新入生歓迎会の出し物は私のオルガン演奏のはずだった。
 はずだったのだが……なんて言ったらいいものか。
 苦笑いを微笑みで上書きしたまま新入生が退場していくのを見送る。予定ではみんなそろってのはずだったのに、祐巳さんと由乃さんはいつの間にかいなくなってしまっていた。
「ちょっと問題が起こっちゃってね。それであんな事をすることになったのよ」
 明るく手を振って新入生を見送りつつ、令さまが小声で私とお姉さまにそう言った。
「問題ですか?」
「そう。あとは……通じているようだけど、祐巳ちゃんから志摩子へのメッセージね」
 一瞬だけ私に目をやった後、令さまが答えた。
「……」
 あの騒ぎとその際の乃梨子さんの様子から、問題というのは推測できる。乃梨子さんが数珠をなくして……いえ、盗られてしまったのだろう。なぜそんなことになってしまったのかはわからないけれど。
 そして、祐巳さんのメッセージというのは……
「それじゃ、私は用事があるのでお先に失礼。あ、終わったら薔薇の館に顔を出すから」
 新入生の退場がすみ、三人で後片付けも済むと、何も言えない私と何か言いたそうなお姉さまをおいたまま、令さまも姿を消してしまった。
「……戻りましょうか」
「はい」
 ここに残っていても仕方がない。ため息をつきながらそう言うお姉さまと二人で薔薇の館に戻った。
 早速二人分のお茶を用意して片方をお姉さまの前に置く。
「ありがとう」
 お礼を言いながら、お姉さまは目で向かいの席を指し示す。それは話があるということ……そしてその内容は新入生歓迎会でのことにほかならないだろう。
「志摩子」
「はい」
「乃梨子さんに数珠を貸していたのね?」
「はい……」
 それ以上、何かを聞かれたわけではない。でも、それだけでお姉さまが令さまの言う「問題」の事情をおおよそ把握しているんだと分かった。
 そう思った途端、今まで頭の片隅にこびりついていた考えで一杯になっていく。
 あの数珠が盗られてしまった経緯や理由はわからない。だけれど、そんなことになってしまう事態が……祐巳さんのメッセージは暖かくてうれしい、でも私は……あんな秘密を抱えた私がいたから、私がこの学……
「やめるだなんてことは私が許さないわよ」
「っ!?」
「あなたにそんなことを考えてもらいたくて、聞いた訳じゃないの」
 あくまで確認がしたかっただけだと付け加える。
「確認、ですか?」
「そう。令の言う「祐巳ちゃんのメッセージ」の意味を取り違えているといけないから。そして、今から言うことが的外れだといけなかったから。まあ間違っていなかったようで何よりだわ……志摩子、あなたは、祐巳ちゃんのメッセージをどう受け止める?」
 祐巳さんのメッセージをどう受け止めるか……祐巳さんの優しさは十分に伝わってきたけれど、でも……
「何を考えているのか、だいたい分かるけど。あのね、志摩子が重く受け止めてきた小父さまとの約束、その意味を考え直す時がやって来た……そのために祐巳ちゃんは体を張って、私たち……いいえ、このリリアンはあなたを笑って受け止めることを示した。そうは考えられないかしら?」
「え?」
 衝撃的だった。約束を考え直す。それは、家の事情を考えぎりぎりの提案をしてくれた父への裏切りではないだろうか。そのあまりの言葉に呆然としてしまう。
「私も、祐巳ちゃんに背中を押されるまで思いもよらなかったから、志摩子に言えた義理ではないのだけど……その約束は本当に字義どおり理解すべきものだったの? 小父さまはその約束を通じて何か他のことを伝えたかったのではなくて?」
「他のこと?」
 頭が回らず、お姉さまの言葉をオウム返しに答えてしまう。
「そう。どんな事情があったにせよ、小父さまが志摩子の負担にしかならないような約束を結ばせるとは今の私には考えられない。そうなると別の意味合いがあると考えるのが普通でしょう?」
「そう、ですか」
 いろいろなことが頭を駆け巡りすぎて、そう返すのがやっとの私に、お姉さまはふっと微笑んだ。
「もちろん、これは私の考えに過ぎない。あなたがどう考えるか、どう行動するか、それはあなた自身が決めるの。そして、たとえそれがどんなものであったとしても、あなたは私の大切な妹……絶対に放っておかないんだから」
 じっくり考えなさい。いつの間にか私の横に立っていたお姉さまは、そう言いながらそっと私を抱きしめてくれた。
 私は……

 


もうひとつの姉妹の形 〜レイニーブルー〜
 レイニーブルー 第一話 



 お姉さまの言葉と祐巳さんからのメッセージ……あれからずっとそのことばかり考え続けていた。私が出来ること、やるべきことは……
 気づけば日は沈み深夜と言ってもいい時間、私の足は自室を離れ廊下をしばらく歩いたところで止まる。
 廊下には障子越しの柔らかい光があふれており、その部屋の主、父がまだ起きていることを示していた。
「お父さま、よろしいでしょうか?」
「ああ、入りなさい」
「失礼します」
 ふすまを開ける。父は書き物をしていたようで書き物机の前に座っていた。
 部屋に入り父の前に座り、そして深く頭を下げた。
「お父さま、申し訳ありません。約束をもはや守れそうにありません」
 許しを求めるのではなく、告白する。これが私の選んだ道だった。それがたとえどのような結果を招くとしても、お姉さまと祐巳さん、そして父に対して誠意を持って応えるにはこれしかないように思えたのだ。
「約束とは、お前がリリアンに通っていることを隠す、このことでいいな?」
「はい」
 頭を下げたままそう言った後、部屋を沈黙が支配した。
「顔を上げなさい」
 いったいどれほど経ったのだろう。短くも長くもあるような時間が過ぎ去ったところで父が静かな声で告げた。
 おそるおそる顔を前に向けると、父はその声同様、穏やかなまなざしで私のことを見つめていた。
「……あれからもうすぐ四年になるか。志摩子、学校は楽しいか?」
「え?」
「学校、楽しいか?」
 約束のこととは関係ない、本当に思いもよらなかった質問に目を丸くしてしまう私に、父はもう一度繰り返した。
「は、はい」
「そうか……なら、今すぐ何もかも捨てて北海道の修道院になら入ってもいいと言ったらどうする」
「え!?」
「どうする?」
 さっきの驚きなんてほんの序章に過ぎなかった、そんな驚愕の問いに頭が真っ白になってしまう。
 今すぐ、何もかも捨てて?
「答えられんか?」
「……」
 勘当を望んだり、リリアンに入学することになったのはすべてシスターになりたい、そこにあったはずなのに。
 その気持ちが薄らいだ、そんなことだって無いはずなのに。
 即答できないことに、私自身が驚いていた。
「それならいい」
「へ?」
「だから、それならもう約束のことは忘れていいと言っているんだ」
「はあ」
 さっきからの急すぎる展開に頭は全くついていけず、目を白黒させて間抜けな返事を返してしまう私に父はほほえみかけた。
「かけがえのないものをいくつも手に入れられたようだな、志摩子」
「お父さま?」
「あの時、私はお前に『宗教の何たるかを知らない』と言ったな?」
「はい」
「そんなもの、私にもわからん」
 今日はもう驚きの上限に達してしまったと思っていたのに。いったい父は一日にどれほどびっくりさせれば気が済むのだろう? そんな私の表情をニヤニヤしながら眺めた後、真顔になって父は続けた。
「まあわからんとだけ言うと語弊があるがな。教義をそらんじてみろと言われればできるし、こうではないかという解釈を伝えることもできる。ただ、それでも日々を過ごす中で新たなる疑問も迷いも生まれる。そしてそれがある間は分かったとは言えないと思うのだよ」
「お父さまでも、ですか?」
「そう、それが世の中で生きるということだ。あの時は『宗教のなんたるか』の方が効くと思ってそう言ったが、お前にはもっと世の中を知ってもらいたかった。志摩子、俗世にまみれるのも案外悪くないだろう?」
 お姉さま、祐巳さん、みんな。ある意味で自分を縛る鎖を手に入れたことは、不愉快どころかむしろ心地よかった。それを見透かしたように問いかける父に、私はただうなずくことしかできなかった。
「約束にしても、だ。お前の強い意志に何かを割り込ませるためには、何かしら縛りがあった方がかえって……と思ったのだが」
 ここまで強いとは思わなかったぞと苦笑いして付け加える。
「志摩子、そんなわけで檀家にはもう話を通してあったのだ、狙ったこととはいえ、それでもすまなかった」
 父は顔を引き締めると、私が最初にしたように深々と頭を下げた。
「そんな……私を思ってしてくださったことですし。頭を上げてください、お父さま」
 私のことをこんなにも考えてくれている父への感謝の気持ちが、今にも瞳からあふれ出そうだったのだが……
「そうか、さすが我が娘。実は檀家の皆とお前がいつ告白するか賭をしていたんだ。いやはや、ほぼどんぴしゃりとは。二つ向かいの山田さんにはしてやられたわ」
 むくりと顔を上げ、自分のツルツル頭を一発叩いてから、さわやかな笑顔でそう言い放った。
 ……あぁ、この人と私は、本当に血がつながっているのだろうか?



 つづく