〜3〜 世の中にはテスト勉強なるものをしない人がいる。もちろんそれは遊んでばっかりで、成績もだめだめな人という意味ではなく、テスト勉強などしていないのに、学年トップクラスをあっさりととってしまう人という意味で……そういう人たちがいるとは知っていたが、実際に知っている人がそうであったことは驚きだった。まあそれがあの祥子さまなのだから、祥子さまがもつスキルをまた一つ知ったに過ぎないのかもしれないが……今日は家の用事とのことでここには来ずに直接帰られてしまった故にその話を聞くことができたのだった。 私もそこそこ成績は良い方だと思うが、テスト勉強しないなんてあり得ないし、故にテストが終わったから遊びに行けるなんて話で盛り上がったりもするわけで。実際、今日のお昼は祐巳さん・志摩子さんと一緒にお昼を食べ、この日曜日に志摩子さんのお宅に二人で遊びに行く約束をした。 また、それとは別に瞳子を薔薇の館のお手伝いに誘う話もしたのだが、祐巳さんと聖さまの話も飛び出して、思わず食いついてしまった。もっともこちらは祐巳さんだけでなく聖さまも祐巳さんのことをとても大事に想っているという、既に分かっていることの再確認で終わってしまったが。聖さまにとって、私の何が、あるいは考えていて空しくなるが全部なのか、一体どう認められないのかについては結局謎のままである。そして、瞳子や志摩子さんへの相談も時機を逸してしまったというか、結局できないままずるずるときてしまっている。このままではどうにもならないことくらい分かっているのだが…… そんなことを頭の片隅で考えながらおしゃべりをしていると、みんなの声に混じって階段を上る音が聞こえてきた。そして、ドアをノックする音。 「どうぞ」 そしてドアを開いて姿を現した方は……見慣れた黒い制服ではなく若草色の服を着ていた。ものすごく楽しそうな笑顔で遊びに来ました!って感じだから先生ではないだろうが……だれだろう? 「みんな、ごきげんよう」 「ごきげんよう、お姉さま」 少しだけうれしそうな令さまの言葉でこの方の正体がわかった。先代の黄薔薇さまである鳥居江利子さまだ。 みんな「何をしに来たのだろう?」という戸惑いが見えるし(令さまでさえそうである)、由乃さまに至ってはかなり警戒しているのが目に見える。なるほど、江利子さまのことは多少話を聞いただけではあるが……どうやら実際はもっとなようだ。 その江利子さまは部屋の微妙な空気を無視して、悠然とテーブルにつく。 と、いけない。 「飲み物を入れますね。ご希望はありますか?」 「そうね、みんなが飲んでるのと同じでいいわ」 「わかりました」 手早く紅茶の用意をして、江利子さまに紅茶を渡した。 「どうぞ」 「ありがとう。あなたが噂の祐巳ちゃんの妹よね?」 「はい。二条乃梨子と申します」 「私は鳥居江利子。令のお姉さまよ。よろしく」 「よろしくお願いします」 私は自分の席に戻る……それまでの間、そして椅子に座ってもしばらく江利子さまの視線はずっと私を追いかけてきた。 何だろうかと思っていると、今度は「なるほど」と勝手に納得されてしまった。 「何がなるほど何ですか?」 ちょっとさすがに聞いていいのかどうかよくわからなくて困っていると、代わりに祐巳さんが聞いてくれた。 「話に聞いたとおり、ずいぶんできのいい子みたいね。祐巳ちゃんがんばれ!」 「どうも……」 なぜだろう。ほめられたはずなのになぜかうれしくない。 「それにしても聖のやつもうらやましいわねぇ。本人があのていたらくなのに、孫にまで恵まれるなんて……」 「お姉さまがですか?」 「ええ、でしょう? こんないい孫ができたんだから」 その聖さまには認められていませんがね……そんな内心の自嘲はさておき。そうか、この空気のせいか。みんな江利子さまの意図をはかりかねている。そして由乃さまに至っては一言二言どころじゃなく言いたいことがあると言わんばかりの顔なのだ。私も仮に聖さまの件がなかったとしても、江利子さまの言葉をそのまま素直には受け取れなかっただろう。 「おまけに聖の場合は私や蓉子と違ってすぐ顔を出せるわけだから、かわいがり放題よねぇ。私もリリアンにすればよかったかしら」 「いや、そんな理由で大学を決められても……お姉さまの場合も私と一緒にいるためにリリアンにしたとかそんなわけではなくて、リリアンである必要があったからですから」 「まあ、聖の場合はね。でも、私の場合も知っているでしょう?」 「……まあ」 この方は大学を決めた経緯にもなにか普通でないようなことがあったのだろうか? その江利子さまは「ああ、でも私の場合は難しいか……」とあからさまに大げさなため息をついた。 「どういう意味ですか?」 祐巳さんが聞くと、まるで『その質問を待ってました!』と言わんばかりの顔になり、祐巳さんが見るからに失言だったと思っているのがわかる表情になってしまった。 「だって、考えてもご覧なさい。由乃ちゃんに妹を作ることなんてできると思う? それも私を楽しませてくれるようなすてきな妹を」 うわぁ…… 何とか声を出すのはこらえられた。 江利子さまの意図が私にもやっとわかった。要するに……由乃さまにけんかを売りにきたのだ。 その由乃さまは拳に力を込めながら、江利子さまのことを思いっきりにらんでいた。そして令さまは普段の格好いい姿からは信じられないくらい慌てふためいて、江利子さまを見たり由乃さまに視線を移したりしている。 「あら、由乃ちゃん何か言いたげね?」 「……別に」 「そう。それにしても、うらやましいわねぇ……あれだけのことがあって成立した姉妹。正直なこと言うと、祐巳ちゃんが妹を作ることってできるかなぁと心配していたところもあったのよ」 きっかけを与えてしまった祐巳さんはどう答えればいいのか困ってしまっている。 「本来姉妹はそんな重いものじゃないんだけど、どうしても重く考えてしまいがちだからねぇ。特に特別な何かがあればなおさら……それなのにこんなに早く。それだけにすばらしいわ」 全然うれしくない賞賛というものを目の当たりにしている……祐巳さんは困り顔のままだが、私もどうしたらいいのかさっぱりわからない。 「ああ、生まれたときからずーっと令にべったりのまんまの由乃ちゃんには、なにも期待していないから安心して。黄薔薇さまは選挙で選べばいいだけだし、薔薇の館の人手不足も去年の志摩子のようにお手伝いを誰かに頼めばいいだけだから。まあ、お手伝いをしてくれる子が山百合会と特別な関係として見られるのが気になるようなら、私がその心配のないお勧めの子を推薦してあげましょうか?」 まだ言うか。さっきのだけでも十分伝わるレベルなのに、とどめとばかりにこき下ろしている……そんな暇が無かったとはいえ、瞳子にお手伝いをお願いしようとしている話をしなくて本当に良かった。話していたら、それすらネタに使われてしまっただろう。 そんな江利子さまの挑発に、とうとう由乃さまの堪忍袋の緒が切れてしまったらしい。机をバンと強くたたいて「私だって妹の一人や二人作って見せます!」と言い放ってしまった。 そして、江利子さまはにんまりと笑って「二人もいらないわよ。でも、すてきな子がいいわね」と条件を引き上げてきた。 「ええ、いいですとも! 江利子さまにぎゃふんと言わせるような妹を作って見せますから!」 いやぁ、由乃さまの青信号との話も聞いたことがあったけれど、実際のところはこんな感じなんだ。江利子さまといい、私的には百聞は一見にしかずを地で行く出来事だったが、こんな宣言をした由乃さま、大変なことになってしまうんじゃ? 「それは楽しみね。でも、いつまでも待つというのもどうかと思うし……そうね。二月、夏休みまでには見せてくれるとうれしいわね」 その後、由乃さまはきちんと夏休みに入るまでのあと二月で江利子さまをあっと言わせるようなすてきな妹を作るという約束をしてしまうことになった。 途中から思いっきり後悔しているのが見え見えだったが、引っ込みが着かなくなってしまったようだ。で、江利子さまが帰った後、由乃さんは机に突っ伏してしまい、令さまはあきれ大半のため息をつくことになったのだった。 その後、由乃さまの状態が状態だし、仕事をするという雰囲気はなく、どれほどもなく解散となった。 「祐巳さん、ちょっと聞いてもいいですか?」 「ん、何?」 「先代の薔薇さまってどんな方々なのか、もっと詳しく聞いてもよいですか?」 あの聖さまに、今日の江利子さまがそれぞれあんな様子だと、残る先代の紅薔薇さまはどのような方なのか気になってしまう。 「あー、うん。そうだね、あんなところを見ちゃうと気になっちゃうかもしれないね」 「ええ」 あんなところと言われてしまう薔薇さまもすごいものだと思う。少なくとも一般生徒が抱く薔薇さま像とはかけ離れているにもほどがあるに違いない。 「江利子さまは……自分の興味のあることに対してはものすごく食い付くし、今日みたいな挑発や策略を巡らすような人なんだけど、視野が広いのかな? 見るべきところとか本質みたいなのを見抜いてる人。私も江利子さまの助言に助けられたことあるし。まあ、江利子さまの場合、どんな風に答えに至るのかを見て楽しんでいたりするから、答えそのものは教えてくれないけどね」 お世辞も混じっているかもしれないが、少なくともあんなところだけではないということか。 「お姉さまについては前に言ったし、先代の紅薔薇さまの蓉子さまは……ミス・パーフェクトかな」 「ミス・パーフェクト?」 「うん。何でもできて、面倒見もよくて、カリスマもあって、薔薇の館を中心で動かしていたのも蓉子さまだったし、そう呼んでいた人たちもいたくらい」 完璧のようだ。そういえば、可南子さんが祐巳さんにそんなイメージを持っていたっけ。 「それでも、本当に文字通り完全無欠って訳じゃないですよね?」 「そりゃね。蓉子さまの失敗談も江利子さまから聞いた事があったし、人間なんだから本当にパーフェクトな人なんかいないよ。そう見えても、それは抜けているところを見せていないか、見えてないだけだと思う」 「そうですよね。可南子さんもどうしてそんなイメージを持ってしまったんだか」 「そうだったね……本当、私なんかパーフェクトとはほど遠いのに。経緯は聞いてないの?」 聞いていないが、私が聞いていいものだろうか? ……もう少し関係が進めば聞けるかもしれない。 「聞けそうになったら聞いてみます」 「よろしく。それと、またどこかで可南子ちゃんをお昼に誘ってもらっていい?」 「はい」 〜4〜 中間テストが終了し、薔薇の館・山百合会は再来週に迫る次なるイベントに向けて本格的に動き始めた。 予算委員会……リリアンは部活・委員会活動の予算面でもかなり生徒会の裁量が認められていた。それゆえ配分する側の山百合会に課せられる責任は重大である。おまけに、ここ何年も総枠が減り続けているのがさらにこの仕事の難易度を上げているのだという。どうやら、別世界のように見えるこの学園すら世間の不景気の波からは逃れられないらしい。 とにかく、その予算委員会に備え、所属する生徒の数と活動費の推移の確認に始まり、昨年度に購入した物品のリストアップや、それ以前に購入したものもふくめて各種物品の使用状況や状態の確認などやることは山盛りなのである。 毎年やることだけに去年まとめた資料はとても大切なもので、今年まとめるものは来年度大いに生かされるだろうが……電子化すればもっといろいろと楽にできると思う。ただ、リリアンでは使える人が限られているのと、最初に少々ではない予算が必要なことが問題かもしれない。 まあ、パソコンの使い方は伝授していけばいいし、年々使える人の比率としては増えていくだろうが。昨年度最新型カラープリンタを購入した部活もあるようだし、安いパソコンとプリンタくらい何とか……ダメだ。減り続ける予算の中、調整役の山百合会が完全な新規購入なんて、自ら火に油を注ぐようなものか。誰かのお古のパソコンでもいただければいいのだが、少なくとも私のパソコンは当分買い換える予定はなく、そんな人に心当たりもない。祥子さまとかポンと新品を寄付してくれないものだろうか……これまただめな気がする。ちょっとした小物ならいざ知らず、仕事で使う物品をそんな抜け道のようなやり方で解決することを嫌っていそうだ。 階段を上る音が聞こえて来た。どうやら来客のようだ。 「や、ごきげんよう」 来客の顔を見た時、一瞬とはいえ仏頂面になってしまっていたかもしれない。いかんいかん。祐巳さんの前では特に気をつけないと。 「ごきげんよう、お姉さま」 来客は佐藤聖さま、祐巳さんのお姉さまにして先代の白薔薇さまだった。そして、この前私が祐巳さんの妹であることを認めなかった人。いったい何をしにきたのだろうか? 聖さまは私に目を向けてきた。その表情は……楽しそうな笑顔? 「祐巳、紹介してくれるよね?」 「はい、この子が私の妹の二条乃梨子ちゃんです」 「初めまして、私が祐巳のお姉さまの佐藤聖ね」 どうやらあの時のことはなかったことにするようだ。まあ、祐巳さん抜きで会うためにこっそりつけてましたとは言えないだろうから、当然と言えば当然なわけだが…… 「初めまして……よろしくお願いします」 座ったままだが、聖さまに向かって頭を下げる。 「飲み物を用意しますね。紅茶でよろしいですか?」 「うん、おねがい」 聖さまの分の飲み物を用意するために立ち上がると、由乃さまが「私も手伝う」と言ってくれ、二人で用意をすることになった。 「それにしても、あのとき姉妹体験を祐巳に提案した私が言うのも何だけど、こんなに早くほんとに妹にしちゃうとはねぇ」 「私自身振り返ってみて驚きです。妹のことなんてつい最近まで考えたことなんて全然なかったですから」 「まあ、まだ二年の五月だからねぇ。特に祐巳の場合、祐巳自身が妹になってから半年しかたってないわけだからそんなものだと思うよ」 「三年の秋に妹を作ったお姉さまから言われてもなんだかなーって感じですね。まあ、それ故お姉さまの妹になれたわけですけど」 「むむ、先回りまでするとは、ずいぶん言うようになったわね」 「何度かからかわれていますから」 祐巳さんと聖さまの話を聞きながら、カップからティーバッグを引き上げた。 聖さまの方に持って行き「どうぞ」と差し出す。 「ありがと」 自分の席に着くと「おいしいよ」とのお褒めの言葉をいただいた。 「どういたしまして」 「乃梨子ちゃんのこと聞いていい?」 「はい。答えられることでしたら……おもしろいかどうかにはわかりませんが」 「いやいや、江利子じゃあるまいし。乃梨子ちゃんは私のかわいい妹である祐巳ちゃんの妹なんだから、どんなことでも知りたくなるのが当然じゃない」 『大丈夫。祐巳の前ではあなたを祐巳の妹として扱ってあげる。そうじゃないと祐巳がかわいそうだからね』 どうやらあの言葉は本当のようだ。それも、あの言葉を聞いていなかったとしたら、本当に祐巳さんの妹として大歓迎されているとしか思わなかった……思えなかっただろうほどの態度。しかし、聞いている故にそれがすべて演技であるということがわかる。 ……祐巳さんに悟られるわけにはいかないのだから、私もただ普通に接するのではなく、優しくしてくれるお姉さまのお姉さまに取るべき態度でなければいけないってことだ。 「あとで、聖さまのことも聞いてもいいですよね?」 「それはもちろん。私は乃梨子ちゃんのおばあちゃんに当たるわけだしね」 「ありがとうございます。それで、何からお聞きになります?」 「んー、そうだねぇ」 聖さまとおばあちゃんと孫としての初めての会話をしていく……お互いに仮面をかぶりながら。そうするしかないのだが、そんなことをしなければいけない元凶である聖さまに対して、ますます腹立たしい思いを積み重ねることになっていった。 第二話Dへつづく