引いても、両天秤だなどと騒いでいた者にとってはかなり衝撃的な話だろう。 「礼」 「着席」 授業が終わり、休み時間になった。 教師が退室すると一斉にみんなが次々に乃梨子さんの元へと向かった。それはこのクラスに限らず、他のクラスからも続々と人がやってくることになった。 そして大勢からの質問に一つ一つ答えていく。 噂に流されてしまった者の大抵は、戸惑いや後悔の色が程度はともかく見えているように思う。そして彼女が質問に答えるたび、それぞれが意見交換を進めるたびに、後悔の色が見える者の数が増えていった。 ともあれ、これで彼女の孤立は徐々に解消の方向へ向かっていくだろう。祐巳さまの妹があまりにふがいないというのもどうかと思うので、学校新聞に助けられたとはいえ、結構なことだ。 それにしても、正式な姉妹成立報告の直後、それをフォローするかのようなリリアンかわら版が発行されるとは、本当に絶妙なタイミングだった。 いや、違う……こういうことか? 乃梨子さん、彼女のこの場で初めてリリアンかわら版を読んだような、さらにはその場で考えているようなちょっと分かりづらい回答、それらはすべて仕組まれたものである、と。 落ち着いて考えれば、インタビューを受けた、それも彼女だけでなく祐巳さまも一緒である以上、それがいつどのような形で発行されるのか分からないわけがない。そこで皆にリリアンかわら版が行き渡る直前に、自ら姉妹の成立を発表することで誠意を見せ(少なくとも知れ渡ってから実はそうなんですよりうけが良いだろう)、ことの詳細を把握した生徒に反省を促す……さすがに考えすぎか? だが、その仮定は正しかったということが、すぐ証明されたのだった。 「乃梨子さん、白薔薇さまと紅薔薇のつぼみがお越しよ」 祐巳さまが!? 教室の入り口を見ると祐巳さまが紅薔薇のつぼみを伴って乃梨子さんに手を振っていた。 「白薔薇さま! 紅薔薇のつぼみ!」 昼休みになってすぐの思わぬ、しかし渦中の人物の訪問に教室中が沸き立つ。 「みんなごきげんよう。乃梨子ちゃんをお昼に誘いに来たんだけれど……」 祐巳さまが教室を見回しながら言葉を切り、そしてなぜか紅薔薇のつぼみは「みなさんごめんなさい」と頭を下げた。 「乃梨子さんとの仲をみなさんに誤解させてしまってごめんなさい。周りからどんな風に見えるかまるで思い至らなくて」 「志摩子さんは家のことは秘密にする約束だったんだし、気づいてたとしてもちゃんと説明することはできなかったよ。それに、そのことを気にしなければいけなかったはずなのはむしろ乃梨子ちゃんのお姉さま体験をしていた私の方……だから、みんなごめんなさい」 祐巳さまが頭を下げた!? 祐巳さまに頭を下げさせてしまった輩に一瞬怒りを覚えたが、彼女たちの様子を見て、さきほどの仮定が確信に変わるのだった。ここまでが祐巳さまの計画なのだろう。 紅薔薇のつぼみの時は戸惑いだったが、今度は違う種類のざわめきが広がっている。みんなこんな事になるなど夢にも思っていなかったことだろう。自分たちが悪いのに逆に白薔薇さまと紅薔薇のつぼみに頭を下げさせてしまう……このことは素直に非を認めることができない、後一歩きっかけとなるようなものが欲しかった者たちに対しても効果は絶大だろう。 さらにとどめとばかりに、乃梨子さんも語る。 「二人が何か悪い訳じゃないですよ。誤解を招いた点について言えば、張本人はやっぱり私ですし……」 「ううん。乃梨子ちゃんはリリアンに入ったばっかりで、リリアンにおいてはって話がわかってなかったんだししょうがないよ。それに、本当のお姉さまなら、そこを指導しなくちゃいけないことだったのに、そのままにしてきた私がやっぱり悪いんだよ」 「違うわ。やっぱり、家のことを隠さずにおける友達ができたと浮かれてしまった私の責任。少し気をつけておくだけで、まるで違ったはずよ」 「そんなわけないです」 自分が悪いと三人それぞれの主張が続いていると、「あのーいったいいつまで続くんですの?」とあきれた感じの声で割って入ってきた人物がいた。 「と、瞳子ちゃん!?」 「全員共犯であることは明らかなのですし、誰が主犯かだなんて瞳子は興味がありません。後でじっくりとお話になってお決めになったらよろしいでしょう。それより、みなさまいろいろと聞きたいこともおありのようですし、そちらにお答えになってあげればどうでしょう? 早くしないとお弁当を食べる時間がなくなってしまいますよ」 今のタイミングといい、新入生歓迎会の時といい、よくもまあここまで空気を読まない独善的な行動がとれるものだ……一瞬そう感じたのだが、先ほどから組み上げている仮定が正しいとするなら、彼女の行動も脚本の一部なのだろうか? そうであるなら、なかなかたいした役者ぶりである。むろん彼女を演出に取り込んだ祐巳さまの聡明さはいうまでもない。 「あー……うん。そうかもしれないね。みんな、聞きたいことがあるなら答えるよ」 「あ、あの! よろしいでしょうか!」 乃梨子さんにならともかく、祐巳さまに直接質問など恐れ多いといった感じで、場は静まりかえってしまい、このままお開きになってしまうかと思いきや、挙手しながら前へ進み出る者がいた。 彼女は乃梨子さんのことを何のかんのと噂していた一人だったと思ったが、かなり緊張している様子が端から見てもはっきり分かる。いったい何を聞くつもりだろうか? それとも謝罪でもするつもりか? 「白薔薇さまと紅薔薇のつぼみは、乃梨子さんのことと、乃梨子さんとそれぞれの関係をどのようにお考えでしょうか?」 なんのことはない、ごく普通の質問だった。まあこの場にいる人間が直接聞きたいことには違いない。それとも、これも脚本の一部であったりするのだろうか? 「うん、新聞部のインタビューでも触れたけど、乃梨子ちゃんと姉妹体験をしてみて楽しかったし、正直私にはできすぎなくらいによくできた子だと思うよ。体験中はお姉さまとしてはいまいちだったけど。これからは本当のお姉さまって事で、立派な姉になれるようにがんばっていきたい」 「私にとって乃梨子さんは大切な友人といったところね。もちろん先輩後輩の関係ではあるけれど、親しくなったきっかけが学校の外だったから、そんな印象が強いわ。それと恩人。私が秘密を告白できるようになったのも、祐巳さんと乃梨子さんのおかげだから、とても感謝しているわ」 「わたしが言うのもなんだけど、志摩子さんって交友関係が狭かった……今思えば、家のことを秘密にしていた事が大きな原因だったんだろうね。だから、以前も今も志摩子さんと仲のいい人ができることは私にとって大歓迎って部分があって……みんなに迷惑をかけちゃったのは本当に申し訳ないのだけど。皆さんに理解してもらえるなら、乃梨子ちゃんには志摩子さんにとって大切な友達になれたんだし、もっともっと仲良くなってくれるといいかな?」 祐巳さまにここまで言わせた以上、乃梨子さんにどうのこうの言える人間はもはやいまい。ただ、このままだと彼女だけは事情があったから例外……そんな特別扱いのように思われる恐れもなきにしもあらずだが。 「ありがとう。私も祐巳さんと乃梨子さんの姉妹関係がいいものになっていくことを願っているわ」 「志摩子さん、ありがとう。あ、そうだ一応個人的意見だけれど言っておくね。姉妹関係はもちろん特別なものだし、そのことを大切に思うのはとても尊くて素晴らしいものだと思う。だから、誰を選ぶか秤にかけるようなやり方はもちろん間違っている。でも、姉妹関係ができてしまったらもう他の先輩後輩と親しくすることを止めねばならないなんてのは、ちょっと行き過ぎな気がするの」 「そうね、言い訳に聞こえるかもしれないけれど、私もそう思う。学年が上下の人との関係はお姉さまと妹に限るとなってしまったら、それはとても寂しいことだわ」 「うん。部活をやっている人たちなんかは、特に姉妹とは別に親しい先輩後輩がいる場合が多いだろうしね。私だって、祥子さまと仲良くしたらダメだとか言われたらショックだし」 「祐巳さんはお姉さまのことが好きだものね」 「うん。自分がそうだからってわけじゃないけど……まあ、姉妹制度をあまり堅苦しくとらえすぎないで、みんなが毎日を楽しく過ごしていってくれると、私もうれしいな。あ、お姉さまを泣かせるような真似だけはしないでね」 祐巳さまの言葉にみんな「わかりました」とか「はい」とか答えた。 やはり器が違う。私の考えていたようなことは杞憂に過ぎなかったようだ。 あなたたちのしたことは間違えている、そんな風に切って捨てるのではなく、十分に認めた上でお願いを付け加える。これで「乃梨子さんは特別だから」と例外的に認められているなんて、うがって考える者も生まれないだろう。 「乃梨子さん、私たちも気をつけましょうね」 「あ、はい」 「と、ちょっと脱線し過ぎちゃったかな? 話を戻して次の質問いってみようか」 それから祐巳さまたちはいくつか質問に答えてから、教室を出て行った。 心地のいい日差しの下、中庭の木陰に祐巳さま、紅薔薇のつぼみ、乃梨子さんの三人の姿がある。三人そろっての仲よさげなお昼。あの三人がそろって仲良くしているだけで、両天秤なんて話はまるで根も葉もない話だったとわかるだろう。三人とそれを見る多くの生徒の様子を見ながら、私も屋上でお弁当を食べることにした。 …… …… これは…… 教室に戻って驚いた。一足先に教室に戻っていた乃梨子さんを見るみんなの目が、つい数十分前とは大きくかわっていた。 昼休みより前の後悔や罪悪感がずいぶん薄らいでいた。そして、みんな乃梨子さんのことをすっかり受け入れている。いや中にはすでに乃梨子さんを自分たちよりも上の存在として見ているようにさえ思える節がある者がいるほど。 あれだけの見事な演出故に、遠からずこのような風景が見られるようになるとは思っていたが、まさかものの数十分で達成してしまうとは。 これが祐巳さまの持つ力のすさまじさ……私が思っていたよりもさらに上を行くものだった。 「あの、よろしいかしら?」 「……なんです?」 「新入生歓迎会の前に可南子さんが言っていたとおりだったわ。失礼な話をしてしまってごめんなさい」 少々時間がかかったような気がするが、行動できる分いいだろう。 「かまいませんわ。祐巳さまのすばらしさを、あなたもまた一つ目の当たりにしたでしょうし」 第一話中編へつづく